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【熔ける前の井川意高物語】#02:若きエリート登場!

井川意高氏は現在、インフルエンサーとして活躍されていますが、かつては大王製紙の社長を務め、カジノで106億円もの巨額を失い、特別背任の罪で懲役4年の実刑判決を受けたことで広く知られています。

一方で、その父であり、「大王製紙の中興の祖」と称されながらも、その功績が十分に世に知られていないのが井川高雄氏です。

井川親子と共に仕事をするという貴重な経験を持つ私だからこそ、彼らとの思い出を振り返りながら、なぜあのような事件が起きたのかについて、冷静に考察してみたいと思います。


🌳超エリートが入社してきた!

井川意高氏が入社してきたのは、昭和62年4月のことでした。
Wikipediaでは、昭和63年4月の入社ということになっていますが、昭和62年4月に入社した後、簿記学校に研修という形で簿記を学びに行き、工務部に配属になったのが翌年の昭和63年というのが正解なのだと思います。

井川高雄氏の御曹司が入社してきたということで私はよく覚えています。

昭和62年4月の新入社員研修では、教養試験(英語・漢字・一般常識)が実施されました。

その結果は社内報に掲載され、成績上位者10名だけ実名が発表されました。分かりますよね、誰が1位の成績だったのか?

この年、大王製紙に入社してきた大卒男子は118名もいました。

昭和の成功方程式は、家庭内男女役割分担が明確で、男子は会社で一生懸命に働き、女子は家庭で家事・育児という時代でした。今のダイバーシティとは異なり、大卒の新入社員はオール男子でした。それにしても118名も学卒採用者がオール男子というのは、凄い時代でしたね。

まさに伸びゆく大王製紙、未来への人材投資真っただ中でした。

そんな時代背景の中、教養試験で1位だった井川意高氏は、2位に大きく差をつけた断トツ1位という華々しい社会人デビューとなりました。

私が入社した昭和59年4月1日から退職した令和7年3月31日までこんな教養試験が実施され、社内報に結果が掲載されたことは、後にも先にも井川意高氏が入社してきた昭和62年4月の1回だけのことでした。

創業者のご子息は、よく他の上場企業に一旦勤めた上で、中途入社の形で自社に入ってくるパターンが多い印象です。それは、中途入社ならば、若くても取締役・執行役員・管理職としてスカウトという体裁がとれるからだと思います。

昭和63年に大王製紙は東証2部から1部に再上場を果たしますが、意高氏が入社してきた当時でも2部上場会社であり、ガバナンスやコンプライアンスは重要でした。

全ての学卒新入社員は、規程に従って公平に、入社後ある一定期間を経ないと管理職にはなれませんでした。

そこで、この教養試験結果に基づき、とても優秀な者に対する例外措置(他の社員とは出世速度が違う扱い)を正当化するために、井川高雄氏が1回だけ教養試験を人事部に実施させたのかもしれません。

私は、当時、情報システム部に所属していて、各部にパソコン導入を推進する仕事を担当していました。そのため結構他の部署に出向く機会があり、他部署の管理職に可愛がってもらい、雑談相手にしてもらっていました。

そんなある日、ある管理職の方から「先日、うちの部長が副社長(高雄氏)に飲みに連れていかれたんだけど、その場にいた役員に向かって、"どうだ?意高は賢いだろう” "意高は賢いだろう” と何度も言っていたらしいぞ」という話を聞いたのは、社内報が出る少し前のことでした。

🌳人材育成の方程式!

井川高雄氏は、M&Aや子会社を新設することで事業を拡大していきました。子会社を増やしていく過程では、自身に代わって子会社経営を任せられる幹部社員をジョブローテーションを通じて経験を積ませて鍛える方法で育成していました。

私もジョブローテーションの洗礼を受けた一人で、いろいろな部署で仕事をしました。

部長になってからは、井川高雄氏への報告の場で叱られることばかりでしたが、そういう経験を通して本当に厳しく鍛えられました。

しかし、井川高雄氏は、厳しさの中にも優しさがあり、とにかく社員一人ひとりまでを自分の目で見て、話を聞いて、直接鍛えたいと思っていた人でした。

私が入社して3年目、ちょうど井川意高氏が入社してきた昭和62年(ご本人は大原簿記学校に1年間研修に出ていた)、この年、当時副社長だった井川高雄氏は「役員や部長連中とばかり話をしたくない。わしにも、若い者に会わせろ。」と言い出したのです。

するとある日突然、若手の1日秘書制度が実施されることになりました。

入社3年目の若造の私にとって雲の上の人である井川高雄氏の1日秘書は、とんでもない緊張感でした。

今から思えば、多分ですよ、意高氏が簿記学校から戻ってきた時にどの部署に配属するのがいいのかを考えていたのでしょうね。

若手の育ち方を見ることで、どの上司の下に意高氏を預けるのが良いかを探っていたのかもしれませんし、若手の中で将来、意高氏の参謀になりそうな人材に目星をつけて、そういった若手のジョブローテーションを構想していたのかもしれません。

その1日秘書をやった時の井川高雄氏の印象は強烈でした。
1日秘書の仕上げとして夕方に1対1の面接をしてもらったのですが、入社3年目の若造にも容赦ありませんでした。

(高雄)君が上家くんか、今は情報システム部で仕事をしてもらっているが、今の仕事に満足しているのかね?

