火遊びウサギは笑わない 5
リビングの空気はひんやりと静まり返り、窓の外では遠くの街灯がポツンと夜を照らしている。風呂上がりの生乾きの髪から水滴が首筋を伝い、冷たさが肌にのっぺり這った。
ドライヤーを手に取る気にもなれず、ソファに沈み込むように座ってスマホを開いた。画面の青白い光が顔を照らし、ブックマークしたSNSが目に入る。
そこには、幼女が花畑に屈んで無邪気に笑う写真。横には母親らしき背中が優しく寄り添い、ハッシュタグに『#ファミリー #ラブ』とキラキラした文字が並んでいる。
見ているだけでこめかみに鈍痛が走り、指をスクロールするたびに幸せが光線を放ち、目が痛い。
早稲田を卒業して、商社でのキラキラしたキャリアを歩んでいたはずの私は、父の病気で退職したと表向きはそう言ってる。
けれど本当は、終わらない業務のプレッシャーや、互いを監視し合うギスギスした人間関係に心が擦り切れて、逃げるように辞めた。
父の介護は言い訳だったのかもしれない。地元に戻ってからも、本格的な介護は母に丸投げだ。
学生時代に取った中小企業診断士の資格を活かし、派遣を転々としている。周囲には「在宅ワークや副業で食べてる」と曖昧に濁している。士業というだけで、人はデキる女と神輿を担ぐ。それが堪らなく自己嫌悪を増幅させる。
自分の人生を誤魔化してるみたいで、鏡を見るたびに目が合わない。
スマホを握り、SNSの裏アカを開く。
そこには、同級生の結婚報告に対する私のちっぽけな愚痴が並んでいる。
『結婚しましたハガキを出してるヒマがあったら内祝い送れ』なんて、毒を吐いてはみたものの、画面を閉じると虚しさに包まれる。
かつて付き合っていた男のSNSを、つい定期的に覗いてしまう。彼は今、既婚で子持ち。
幸せそうな家族写真に、笑顔の妻と子どもが写ってる。私の指がスクロールを止められず、心の奥で「なんで私じゃないんだ」小さな声が呟く。情けない自分に吐き気がする。
「まだちゃんとやり直せる」
元カレ、翔太のことを思い出すたび、前進しない自分が鉛みたいに重くなる。
東京の商社で働いてた頃、翔太は同期で、いつも遅くまで残業する私のデスクにコーヒーを置いてくれた。
オフィスの窓に映る夜のビル群、書類の山とモニターの光の中で、彼の「瑠璃、頑張りすぎだよ」って笑顔に頬が緩んだ。
付き合って一年、週末は彼の狭いワンルームで一緒に朝を迎えるのが至福だった。
でも、ある夜。
彼のスマホが光って、女の名前が目に入った。
「明日、いつものバーで?」ってメッセージ。心臓が凍った。
問い詰めると、翔太は平然と「ただの後輩」と笑った。だが、その目は嘘をついてた。
後日、会社の飲み会でその女が彼の隣で笑ってるのを見た。彼女の手が翔太の腕に触れ、彼がそれを振り払わないのを見て目が乾いていくのを感じた。
「瑠璃さんも翔太さんと同じ商社なんですか?
すごい!友達になりません?」
女の距離感がなくて、私は首を振った。
「私、邪魔だった?」って後から聞いたら、翔太が「瑠璃は重いんだよ。もっと気楽に楽しめよ」と吐き捨てた。
重い? なんでよ、慎重に行動しただけなのに。
その後、翔太は彼女とすぐ婚約。
SNSで見た結婚式の写真、見つめ合う二人の笑顔が、私の全身を滅多刺しにした。
裏切られた痛みと完璧な自分でいたかった理想が、粉々に砕けた。
東京を逃げるように辞めたのは、仕事のプレッシャーだけじゃない。翔太の裏切りが私の自信を根こそぎ奪ったからだ。
安優香みたいな女なら、こんな傷つかずに済んだのか? 男から男へ渡り歩く、刹那的な生き方。羨ましいわけじゃない。でも、彼女の尻軽さが私のこの重さを嘲笑ってる気がして胸が焼ける。
スマホの画面に映る翔太の家族写真、子どもの笑顔が嫌味に映る。私の指は、削除ボタンを押せずに揺れた。
「でも大丈夫」
自分に言い聞かせるけど、大丈夫って何に?
婚活も転職も対外的にアカウントを作っただけで、何も進んでない。アプリのアイコンがスマホの画面に並んでるだけなのに、それだけで何かやってる気になってる。笑えるくらい、ちっぽけだ。
それに比べて、安優香は……。
彼女の人生は私の真逆だ。たぶん高卒か短大卒、水商売かフリーターを繰り返してきたんだろう。
ピンクのネイルと無邪気な笑顔で、男受けすることだけでなんとか生き延びてきたタイプ。
貯金ゼロ、シェアハウスか男の家を転々として、恋愛に依存して生きてる。なぜか憎めない女。
ファミレスでの俯いた顔、どこか悲壮感が漂う姿が頭から離れない。
彼女の「妊娠しちゃったんだ、どうしよう」って言葉、本気なのか演技なのか、さっぱり読めない。
軽薄な声の裏に、深い闇や後悔が隠れてるのかもしれない。大輝に話してないって言うけど、過去に流産を経験してるってことも、なんかありそうでゾッとする。
安優香を心の中でボロクソに叩きながら、彼女の人生を想像する。男から男へ乗り換え可能な、短絡的な生き方。
私の指はスマホを握ったまま固まり、画面が暗くなる。彼女を批判する自分と、どこか彼女に似てる自分。どっちも惨めで、どっちも逃げている。
ソファに体を預け、目を閉じると、知らないうちに眠りに落ちていた。夢の中でも、安優香のあの無遠慮な笑顔がチラチラと登場した。
