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【熔ける前の井川意高物語】#03:フォレスタルアンチレと井川意高氏!

井川意高氏は現在、インフルエンサーとして活躍されていますが、かつては大王製紙の社長を務め、カジノで106億円もの巨額を失い、特別背任の罪で懲役4年の実刑判決を受けたことで広く知られています。

一方で、その父であり、「大王製紙の中興の祖」と称されながらも、その功績が十分に世に知られていないのが井川高雄氏です。

井川親子と共に仕事をするという貴重な経験を持つ私だからこそ、彼らとの思い出を振り返りながら、なぜあのような事件が起きたのかについて、冷静に考察してみたいと思います。


🌳井川意高氏との邂逅:目障りから信頼へ

私が井川意高氏と初めてお会いしたのは、彼が専務としてH&PC事業(エリエール)を担当していた1995年初頭の「購買政策会議」の席でした。

当時、私はアメリカ駐在から戻り、東京の外材部(輸入原料の調達を担当する部門の当時の呼称)に課長として着任したばかりでした。

井川意高氏は、井川高雄氏の後継者として、経営者の英才教育と言える育成方針の下で、レポートライン外である外材部の報告も受けており、購買政策会議のメンバーとしても積極的に原料政策へ口を出されていました。

製紙業における木材チップは「産業の米」とも言える重要な原料であり、「植林」や「チップ調達」に関する政策に御曹司は深く関与していました。

私は会議の末席に座り、意高専務や他のメンバーの発言をメモし、議事録をまとめる役割を担っていました。初めて間近で見た井川専務の言動に、非常に驚かされたのを覚えています。

インフルエンサー井川意高氏を見てお分かりのとおり、聡明さが分かる発言に若い課長の私は、年下の専務に感心していました。

ただ、私の無意識の行動が後で問題となりました。
会議の翌日、上司に呼ばれてこう注意されたのです。

井川専務井上副社長に話しかけている時、末席に座るお前が頷くのは目障りだと指摘があったぞ。」

驚きましたが、私はすぐに反論しました。「いやいや、それはないでしょう。専務は私よりも年下ですが、既に海外原料調達の要諦を熟知されていて、その発言には感心することが多く、自然に頷いてしまいます。」

しかし、上司は再度強調しました。「もう一度言うぞ。会議では頷くな。専務はお前に話しかけているわけじゃないんだから、それくらい自制ができるだろう。できなければお前、外されるぞ。」

私は「分かりました」と素直に応じました。
内心では反発心もありました。

若い課長だった私は、血気盛んで注意に委縮するどころか上司に代わって進んで井川専務へ報告に行くようになりました。当時、早稲田H&PC事業部の事務所があり、私は東京本社の八重洲から早稲田まで何度も報告に伺うようになったのです。

(ちなみに、現在の大王製紙は、飯田橋グラン・ブルームに本社を移し、コーポレート部門と紙板紙、H&PCの営業部門の事務所が一か所に集約されました。)

最初は私の会議での頷きに対して不満を示していた意高氏でしたが、何度も報告を重ねるうちに、次第に信頼関係を築けるようになったと感じていました。

🌳大王製紙の成長を支えた木材資源戦略

大王製紙が戦後(昭和の時代)、飛躍的な成長を遂げた背景には、海外から安価に木材チップを調達し、四国中央市の三島工場に生産設備を集約する戦略にありました。

この戦略によって、製品の多品種化と大量生産を同時に実現し、コスト競争力の面で比較競争優位を確立することができました。

戦前の日本の製紙業界は、渋沢栄一が設立した王子製紙が支配的な地位を築いていましたが、戦後の財閥解体により、王子製紙、十条製紙(現日本製紙)、本州製紙(現王子製紙)に分割され、寡占体制が崩れました。

この変化が、四国の小さな製紙会社であった大王製紙にも業界で戦うチャンスをもたらしました。(なお、大王製紙は戦中の1943年端午の節句に設立されています。)

一般に、製紙工場は北海道などの豊富な森林資源に近い場所に立地することが理想とされていました。

そのため、原料を地産地消で賄う場合、愛媛県四国中央市に位置する三島工場は決して競争力のある立地条件ではありませんでした。

しかし、昭和40年代の技術革新が競争条件を一変させました。

それは、木材をポテトチップスのようにスライスした木材チップを苛性ソーダで処理して繊維を取り出す化学パルプ、クラフトパルプ(KP)の登場と、木材チップの輸入というイノベーションでした。

海外から安価な木材チップを調達するルートの開拓により、国内の製紙業界の競争地図に大きな変化をもたらしました。

米国オレゴン州は、豊かな森林資源を活かした製材業が盛んで、製材時に副産物として生じる廃材チップが豊富にありました。

この廃材チップを利用したクラフト紙や板紙の製造工場が北米西岸に集積されていました。その上、米国内消費だけでは余剰となる木材チップが大量に存在していたのです。

大王製紙は昭和40年代初頭から駐在員を北米西岸に派遣し、木材チップの輸入を開始しました。

北米から針葉樹チップを、さらにオーストラリアのタスマニア島から広葉樹チップを輸入し、これらを主要原料とすることで三島工場を発展させていきました。(大王製紙の四国中央市にある独身寮には「ダグラス寮」や「ユーカリ寮」と輸入チップの名前が付けられています。)