(私)はい、入社時に希望して情報システム部に配属してもらい、入社早々から責任ある仕事を任せてもらっていますので、とてもやりがいがあり満足しています。

(高雄)それはええのう。ところで君ら情報システム屋は、日経新聞のどんなところを読むんだね。

(私)はい、産業面にはコンピュータメーカーの記事を始め、私たち製紙業界の記事も出ていますので隅々まで読んでいます。

(高雄)大王も今や上場企業だ。新聞記者に市況が下がりそうな時にこそ、まだまだ市況は堅調だと記事を書かせることだってできる。産業面なんかに真実は書かれていない。新聞を読むなら人の意見を読め。

そう言って日経新聞の「経済教室」欄を広げて私に見せるのです。
その時、私は秘書課長から持たされていたメモ紙に、この人ええこと言うわと思ってつい「新聞は人の意見を読め」とメモしてしまいました

(高雄)人が思想を話している時にメモを取らんと頭に入らんのか。(大声で叱責)

(私)。。。(3年目の若造は固まってしまいました)

(高雄)確かにメモを取らないかん時はある。秘書が私の面談や訪問の日時を聞いている時にはメモを取らないかんわ。だけど、人が思想を話している時にメモなんか取るな。

顔を真っ赤にして本気で叱るんですよ。今ならパワハラで訴えられるんじゃないかという勢いで叱るんです。

ここで「申し訳ありません。」「すいません」と謝ろうものなら「仕事に申し訳ありませんやすいませんと謝る必要がどこにある。次からどうするかが大切だろうが。」とまた叱られます。

この「仕事に申し訳ありませんはない精神」は、井川高雄氏の部屋へノックして入る時も同じでした。
「失礼します。」と言って部屋へ入ろうとすると「仕事に失礼することがあるか」と怒鳴られます。だからみんな「誰それです。入ります。」と言って部屋へ入っていきました。

それにしても会社に入って数年の若造に向かって顔を真っ赤にして指導できるトップがどれだけいますかねえ? 

井川高雄氏が人を育成しようとする執念を感じるような1日秘書でした。

さて、こうやって自分の目で見た若手社員の中からも次のポジションを人事に指示をして、新たなポジションでそいつがどこまでやれるのかを試して人材を育成していくというのが高雄流のジョブローテーションでした。

だから人事異動を井川高雄氏は最後まで手放さず、手を抜きませんでした。社長や会長といった職を辞した後でも執念深く人事部から報告させていました。

そこまでやるから「一人タレントマネジメントシステム」とでも言えるジョブローテーションによる人材育成アルゴリズムが、井川高雄氏の頭の中に出来上がっていったのだと思います。

🌳佐光社長もジョブローテーションで生まれた優秀な人材だった!

9.16事件の後、大王製紙の経営を立て直した佐光社長(当時)も、井川高雄氏のジョブローテーション育成方程式の下で育てられた人材の一人でした。

若い頃から佐光氏は光っていました。
ある時、井川高雄氏から「お前からみんなにレクチャーしてやれ」と指示された佐光氏は、エリエールテクセル(タック紙と呼ばれる宅配用のシール紙等を製造する子会社)の代表者として出向していました。まだまだ若い管理職の一人でした。

そんな佐光氏が、井川高雄氏に報告して褒められた施策や運営資料を東京の管理職に紹介する見事なプレゼンをされたことをとても鮮明に覚えています。

「井川家以外にもこんな優秀な人が大王にはいるんだな」と思ったものでした。

佐光氏は、エリエールテクセルのトップを皮切りに、意高氏が経験した先と同じく名古屋パルプ(現大王製紙可児工場)のトップとしての役割も、H&PC事業のトップなどの要職を歴任されました。

井川高雄氏は、子会社のトップを務めるという越境学習効果を経営者育成の非情に重要な要素と位置付けて、ジョブローテーションによる社員育成と能力見極めのツールとして子会社出向を指示していたのです。

この越境学習に際して出向していく社員に井川高雄氏は、必ず、「出向先で偉そうにするなよ。大王ではこうやっていた、大王が、大王がと大王を口にするな。」と伝えて送りだしていました。出向とは、お前こそがマイノリティなんだぞという経験であり、越境学習だったのです。

佐光氏のジョブローテーションの中でも最難関だったのは、当社で誰も黒字にできた人がいなかったエリエールフーズ(今は大王製紙の子会社ではない)の事業立て直しだったと思います。

佐光氏は、それも黒字化してしまいました。

飲食というのは、本当に難しくて、その道のプロでも難しい事業を佐光氏は見事に黒字化して見せました。

こうやって、いろいろな赤字子会社の経営立て直しを見事にやってみせた佐光氏の経験値があればこそ、9.16事件の後、会社存亡の危機に瀕した時にでも腹をくくってピンチを切り抜ける胆力を身に着けており、冷静に対応策を実行できたとも言えるのです。

つまりそれは、大王流ジョブローテーション育成法を確立していた井川高雄氏の経営手腕・人材育成のお陰であったとも言える訳です。


次回は、井川意高氏との初めての対面の思い出話です。もう30年も前のことになった1995年が初対面の時でした。

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