【元2E発達障害児】「賢いのに、なぜわざと困らせるのか」――社会の「書かれていないルール」を読めなかった僕の話
僕の幼少期を思い返すと、僕はかなり「迷惑な子」だったのだと思う。
ただ、困ったことに、本人にはその自覚があまりない。子どもの頃の記憶はところどころ抜け落ちているし、親に聞いても、都合の悪そうな話はたいてい曖昧に濁される。だから僕が自分の子ども時代について知っていることの大半は、誰かから聞いた話か、大人になってから断片を並べ直して「たぶんこうだったんだろう」と再構成したものだ。
それでも、並べてみると、なんとなく見えてくるものがある。
僕はたぶん、世界というのは「読めば書いてあること」だけでできていると思っていた。マニュアルを最後まで読めばちゃんと動く装置みたいに、社会を実行しようとしていた。書いてあるルールは、むしろ得意なくらいだった。問題は、社会の本体が、書いてあるルールのほうではなく、どこにも書いていない注釈のほうにあったことだ。
僕は、その「書かれていないルール」を読むのに、恐ろしく長い時間がかかった。いや今でも良く理解していなかったりする。noteにこうやって毎日のように「暗黙のルール」を言語化して書いているのも、そのせいだ。
これは「迷惑をかけた子どもを許してやってくれ」という話ではない。「発達障害だったんだから仕方ない」という話でもない。過去の過ちについて言い訳をしたい訳でもない。ただ、人を困らせている自覚のないまま人を困らせてしまう子どもが、確かにいる。かつての僕がそうだった。今日はその子の中で何が起きていたのかを、大人になった僕が、当時の僕の代わりに翻訳してみたい。
最初の集団に、うまく接続できなかった
僕は幼稚園を途中でやめている。
理由は、今でもよく分からない。親に聞いても、これも例によって曖昧に濁される。だからここから先は想像でしかないのだけれど、たぶん僕は、集団行動というものにまるで適応できず、先生たちをそれなりに困らせていたのだと思う。
列に並ぶ。みんなで同じことをする。先生の合図でいっせいに動く。誰も明文化していないのに、その場の全員がなぜか従っている手順がある。僕は、ああいうものを自然に吸収できる子どもではなかった。社会につなぐ最初のコネクタの、その入口あたりで、もう接続に失敗していたのだと思う。
断定はできない。ただ、後から並べてみると、ここがいちばん最初の躓きだったのだろうという気がする。
言葉は早かった。でも、言葉の温度がわからなかった
幼稚園をやめた僕に、親は何か習い事をさせようとして、ピアノ教室に通わせた。当時は電子ピアノなんて全く一般的ではなくて、親は中古のアップライトピアノを買ってくれた。
それまでの僕の中では、ピアノと言えばテレビで見るようなあの立派な形(要するにグランドピアノ)だった。そして楽器店でアップライトピアノを見た時に、店員さんが「こちらは中古ピアノになります」と言ったので、僕の中で、「この形のピアノはぜんぶ中古ピアノなんだ」、と早合点してしまったのだ。
初めてのレッスンの日。先生の家にも、うちと同じようなアップライトピアノがあった。それを見て、僕は嬉しくなって叫んだ。
「先生のピアノ、僕の家のと同じ中古ピアノだ!」
親が慌てて僕の口を塞いだ。先生は引きつった笑顔のまま固まっていた。
僕は小学校入学までにかなり難しい本も読んでいたらしい。だから、「中古」の意味を知らなかった訳ではない。知らなかったのは、その言葉が人と人のあいだに置かれたとき、どれくらいの温度を持つか、のほうだった。「中古」が、相手の持ち物をそっと値踏みするように響いてしまうこと。それは辞書には載っていない。辞書には載っていない部分で、事故は起きる。
僕は言葉を知らなかったのではなく、言葉の持つ温度を、まだ知らなかった。
