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「断罪パラドックス」   第23話


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 家に帰ると僕はまっすぐ修の部屋に行った。お母さんは夕飯の買い物に行っているらしく、不在だった。好都合だった。修は自分のベッドで仰向けになっていた。こちらをみようともしない修に僕は怒りを覚えた。

「兄さん、さっきのは、なんだったんだ?」

「お前が見た通りだよ」

「痴漢をしてるみたいだった」

「お前にそう見えたんなら、そうなんじゃない? でも、あの子じっとしてたから触られても気にしないんだろ」

「兄さんが怖くて、動けなかっただけだよ。あの子、二村さんって言うんだ。僕のクラスメイトなんだ。それなのにどうして?」

「桜山の生徒だってのは、制服見りゃ分かるよ。でも、お前のクラスメイトだとは今知った」

 そんなことはどうだっていいという態度にイライラして僕はカッとなった。

「恥ずかしくないの? 人として」

 僕がそう言うと、それまで、飄々としていた修の顔が真っ赤になった。

「やめられないんだ」

「え?」

 これが初めてじゃないということだ。不安がせり上がってきた。

「学、おまえ、覚えてないか? 俺が大事にしていた写真集をお母さんが燃やしたこと」

 そういえば修が高校生になったばかりのころにそんなことがあったような気がする。アイドルの誰だったかの写真集だった。

 たぶん、修はお母さんには内緒で買って大事にしていたんだと思う。見つかった時泣きわめいていた。見つかったらどうなるか修には想像できていたから、泣きわめいたんだと思う。

 お母さんはその写真集を持って、何か獣の霊みたいなのが取り憑いていると思わずにはいられないくらいの不気味な身軽さで裸足のまま庭に出た。

 庭の泥で汚れたお母さんの裸足の白い足が見えた時、見てはいけないものを見ている気がした。

 そして、目の前で、一枚ずつ破かれて燃やされていくアイドルを見て、僕は大事なものがあるということは、なんと脆弱なことだろうと思った。

「あの時、お母さんがなんて言ったか、おまえ、覚えてない?」

「お母さんが言ったこと?」

 あの時は目の前の光景があまりにも衝撃的で耳に入ったはずの情報は覚えていなかった。

「覚えてないのか?」

「うん」

「『大学生になったら、こんな偽物じゃなくて、本物のちゃんとした女の子とお付き合いできます。今、こんなものに気を取られてはいけません!』って言ったんだよ」

「お母さんがそんなことを?」

「好きなアイドルがいるって、そういうことじゃないだろ? でも、あの時はお母さんの言葉のままに納得するしかなかったんだ。それに、本物のちゃんとした女の子とお付き合いするんだと思ってた」

 修の言っていることはなんとなく分かった。お母さんの暴走を止めるために、納得できるはずがないことを、納得しなければいけないと、考えることを強制終了したんだ。

「それと、二村さんを痴漢したこととは関係ないだろ?」 

「関係ないといえばそうかもしれない。でも、本物のちゃんとした女の子がお母さんみたいな女だったら、どうする?」

「どういうことだよ」

 どういうことか分からないけれど、少し想像しただけでも背筋がゾッとした。

「友だちの作り方も知らないような俺のことを気にかけてくれるような女は、お母さんみたいな女しかいないんだよ」

「だから、どういうこと? お母さんみたいな女ってどういうこと?」

「俺がT大生かどうかにしか、興味がない女ってことだよ」

「そんな……。お母さんは、そんな……」

 お母さんは修が、T大生になれるかどうかにしか興味がなかった? お母さんは僕がT大生になるかどうかにしか興味がない?

 パズルのピースがぴたりとはまったような気がした。

 ああ、だからだ。という気持ちと、それでも否定したい気持ちがせめぎ合った。

 否定しないと、あんまりにも僕ら兄弟が……。可哀想じゃないか。

「俺のことを、俺自身を気にかけてくれる女なんてどこにもいないんだよ。辛かったんだ。むしゃくしゃして……」

「兄さん、どうして、こっちに帰ってきたの?」

 僕は今まで聞かなかったことを聞いた。聞いてみたら、怖くて聞けなかったんだということが自分でようやく分かった。知りたくなかったんだ。修の身体はびくりとしてから、小刻みに震えはじめた。

「退学になったんだ」

「退学? どうして?」

「サークルの女に準強姦罪で訴えられたんだ」

「嘘だろ! どうしてそんなことしたんだよ!」

「ちがう。俺は罠にかけられたんだよ!」

「罠って?」     

「結局、示談になったんだよ。金目当てだったんだ」

 準強姦罪で訴えられて示談……。お母さんは、それでもT大生じゃなくなった修のためにお金は払ったんだ。それなのに、どうして修を放置するのかは分からない。

 修は金目当てだと言ったけれど、それはきっと違うと思った。よくニュースになっている準強姦事件のことを思い出したからだ。

「その子、普通の大学生だったんでしょ? お金目当てに兄さんにレイプされるとは思えない」

「ほとんど抵抗しなかったんだよ!」

「兄さんに痴漢されて、ほとんど抵抗しなかった二村さんだって通報するって言ってるんだ。兄さんは自分にとって都合の悪いことを無視してるよ。訴えた人だって、どういう状況か想像つくよ。その女の人は酔っ払って動けな
くなってたとかだろ!」

「うるさい! おまえに俺の気持ちなんて分かるもんか! いつも、俺が失敗するのを高みの見物してたよな! 俺がお母さんにしかられるのを面白がってたんだろう?」

「違うよ。そんなことない。高みの見物なんてしてない」

 修がお母さんから怒られたり、何かを取り上げられたりするたび、僕からもひとつひとつがなくなっていったことに、じっと耐えていたことが、高みの見物と言われたら、高みの見物になってしまうけれど、僕にはそんなつもりはまったくない。

