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優越感の醸成法──商業色を排したプレステージ空間の創出

📘 このシリーズでは、「五郎さんがえらくこだわっているモネと後妻アリスの関係」を手がかりに、当時のブルジョワ社会の構造を多角的に読み解いています。

🖼️ 今回は「モネの『市場価値』の実像」シリーズ第4回・第2部、美術品の価値の高め方②として、芸術作品を引き立て、その鑑賞者、ひいては購入者のプレステージをも高めるための展示空間の演出方法について見ていきます。



偉大な芸術体験を演出する―美の殿堂空間の誕生


商品としての美術品の価値(つまり値段)を高めるために、販売する芸術品にふさわしい「品格」の演出に努める美の商人たち──彼らがまず、高尚な芸術のパトロンとしてのセルフ・ブランディングと並行して取り組んだのは、徹底的に「商業色」を排除した、優雅な展示空間の創出でした。

《ニュー・ボンド・ストリートのグロヴナー・ギャラリー》の様子(J.L.による木版画、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』1877年5月5日号より)。
当時その豪華さで話題を呼んでいたロンドンのグロヴナー・ギャラリーは、プティのギャラリーの手本となったとされています。格式ある階段、植物やカーテン、彫像を配した玄関、巨大な天窓のある展示室など、その設えはすべてパリのプティのギャラリーに反映されました。

あらゆる階層の人々が大挙して訪れるサロンのような公的展覧会は、当局が公共教育の一環として“芸術と呼ぶにふさわしい作品”を広く提示し、芸術の真価を啓蒙するには有用でした。しかし、“より多くの作品を高値で売る”装置としては、必ずしも相応しい空間ではありません。何しろ目的は、芸術を通じた啓蒙ではなく、芸術という高尚かつ高価な商品を取り引きし、収益を上げることだったのですから。

したがって、この「芸術」という商品のプレステージを担保するには、むしろ商業色をいっさい感じさせない、洗練された──まさに“偉大な芸術の体験”にふさわしい──空間の創出が不可欠でした。そこに足を踏み入れ、芸術品を前に過ごす時間そのものが高揚感に満ちた人生のイベントだと感じられるような空間を提供すること。それはとりもなおさず、こうした特別な空間での芸術作品の「見せ方(あるいは“魅せ方”)」そのものが、優雅なショッピング体験の核心をなしていたからです。

そのために美術商たちは投資を惜しみませんでした。そして、特別な芸術体験への“入場料”を取ることもいとわなかったのです。今でもパリの街を歩いていると、お店の入り口に「Entrée libre(ご自由にお入りください)」と書かれた札を見かけます。これは、かつて“お店に入ること自体が無料ではなかった”時代の名残りでもあるのです。

最新の英国流プレステージを取り入れたプティの豪華ギャラリー


このような“有料級”の芸術体験を担保するという点で、前回紹介したジョルジュ・プティの豪華絢爛なギャラリーは、そのラグジュアリーな芸術鑑賞とショッピング体験を十二分に保証するものでした。

入口には新設された格式高い階段が設けられ、そこには植物や彫像が配され、階段を上がった先には重厚なカーテンが垂れ下がっています。さらに、同じく新設された展示ホールには巨大な天窓があり、作品が十分な間隔を保って配置され、それぞれが最適な照明を受けるよう綿密に設計されていました。

1886年1月2日付『ル・モンド・イリュストレ』に掲載された、プティ主催の『パリ=ノエル』創刊記念祝賀会の挿絵(画:フーリエ)。 正装の紳士淑女で賑わう、豪奢な祝賀会の様子が描かれており、プティのサロンがいかに華やかで社交的な場であったかを伝えています。

もっとも、これはプティ自身が独自に考案した空間ではなく、1877年にロンドンのボンド・ストリートにクーツ・リンジー準男爵が開設したグロヴナー・ギャラリーを手本としていました。

ロスチャイルド家を外戚に持つ準男爵の潤沢な資金によって設立されたこのギャラリーは、豪奢な内装と完全招待制の展示方式で知られ、特別な高級感を醸し出していました。その革新的なスタイルは当時のロンドン社交界で大きな話題を呼び、贅沢を愛するプティはそれをパリで見事に再現したのです。

潤沢な父親の遺産あってこそ実現したギャラリー空間ではありましたが、このような“商業色を覆い隠した芸術空間の演出”は、なにもプティに限ったことではありません。他の画商たちもまた、各自の予算と顧客層に応じて、同様の空間づくりに取り組んでいたのです。

ステータスの演出―招待客限定(!)のグーピル邸プライベートサロン


プティよりも遥か以前に、すでに大規模かつグローバルに美術ビジネスを展開していたグーピル商会は、芸術体験そのものを高めるための空間設計にいち早く取り組んでいました。1860年代末、グーピルはパリのシャプタル通りに土地を購入し、事務所やアーティスト・レジデンスを併設した本社ビルを新築。その内部には、絵画展示専用に設計された特別な空間が設けられていたのです。

