心理的安全性を耕す面談の極意:部下が8割話せる環境をつくるための組織アプローチー日経新聞記事(入山章栄氏)からの考察
日本経済新聞朝刊(2026年6月1日付)に掲載された、入山章栄氏によるコラム「〈多様性 私の視点〉管理職は面談で「あえて黙る」」を拝読しました。
これからの時代、人工知能(AI)が社会や職場に深く浸透していくにつれて、従来の管理職が担ってきた仕事のあり方は劇的な変化を遂げていくと考えられます。AIは、日々の売り上げの集計や分析、あるいは部下の業務量の管理といった定型的な作業を極めて得意としています。そのため、これまで管理職の主要な業務とされてきた数値の進捗管理や、マニュアルに沿った定型的なマネジメント業務の多くは、今後はほぼAIに置き換わっていくと予想されます。こうした技術的な進化を前に、企業におけるミドルリーダーの役割は根本的な再定義を迫られているといえるでしょう。
しかし、定型的な管理業務が不要になったからといって、管理職という存在そのものが職場から消え去るわけではありません。むしろ、AIには容易に代替できない人間の領域に特化した仕事こそが、これからのミドルリーダーに課せられる重要な任務として残っていくはずです。それは、働く一人ひとりの感情や思いに寄り添い、組織の中に存在する多様な知見や可能性を最大限に引き出す「ピープルマネジメント」の領域にほかなりません。
ピープルマネジメントの核となるコーチング
AI化が進むこれからの組織において、ミドルリーダーがピープルマネジメントを実践していく上で欠かせない素養となるのが「コーチング」です。コーチングとは、単に業務の進捗を確認したり指示を出したりする場ではなく、部下と一対一で深く向き合うことによって、部下自身が抱える真の課題を浮き彫りにし、自発的な気づきを与えて成長を促していく一連のプロセスを指します。多様な人材がそれぞれの強みを活かして働く現代の職場において、個々の主体性を引き出すこのアプローチの重要性はますます高まっています。
このコーチングという手法を現場で機能させるための最大の要諦は、指導する立場であるはずの上司が「話さない」ことにあります。上司はあえて自ら多くを語ることをせず、ほとんどの時間で沈黙を保ち、部下の言葉に耳を傾けることに集中します。そして、対話の要所要所で、部下の思考を深めるための適切で本質的な問いを投げかけることだけに徹するのです。このように、上司が意図的に黙ることで、部下は自分自身の課題や悩みについて内省し、自らの言葉で語り始めるようになります。このプロセスを経てこそ、部下は外部から与えられた指示ではなく、本人自身の内側から湧き出る本当の気づきを得ることができるのだと考えられます。
「あえて黙る」リーダーシップの必要性
しかしながら、現実の職場で行われている上司と部下の一対一の面談に目を向けてみると、理想とは大きくかけ離れた光景がしばしば見られます。多くの場合、対話の時間のうち9割以上を上司側が占めて話し続けているというのが実態です。上司は部下のためを思って自分の経験談やアドバイスを熱心に語ることで、心理的な満足感を得たり、面談をしっかりとやり切ったという充実感を覚えたりしがちです。一方で、話を聞く側になってしまった部下は、本当に伝えたかった思いや抱えているモヤモヤを吐き出すことができず、不完全燃焼のまま面談の時間を終えることになってしまいます。
こうしたコミュニケーションの構造的な問題に着目し、大胆な変革に取り組んだ海外の先進事例もあります。あるドイツの大手IT企業では、上司が話しすぎてしまうという事実にいち早く気づき、管理職向けの研修を通じて「上司は黙る」という姿勢を徹底的に叩き込んだそうです。AIが定型業務を担い、多様な背景を持つ人材の活躍が求められるこれからの時代において、会議のファシリテーションであっても、個別の面談であっても、リーダーが「あえて黙る」ことの効果は非常に大きいといえます。部下の声を聴くために静寂をつくり出すことこそが、これからの時代を生き抜くリーダーに求められる共通の素養となるのではないでしょうか。

評価基準と管理職像のアップデート
AIの進化に伴い、管理職に求められる役割が定型的な「管理」から、感情や主体性を引き出す「ピープルマネジメント」へとシフトしていくなか、組織としても管理職の評価基準や目指すべきリーダー像を少しずつアップデートしていくことが求められそうです。これまでは、予算の達成度や業務の処理スピードといった、目に見える数値管理に長けた人材が優秀な管理職として評価されやすい傾向があったかもしれません。しかし、これからの時代は、部下の多様な意見を引き出し、個々の成長をどれだけ支援できたかという定性的な関わりについても、より重きを置いて見つめていくことが一手と考えられます。
具体的には、管理職の登用要件やコンピテンシー(行動特性)のなかに、傾聴力や問いを立てる力、心理的安全性を醸成するスキルといった項目を明文化していくアプローチが考えられます。また、多面評価(360度評価)などを活用し、部下の視点から「上司がしっかりと話を聴いてくれているか」「意見を言いやすい環境を作ってくれているか」をフィードバックする仕組みを取り入れるのも有益です。数値目標の達成だけでなく、対話を通じて組織のエンゲージメントを高めることが、リーダーとしての重要な成果であるという共通認識を、時間をかけて社内に浸透させていきたいところです。