賢いのに、授業には乗れない
小学校一年生。僕は授業中、ほとんど前を向いていなかった。
「後ろを向いていた」と書くと、何か反抗的な態度のように聞こえるけれど、実際はたぶん違う。反抗していたのではなくて、ただ単にADHD児として前を向き続けることができなかった。注意があちこちに逸れていって、気づくと別のほうを見ている。先生からすれば、落ち着きがないのはまだいい、後ろを向いて他の子の邪魔をするのだけはやめてくれ、というところだったと思う。
ところが、当てられると、僕はちゃんと正解する。幼稚園も途中でやめ、塾にも行っていないのに、授業の中身そのものは分かっている。担任は困り果てたらしい。
ここでも、勉強のルールは「書いてあるから」読める。でも、「授業中は前を向いて座る」という、誰も口にしないフォーマットには乗れない。そして厄介なのは、僕がそこそこ「できる子」だったことだ。できる子が前を向いていないと、それは「能力の問題」ではなく「態度の問題」に見えてしまう。やればできるのに、やらない、と。
勉強のルールはわかるのに、人間関係のルールはわからない。その二つが同じ一人の子どもの中に同居していることは、当時の大人たちには、たぶんとても見えにくかったのだと思う。
悪意がなくても、人は危険なことをする
小学校に入って友達ができた。これは僕にとって、たぶん人生で初めてくらいの、はっきりした嬉しさだった。
嬉しくて、悪友の真似をして、団地の貯水槽によじ登ろうとした。ハシゴのてっぺんあたりで――たぶん途中で何か別のことを思いついたのだと思う――手を離した。頭から真っ逆さまに落ちて、頭蓋骨にヒビが入り、一週間入院した。
同じ頃、別の日には、広場でライターだかマッチだかを拾って、面白がって火をつけて遊んでいたら、火が燃え広がって、消防車が来た。
今これを書いていて、キューと心臓が縮みあがる音が聞こえてきた。まったくもって笑い事ではないと思う。
僕が言いたいのは、「悪意がなかったから許してほしい」とか、そういう話ではない。当時の僕に、危ないことをしてやろう、大人を困らせてやろうという明確な意図は、たぶんなかった。でも、意図がなかったことと、実害がなかったことは、まったくの別だ。だから、僕がやったことは、例え悪意がなかったとしても、確実に「悪いこと」「危険なこと」だ。
悪意がなくても、人は頭から落ちるし、悪意がなくても、火は燃え広がる。悪意がなくても、人を困らせる。むしろ、そここそが、この問題のいちばん怖いところなのだと思う。
今思えば、僕に足りなかったのは、反省ではなく、「この次に何が起きるか」を、(例えばハシゴから手を離す、ライターに火をつける)動作の前に思い描く回路のほうだった。
ただ、ここを「しつけが足りないだけだ」と読んでしまうと、たぶん打つ手を間違える。しつけの問題なら、叱れば、脅せば、いつかは直るはずだ。でも実際には、何度叱られても僕は同じことを繰り返した。叱るという方法が、足りない回路には効かなかった、というだけのことだ。
もちろん、「効かないんだから仕方ない」と言いたいわけではない。それは、僕に振り回された側にとっては、何の慰めにもならない。言いたいのはむしろ逆だ。叱っても効かないのなら、叱る以外のやり方で止めるしかない。
ライターを子どもの手の届かない場所に置く。登れない場所には登れないようにしておく。本人の意志をあてにせず、環境のほうで先に止めてしまう。そういう仕組みのほうが、僕にとっても、僕に手を焼いた大人にとっても、ずっとましだったはずなのだ。当時、それを分かっている人はいなかった、というだけで。
僕にとっては遊び、相手にとっては不快
