火遊びウサギは笑わない 2
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今日も新入社員が何を考えているのか分からないと、取引先のオヤジがグチグチ愚痴をこぼしていた。オフィスの空気はエアコンの効きすぎで少し冷たく、窓の外では曇り空が重たく広がっている。
オヤジの声は低く響き、時折書類をパラパラめくる音が会議室に響いた。こちらからの課題そっちのけで、企業側の不満に時間が割かれるいつものパターンだ。
どの時代でも、親子ほど歳が離れると上の世代は自分の若かった頃を定規にして若い子を測りたがる。
しかも、自分のことはちょっと盛ってポジティブに美化してるもんだから、理解しようとするより、若手を嗜めてやろうって心理が透けて見える。
オヤジの眉間のシワがその苛立ちを物語っていて、私はただ頷きながら、内心で「またこの話か」とため息をついていた。時計の針は16時を少し過ぎ、窓の外の曇天がなんだか私の気分をそのまま映してるみたいだった。
「今からなら十八時には会社に着く」
クライアントとの会話を淡々と切り上げ、話を長引かせないよう無難な相槌で締めた。社屋を出ると、ビルの谷間に吹く風がスーツの裾を揺らし、ほのかにアスファルトの匂いが鼻をつく。
スマホを取り出して確認すると、着信履歴の数が異様に多い。画面に並ぶ数字の羅列に、喉元がキリッと締め付けられた。
先週、父が転院した病院からの連絡かもしれない。脳梗塞で倒れて以来、父の病状はいつ急変してもおかしくない。
母を支えるために東京から地元に戻った私にとって、知らない番号からの着信はいつも心臓を締め上げる。頭皮が針で刺されるような痛みが走り、指先が冷たくなる。
いや、もしかしたら詐欺電話かもしれない。冷静になれ、と自分に言い聞かせながら急いで歩道を進んだ。
路肩に滑り込むバスのエンジン音が低く唸り、排気ガスの匂いが漂う。小走りで乗り込み、適当な窓際の座席に腰を下ろし、またスマホがブブッと震えた。
窓の外では、通り過ぎる街路樹が曇り空の下でくすんだ緑に見える。(やっぱり、病院からか?) 息が詰まり、口がカラカラに乾く。
父の顔が脳裏に浮かび、母の心許ない声が耳に蘇る。三年前、父が倒れて以来、電話の着信音は私の全身を針で刺すような痛みに変えた。
バスが駅に着いたらかけ直そう。そう思った瞬間、私の動きをどこかで見ているかのように、スマホがまた震えた。
意を決して画面を見ると、知らない番号。深呼吸して恐る恐る通話ボタンを押した。
「里見です」
声が少し上ずった。スマホの向こうから、キャッチーな流行りの曲がチラッと聞こえてきて、頭が混乱した。
「瑠璃ちゃん? 私! ねぇ、今から会えない?」
明るくて、どこか軽薄な声。私って誰だよ。
「恐れ入りますが、どちら様でしょう」
敬語で防備し頭の中で記憶を必死に掘り起こす。
「私だよ、安優香。城ケ丘安優香。瑠璃ちゃん、久しぶり! 元気だった? もう、聞いてよ〜」
その無節操な口調と馴れ馴れしさに、思わず眉をひそめた。幼なじみか親友に電話してるみたいなテンション。
一ヶ月前の海の合コンでしか会ってない、ほぼ初対面の女がなんでこんなノリで話しかけてくるんだ?
安優香の声は、バスのエンジン音を突き抜けて耳にまとわりつく。彼女のあのピンクのネイルと、合コンでのいたずらっぽい笑顔が脳裏にチラつく。
心のどこかで、(うわ、またコイツか)と小さな苛立ちが芽生えた。
「安優香さんは、海の合コンの方ですか?」
わざと確認するように聞いた。私の声は毒を持ち、距離を置くつもりだった。
「うん、そうだよ。もしかして瑠璃ちゃんはお仕事してる人だった?」
平日の16時にこんな電話をかけてくるってことは、コイツ、水商売か無職か? 普通の社会人なら、こんな時間はまだ勤務中だって分かるはずだ。
認識のズレにじわじわと腹が立ってくる。窓の外、バスが信号で止まり、歩道を歩くスーツ姿の人々が目に入る。自分もその一人なのに、なぜか安優香の軽い声に取り残された気分になった。
「はい、これから新幹線で帰社します」
淡々と答えたけど、内心ではイライラが募っている。
「瑠璃ちゃん、すごい! 新幹線に乗るお仕事なの? バリキャリなん?」
新幹線に乗るってだけで、なんでそんな大げさに反応されなきゃいけないんだ。
安優香の声は女子高生のように弾んでいる。でもその裏に何かしらの計算を感じて、背筋がゾクッとした。気持ち悪い……。
彼女の言葉は私の努力や日常をちゃかすような響きがあった。
「すみませんが、これから乗車しますので電話を切りますね」
そう言いかけたとき、スピーカー越しに呼吸の音が途切れた気がした。
「待って! ちょっと待って!」
声がさっきまでとまるで違っていた。
「私、妊娠しちゃった。どうしよう」
その一言に頭が真っ白になった。バスの窓ガラスに映る自分の顔が呆然としているのが見えた。
安優香の声はさっきまでの軽薄さとは裏腹に、どこか切羽詰まった響きがあった。でも、なぜかその言葉が本当かどうか、すぐには信じられなかった。彼女のあの無神経な笑顔が、頭の中でチラチラと揺れる。
いったい何? 何がどうしよう、って?
心臓がまた高く打ち、苛立ちと混乱が腹の底から、
(私は関係ございません)
スマホを叩き切ろうかと思った。
