「断罪パラドックス」 第22話
前話へ / このお話のマガジンへ / 次話へ
修が帰ってきた理由が分かったのは皮肉なことに、僕が楽しみにしていた図書室の書庫の整理の日。八月一日だった。
夏休みに学校に来るのは初めてだった。
絶え間ない蝉の声でいっそう暑い校舎を少ない日陰を狙って図書室に向かって歩いた。いつもとは違う学校の雰囲気に意味もなく興奮していた。人がいない教室の窓をなんだか目で確かめてみたりした。図書室についたら、既に数人の図書委員が集合していて、どうするのか空気を読んで、近すぎず遠すぎない場所で待っていると、五十嵐先生がやってきた。書庫の整理は各学年の図書委員総出でやることになっていて、委員会の仕事とはいえ、なんだか楽しかった。気になった本のタイトルをチェックしたり、他の図書委員と話をしたり、作業の分担をしたりする。僕には全部初めての経験だった。
「四ノ宮くんって、以外とおしゃべりなんだね」
同じクラスの二村さんにそんな風に話しかけられて、思わず頬が熱くなって、初めて自分が汗臭くないかが心配になった。
「そろそろ、お昼休憩にしましょうか」
五十嵐先生がそう言ってから、みんなにジュースを配った。弁当持参の人は弁当を広げ、そうじゃない人は近くのパン屋に行くと言った。僕は本当はお母さんに弁当を持たせてもらっていたけど、みんなとパンを買いに行きたかったからついていった。別にお母さんのお弁当だって美味しいし、特別パンが食べたかったわけじゃない。ただ、そうすることで、この楽しい時間がもっと引き延ばせるような気がしたんだ。まあ、パンだって美味しかったけど。
「今日は初日だし、この辺で終わりにしましょうか」
五十嵐先生がそう言ったのは二時くらいだった。五十嵐先生は僕に職員室についてくるように言った。先生はじぶんの机に座ると、大きくため息をついた。
「四ノ宮くん、今日はどうだった?」
「意外と楽しかったです」
「ちょっと時間が少なくなってしまったけど、今から通常の下校時刻までは私はここにいるから。預かっていて欲しいものがあるでしょう?」
僕は制服の右ポケットからスマートフォンを出して、そっと五十嵐先生に差し出すと、五十嵐先生は頷いて受け取ってくれた。
「きっとこれのおかげで四ノ宮くんのお母さんは必要以上に学校に来たりはしていない。というメリットはあるのかもしれないけど、息抜きもできないのは困るよねえ」
「五十嵐先生、こんなことして先生は大丈夫なんですか?」
「大丈夫よ。そんなこと心配しなくていいから。三日間、四ノ宮くんはしたいことをしなさい。ほら、あまり時間がないんだから急いで」
先生はそう言って僕を送り出してくれた。
したいことをする。
その言葉に、わくわくと力が湧いてくる気がした。とにかく急いで近くの大型書店に行かないと。僕は学校から出て塾の前を小走りで通り抜けた。たったそれだけのことなのに大冒険をしている気分になった。
その書店は、お母さんと来ることもあったけど、そういう時に行く場所はいつも決まって参考書が置いてあるコーナーだけだった。滞在時間も十分程度だ。
正直に言うと僕は参考書を沢山買っても意味はないと思う。自分にとって使いやすい物を繰り返し使うほうがいいんじゃないかなあと僕個人としてはそう思うけど。それでも参考書を定期的に買うのはお母さんが安心するからだ。
安心? と言うよりは満足なのかもしれない。収集癖に近いんじゃないかなと思う。僕の部屋にずらっと並んでいるだけでお母さんが満足するというなら別にそれでいいんだ。
無意識に参考書や赤本が置いてあるコーナーに行きかけて僕は首を振った。
小説の新刊のコーナーに行き、最近図書室で読んだホラー小説のシリーズの最新刊を探した。
「あった!」
人気シリーズなので平積みにされていた。
