「断罪パラドックス」 第13話
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俺が小学校に上がる直前だった。樹里杏は言葉が遅くて、ようやくママ、ばあ、俺のことをジャイ、と言えるようになったころだった。夕方、ばあちゃんはベランダで洗濯物を取り込んでいた。俺は樹里杏と部屋の中でテレビの子ども番組を見ていたと思う。正直つまらなかったけれど、樹里杏が喜ぶからつきあって見ていた番組だった。ベランダで、ドンと何か重いものが落ちる音がした。俺はハッとして音がする方に向かった。ベランダの床に倒れているばあちゃんを見つけた。
ばあちゃんは苦しそうに体を縮めていた。
「ばあちゃん! どうしたの? どっかいたいの?」
ばあちゃんは、息も絶え絶えだった。
「慈愛杏登、大丈夫、ちょっと、お腹が痛いだけさ」
「救急車呼ぶよ」
「いいんだ。大丈夫だよ」
ばあちゃんはその時にはもう末期の胃がんだった。病院に行く金がなくて、何もせずにいたせいで取り返しのつかないことになっていた。ばあちゃんの具合はあっという間に悪くなって、ベランダで倒れた日からたったの三ヶ月くらいで死んでしまった。たったひとつだけよかったことは、冬の寒い日に、こたつでうとうとしながら死んだということだけだろう。
ばあちゃんが死んだから、母さんはそれまでばあちゃんに丸投げしていた俺たちの面倒を見なければいけなくなった。ばあちゃんが死んで、すぐくらいは母さんも人が変わったように家事をして、俺たちの面倒を見ていた。一生懸命だった。けれど、そんなことは長続きしなかった。段々と部屋中にほこりが溜まるようになって、ゴミの日にゴミを出せなくなって、台所の近くから悪臭が漂うようになって、俺たちを毎日風呂に入れていたのが二日にいっぺんになり三日にいっぺんになり、気づいたら一週間くらい入れてもらえなくなった。
母さんは仕事に行く時に俺たちを誰かに預けたりしてくれなかったから、樹里杏はよく泣いた。樹里杏の泣き声を聞くと俺は不安になったし、ムカムカと気持ちが悪くなる。だから、樹里杏が泣くたびにひとりで家を飛び出して、道路をふらふら歩くようになっていた。それを見かけた誰かが通報したんだろう。ある日、いつものように真夜中に外をふらふら歩いていたら、目の前にパトカーが来ておまわりさんが俺に優しく話しかけてくれた。
「僕、どうしたのかなあ? こどもがひとりで歩いていい時間じゃない。お母さんか、お父さんは?」
「母さんはお仕事、お父さんはいない」
「おうちに誰かいるかな」
「妹がずっと泣いてるんだ」
おまわりさんは俺の全身をくまなく見ていた。
「おじさんが、僕のことおうちまで連れて行きたいんだけど構わないかな?」
「うん。いいよ」
おまわりさんは俺を家まで送って、樹里杏が泣き疲れて寝ているのを見てほっとしたようだった。
「僕も、もう寝るんだよ?」
そう言っておまわりさんは家を出たけれど、パトカーは母さんが帰ってくる深夜まで停まっていた。おそらく、母さんが帰ってから厳重注意か何かをしたんだろう。その日から母さんは外鍵をつけるようになって、俺は樹里杏の泣き声から逃げられなくなった。樹里杏が泣き疲れて眠るまで俺は泣き声を聞き続けた。小さいこどもの泣き声はまるで暴力のように理不尽に俺の心を削っていった。
泣き止ませようと、樹里杏は抱き上げても暴れるだけだった。樹里杏が求めているのは母さん。そして、ばあちゃんだった。未就学児の俺にできることなんかほとんどない。俺だって泣きたかった。
母さんは毎日明け方に、ほとんど泥酔状態で帰ってくる。どんなに樹里杏が大変だったかいくら話しても、うんうん頷いてすぐ寝るだけだった。それでも、三人で暮らしていたこのころは安全ではあった。本当にヤバいことになっていったのは母さんが〈あの男〉を家に連れてくるようになってからだ。
俺が十歳の時だった。突然あの男が家に来て、当たり前のように住み着いた。
あの男は母さんより年下だった。母さんが働いているスナックに来ている客にしてはやけに若いなと思った。当たり前のようにうちで寝起きし、めったなことでは食卓に上らなかった母さんの作った料理をかきこむ姿にモヤモヤした。台所に立っていた母さんにそっと尋ねた。
「母さん、あの人、誰? どうしてうちに泊まるの?」
母さんはご機嫌な様子の普段より一オクターブくらい高めのうっとりした声でこう言った。
「慈愛杏登と樹里杏のお父さんになってくれる人だよ」
母さんがそう言って男の方を見た。男はニタリと笑った。男の下の前歯が抜けた顔は子どもながらに薄気味悪かった。
男が薬の売人だということを知ったのは男がいなくなってからだった。母さんは男に薬を覚えさせられた。アルコールに溺れていた母さんが薬に溺れるのはたぶん簡単だったろう。俺はまだガキだったから、なんだかおかしいと思いつつもなんでおかしくなっているのか分からなかった。
ようやく、何が起きているかが分かったのはうちの団地にパトカーが数台並んだ時だった。売人の男と母さんは手錠をかけられてパトカーの後部座席に詰め込まれていた。
運の悪いことに小学校の下校の時間と重なっていて、俺と樹里杏はその一部始終を見ていた。その場にいた学校の友だちも団地の住人も全員が母さんたちの手錠がかかっている姿を見ていた。悲しみよりも先に恥ずかしいという気持ちに気づいて自分で驚いてしまった。
低学年の樹里杏にも、母さんが何か悪いことをして警察に捕まったことが分かった。不安になったのだろう。樹里杏は外鍵を付けられていたころと同じくらい大きな声で泣いた。走り出そうとするパトカーを俺は追いかけたけど、近所の人に止められた。
警察なのか近所の人なのか分からないけれど、誰かが連絡してくれて、その日のうちに児童相談所の人が来た。
施設に行くことになった。
正直ホッとした。
樹里杏とふたりきりでなんて生きていけないと思って不安だったから。樹里杏は母さんが帰ってくるかもしれないから、行きたくないと言ったけど、帰ってこないことを何度も説明したら、そのうち諦めた。
樹里杏はあんなにごねていたけど、俺よりも施設になじむのが早かった。三食決まった時間に食べる温かな食事、清潔な布団。人が沢山いる施設ではさみしいと思う暇がなかったのだろう。
施設に行くことになって、ホッとしたはずだったのに、いざ施設にいると俺は落ち着かなかった。安全と安心と規則正しい生活はばあちゃんが死んでから縁がなかった。
それでも、このまま施設にいられたら、薬物依存の母さんの嘘とごまかしに振り回される地獄のような生活ははじまらなっただろうし、俺が一条の奴隷になることもなかった。
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