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祖父の原爆絵本を語り継ぐ【第4回】山の学校から再び教壇へ|

浦上の焼け跡を見て帰郷した祖父が赴任したのは、電気も水道もない山の分校。
24人の児童とともに、ランプのほやを磨き、オルガンを直し、自作教材を抱えて立ち続けた日々。

長崎へ戻る汽車の中で、祖父は浦上の原爆の焼け野が原を目にしました。
「親戚は全滅しているだろう」と覚悟したそうです。
でも、大波止から立神に渡ってみると、母は元気で、家も残っていて「よかったね」と喜び合ったそうです。

その後、祖父が再び教師として赴任したのは「大山分校」という山の中の学校でした。
電気も水道もなく、交通も不便。
娘の手をひき、荷物は牛の背に乗せての赴任。
生活も教育も一からの大仕事だったそうです。
私の母はその地で生まれ、五右衛門風呂だったらしいよ!という話をよくしてくれました。

山の学校には教材も道具もありませんでした。
本校から補修した机や椅子、古いオルガンを持ち込んで、すべて一から整備。
教材も祖父の完全手作りで、1年生から4年生までの分を準備し、過労で倒れたこともあったそうです。
今思えば、戦後の黒塗りの教科書の話を聞いたことがありますが、祖父母からはその事を聞く事ができませんでした。
真っ黒な教科書を使うより、いっそ自分で作ったほうが…と思ったのでしょうか。

戦中も 疑問を抱きつつ口には出せないまま、教え子たちを泣く泣く戦地に送り出されることすら耐え難かったと思いますが
黒塗りの教科書で真逆のことを教えなければならなかった当時の先生方のお気持ちとご苦労はどれほどだろうかと思います。

そんな中、楽しい話もありました。山の学校での生活を、祖父はある教育雑誌に「地図にない村」というタイトルで投稿しました。
その文章が評価され、賞金をもらったと聞いています。家計が助かっただけでなく、その作品はラジオドラマ化もされたそうです。

山の中での暮らしが、文字となり、祖父の“伝える力”が声となり人々の心に届いていました。
伝えることは祖父の天職だったのかもしれませんね。

不便な土地で体を壊しながらも、祖父は山の学校での生活を続け、長女(私の叔母)の就学を機に、ついに山を下り、長崎市内の小学校で教壇に立つことになります。

その後、ある調査の結果に愕然とし、祖父は原爆を「語る」手段としての「書く」ことを始めます。

🙏出典と謝辞

本記事は、『聞き書き 坂口便先生』(著:末永浩さん)の記録をもとに構成しております。
祖父の足跡をたどる上での貴重な資料として、多くの学びと示唆をいただいていることを
この場を借りて、心より感謝申し上げます。

📚次回予告

【第5回】沈黙の壁を破って/祖父が語り始めた理由


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