「断罪パラドックス」 第15話
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五十嵐先生に出会えたことは俺の人生の中の数少ない幸運だった。
現行犯で捕まった時、絶対に少年院か、よくて鑑別所に行くことになると思った。でもその予想は大きくはずれた。
俺たちの車上荒らしのメンバーの中に、親が金持ちで、その親に色んなコネのあるやつがいて、そいつの親がありとあらゆることをしてくれたお陰で俺もついでに塀の中を免れた。樹里杏のためにも塀の中には行きたくなかったけど、正直、親がなんとかしてくれるような家に生まれたくせに車上荒らしなんかをやるそいつにめちゃくちゃ腹が立った。
その時は分からなかったけど、何に腹が立っていたのかが今なら分かる。そいつが俺にはないものを持っていたからだ。
選択肢ってやつだよ。
俺は金のために車上荒らしをするしかなかったんだ。そいつは車上荒らしなんかしなくても家に金があった。まあその選択肢のあるやつのおかげで、塀の中には行かずにすんだけど、保護観察がついた。
保護司の渡辺のじいさんは、民生委員の竹本のババアよりは、俺を見張ろうとしているだけまだましだった。その渡辺のじいさんが俺を連れて行ったのが地域の就学支援サポートの会とかで、そこにボランティアで来ていたのが親の介護で、教員を休職していた五十嵐先生だった。
勉強なんて、まともにやったことがなかった。小学校ではあらゆる教師に名前のせいで馬鹿にされ、母さんのせいで関わりたくないと思われていた。「先生」と呼ばれる人とまともに話したのは五十嵐先生が初めてだった。
「三国くん、これやってみましょうか」
「やだよ。どうせちんぷんかんぷんだよ」
「そう? みんな最初からちんぷんかんぷんになるわけじゃあないの。私は三国くんがどこからちんぷんかんぷんになったか知りたい。そこからやり直せばいいんだから」
「やり直したって、できないもんはできないよ」
「まあだまされたと思って、やってみて? どうせ、毎日ここに来るように渡辺さんに言われているんでしょう? 何もやらないのは暇よね?」
「ふん」
俺は五十嵐先生からプリントをひったくって就学支援サポート「ひまわり教室」の机の一つに座って問題を解きはじめた。
この時もし、小学生のドリルとかを渡されていたらやらなかったと思う。五十嵐先生は自分の手作りのプリントをここに来ている子どもに配っていた。俺みたいなどうしょうもないガキにもプライドとか、心に柔らかいとこや、触られたくないとこがあることを五十嵐先生は知っていたんだと思う。
後から分かったけど、俺が勉強に躓いたのは小三からだった。俺は渡辺のじいさんに樹里杏も「ひまわり教室」に連れてきたいと言った。
「おお、そうか」
短くそう言った、いつも仏頂面の渡辺のじいさんが少しだけ笑ったのを見たのはそれが初めてだった。
それから、俺は放課後と土曜日に樹里杏を連れて「ひまわり教室」に通った。樹里杏も勉強は遅れていたから最初は嫌がっていたけれど、ほんの数分で五十嵐先生のことが好きになったみたいで、分からないことをどんどん五十嵐先生に聞くようになった。
俺も樹里杏も五十嵐先生に理想の母親像を求めていたのかもしれない。こんな「お母さん」だったら……。そう思うことは罪なのだろうか? 母親がいるだけましだと思わなければいけないのだろうか? 俺たちがこういう楽しみを見つけるのを母さんは嫌ったから、ずいぶん用心深くやったつもりだった。
でも、母さんは俺たちから楽しそうな匂いがするとすぐにかぎつけてしまう。樹里杏が「ひまわり教室」で借りていた九九のカードを見つけて留めてあった輪っかを開いてばらばらに床にまいた。樹里杏が泣きながらカードを拾い集めると母さんは鼻で笑った。
「九九なんか今から覚えてどーすんの? 勉強なんか、なーんの役にも立たないんだから」
「母さんの役に立たなかったからって、樹里杏の役に立たないって決めつけることないだろ?」
「役に立つわけない。私の子なんだから。慈愛杏登、あんたまさか高校行こうとか馬鹿なこと考えてないよね。高校なんか行かせるお金なんかないんだからね。まったく、あんたがドジ踏まなきゃ、こんなに竹本のババアが来ることもなかったし、渡辺のじいさんみたいなのに関わらなくて良かったのに」
母さんにとって、竹本のババアよりは渡辺のじいさんの存在の方が怖いみたいだ。渡辺のじいさんは長年この地域で保護司をしている。おそらく見てもいないのにうちの事情を詳しく想像できているのが渡辺のじいさんだと思う。母さんが今も薬物中毒だということをたぶん渡辺のじいさんは気づいていると思う。俺がどうして車上荒らしをやったかも、俺が表向きに言ったことなんて信じていないと思う。
「金が欲しかったから」
欲しいなんてもんじゃない。生きるために金が必要だったんだ。そのことに渡辺のじいさんは気づいている。渡辺のじいさんは明らかに虐待をしている親にはものすごく厳しくて、いつだったか、売春で捕まった女の親が性的虐待をしているのを見つけた時とか、万引きの常習で捕まった俺の一個下の男があざだらけになった時とかも、すぐに通報して警察沙汰にした。渡辺のじいさんは子どもにとって有害でしかない親もいるってことをよく知っている。学校のどの先生も親の悪口を言うと悪いのは子どもだと決めつけてくるような、こんな田舎じゃあ、かなりレアなじいさんだ。その渡辺のじいさんも、母さんのことに関しては決めかねている風だった。
放置されているなら、自分が構ってやればいいと思っていたのかもしれない。
五十嵐先生や渡辺のじいさんや「ひまわり教室」の職員の人たちやボランティアの人たち。そういう大人の人と関われば関わるほど、母さんの機嫌が悪くなることを樹里杏もとうとう気づいてしまった。
ある日、ひまわり教室からの帰り道、樹里杏は立ち止まった。
「お母さんは私たちに誰かが優しくするのも許せないのかな。だったらどうして……」
「そうだな。どうして、俺たちに優しくできないんだろうな」
母さんにとっての俺たちは、いらないのに、捨てることもできない、押し入れにしまいこんである、もうとっくにサイズなんか合わなくなってる母さんの昔の服みたいなものだ。 流行遅れの服の方が存在を忘れられている分幸せだと思う。俺たちはひまわり教室に行っていることを母さんに隠すことにした。
渡辺のじいさんは相変わらず俺たち一家の様子を見ているかんじだったけど、五十嵐先生はそれまで、首を突っ込まなかったのに、俺が受験をしないと言ったら、目を見開いて驚いた。
「どうして? 三国くん、とてもがんばったじゃない。小学校から今までの勉強、こんなに短期間でできるようになったのはすごいことよ? この成績なら桜山高校にだっていける。高校には行った方が……」
嬉しかった。「先生」と呼ばれる人に褒められて認められて。でもそれだけで十分だとも思った。
「先生、うち、金ないからさ」
「事情は渡辺さんから少しは聞いているけど、授業料は免除だし、奨学金だってもらえると思うんだけどな」
「うん。でも働かないと……」
俺が後ずさりするような返事をしていると先生は核心をついてきた。
「三国くんは本当に働きたいの?」
「俺は……」
俺の気持ちを聞かれるとは思っていなかった。
「三国くん、勉強だって、ここに来るまで、あまりしなかっただけで本当は好きでしょう? ねえ、本当に働きたい?」
「俺は……」
俺は気づけば涙が止まらなくなっていた。
五十嵐先生はそんな俺を慰めるように見つめていた。
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