上から二冊目を、そっと手に取って表紙を撫でた。図書室にある本は、みんなポリプロピレンという樹脂でできたコーティングがされているから、全て同じさわり心地だけど、コーティングのない本のさわり心地はもちろん違っていて、それだけでも、なんだかどきどきした。そっと開くと、新しい本の匂いがふわっとして幸せな気持ちになった。これは絶対買おう。そっと左の小脇に抱えてから他の新刊も色々物色してから、文庫本のコーナーへ行こうと思った時だった。イラストや画集のコーナーの前を通り過ぎた時、図書委員で一緒に仕事をした二村さんの横顔が見えた。二村さんはひとりだった。とても真剣に選んでいるみたいだったから、邪魔しちゃだめだと思って通り過ぎた。
僕は出版社別に並んでいる文庫本のコーナーの一つ一つをじっくり見て、気になるタイトルを引き出していった。
自分の部屋のどこに隠そうか。学校に置いておくのもいいかもしれない。なんだったら、図書室に紛れ込ませるのもいいかもしれない。 見つかればきっと捨てられるし、今日こうしてここにいる時間のこともバレてしまうだろう。それを考えると怖かったけど、ただ、今この瞬間は間違いなく楽しかった。
一時間以上はそうしていたと思う。目星をつけていたもの、目に入って気になったものを抱えて、レジに向かった。
ふと、まだ二村さんはいるだろうか? と思った。もうかなり時間が立っていたから、いないだろうとも思ったけど、いるなら挨拶したほうがいいだろうと思ったんだ。
本を抱えたまま、さっき二村さんがいたイラストや画集のコーナーに行くと二村さんはまだそこにいた。でも何か様子が変だった。二村さんは書棚と書棚の角に追い込まれているように見えた。誰かが二村さんの後ろにぴったりと貼りつくように立っていた。あまりにも不自然だった。
もしかして、これって? 痴漢?
白昼堂々と、書店の中でこんなことが起きていることが信じられなかった。二村さんを助けなければいけないと思った。
「二村さん!」
僕は大声で二村さんを呼んだ。
すると二村さんからは返事がなかったけど、痴漢は僕の声に驚いて振り返った。
でも、振り返ったその顔に僕はもっと驚いて一瞬言葉が出なかった。
「兄さん、いったい、何を?」
二村さんに痴漢行為をしていたのは兄の修だった。体温が一気に下がったような気がした。怒りなのか、悲しみなのか、失望なのか、よく分からない説明できない複雑な感情のかたまりが自分の胸に渦巻いた。
僕の呼びかけに修は答えることもなく、僕に体当たりして逃げた。抱えていた本が床に落ちた。修を追いかけるべきだったけど落とした本をそのままにしておくこともできず、すぐにしゃがんだ。二村さんはしゃがんで本を拾うのを手伝いながら、僕にこう言ったんだ。
「さっきのあれ、本当に四ノ宮くんのお兄さん?」
図書室で作業をしていた時の二村さんの声よりずっと低くて鋭い声だった。怒っているのだと思った。
「うん」
「通報してもいい?」
「……」
僕は答えることができなかった。兄が痴漢だった。と学校中にバレてしまったら、どうなるだろう? 母親がモンスターペアレントだってことがバレても存在を無視されるだけだ。
でも、兄が痴漢で、その被害者が目の前にいるクラスメイトだということがバレたら……。もう、学校には行けない気がした。
僕が黙っていると、二村さんは思いもよらないことを言った。
「四ノ宮くん、スマホ出して?」
「え?」
「スマホ。持ってるんでしょ」
「持ってるけど、今、持ってない」
スマホは五十嵐先生に預けている。
「嘘でしょ?」
「本当だよ」
四ノ宮さんはハーとため息をついて、スクールバッグからボールペンと大きめの付箋を取り出して、何かを書き殴った。
「これ、私のID。帰ったらすぐ連絡して。もし、連絡しなかったら、このこと、みんなに言うから」
僕は頷くしかなかった。
立ち去る二村さんの後ろ姿を見えなくなるまで見送りながら、今日は最高の夏休みになるはずだったのに、一体どうしてこんなことになったんだろう? という悔しさが僕の頬を濡らしていた。
前話へ / このお話のマガジンへ / 次話へ