小学校の低学年の頃、僕はどうやら、クラスの女の子たちに嫌がらせのようなことをしていたらしい。詳しくは覚えていない。おそらく、何かをすると反応が返ってくるのが面白かったのだと思う。これについても正当化をするつもりなど毛頭ない。でも、僕にとっての「面白い実験」は、相手にとってはただ嫌なことだった。そのことが、当時の僕には全く分かっていなかった。
もう少しはっきり覚えているのは、小学校高学年の頃のことだ。僕は、人の名前を別の漢字に当て字にする遊びにハマった。面白がってクラスメイトの名前を片っ端から当て字にしていたら、親からクレームが来た。たぶん、あまり良くない漢字が混じっていたのか、名前を雑に扱われたと感じさせたのか――正直、今でも完全には分かっていない。
僕にとっては、文字を使ったパズルだった。音と形をいじって遊ぶ、ただの言語遊びだ。でも相手にとっては、名前は、自分の人格や尊厳そのものだった。文字の構造には何時間でも夢中になれるのに、その文字が誰かにとって何を意味するかは、すっぽり抜け落ちていた。
僕は、人を傷つけたかったわけではない。でも、人を傷つけなかったわけでもない。そのあいだに、僕の子ども時代はあった。
校則は読めた。でも、社会は読めなかった
ここまでは幼い子どもの話だ。でも、この問題が「子どもだから」で済まないことが、高校に入る時にはっきりする。
僕は中学校の成績が、3年間ずっとクラスで一番だった。けれど授業そのものが苦痛で仕方なかったから、家から一番近く、しかも一部が実習でずっと座学ではないらしいという理由だけで、ワルと落ちこぼれが同居する、いわゆる底辺高校に進学した。
高校側は、どんな優等生が来るのかと少し期待していたらしい。中学校を経由して、「入学式で、新入生代表挨拶を読んでほしい」と連絡が来た。
ここで僕は、「新入生代表挨拶に選ばれる」ということの意味を、まるで理解していなかった。それが名誉だとか、その場の象徴だとか、そういう温度がぜんぜん分からない。「ふうん、そういう役をやるのね」くらいの認識だった。
入学前、僕は高校の生徒手帳を熟読した。もちろん、規則をきちんと把握しておこうとなどという殊勝な理由ではなく、「活字に飢えていたから」、その程度の理由だ。そして、靴下についての規定がどこにもないことに気づいた。中学では、生徒指導の先生たちが、靴下のワンポイントやラインまで一つひとつチェックしていた。だから僕は、「規定がない=この学校はものすごく自由な学校だ」と早合点した。
なぜ赤い靴下を選んだのか、深い理由はない。ただ、今思えば、中学のワルたちが履いていた原色の靴下に、どこかで憧れがあったのかもしれない。彼らの「決まり」のようなものを、僕は一つだけ、なぜか読み取ってしまっていた。よりによって、その場にいちばんふさわしくない一つを。
念のため書いておくと、僕は目立ちたかったわけではない。僕の読者なら既に知っている通り、僕はかなりの豆腐メンタルで、目立つのは大の苦手だ。だから僕の頭の中では、赤い靴下は「靴の中でひっそり赤い」はずだった。外からは見えない、ささやかな赤。それくらいのイメージしか、持っていなかった。
でも実際に抜けていたのは、もっと手前のことだった。中学では、体育館に入る時は体育館シューズに履き替えていた。新しい高校の体育館シューズは、まだ買っていなかった。つまり、入学式は体育館で行われ、その入口で靴を脱ぐ――という、ただそれだけのことに、僕は思い至っていなかったのだ。
入学式当日。体育館の入口で靴を脱いだ、その瞬間に、「あ、これはマズイ」と思った。
ただ、その時点で僕の頭に浮かんだのは、「新入生の中で目立ってしまう」という、その一点だった。これから自分が壇上に上がって、真っ赤な靴下で新入生代表挨拶をすることになる――その絵までは、まだ見えていなかった。僕の気づきはいつも、なぜか一段だけ浅いところで止まってしまう。
