「断罪パラドックス」 第20話
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第四章 四ノ宮学
学校から歩いて十分の学習塾のカードリーダーに会員証のバーコードを読ませると、お母さんにメールが届く。
――生徒【四ノ宮学】様は入室いたしました。
【入室時間】16:45
お母さんがこの塾に決めたのは、この入室お知らせメールの機能が気に入ったからだと確信している。実際は僕も気に入っているんだ。もし、このシステムがなければ、お母さんは学校からたった十分しかかからない塾の「送り迎え」をするだろうから。それに比べたらずっと合理的だ。
入室時間に許される誤差は十分だ。十五分だと電話をして説得してみる。二十分だと僕が何を言ってもお母さんは一切聞かずに学校に電話をしてしまう。
「今日は一体何があったのでしょうか? 下校の時間が遅れるのは勉学を重視する校風に合っていないのではないでしょうか?」
きっとたぶんこんなかんじのことを、担任の五十嵐先生に言っている。
カードリーダーに通した時間の誤差が二十分以上の日、僕の目の前は真っ暗になって、胃がねじれたように収縮する。学習塾の自習室の机に突っ伏して、自分の知らないところで起きている悪夢をあらん限り想像するんだ。
中一の時は大変だった。担任がホームルーム中にこう言ったからだ。
「あんまり、長くなると四ノ宮のお母ちゃんから電話がかかってくるからな。今日はこれまでにするか」
あの時の、クラスメイト全員の視線は、思い出すだけでも吐き気がこみ上げてくる。
中学の三年間は居心地が悪かった。
「四ノ宮んとこの母親ってモンペなんじゃないの?」
ひそひそとそんな声が聞こえるのが僕の日常だった。そんな生徒に関わりたい人間はいない。もしかしたら、お母さんの本当の目的は、それなのかもしれないと思うとますますいたたまれなくなる。
友だち……はいないけど、もしいたとしても、遊びに行くなんてもってのほかだろうし、部活も禁止。修学旅行は欠席させられたし、課外活動、運動会の日ももれなく風邪をひいた。
「お兄ちゃんだって、そうして合格したんだから、ね? 学ちゃんもそうしましょう。合格したら、なんだってできるんですからね」
お母さんは僕に靴下をはかせながらそう言うけれど、僕には「なんだってできる」の何ができるのかその内容がよく分からない。ひたすら、T大受験にむけて勉強する。そうすることがお母さんの心の平穏を保つために必要なことだというのは理解しているから。なんとなく頷くだけだ。
勉強は得意なほうだと思う。嫌いじゃないとも思う。成績だって常にトップだった。だから、ここまでしなくたっていいと思うのに、お母さんはお母さんの思うT大受験対策ができていないとパニックを起こす。
一番酷かったパニックは三歳年上の兄の修が受験生だった時だ。修だってお母さんのスケジュールの通り勉強していたけど、共通テストの一週間前、修は勉強机で、うたた寝をしていた。追い込みをかけていて詰め込んでいたから、疲れていたんだと思う。僕は客観的に見てそう思ったけど、お母さんはそうは思わなかった。直前になって居眠りをしているのを修の気の緩みにしか見えなかったらしい。
修の夜食に自分で作った鍋焼きうどんを乗せたトレイを修の部屋のドアを開けるとすぐに落とした。鍋が割れる音が隣の部屋にいた僕にも聞こえた。見ていなかったけど、落としたというのは正確ではないかもしれない。お母さんはトレイをたぶん修のほうに投げつけた。でもそれだけですむはずもなかった。そこから先が本当に地獄だった。お母さんは五十音では表記しずらい音の奇声をあげた。
「キエエエエエエエエーーーーーー」
そして、修を座っていた椅子から突き落とすと、その椅子で修の部屋の壁を、ベッドを、机を叩き壊していった。ものすごい騒音と物が破壊されていく様子は恐怖以外のなにものでもなかった。
「お母さん、ごめんなさい。僕が悪かったよ」
修の謝る声はお母さんにはまったく届かない。
ああなってしまうと、お母さんは終わりがくるまで止まらない。力つきるまで止まらないんだ。修はどうしても壊されたくないノートPCとスマートフォンを死守しながら、謝り続けた。僕は隣の自分の部屋で一部始終を聞いている。お父さんは夕食が済むと自分の書斎に籠もってしまうので出てこない。お父さんが書斎で何をしているのかはよく分からないけど、あの奇声が聞こえないのだから、ヘッドフォンかイヤフォンで何かを聴いているのかもしれない。その日に限ったことではない。家で何が起きてもお父さんにはまるで何も見えていないみたいだ。だから、お父さんがお母さんをなだめるなんてことを僕らは一切期待していなかった。
結局その日、修はぐちゃぐちゃになった自分の部屋には戻れず、リビングのソファーでぐったりと抜け殻みたいに放心しているお母さんの隣で、泣きながら共通テストの過去問を解いていた。僕はただただ、祈った。修が共通テストで失敗したら……。大学受験に失敗したら……。あれよりも恐ろしいことが待ち受けていると思ったからだ。
あんな出来事があったのに、修は共通テストで高得点をたたき出した。
あんな出来事があったから、高得点をたたき出したのだ、とお母さんが自分のしたことを正当化したら、どうしよう? そう思わずにはいられなかった。だって、お母さんはまるで修が自分の力で高得点をとったような口ぶりだったからだ。それからまもなく修はT大に合格した。
そして、この町から、この家から離れた。
その時になって、ようやく、僕は修から、沢山の恩恵を受けていたことを思い知ったんだ。
いままでは僕よりは不器用だった修のほうにお母さんの意識と関心が集中していた。とくに修が高校に入ってからの三年間は顕著にそうだった。修がいなくなってから、その意識の矛先が全部僕に向くことを想像しきれていなかった僕は、一条が言う通り、勉強しかできない愚かな人間なんだと思う。
でも、僕は一条と違って勉強だけはできた。それが一条に僕が狙われた大きな原因のひとつだったんだ。
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