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祖父の原爆絵本を語り継ぐ【第3回】〜引き揚げの夜。荷物と祈りと水音と。

昭和21年2月、帰国命令が下る。真夜中の行列、洗濯工場での10日間、貨物船のむしろの床、船中でのお産…。
祖父母が目撃した“引き揚げの現実”に思いをはせながら記録する。

昭和21年2月のある夜中。
祖父・坂口便と祖母のもとに、ついに「引き揚げ開始」の伝令が届きました。
夫婦はおむすびを用意し、持てるだけの荷物を背負って、真っ暗な道を静かに歩き始めました。

行列の中には、家族連れ、女性一人、独身の若者……さまざまな人たちがいました。
道すがら、ときおり「チャポン」と水の音が響く。
それは、荷物を持ちきれなくなった人たちが、クリーク(水路)に私物を投げ捨てていく音でした。
命を運ぶために、“あきらめるもの”を選びながら進んだ人々の姿が目に浮かびます。

たどり着いた先は、上海。
人も荷物も、トラックにぎゅうぎゅうに詰め込まれて港へ向かい、洗濯工場に集められました。
出航を待つ間、10日間にもおよぶ集団生活がそこではじまります。

洗濯工場での10日間の集団生活には、さまざまな人たちが身を寄せ合っていました。
ある人は、双子の赤ん坊をひとりは前に抱き、もうひとりは後ろにおんぶしながら過ごしていたそうです。
また、別の女性は、夫が憲兵だったことを理由に引き離され、ひとりで帰国せざるを得なかったということです。
誰かが亡くなっても、遺体を丁重に送ることすらできず、工場の隅の地面に埋められることもあったそうです。

出航の日、祖父母たちは貨物船に乗せられました。
人を運ぶための設備ではなく、床に「むしろ」が敷かれただけの船底。
その中でも命は続いていました。
なんと、船の中でお産を迎えた人もいたそうです。
新しい命が、帰国の途上という不安と混乱の中で、この世に生まれたことを思うと、胸がつまるような思いになります。

帰れるという希望と、命が削られていく現実。
その狭間にあるような時間だったのではないかと思います。
それでも、「帰れる」ことだけが、すべてを支えていたのかもしれません。

やがて船は鹿児島に着き、祖父母は再び汽車に乗って、長崎へと向かいました。
その途中、浦上の原爆の焼け跡を見たそうです。

やっとの思いで故郷に帰って来て目に飛び込んできた風景が、あの焼け野が原だったら、、
どんな思いだったろうと思います。 
その時の事は祖父の口からは聞けませんでした。

何を語り、何を語らずにいたのか。
私はいま、その“語られなかったこと”を想像しながら、この記録を書いています。

🙏出典と謝辞

本記事は、『聞き書き 坂口便先生』(著:末永浩さん)の記録をもとに構成しております。
祖父の足跡をたどる上での貴重な資料として、多くの学びと示唆をいただいていることを
この場を借りて、心より感謝申し上げます。

📚次回予告

【第4回】山の学校から再び教壇へ|祖父が見つめた子どもたちと、語ることの始まり


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