【短編小説】〈隻翼の竜の書〉少年たちの恙ない一日 前編
少年たちの恙ない一日
春、世はなべて事もなし
前編
春の陽が、触れるもの全てを優しく愛撫するかのようにうらうらと照り、それに和するように、風がそよそよとやわらかく吹き、世はなべて事もなしと、大地がうとうととまどろむ。そんな日のことだった。
魔法戦士学校の学舎の一室に、十二歳程の少年たちが十数名、集まっていた。皆、興味津々の様子で、教壇の机の上の大きな瓶に目を向けている。半透明の硝子瓶には、濃褐色の、どろりと濃い液体が満たされており、室内の明かりを、鈍く吸い取っていた。
教官が瓶を手に取り、説明する。
「これは、特殊な染料だ。髪の色を変えて変装するのに用いる。もちろん、目くらましの魔法で変えれば、その方が簡単だし、便利だが、魔法を使えぬ場合もある。そうした場合に、使うのだ」
このとき、魔法戦士団領を訪れていたシェイスも、傍らのフォドルスとともに、教官の話に熱心に耳を傾けていた。
魔法戦士学校では、魔法と剣術のみならず、魔法戦士の任務に必要とされる様々な事柄を教えている。今回は、諜報活動等の際に変装する術を学ぶ講義が行われていた。
教官は、続けた。
「早速、使ってみよう。コップに、銘々、髪の長さと量に応じて分けるから、順に並びなさい」
教官が瓶を軽く揺すると、ねっとりと、あたかも何か、意志を持った生き物が蠢くかのように、液体が揺れた。
少年たちは、分けられた液体を、各々髪にまんべんなく塗りたくり、そのまま十分程待った。それから、各自、水場へ行き、洗い流す。布で水をよく拭き取り、それがすんだ者から、教室へと戻ってくる。
「お、フォドルス、なかなか綺麗に染まってるな」
ウェルスが言った。フォドルスの緩く巻いた黒髪は、艶やかな褐色に染まっていた。ウェルスの濃い灰色の髪は、やや赤みがかった、くすんだ茶色になっていた。
皆、間をおかず、次々と戻った。が、最後、シェイスが、なかなか戻らなかった。
彼は、髪を長く伸ばしている。それで、時間がかかっているのだろうか。それにしても、遅い。
皆が、あるいは心配になり、あるいは痺れを切らした頃。それは、現れたのだった。
教室に、瘴気を放つ濁った沼の水面のような色が、侵入してきた。緑と黒と茶が毒々しい斑模様になった、何か長く垂れる物。
一瞬、教室の呼吸が止まった。
シェイスの浮かない呟き声が、その固まった空気の中に沈み込んだ。
「これは、明らかに失敗じゃないか? これでは、化物か何かみたいで、かえって目立つぞ」
途端、教室の空気が弾けた。笑声、そして悲鳴。
「なんだ、その色は?」
「どぶ色だあ!」
「なんてことだ! あの綺麗な髪が……」
シェイスの髪。幻界の銀ミスリルをごくごく細い糸に紡いだか、あるいは降る星影を縒りなしたかと思われる、えもいわれぬほど美しい、青みを帯びた銀の髪。それが、今、おそろしく無残な色に変色していた。
青みが、うまく染まるのを妨げ、その上、銀の光沢が染料をはじくのだ。
たまりかね、教官までもが、噴き出すのを必死に堪えていた。
シェイスは、憮然と、顔をしかめた。しかし、最終的、決定的に彼の怒りに点火したのは、そうした笑いではなかった。
「うわああ、魔法戦士団きっての美少女が、我らが姫君が、へどろを被ってる……!」
フォドルスの、悲鳴。
「誰が美少女、姫君だって?」
シェイスにとっては、へどろよりも、そちらの方が、問題なのだった。
「いや、だって、お前、女の子よりも可愛いじゃないか。その、せっかくの可愛い容姿が……」
フォドルスの弁明は、火に油だった。
「可愛いとはなんだ!」
シェイスの手が、フォドルスの胸倉へと伸びた。フォドルスは、その手を流す。そこへさらに、シェイスはもう一方の拳を叩き込まんとした。フォドルスも、応じる。たちまち、激しい取っ組み合いが始まった。
「こら、やめなさい!」
教官の声は、二人の耳には届かなかった。
「お前のせいだぞ」
「何を言う。お前が俺に、おかしなことを言ったのが悪いんだ」
二人の姿は、川辺の洗濯場にあった。シェイスの髪は、もとの美しい銀青色に戻っている。その様子に、フォドルスは、内心大いに安堵していたが、今度は、余計なことを言うのは控えた。
結局、二人は、周囲の少年たちによって引き離され、平静を取り戻した。講義の最中、喧嘩をした罰として、教官は二人に、洗濯の労働を科した。二人の前には、魔法戦士たちの汗をたっぷりと吸い込み、汚れた洗濯物が山と積み上がっていた。
フォドルスが、始める前からうんざりした様子でぼやいた。
「こんなにあるんじゃ、一日かかっても終わらないんじゃないか?」
だいたい、洗濯などめったに自分ではしないから、手早く片付けることなどとてもできない。
シェイスはしかし、不敵に笑んだ。
「任せろ」
言って、大きなたらいに水を張り、粉末状の石鹸を適当に入れ、洗濯物を無造作に放り込んでいく。それから、古代竜語を唱えつつ、印を結ぶ。すると、たらいの水が、洗濯物とともに、ぐるぐると回転し始めた。
「おお! さすが」
フォドルスの歓声が上がった。
この工程を繰り返し、さらには、もう一つのたらいを使って、脱水まで魔法で完了。後は、干して乾かせばよい。
てきぱきと、シェイスは、綱に洗濯物をかけていった。
フォドルスは、何やら思案していたが、矢庭に、両掌を打ち付けた。
「よし、俺も一丁、やってやるぜ。一息に、乾燥だ!」
言うなり、呪印魔法を行使する。シェイスが、はっと目を見開いた。
「待て! まだとめていな――」
声は、風にかき消された。ごう、と生じた風は、洗濯物を、容赦なく綱から引き剥がし、吹きさらっていった。そして、二人を嘲うように、洗濯物は、次々と、地面に落下していく。
「ああ、せっかく洗ったのに! なんでとめてないんだ」
フォドルスが悲鳴じみた声で言った。シェイスが鋭く切り返す。
「洗ったのは俺だろ。全部干したら、魔法でまとめてとめるつもりだったのに、まったく、お前は……!」
「先に言えよ!」
取っ組み合いの第二回戦が始まった。
続く
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