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「断罪パラドックス」   第21話

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 お母さんは僕の高校受験の時は下校時間を気にするくらいだった。それは修の大学受験のほうが大変だったからだ。僕の高校入学と同時に修が大学へ進学し、今度は僕の大学受験にお母さんの関心は集中した。

食べるもの飲むものから、睡眠時間まで、家と学校と塾にしかいかないのに、なぜかスマホのGPSもチェックされていた。

 僕は見えない鎖で幾重にも縛られているような気分だったけど、それだけならまだよかった。困ったことにお母さんは塾の入室時間が二十分遅れると、学校に電話するようになった。

 メールで時間がはっきりお知らせされるせいだろう。

 高校の入学式が終わって間もなく、そんなことが何回か繰り返されていたある日、僕は昼休みに担任の五十嵐先生に呼び出された。お母さんのことだろうな……。と思って身構えたけど、五十嵐先生の話は意外なものだった。

「四ノ宮くん、部活動に入っていないけど、何か入りたい部活はないの?」

 部活動……。運動は苦手だから体育会系は考えたこともなかった。桜山高校の部活動は文化部も盛んで、同好会の活動も充実しているらしかったけど、僕はどれにも興味がなかった。

 興味があったところで、お母さんが部活動をする時間を僕にくれるとはとても思えなかった。

「四ノ宮くん?」

「特に興味がある部活がないんです。中学もずっと帰宅部だったし」

 五十嵐先生はちょっと困ったような笑みを浮かべた。こんな表情をお母さんはしないので、五十嵐先生が何を考えているか想像もつかず、僕は返事を間違えてしまったのかもしれないと、身構えた。けど、五十嵐先生の返事は意外なものだった。

「部活が難しいのなら、もうすぐ、所属委員会を決めるから、これに立候補する気はないかな?」

 委員会も中学校のころは何もしなかった。放課後活動する必要があることはお母さんが一切許さなかったからだ。

「あの……。それは僕にはメリットはないので……」

「図書委員は私の受け持ちだから、誰のなり手もなくて担任の印象がよくなりそうだったから……。と言ってみたらどうかな?」

「はあ……」

 この時、僕は五十嵐先生が、お母さんの電話のことを言わない代わりに図書委員をやれ。と言っているんだと思っていた。

 でも、五十嵐先生の思惑は僕の想像とは全然違っていたんだ。

 図書委員の仕事は週一回、お昼休みと放課後、図書室のカウンターに座り貸し出しの作業をすることだけだった。僕はいつの間にか週に一度の当番の日を楽しみにするようになった。桜山高校の図書室は中庭に独立して建っている。教室やグラウンド、体育館、それに職員室からも離れていて、静かで落ち着ける場所だった。それに他から離れている分、利用者が少ないというのも良かった。

 図書委員の仕事なんてほとんどなかったんだ。日当たりのいい明るい図書室のカウンター。家でも塾でもない場所でこんなにくつろげるとは思っていなかった。

 時間が、こんなにもゆっくり流れるのを実感したのは初めてだったかもしれない。お母さんに見張られていない唯一の時間で僕は読書をした。

「フィクションなんて人様の作った話はなんの役にも立ちません。新聞を読みなさい」

 小学校高学年の時、学校の図書室で借りた本を読んでいた時に、お母さんがそう言ってから、僕は本を読めなくなったけど、本当は読書が好きだったことを図書委員になって思い出した。

 そして、僕を図書委員にしたのは五十嵐先生の配慮に他ならないことも実感した。

 どんな先生もお母さんが僕にさせたくないことをさせることは簡単に諦めてくれたけど、五十嵐先生は違っていた。

 僕が図書委員になったと言うと目を怒らせて、顔を真っ赤にして学校に乗り込んだお母さんを相手にした五十嵐先生は、闘牛を相手にひらりと身をかわすマタドールのようだった。

「五十嵐先生、いったいどういうことです? うちの学を図書委員にするなんて!」

「四ノ宮さん、いつもお電話で失礼しております。ここではなんですから、あちらへまいりましょうか」

 そう言って五十嵐先生が指をさしたのは校長室だった。お母さんは一瞬ひるんだ。今までお母さんのクレームは担任の先生が受け流して、お母さんの希望通り僕は何かに参加しない。ということで決着がつくのに、五十嵐先生は最初から、校長先生を巻き込むと言っているのと同じだったからだ。

 実際校長室に行くと、校長先生は一言もはなさなかったけど、そのじっと向けられた視線のせいか、お母さんの声はいつもより小さくなったし、五十嵐先生はお母さんのクレームを冷静にすべてしらみ潰しにしていった。

 この時はそうまでして五十嵐先生が僕に図書委員をさせたい理由が分からなかったけれど、今こうして読書をする時間を得た今は分かる。五十嵐先生は僕に僕だけの時間をくれたんだ。

 僕はひとりになりたかったことにも気づいた。いつも僕はひとりだったと思われるだろうけど、厳密に言うと違ったんだ。僕はそこにはいないお母さんの気配を常に感じていた。だけど、週に一回のこの時間だけは僕は本当の意味でひとりになれたんだ。五十嵐先生みたいな先生がいるなんて信じられないことだと思う。僕のことを初めて守ってくれたのが五十嵐先生だった。