シャプタル通り9番地にあったグーピル邸の様子 この邸宅では、毎週日曜の午後に著名な芸術家、コレクター、評論家たちを招いた和やかな会合が開かれていました。さらに年に一度、限られた者のみが招かれる仮装舞踏会が催され、芸術界のエリートにとって欠かせない社交行事となっていました。

そのギャラリーは、壁の配置、天井からの自然光の取り入れ方、漆喰仕上げの質感など、建築要素の細部に至るまで、かつてサロン(官展)会場として用いられたルーヴル美術館のサロン・カレを想起させるものでした。美術館さながらの空間でありながら、建物は通りに面しておらず、ショーウィンドウも設けられていません。まさに商業的な野心を巧みに覆い隠しつつ、芸術的・エリート的な印象を演出する場だったのです。

グーピルはこの空間を活用して日曜夕刻の定例サロンを主宰しました。そこには当時の著名な芸術家、評論家、コレクターたちが集いましたが、出入りを許されるのは、厳格な受け入れ手続きを経た招待客のみ。美術市場とは、芸術家・画商・評論家・コレクターが同じ社交圏で顔を合わせるネットワーク型の世界です。このサロンに招かれること自体が、すなわち芸術界のエリートに属する証でした。

グーピルにとっても、それは友情や同盟関係を築き、支援者としての地位を強固にする絶好の舞台。彼はここで経済活動の匂いを巧みに消し、芸術家を支援する“高貴な使命”を帯びたパトロンとして振る舞いました。

その象徴たるものが、年に一度開催される仮装舞踏会です。ごく限られた者しか招かれないこの催しは、芸術界のエリートたちにとって欠かせない社交イベントとなり、グーピル商会のブランドを華やかに体現するものでした。

このように、グーピルの「サロン」は単なる交流の場ではなく、芸術界の“社交的ステータス”を可視化する舞台として機能していたのです。

優越感の演出―私邸を“推し”の啓蒙空間に変えたデュラン=リュエル


一方、グーピルやプティのように煌びやかなギャラリーを持たなかったデュラン=リュエルは、独自の方法で顧客に「特別な体験」を提供していました。それは、商用画廊と、いわば“推し活の聖域”とも言える私邸を巧みに使い分けることです。

パリのローム通り35番地にあったポール・デュラン=リュエルのアパルトマンの大広間(1900〜1910年頃、写真:デュラン=リュエル・アーカイブ © Durand-Ruel & Cie.)。

彼は展覧会に正当性と品位を与えるため、二つのコレクション──公開用と私的用──を明確に区別していました。前者は画廊に、後者は私邸に展示。私邸コレクションは、彼の純粋な芸術愛の結晶であると同時に、宣伝とは見せずに芸術家を推すための巧妙な装置でもありました。

この私的コレクションに含まれる作品の多くは、展覧会のための貸し出し品として世界各地で公開されました。愛好家としての純粋な動機──「この芸術の素晴らしさを伝えたい」という姿勢──が、結果的に商業的意図を覆い隠す効果をもたらしたのです。

この手法は、とりわけ印象派の画家たちに対して多用されました。1914年以前に開催された印象派展の多くに、彼の私邸コレクションからの出品作が含まれていたといわれます。

また、コレクターが古典から印象派へと趣味を転換する契機となるのは、しばしばデュラン=リュエル邸への招待でした。そこでは、伝統に囚われない新しい絵画が披露され、顧客たちは未知の美の感覚を体験するのです。たとえば、ルノワールの絵を見るためにニューヨークのデュラン=リュエル邸に招かれた弁護士──そんな逸話が少なくありません。

1894年、同じく彼の私邸を訪れたアメリカの美術史家・評論家バーナード・ベレンソンは、その体験を次のように記しています。

我々はデュラン=リュエル家に立ち寄って気分を一新した。彼らはここに素晴らしい館を持っている。年配の紳士が迎えてくれたが、ここの人々が偽物のイギリスやオランダの絵しか買わないことを非常に嘆いていた。店には重要な作品がほとんどないが、彼は我々を上階に案内した。そこでは壁一面に最高のモネ、ピサロ、ドガ、マネ、ドーミエの作品が飾られており、まさに神々の饗宴だった。彼は「これらを店で展示すれば客を怖がらせるかもしれない」と言った。これほどの贅沢はめったにない。フォランの良作や美味しいルノワールもあった。

このように、印象派の作品を配した私邸の一室での接待は、デュラン=リュエルが顧客を魅了するための代表的な手法でした。そこでは、作品に対する排他的な特別感と、芸術に選ばれし者としての優越感が巧みに醸し出されていたのです。こうして彼は、“新しい絵画”に開眼するよう、冒険的な趣味を持つコレクターたちを静かに、しかし確実に導いていきました

そして、この個別的な「誘導」や「説得」を、より広い世論へと拡張していく手段──それが、次章で扱うメディアによる啓蒙とプロモーションの仕掛けでした。
次の記事では、その〈世論を動かす装置〉の実態を見ていきます。ここまで読んでくださり、ありがとうございました。


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