1985年のプラザ合意による円高を見越していたかのように、大王製紙は設備投資を加速しました。円高の影響で輸入チップのコストが円貨換算でどんどん下がり、三島工場は日本国内で最もコスト競争力のある製紙工場へと発展していったのです。

自社の駐在員だけではなく商社を通じて世界中からチップを調達し、円高の恩恵を享受しつつも現状の競争力に満足せず、井川高雄氏は投資の手を緩めずに未来を見据えた先行投資を継続しました。

1989年には南米チリに現地法人を設立し、植林事業をスタートしました。

この投資は、持続可能な資源確保の一環として将来の競争力強化を目指したものでした。

1964年の東京オリンピックの頃、国内の紙・板紙の生産量は約800万トンでしたが、四半世紀後の1989年には約3倍の2,400万トンに達していました。

その後も21世紀にかけて紙の需要は伸び続け、2002年には3,200万トンというピークを迎えます。

しかし、これを境に国内の紙・板紙の内、紙の需要は漸減し、リーマンショックやコロナ禍を経て、現在では紙・板紙合計でも1989年当時の生産量水準すら下回るような構造変化に見舞われています。

とはいえ、世界全体で見れば、紙・板紙の生産量は依然として成長を続けています。

特に、板紙の需要増はアジアにおける産業と物流の成長を反映しており、その成長は世界経済のダイナミズムを象徴しています。
GAFAMによるデジタル化の進化は、印刷用紙の需要減少を加速させた反面、アマゾンの登場で宅配荷物用の板紙の増加という紙・板紙のワニの口現象をもたらせました。

経済産業省資料より抜粋

そして、製紙業というのは、何よりも紙の原料である木材資源の持続可能性が大きな魅力を持っています。

プラスチックが地下に蓄積された化石資源を原料とするのに対し、紙の原料は植えれば再生する樹木です。

枯渇する天然資源に対して再生可能な木材資源は、未来の環境保護と持続可能な産業の基盤要素なのです。

これこそ製紙業界においては、誇りを持つべき点であり、その起点である植林の重要性を、井川高雄氏とその息子である井川意高氏は深く理解した上で植林投資に情熱を傾けてきたのです。

🌳高雄が始め、意高が軌道に乗せたチリの植林事業!

1989年に現地法人を設立して始まった植林事業は、当初は思うようにはいきませんでした。

セメント袋(クラフト袋)などの強い紙には、繊維長の長い針葉樹チップを原料にした針葉樹パルプが適している一方で、印刷用紙や情報用紙には繊維長の短い広葉樹チップを用いた広葉樹パルプが必要でした。

チリで最初に植林に選んだのは、周囲に立派な巨木が育っていたユーカリグロビュラスという広葉樹でした。

ユーカリは、コアラの餌として知られているように、オーストラリア原産の樹種です。当時グロビュラスは600種を超えるユーカリの中でも製紙会社が求める最高品質の樹種とされていました。

フィジビリティスタディ(FS:事業化調査)段階では、ユーカリグロビュラス植林に適していると評価していた大王製紙のチリ植林地は、実際にはグロビュラスに適した環境ではありませんでした。

事業を始めるとグロビュラスの苗が冬の霜に弱いことが分り、大騒ぎになりました。

しかし、グロビュラスに代わる樹種選定は難航しました。

その際、豪州中を飛び回り、ユーカリナイテンスに変更する決断をしたのは井川意高氏でした。

ナイテンスを選んだ後の現地の駐在員や技術者たちの頑張りも見逃せません。持ち前の大王イズムで、彼らは自らの頭で考え、育種や施業の技術を磨いてユーカリ(ナイテンス)植林において、世界で戦える立派な生長量を記録し、植林技術を確立していきました。

ユーカリグロビュラスは伐採後、切り株から萌芽更新して新しい芽を出す繁殖力の強さが特長で、挿し木でクローン苗を作れるありがたい樹種でした。

一方で、ナイテンスは挿し木では育たず、種から苗を育てなければならず、その頃はグロビュラスの植林を羨ましく思っていました。

しかし、今となってはこれが「運」の良さに繋がったのです。

ユーカリグロビュラスは、その繁殖力の強さからチリ政府に「侵略的外来種」に指定されています。

現在、世の中は生物多様性の保全やTNFD情報開示に向けて、環境との調和を産業に求める時代に突入しました。

そんな中、植林樹種としてユーカリナイテンスを選択した井川意高氏の「決断」と、それを信じた高雄氏の「決断」があったればこそ、30年以上にわたり異国で継続する植林事業が育まれたのです。

井川親子の決断と努力があったればこそ、偶然にも侵略的外来種を避けることができたのかもしれません。


次回は、井川高雄・意高親子の社員との接し方の違いを思い出してみます。親子でありながら意高氏は、声を荒げて社員を叱責するお父さんとは違って紳士的に社員に応対するタイプの方でした。

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