「断罪パラドックス」 第14話
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母さんは意外と早く帰ってきた。執行猶予がついたからだ。俺の父親になる予定だった男は前科もあって塀の中だ。これで少しはましな生活になると思った。樹里杏だって久しぶりに母さんに会えて嬉しそうだった。
たまたま空いている部屋があったのか市営住宅に戻ってきた時は正直ホッとした。母さんだって警察に行ったんだ。怖い思いもしただろうから、きっとこれからの生活は良くなる。そう信じたかった。
でも平和な日なんて一週間も保たなかった。ある日学校から帰ると、団地の今で母さんは居間の畳の上に座って放心していた。
「何やってんだよ!」
注射針がキラリと光るのが視界に入って自分の目がその針に刺されたかのようにちくちくと痛むような気がした。俺は絶望的な気持ちになった。母さんが、もう注射針さえ隠す気もないことがホントに怖かったんだ。
「ああ、おかえり~。慈愛杏登おお」
「おかえりじゃねえよ。これ、また警察に捕まったらどうするんだよ?」
「ごめんね。ごめんね。だってもう、これしないと辛いの。生きていけないの」
さめざめと泣く母さんを俺はどうすることができただろう?
「生きていけるよ。覚せい剤なんかやめてくれよ!」
俺がそう言うと母さんは泣くのをやめて俺の胸を叩いた。
「どうやって? どうやって生きたらいいの? おばあちゃんは死んじゃったし、あの人はきっと帰ってこないし、あんたたちふたり抱えて、どうやったら生きていけるの?」
「だからって、クスリに逃げんなよ! 俺たちのことも……」
考えてくれよ。
そう言いたかったのに、言葉に詰まった。母親なら当たり前にできそうなことが、母さんにはもうできないんだ。俺と樹里杏は、もう母さんにとっては抱えてしまった重荷でしかないんだ。
「母さん、俺たちが邪魔なら、施設に行ったっていいんだ」
俺がそう言うと母さんは鼻をふんと鳴らした。
「そうね。樹里杏は施設で食べたごはんがおいしかったって言ってた。おやつも出たんだよって。私が悪いのは分かってるけど、責められてるみたいで、すごく腹が立って、だからよけいに……。でも、あんたたちを施設にはもうやれないから」
「それってどういうことだよ?」
「ただいま。お母さん、お兄ちゃんどうしたの?」
樹里杏が帰ったことに俺も母さんも気がついていなかった。俺はとっさにそのへんにあったタオルを注射器にさりげなくかけた。
「どうもしないよ。おかえり。樹里杏」
母さんは樹里杏に何も言わず、自分の部屋に戻って行った。その方がいいと思った。ラリってる母親に本音を言われるのは俺だけで十分だ。せめて樹里杏には傷ついて欲しくなかった。
母さんが俺たちを施設にやりたくない理由は意外とすぐに分かった。母さんは働かなくなって、金をどうしているのか分からなかったけど、竹本のババアが時々うちにくるようになって、母さんが生活保護を受けていることが分かった。地域の民生委員だというその竹本のババアは、変な緑色のぶかぶかのワンピースを着て、太った体を揺らしながらエレベーターのない市営住宅の階段を息を切らしながらやってくる。ババアが来る日はさすがに母さんもクスリをやらないからホッとする反面、竹本のババアの憐れみいっぱいの目が俺と樹里杏に向けられるのはたまらなかった。自分の存在が恥ずかしいもののように思えていたたまれなかった。
「子どもたちのお世話がつらくなったら、相談してね。私と話すのが嫌なら、ここに電話したらいいから」
「つらくなんてないです」
つっけんどんに母さんがそう言ったのに俺はイライラした。お世話なんてほとんどしてないんだから、つらくなんかないのは本当のことだろう。母さんは竹本のババアにうちに来て欲しくないのをありありと顔に出していた。だから、本当に何か起きた時、この竹本のババアは頼れないと本能的に感じた。「つらくない」という母さんの言葉の裏側を竹本のババアは見破るつもりもないのだ。
母さんにとって、竹本のババアの訪問は金をもらうために必要な儀式。竹本のババアの方も本気で俺たちの生活に口出しするつもりはなかった。
きっとこれだけが、俺たちにとってのいわゆる社会との繋がりだったに違いないのに、その唯一の繋がりは、まったく機能していなかった。
母さんは日に日に酷くなった。家にいるだけなのに、どうしてそんなにストレスが溜まるのか、子どもの俺には全然分からない。けれど、生活費としてもらっているはずの生活保護のほとんどは薬物に消えた。
入金があったばかりのはずの空になった通帳と現金が入っていたはずの封筒を居間の床で見かけた時の絶望する小学生なんて、きっとこの世に俺だけだろうと思った。
「母さん、お金、どうしたの? お金ないとごはん食べられないよ」
「お金はねえ、もうなくなちゃった。おかしいよねえ。すぐなくなっちゃう」
台所の吊り戸棚に隠してあるクスリを全部捨てようとしたこともあったけど、これを捨てても、どうせまた買ってくるに違いないと思うと捨てられなかった。
捨てればまた、金がなくなるだけだ。
万引きをするようになったのはそのころからで、そうしているうちに、悪いやつらとつるむようになるのは自然なことだった。
中学生になるころには、仲間と恐喝や車上荒らしをするようになった。
そうなってから、母さんはどうしたと思う?
「慈愛杏登、お金もってない?」
「持ってねーよ」
「そんなの嘘。樹里杏が言ってたよ、お兄ちゃんお金持ってるって。ねえ、少しでいいから貸しておくれよ。ね、ちゃんと返すから」
「どうせクスリ買う金が欲しいだけだろ? やらねーよ」
「そんなケチくさいこと言わないで貸してよ」
「嫌だよ」
母さんは俺が何をしているのか、絶対に知っていた。それなのにそれを諫めずに俺に金をせびるようになったんだ。おまけに俺が金を持っていると知ると、俺が風呂に入っている時や寝ている時に、俺の金を探すようになった。
家の中に泥棒がいるってどんな気持ちか分かるか? 毎日ひとつも心が安まらないんだ。おまけにそれが、ヤク中の母親だからタチが悪い。母さんにとって一番大事なのは俺でも樹里杏でも母さん自身でもなく。クスリだった。どれだけ知恵を絞って隠しても金を見つけようとする。見つかるまで金を探し続ける。クスリのために。
何度も母さんを通報しようと思った。でも、樹里杏がそれを止めた。
「お母さんが、いなくなったらお兄ちゃんとも離れなきゃいけなくなるかもしれない。そんなの嫌だ」
「この家にいるより施設に行った方が安全なのにか?」
「お兄ちゃんと離れるのは嫌!」
樹里杏とふたりだけで暮らして行けたらどんなによかっただろう。母さんが、まともになることはもう望むことさえなくなっていた。そういうことを想像することすら、もう難しかった。
竹本のババアが言っていた。子どもがいる分、母さんは得をしているって。母さんが俺たちを施設にやらないのは、俺たちが施設に行けば、そのぶんもらえる金が減るからだ。俺たちの分まで全部クスリにかえるために、もう俺たちを施設にはやらないって言ったんだ。こんなどんづまりの中、さらに悪いことに、俺は車上荒らしで捕まった。ヤク中の母親に遠慮してたらこんなことになった。
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