「新入生代表挨拶!」と呼ばれる。覚悟を決めて、壇上に上がる。今日からのクラスメート、上級生、先生、来賓……たくさんの視線の先に、僕の、真っ赤な靴下。
これが、僕の高校デビューだった。
僕は校則を破ったわけではない。むしろ逆で、校則を読んだ。生徒手帳を、たぶん誰よりも丁寧に読んだ。ただ、校則の外側にある「場の意味」を、まったく読めていなかっただけだ。生徒手帳のどこにも、「新入生代表挨拶で壇上に上がる者は、その場の象徴性を考えて無難な靴下を履くこと」とは書いていない。そして、書いていないことは、僕にとっては存在しないのと同じだった。
――ところで、この話には後日談がある。
この一件のおかげで、僕は学校のワルたちから「あいつ、骨があるな」と一目置かれるようになった。真っ赤な靴下で平然と壇上に立った度胸のあるやつ、ということらしい。もちろん度胸でも何でもなく、ただの大事故だったのだが。そのおかげで、僕の高校生活は平和そのものだった。怪我の功名というか、何というか。
書かれていないルールを一個も読めなかった結果が、別の場所で、たまたま正しい信号として受け取られた。世界はときどき、そういう間違え方で人を助ける。
一本の線で、つながる
幼稚園を途中でやめたこと。中古ピアノだと叫んだこと。授業中、前を向けなかったこと。頭から落ち、火を広げ、大人を青ざめさせたこと。人の名前を当て字にして、たぶん誰かを傷つけたこと。真っ赤な靴下で壇上に上がったこと。
これらは長いあいだ、僕の中で、ただのバラバラな昔話だった。出来の悪い子どもの、笑える失敗談と、笑えない失敗談の寄せ集め。
でも大人になって並べ直すと、一本の線でつながって見える。
僕は、社会のルールを自然に吸収できる子どもではなかった。書いてあるルールは読めた。でも、書いていないルール――言葉の温度、場の意味、相手の中で今なにが起きているか――は、自分で一個ずつ、失敗しながら、時には人を困らせながら、後から実装していくしかなかった。
自分の幼少期を振り返ると、たぶん「迷惑な子」と呼ばれる子の大多数は、わかっていてやっているわけではないのだ、と思う。
こういう子は、よく「自己中心的だ」と言われる。でも、自分を優先するというのは、自分と相手を天秤にかけて、自分のほうを選ぶことだ。僕の場合、自分を選んだと言うよりも、選ぶべき相手が、まだそこに見えていなかった。あくまで個人的な意見だが、「迷惑な子」と「自己中心的な子」の分かれ目は、「その子が得をしようとしているかどうか」にあるのだと思う。確かに「迷惑な子」ではあった。でも僕の中に「自分が得をしよう」という思いはなかった。それだけははっきり言える。
だから、あなたの周りに「迷惑な子」がいたら、その子は社会の暗黙のルールを、まだ一個ずつ実装している途中なのだ、と思って見守ってあげてほしい。そして彼らは、実装が終わっていない機能を、最初から持っているふりができない、とてつもなく不器用な子なんだと。
・・・
繰り返すけれど、これは「迷惑をかけていい」という話ではない。迷惑を受けた人の不快や、現実に起きた危険を、なかったことにしたいわけでもない。火は実際に燃えたし、女の子はたぶん本当に嫌だっただろうし、誰かの名前は雑に扱われた。それは消えない。消してはいけないと肝に銘じている。
ただ、人を困らせている自覚のないまま、人を困らせてしまう子どもがいることを僕は知っている。そして、その子が必要としているのは、たぶん、共同体からの強い圧力ではない。「ちゃんとしろ」でも「何度言えばわかるんだ」でもない。書かれていないルールを、一個ずつ、その子に分かる言葉に翻訳してくれる大人だと、思う。
この話が「自分のことだ」と思えた人へ
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