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パレスチナ問題

 問題の出発点に1947年11月29日の国連によるパレスチナ分割決議(United Nations Partion Plan for Palestine)がある。その背景には、第二次大戦でヨーロッパに生まれたユダヤ人難民の問題、第二次大戦前からのパレスチナでのアラブ人とユダヤ人入植者との対立問題、イギリスがパレスチナの委任託統治を放棄したいと考えていた問題、などがあった。この決議に反対するアラブ諸国と、決議を通そうとするユダヤ人サイドとの激しい票数争いの末に、国連総会で、この決議が可決された(投票数57 賛成33 反対13 棄権10 欠席1)。
 1918年国際連盟による委任統治をイギリスが受ける時点での人口調査では、パレスチナにアラブ人70万人にたいし、ユダヤ人56000人が居住していた。この時点での比率はアラブ人93%、ユダヤ人7%である。
 1947年時点でパレスチナ地域のユダヤ人とアラブ人の人口比率は33%と67%。しかし決議案は領土を57%と43%に分割するというもので、ユダヤ人に有利な案であった。明らかにユダヤ人の比率が増えているが、これはユダヤ人の入植の急増を反映している。
 国連決議後、パレスチナは内戦状態になったとされるが、イギリスは撤退を急ぎ1948年5月14日に軍を撤退。同日、現地のイスラエル人たちは、イスラエル建国を宣言する。この最初の内戦状態(第一次中東戦争)は1949年1月まで続いた。このとき、武力により強制的に居住地を追われたアラブ人の数は70万を超えたされ、虐殺行為も報告されている。このことは、ナクバNakba:大災難、大災禍と呼ばれている。
   イギリスの中東地域から撤退は続く。1952年7月23日のエジプト革命により腐敗した王政を打倒してナセル(Gambel Abdel Nasser 1918-1970)が政権を樹立。1956年6月、イギリスはエジプトから軍を撤退させる。7月26日、ナセル大統領は、スエズ運河の国有化を宣言する。これには、アスワンハイダムの建設費問題があったとされる。イギリスは反発し、フランス、イスラエルを誘って、エジプトへの軍事進攻を企てる。まず10月29日、イスラエルがシナイ半島に侵攻して、占領。その後、10月31日、イギリスとフランスが、スエズ運河に軍を展開する。しかし、このイギリス、フランス、イスラエルの動きは、国際社会の強い反発を招き、11月6日、撤退を余儀なくされる。これが第二次中東戦争であるが、このときガザはエジプトからイスラエルの支配地域に入った。
 1967年6月5日。イスラエルとエジプト、シリア、ヨルダンとの間で第三次中東戦争が勃発するが、初戦でイスラエルがこれら三國の空軍を壊滅させるなど、イスラエルの完全な勝利で終わる(6月10日)。ここでイスラエルは、シナイ半島、ゴラン高原などを占領している。このときも30万前後のアラブ人が居住地を追われた。このことはNaksa:挫折 とよばれている。 
 この第三次中東戦争の結果に不満があった、エジプト、シリアが1973年10月6日、イスラエルに奇襲攻撃をかけて第四次中東戦争が始まる。第二次、第三次と異なり、アラブ側が奇襲攻撃で一定の成果をあげている。また中東諸国が石油価格引き上げで、側面からエジプト、シリアをした。これは石油ショックと言われる事態を招いた。
 第四次では奇襲により成果を上げたものの、四度にわたる中東戦争を通じて、アラブ諸国はイスラエルの軍事力の高さを認識した。つまりアラブ諸国は、イスラエルと対立よりは共存を選択する判断になった。それを象徴する出来事が、ナセルの後のエジプト大統領、サーダート(Muhammad Anwar ai-Sadat 1918-1981)による対イスラエル政策の転換である。彼は1979年にイスラエルとの間で平和条約締結を実現し、シナイ半島を平和裏に返還させることに成功する。しかしこれはパレスチナの立場からは納得できない転換だっただけでなく、エジプト内の民衆からも反発を受けた。そしてサーダートは1981年10月6日に暗殺される。しかしエジプトの対イスラエル融和政策は、次のムバラク政権にも引き継がれる。