「おまえは俺と同じ失敗はしなかった。猫を拾ってきたこともなかったし、ともだちと遊んで塾の宿題を忘れることもなかった。それに、好きなアイドルやアーティストさえいなかった。おまえは母さんのいうことを聞くロボットみたいだった」

 僕は修が子猫を拾ってきた時のことを鮮明に覚えている。もらい手を見つけるからとお母さんは修から子猫を取り上げた。

 僕だってがっかりしたんだ。僕も猫が好きだった。飼うことができるならどんなに楽しいだろうと想像したこともある。でも、もらい手がいるならいいかとも思った。

 子猫をお母さんが修から取り上げた数日後、大雨の日に猫は庭の植え込みの下にあった。お母さんが殺して埋めたのが雨で流されたんだろう。

 あの時僕は、まだ小学校の低学年だったけど、こんな気持ちは二度と味わいたくないと思った。初めて体験した絶望だったと思う。

 修は知らないんだ。あの子猫がどうなったかを。僕は目が溶け出していたあの子猫を、もっと深くに埋めた。もう二度と地面から出てこられないように。確かに僕はそのことを言わなかった。修に言ってしまえば、お母さんが子猫を殺して埋めたことを現実のこととしてしっかり受け止めなければいけなくなると思ったのかもしれない。あのことは今から思うと、夢だったのかもしれないとさえ思う。夢だと思いたかった。でも、今こんな状況になっていることを思えば、僕は修に子猫がどうなったかを言うべきだった。

「ロボットになっているほうが、楽だったんだ」

「ロボットのおまえだって、そのうち俺と同じように爆発するんだ! その証拠をみせてやる!」

 修は僕の腕を掴んで引っ張った。連れていたのは開かずの間。お父さんの部屋だった。

「どうして、お父さんの部屋なんか……」

「学は入ったことあるのか?」

「一度もないよ。兄さんはあるの?」

「最近になって入った」

「お父さんの部屋はお父さんがいない時は外から鍵がかかっているのに?」

 修はポケットから鍵を出した。

「こっそり合鍵を作ったんだ」

「どうやって?」

「父さんのキーケースの車以外の鍵の番号を暗記したんだ。一日中家にいたら、それくらいのチャンスはある」

 ニュースで見たことのあるような犯罪の手口を修が躊躇せず使うことに寒気を覚えたけど、開かずの間を開くという好奇心がそれに勝った。

「開けるぞ!」

 修は鍵を差し込んでゆっくり回した。カチリという音がして、ドアは開いた。

 思わずごくりと喉が鳴った。

 部屋の中で一番に目に入ったのは部屋の広さに不似合いなくらいの大画面のテレビと、それまで僕が予想していたとおり、ヘッドフォンだった。壁一面のラックにはDVDだけがぎっしり詰まっていた。そして、万年床がほとんどここで寝起きしていることを主張していた。 

「一体これの何が……」

 そこまで言うと、修はラックに詰まっているDVDのケースを一本僕に渡した。

 僕がそのパッケージとタイトルにぎょっとしていると、さらにもう一本、もう一本と渡してきた。

 僕は修が何を言いたいのかがようやく分かった。

「もういいよ。分かったから。やめてくれよ」

 壁一面のDVDは全部アダルトビデオだった。僕は家族が同居する家の父親の部屋が開かずの間だったことの原因がこんなことだとは想像もしていなかった。

 そして、僕たちがお母さんから叱られている時も、お父さんはヘッドフォンで大音量でアダルトビデオを観ていたんだと思うと、膝から力が抜けていった。怒りすらも湧いてこない。

 普通の家がどんなものかも、友だちのいない僕には図りかねるけど……。 

 それでも、この部屋はきっと異様だ。

「お母さんはこの部屋の中がこうだって知っているのかな?」

「さあな。でも、知っているから外鍵のつく部屋を許しているとしか、俺には思えない。でもおかしいだろ? 変態だよ。俺たちは変態から産まれたんだ。おまえだっていつか爆発するよ」

 僕は修に何も言い返すことができなかった。いつか自分が爆発するかもしれないことを否定できるだけの材料がなかったからだ。

 修はもしかしたら、この部屋を見てしまったことで安心したのかもしれない。

 性犯罪者になっても仕方がないとお父さんのせいにできたのかもしれない。

 でも、僕はただでさえ薄暗かった自分の目の前を黒々と塗りつぶされただけだった。

 お父さんの部屋の鍵をかけると、修は自分の部屋に戻った。何にも解決していなかった。修は自分が性犯罪者であることさえ認めようとはしなかった。これからも繰り返すつもりかもしれない。でも、混乱した僕の頭に、今更に修と言い争う気力は残っていなかった。僕は自分も自室に戻ると、スクールバッグからスマホを出した。

 二村さんと別れた後は当然行く予定にしていた所に行く気力もなく学校へ戻った。五十嵐先生からスマホを返してもらう時、必死で自分の心の動揺を隠した。先生はちょっとしたことで、気づいてくれる。でも、修が痴漢をしていたことを、五十嵐先生に気づいて欲しくはなかった。僕は本を選んでいた一時間の話だけを、さも楽しそうに先生に話して聞かせた。

 スマホの画面をタップする。買った時から、何一つ変わりのない背景画面が明るくなった。僕は制服のポケットから二村さんに渡されたポストイットを出して、メッセージアプリを開いてIDを入力した。

 どうすれば二村さんが、僕が痴漢の弟だということを黙ってくれるかは見当もつかなかった。


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