 図書委員のない日は、いつも通りホームルームが終わったら、すぐに塾に行く。少し遅れたとしても、慌てなくなった。五十嵐先生ならお母さんの電話に立ち向かってくれると信じることができたから。五十嵐先生なら他の生徒にお母さんが時間に厳しい人だとか、行き過ぎた教育ママだとか言ったりしないだろうと思った。その上、僕はいつもより勉強に集中できているから、お母さんの期待も裏切らないですむ。そう思った矢先異変が起きたんだ。

 大学進学で上京していた修が、夏休みを目前にして帰ってきた。帰ってきた修の表情がパッとしなかったことやお母さんがやけに暗い顔をしていることや、ふたりが何かピリピリしていたから変だなあと思って、特に変じゃない質問をした。

「大学の夏休みってこんなに早いの?」

「……俺は大学……」

 修が何か言いかけた瞬間、お母さんが鬼の形相で修を睨みつけた。修は逃げるように自分の部屋に入って行った。

「そうよ。夏休み。大学生は長いの」

「……へえ。そうなんだ」

 明らかに何かがおかしかったけど、そのおかしい原因をお母さんが教えてくれるはずもなかったから僕も自分の部屋に入った。

 それでも、修が家に帰ってきたらお母さんの過干渉は僕だけじゃなく修にも分散されるだろうと睨んでいたけれど、お母さんは家に帰ってきた修をまるでそこにいないものかのように無視した。それはまるで家の中にお父さんがひとり増えたみたいだった。ただ、修はお父さんと違って、お母さんから無視されていることに傷ついていた。

 お母さんは修を無視すれば無視するほど、僕への過干渉が過剰になっていった。まるで修に僕への過干渉を見せつけているみたいだった。

 修が帰ってきたことで楽になるどころか息苦しさがいっそう酷くなって、僕は夏休みが憂鬱で仕方なかった。家から塾の往復のみの毎日がはじまる。お母さんがちょっとしたことで鬼の形相になり、修を無視し続け、その原因さえ僕には教えてもらえない。モヤモヤしながら図書委員の当番をこなしていたら、五十嵐先生がやってきた。

「四ノ宮くん、なにか悩みでもあるの?」

 カウンターの中の僕を覗いて五十嵐先生は僕にそう声をかけてくれた。五十嵐先生は独身だと聞いたことがあった。正直もったいないと思う。うちのお母さんとそう変わらないくらいの年齢だと思うけど、若いころは美人だったんじゃないかな。それに、こんなに優しい人が母親だったら最高なのに。

「四ノ宮くん?」

「大丈夫です」

 悩み。ないわけではないけれど、うまく言えないんだ。それにいくらマタドールの五十嵐先生でも魔法のように家の中を別のものに変化させることはできないと思った。

「そう? ああ、それとね。夏休み書庫の整理で三日間来てもらうことになったんだけど、その話はもう聞いたかな?」

「え! そうなんですか?」

 夏休みに塾以外の予定ができたなんてお母さんに言うのは怖かった。特に修のことでピリピリしている今とても言えない。僕はカウンターにがっくりとうなだれた。

「四ノ宮くんのお母さんにはもう言ってあるから大丈夫よ。ご了承いただいているの。少し大変だったけどね」

 がばっと起き上がって五十嵐先生の顔を見ると先生はにっこり微笑を浮かべていた。

「何時までになるかは分からないと言ってあるから、ちょっとどこかへ行くなら私が荷物を預かってもいいのよ」

 五十嵐先生はマタドールにして魔法使いなのかもしれない。それか超能力者なのかも。あのお母さんをまた説得できたなんて信じられない。それに僕のスマホのGPSが見張られていることも知っていて、荷物=スマホ=僕の現在地。それを預かってくれると言っているのだ。

「ありがとうございます!」

「四ノ宮くんのそんな笑顔、先生初めて見たなあ。喜んでもらえてよかった」

「それで、いつなんですか?」

「八月一日から三日間よ」

 書庫の整理が終わったら、どこに行こうか。本屋には絶対行きたい。それからクラスのみんながよく行っているラーメン屋にも行ってみたい。それから、それから、どうしようか。

 五十嵐先生のおかげで憂鬱だった夏休みが楽しみになった。僕は自分ひとりの自由な時間を熱望していることにさえ気づいていなかった。五十嵐先生は大事なことを気づかせてくれた。そのことに感謝の気持ちでいっぱいだった。

 大学に行ってひとり暮らしをして自由な時間を手に入れた修もこんな気持ちだったんじゃないかと思う。それを思うとどうして修が夏休みに家に帰ってきたのかが不思議でしかたなかった。僕だったら自由な夏休みがあったら、絶対にぎりぎりまで実家に帰らない。僕はもっとこの当然の疑問を注意深く考えるべきだったし、修本人に聞いてみるべきだった。そうすれば、お母さんが修を無視している理由なんて単純明解だったのに。僕は面倒に思うべきではなかった。


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