 このようなアラブ諸国の政策転換に直面したパレスチナで、1987年頃から生まれたのが、インティファーダ(Intifadaアラビア語で反乱)と呼ばれる民衆蜂起である。ごく普通のパレスチナ人たちが投石などで抗議を示すようになった。それを主導したのはムスリム同胞団の軍事部門とされるハマース(Hamasイスラム抵抗運動の頭文字から アラビア語としては情熱)である。投石だけでなく自爆テロといった自己犠牲を顧みない抵抗の広がりに、イスラエルは対応に手を焼き、徹底した弾圧を繰り返すことになる。
 なおソ連の崩壊後、ロシアからイスラエルに移民する人が増加した。こうした人たちの入植活動が、パレスチナに住むアラブ人との対立を増やした。これに対する厳しい取り締まりが、反乱を招く悪循環が続いたあと、1993年9月13日にオスロ合意Oslo Accordsが成立する。これは互いに相手を認めなかった、イスラエル首相のラビン(Yizhak Rabin 1922-1995)とPLO(パレスチナ解放戦線)議長のアラファト(Yasser Arafat 1929-2004)の間の合意で、暫定自治区を5年間認めるというもの。
 しかしこの合意は薄氷のうえのものだった。イスラエルではリクード(ヘブライ語で団結)と呼ばれる、シオニスト(パレスチナでの建国を主張する人たち)の集団が、パレスチナ人との妥協に反対していた。他方パレスチナでは、アラファトを支持するのはファタハ(アラビア語で開始或いは勝利)と呼ばれる世俗的立場の集団で、腐敗から民心を離反させたとされる。ここで世俗的とは、信教の自由を認め宗教差別を禁止するなど、宗教に対する立場で厳格でないこと(=secularism )を意味するが、キリスト教側からの批判的ニュアンスを感じる。これに対してハマースなどイスラム原理主義が勢いを増すことになった。このイスラム原理主義Islamic fundamentalismという訳語も、批判的ニュアンスがあり、言葉として中立的でない。意味はイスラム教の教えに従った国家、社会を作る主張である。イスラム復興主義といった訳語が好ましい。
 果たして1995年11月4日には、イスラエルの首相ラビンがシオニストによって暗殺された。しかしこの時、イスラエルでは、ラビンの和平交渉路線の継続を主張するペレスが、次の首相になっている。しかしそのタイミングでハマースは1996年3月3日さらに4日と市街地で自爆テロを強行する。ぺレスはハマースとの全面戦争を宣言、アラファトもまたテロを非難している。ハマースの一般市民を狙ったテロ路線は、イスラエル国内では、リクードなど強硬派を伸ばすことになることになる。また、イスラエル側のハマースに対する徹底した不信感につながった。
 対話を拒否して、一般市民を標的にしたテロ行為で、恐怖を広げる、ハマースのこのような戦法や姿勢にも大きな問題がある。和平に向けたチャンスをハマース自身が自ら繰り返し覆しているように見える。
 パレスチナでは2006年1月の立法評議会の選挙で、ハマースが多数派を握った。2005年9月、ガザからのイスラエル撤退後、2006年1月26日国際的な監視のもとで公正に行われたパレスチナの選挙で、132の議席中。ハマースが76(57.6%)を獲得、ファタハは43(32.6%)にとどまった。そしてこの結果を受けて、ハマースのハニーヤ(Ismail Haniyah 1964-2024)が内閣を組閣する。
 しかし、ハマースをテロ組織と考えるイスラエルとアメリカ政府は、選挙結果によるハマース単独政権を認めず、パレスチナ自治政府への支援を中止・凍結することで自治政府への圧力を強めた。なお、2006年1月の選挙でのファタハの敗因については、腐敗による民心の離反や候補者調整の不足、が指摘されている。ファタハは、アメリカやイスラエルの支援を受けて、ハマースと争うようになる。