「話さない面談」を身につける研修のデザイン
記事で紹介されていたドイツのIT企業の事例のように、管理職が面談の場で「あえて黙る」ことの重要性を理解し、それを実践できるようになるための学習の機会を提供することも重要になってきます。多くの管理職は、悪気があって話し続けているわけではなく、「良かれと思ってアドバイスをしている」「自分の経験を伝えなければならない」という強い責任感から、ついつい言葉数が多くなっているケースが珍しくありません。そのため、単に「黙りなさい」と伝えるのではなく、なぜ黙ることが部下の成長につながるのかというメカニズムを体感できるような研修のデザインが求められます。
例えば、研修プログラムの中に、上司役と部下役に分かれたロールプレイングを積極的に組み込むことが考えられます。その際、上司役には「面談時間の8割は沈黙し、相手の話を聴くことに徹する」「アドバイスではなく問いかけだけを行う」といった制約をあえて設ける工夫も面白いかもしれません。実際に部下役を体験した受講生から「上司が黙って聴いてくれたことで、自分で答えを見つけようとする意欲が湧いた」といった生の声を聞くことで、管理職側も「話さないことの価値」を深く腑に落とすことができるのではないでしょうか。こうした実践的なトレーニングを通じて、現場の面談の質を少しずつ変えていく支援をしたいものです。
定期面談(1on1)のガイドラインと仕組み化
管理職のコーチングスキルを個人のセンスや努力だけに委ねるのではなく、組織全体で標準的な仕組みとして根づかせるための環境整備も検討したいところです。多くの企業で1on1ミーティングなどの定期面談が導入されていますが、その運用方法が曖昧なままだと、結果として業務連絡の延長や、上司が一方的に訓示を垂れる場になってしまうリスクがあります。これを防ぐために、面談の目的や臨む際のマインドセットを記した、親しみやすい簡易的なガイドラインを作成することが考えられます。
ガイドラインの中では、面談の主役はあくまで部下であることや、話の比率は「部下が8割、上司が2割」が理想であるといった具体的な目安を示すことが有効です。また、面談の冒頭で「今日は最近感じているモヤモヤや、これから挑戦したいことについて、あなたの言葉で自由に話してほしい」と伝えるような、場づくりのための具体的なフレーズを提示するのも一手です。管理職が構えることなく、自然体で「あえて黙る」面談をスタートできるよう、手元のツールや運用の仕組みで優しくサポートしていくアプローチが望ましいといえるでしょう。
心理的安全性と多様性を活かす風土づくり
管理職が面談で「あえて黙る」ことができるようになるためには、職場全体が「何を言っても否定されない」という心理的安全性に満ちていることが前提となります。いくら上司が面談の場で沈黙を守り、問いかけを行ったとしても、日頃の職場環境がピリピリしていたり、少しの失敗も許されない雰囲気であったりすれば、部下は本音を語るリスクを恐れて口を閉ざしてしまうからです。そのため、個別面談のスキル向上と並行して、日常のコミュニケーションのあり方を見直す風土づくりにも着手したいところです。
例えば、日々の会議において、役職や年齢に関わらず、全員が一度は発言できるようなファシリテーションの工夫を推奨することが考えられます。また、お互いの多様な視点やバックグラウンドを尊重し合うためのワークショップを開催したり、日常のちょっとした感謝や称賛を伝え合うサンクスカードのような仕組みを導入したりするのも、職場の空気を和らげるのに有効です。職場全体に「多様な意見を歓迎する」という土壌が耕されていれば、管理職が面談の場で「黙って待つ」という姿勢を取った際にも、部下は安心して自分の思いを乗せることができるようになるのではないでしょうか。

管理職自身の不安に寄り添うフォローアップ
最後に、これからの新しいリーダーシップ像への移行期において、少なからず戸惑いや不安を抱えることになる管理職自身へのケアについても考えていきたいところです。これまで「自分が引っ張っていかなければならない」「答えを教えるのが上司の役目だ」と信じてキャリアを築いてきたベテラン層にとって、「あえて黙る」「AIに仕事を任せる」という変化は、自身の存在意義を揺るがすように感じられる場面もあるかもしれません。管理職が孤独に悩むことのないよう、彼らの心情に寄り添ったフォローアップ体制を整えていくことも大切です。
管理職同士が日頃のマネジメントの悩みや、面談での「黙ることの難しさ」について気軽に情報交換できるような、横のつながりをつくる座談会やコミュニティの場を設けることが考えられます。他部署のリーダーも同じような葛藤を抱えながら、試行錯誤している様子を知るだけでも、心理的な負担は大きく軽減されるものです。新時代に対応していく現場のリーダーたちを、組織全体で温かく支え、共に並走していく姿勢を大切にしながら、より風通しの良い職場環境を共につくり上げていきたいものです。
