【書籍】人事の眼で読み解く「夢中」の力:奥田政行シェフが語る、圧倒的成長のメカニズム
『1日1話、読めば心が熱くなる365人の人間学の教科書』(致知出版社、2025年)のp52「1月25日:「一所懸命」の上にあるステージ(奥田政行 アル・ケッチァーノ オーナーシェフ)」を取り上げたいと思います。
師匠の教えと「道」への没入
イタリア料理店「アル・ケッチァーノ」のオーナーシェフである奥田政行氏が、修業時代の過酷な経験を通じて得た「仕事の真髄」についての物語です。奥田氏は後藤光雄シェフのもとで修業を始めますが、そこは極めて厳しい環境でした。休憩時間にラジオで相撲を聴けば「切れ!」、漫画を読めば「読むな!」、スポーツ新聞を読めば「日経新聞しか読むな!」と一喝される日々。こうした指導を通じ、奥田氏は「一切合切を捨てて、料理という『道』に入れ」という師匠の真意を汲み取ります。完璧な仕込み、指紋一つ許さない皿の清潔さなど、自分の役割を100%全うすることを徹底的に叩き込まれました。
三つのステージ:一所懸命から真剣勝負へ
奥田氏は自身の成長を三つの段階で振り返ります。第一のステージは「一所懸命」です。これは与えられた役割を命懸けで守り、100%の仕事を完遂すること。しかし、準備が完璧でも本番でミスをすれば、即座に担当から外される厳しさがありました。ここで第二のステージである「真剣勝負」へと意識が変化します。単に頑張るだけでなく、「失敗は許されない」という極限の緊張感の中で仕事をすることです。謝罪の言葉を並べるよりも、失敗そのものをゼロにすることの重要性に気づいたとき、奥田氏は周囲の殺気さえも察知し、先手先手で動く術を身につけていきました。
究極の境地「夢中」がもたらす先読みの力
最終的な到達点は「夢中」のステージでした。高校時代のバドミントン部の経験を活かし、相手の動きから次の一手を三通り予想するように、厨房でもシェフが次に何を欲するかを予測し、無我夢中で動くようになります。この「夢中」の状態に入ると、自ずと先を読む力が養われ、相手の思考を先回りできるようになります。一所懸命に取り組み、真剣勝負をくぐり抜け、そして夢中になること。このプロセスこそが、勝負に勝ち、プロとして一流の域に達するための道筋であると奥田氏は結論づけています。
オーダーが来始めたら試合開始で、次にシェフが欲しいのは網だ、氷だ、と先手を打って夢中で動きました。そうしたら最後に「きょう、よかったじゃないか」って、やっと笑ってくれたんです。ああそうか、「夢中」になればいいんだ。一所懸命、真剣勝負、そして夢中になれば、自ずと先を読む。相手の考えていることを考えるようになる。こうすれば勝負に勝てると気づいたわけです。

企業人事の視点から:個の覚悟を組織の力に変えるために
現代における「一所懸命」の再定義
奥田氏の若かりし頃のような、いわゆる「スパルタ教育」がそのまま現代の組織に通用するわけではありません。しかし、彼が述べた「一所懸命」のステージ、つまり「自分の仕事を100%クリアすることに力を注ぐ」という基本原則は、時代を問わず重要といえるでしょう。
これを組織に活かす一手として考えたいのは、新入社員や若手社員に対して、単なる作業の完遂ではなく「プロとしての責任範囲」を明確に提示することです。今は心理的安全性が重視される時代ですが、それは甘やかすことと同義ではありません。むしろ、守られるべき領域(一所懸命に守るべき領地)をはっきりとさせ、そこでの達成感を積み重ねることが、初期のキャリア形成には不可欠だと思われます。役割の定義を曖昧にせず、100%の完遂が信頼の土台になることを、対話を通じて伝えていきたいところです。
「失敗をしない」というプロの矜持をどう育むか
奥田氏が語る「真剣勝負」のステージ、つまり「謝る暇があるなら失敗しない方法を考える」という姿勢は、現代のビジネスシーンでも極めて示唆に富んでいます。ミスをした際に「すみません」という言葉で場を収めようとする傾向は誰にでもありますが、それでは本質的な成長にはつながりません。
人事の立場から見れば、失敗を恐れて萎縮させるのではなく、「失敗が許されない局面がある」という緊張感をプラスのエネルギーに変える仕組みを考えたいものです。例えば、重要プロジェクトにおける「リハーサル」の徹底や、細部へのこだわりを評価する文化の醸成などが考えられるでしょう。精神論で追い詰めるのではなく、奥田氏が皿の指紋に気づいたように、「細部への意識が全体の質を決める」という美学を共有することが、真剣勝負のステージへと社員を押し上げる契機になるかもしれません。
「夢中」になれる環境のデザイン
奥田氏が辿り着いた「夢中」という境地は、心理学でいう「フロー状態」に近いものといえます。この状態にあるとき、人は最も高いパフォーマンスを発揮し、先読みの力を手に入れます。
社員をこの「夢中」のステージへ導くために、私たちができることは何でしょうか。一つは、本人が持つ「得意」や「没頭できる要素」と業務をマッチングさせる「ジョブ・クラフティング」の支援が挙げられます。奥田氏がバドミントンの経験を料理に活かしたように、個人のバックグラウンドが仕事にリンクした瞬間、仕事は「義務」から「夢中」へと変わります。個々人の特性を深く理解し、彼らが夢中になって先を読めるようになるための「遊び」や「裁量」をどの程度持たせられるか。これを個別の育成プランに組み込んでいくことが、自律型人材の育成につながるといえるでしょう。
「先を読む力」を組織の暗黙知にする
奥田氏がシェフの欲しいものを先回りして準備したエピソードは、究極のコミュニケーションの姿です。これは接客業に限らず、チームで動くあらゆる仕事に応用できる考え方です。
次の一手を三通り予想するという姿勢を組織に根付かせるためには、単なるスキル研修以上に、上司や先輩の「暗黙の思考プロセス」を可視化することが有効かもしれません。「なぜ今これが必要だったのか」「その時、周囲はどう動いていたか」を事後に振り返るセッションを持つことで、経験が浅い社員でも「先を読む」ためのヒントを得やすくなります。背中を見て学べというトーンではなく、「思考のトレース」を促す文化を作ることが、夢中への近道になるのではないでしょうか。
師弟関係を超えた「プロ意識の伝承」
奥田氏と後藤シェフの関係は、現代では極端に見えるかもしれませんが、そこには「この仕事で生きていく」という覚悟の伝承がありました。現在、多くの企業が離職率の低下やエンゲージメントの向上に苦心していますが、その根底にあるべきは、仕事そのものに対する誇りです。
日経新聞しか読むなという極端な指導は難しくとも、「プロとして触れるべき情報」を明確にし、専門性を高めることの喜びを共有することは可能です。人事は制度を作るだけでなく、こうした「仕事への向き合い方」という魂の部分を、社内のロールモデルを通じて語り継いでいく役割を担いたいと感じます。厳しい時代を生き抜いてきた先人の智慧を、現代の価値観に翻訳し、次世代が「夢中」になれる場を整えていく。それこそが、組織全体の質を高めるための最良の一手になるのではないかと思わされます。

致知出版社が 50年近く探究してきた「人間学(=人間性を高める学び)」をテーマに、365人のプロフェッショナルの強烈な体験談から、 時代、業種、年齢、立場を越えて通底する「仕事と人生の法則」、「幸福に生きるためのヒント」を結晶化させた、全世代に贈る教科書です。
(=致知出版社の紹介から引用)