   他方でファタハとハマースの抗争は、ヨルダン川西岸地区(ウエストバンク)ではファタハによるハマース排除、またガザではハマースによるファタハ排除に行き着く。そして、ガザをハマースが武装制圧(2007年6月11日)。これをパレスチナ自治政府のアッバス議長(Mahmud Abbas 1935-)はクーデターだと非難して、ハニーヤの首相解任を宣言(6月14日)。しかしハニーヤは自身の正統性を主張して解任に従わず、パレスチナ自治政府は、ウェストバンクに残るパレスチナ自治政府と、ガザのハマス政権とに分裂した。
 このハニーヤのハマース政権によるガザ地区の統治は、2014年にファタハとハマースが連立暫定政権を作るまで続く(2014年6月2日)。背景はハマースが、シリアのアサド政権を巡る問題でイランと対立し(ハマースは2012年頃からシリアの反体制派支持に転換)、アサド政権を支持するイランからの支援が減ったことで経済的に行き詰まり、打開策を求めたためのように思える。しかし自治政府にハマースが加わることに、イスラエルは激しく反発する。
   そしてこのタイミングで、イスラエルとハマースとの衝突が生じる。それは、意図的にも思える。6月イスラエル人少年3年の誘拐殺人事件が生ずる。パレスチナ人の逮捕者が出る中、7月今度はパレスチナ人の少年の殺害事件が生じる。双方の憎悪が高まるなか、ガザからロケット弾が撃ち込まれイスラエル側に被害が出るに至り、イスラエルは戦車をガザ周辺に集結させて、住民に退避時間を与えた上でガザに侵攻。この軍事侵攻は、エジプトなどの仲介で1ケ月後に停戦が成立する。これが2014年のガザ侵攻である。
 それ以来、7年。再び、ガザ内部の経済的苦境が伝わる中、 2021年5月10日から、ハマースはイスラエルに対し大規模なミサイル攻撃を行った。アイアンドームと呼ばれる防空システムにより大きな被害は出なかったが、イスラエルは大規模な空爆でハマースの攻撃に答えた。
 それから2年半。2021年の記憶が少し薄くなる中、2023年10月7日、ハマースはイスラエルに対して、最大規模の大規模な武装攻撃を行った。この攻撃にハニーヤがどう関与したかは不明であるが、イスラエルがこの事件の首謀者としてハマースの最高幹部ハニーヤを念頭に置いたことは間違いない。そして2023年、2014年に比して、今度の侵攻では、徹底した破壊をイスラエルは行っている。そしてガザでの戦闘は停戦期間をはさんで2025年6月現在、なお続いている。
 なお、ハニーヤの一族は、この戦争で、イスラエルの攻撃により執拗に狙われた。2024年4月10日、3人の息子が孫たち4人とともに殺害された。そして2024年7月31日にはイランの首都テヘランに滞在していたハニーヤが、ボディガードとともに、イスラエルによるミサイル攻撃で殺害された。
 しかしガザの一般市民を巻き込む戦闘は、更なる報復の連鎖を生み出すように思えてならない。元を正せば、パレスチナでアラブ人が千数百年にわたり平穏に暮らしていたところに自分たちの国を力づくで作るというシオニズム運動は、そもそも間違っていたように思えてならない。歴史において、ユダヤ人が迫害を受けたことは事実だが、そのことは、国連によるパレスチナ分割決議、イスラエル建国、イスラエル政府によるアラブ人迫害を正当化するこ とにはつながらない。イスラエルのネタニヤフ首相(Benjamin Natnyahu 1949-)は、人道に対する犯罪を犯した人間として人類史に記憶されるのではないか。 
 なおユダヤ人の中でHarediと呼ばれる厳格なユダヤ教主義に人たちは、人為的にイスラエルを建国するシオニズムそのものに反対し、アラブ人との共存を主張しているとされる。現在のイスラエルの中にも、イスラエル政府の強硬姿勢に批判的な意見が様々な温度差で存在することも理解される必要がある。


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福光 寛  中国経済思想摘記 main page: https://note.mu/hiroshifukumitsu  マガジン数は20。「マガジン」に入り「もっと見る」をクリック。mail : fukumitu アットマークseijo.ac.jp