恋愛小説「今度、虹を見たら」第十三話~夜のしじまに~
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【第十三話】
レイが帰って来る――
ナツコからそう聞いて、心に少しだけ光が差し込んだような気がしたのは事実だ。
それでも、素直に喜べない自分がいた。
最後の電話のときの、レイの迷惑そうな態度と、受話器の向こうに聞こえた女の人の声。
もうずいぶん前のことなのに、
レイに対するわたしの気持ちは、
ずっとそこに留まったままだった。
シンゴの行方が完全にわからなくなってしまった今、自分がどうしたいのかもわからないし、
レイのことまで考える気力さえなかった。
ナツコが高校のクラス名簿からレイの今の連絡先を書き写してくれたけれど、自分から電話をかける気にもなれないまま、九月になった。
夕方になると
いくらか涼しい風が吹くようになった頃。
その日は塾の仕事が早く終わったので、
仕事帰りに本屋へ立ち寄った。
特に欲しい本があるわけでもなく、店内をゆっくりと歩いていると、不意に後ろから肩をたたかれた。
振り返ると、そこにはレイがいた。
「久しぶり」
グレーのTシャツにジーンズ姿のレイが、
はにかんだ笑顔で立っていた。
少し伸びた髪が、なんだか大人っぽく見える。
「……久しぶり。いつ帰ってきたの?」
「おとといかな。しばらくこっちにいるんだ」
「あ、ナツコから聞いた。仕事辞めたって」
「え、あいつ誰に聞いたんだろ?
……にしてもおしゃべりだなぁ」
レイが呆れたような顔で笑うから、
わたしもつられて思わず笑ってしまった。
「サラさんは? 元気だった?」
レイにそう言われて、一瞬言葉に詰まる。
元気だよって、すぐには答えられなかった。
「仕事がね、ちょっと忙しくて」
「そうなんだ。学習塾だっけ?」
「うん」
不思議だった。
たったこれだけの会話なのに、
数年間の空白がスッと埋まっていく感じがする。
今までも何度か
「もう会うことはないんだろうな」
と思う瞬間はあった。
けれどなぜかレイはいつも、
見計らったかのようにわたしの前に現れる。
まるで「オレはここにいるよ」と、
静かに主張しているみたいに。
「サラさん、このあと予定は?」
ふいにレイに聞かれて我に返る。
「このあと? 特に予定はないけど……」
「じゃあ飲みに行かない? 久しぶりに話したいし」
あまりにも自然な誘いに、
わたしはぽかんとしてしまった。
「あ……彼氏いたりしたらマズいか」
慌てて少し気まずそうに言うレイを見て、
今の自分にとっての「彼氏」という存在が、
いかに宙ぶらりんで不確かなものなのかを痛感させられる。
――もう、いろんなこと、どうでもいいや。
投げやりな気持ちではなく、
ただ心が凪いでいくような感覚だった。
「いいね。行こっか」
そう口にしたとき、わたしの中で固く結ばれていた何かが、するりとほどけ落ちた。
本屋を出て、近くの小さなカクテルバーに入った。
料理もおいしく、カクテルの種類も豊富なその店は、時々ナツコと訪れるお気に入りの場所だった。
席に座り、メニューを開く。
色とりどりのカクテルの中に「カシスソーダ」の文字が目に留まったけれど、あの同窓会の日のことを思い出して、思わず視線を外してしまった。
「あ、コロナビールあるんだ」
レイがメニューを指さしながら言う。
「コロナビール……?」
「うん。メキシコのビール。飲み方がちょっと面白いんだよ。ライムが瓶に刺さってくるんだ。
オレはこれにする。サラさんは?」
ビールはあまり得意じゃないけれど、
レイと同じものを試してみたくなった。
「じゃあ、わたしもそれで」
しばらくすると、お通しのナッツと、
瓶の口にカットライムが刺さったビールが運ばれてきた。
「このライムを中に押し込むんだ」
レイがそう言ってライムをギュッと瓶に押し込んでみせた。
黄金色のビールの中に、鮮やかなグリーンがゆっくり沈んでいくのが綺麗だった。
わたしも真似してライムを瓶の中に沈め、小さく乾杯すると、そのままひとくち飲んでみた。
ビールの苦みの中に、ライムの爽やかな香りがみずみずしく広がる。
「どう?」
「……おいしい。わたし、ビール苦手なんだけど、これはすごくおいしいわ」
そう言うと、レイは満足そうに目を細め、
ナッツを口に放り込んだ。
それからわたしたちは、長い空白を埋めるようにお互いの近況を話し合った。
仕事のこと、家族のこと。
――恋愛のことだけは、触れないようにしながら。
レイは仕事の関係で、最後の半年ほどアメリカに長期出張していたらしい。
そこで体調を崩したことがきっかけで、仕事を辞めて戻ってきたのだと話してくれた。
「そうだ。アメリカでサラさんにちょっと土産買ったんだった。今度会う時持ってくるよ。
忘れなければ」
「ありがとう。とか言って、どうせ忘れてくるんでしょ?」
自然にそんな軽口が出た自分に、少し驚く。
以前のわたしなら、レイに嫌われるのが怖くて絶対に言えなかったような冗談。
「えー、そんなこと言う?
オレってそんなに信用ないかな」
大げさに困った顔をしてみせるレイがおかしくて、思わず声を出して笑った。
なんだか、本当に久しぶりに笑った気がする。
張りつめていた肩の力が抜け、
心がふわっと軽くなっていく。
傷ついた過去も、答えの出ないシンゴのことも、もうどうでもよかった。
恋愛感情とか、付き合うとか付き合わないとか、そんな定義さえどうでもいい。
目の前にいるレイは、
わたしにとって大切で、かけがえのない存在。
ただそれだけで十分だった。
次に二人で会った時、
「はいこれ。前に言ってたアメリカの土産。
オレ、忘れてなかっただろ?」
レイが得意げに言って、小さな包みをくれた。
中を開けてみると、
月と猫のモチーフのネックレスだった。
「わぁ、かわいい。ありがとう」
「アメリカからの帰りに空港で見つけたんだ。
なんとなく、サラさんが好きそうだなって思って。喜んでくれてよかった」
ふつうの男の人なら、こんなことは彼女か好きな人にしかしないと思う。 でもレイは相変わらず「それっぽいこと」は何も言わない。
「付き合おう」という言葉も、
「好きだ」という言葉さえもない。
何年か前のあの日、
誕生日に指輪をくれた時と同じように。
それでもわたしは、レイが遠いアメリカの地で一瞬でもわたしを思い出してくれたことが純粋に嬉しかったし、その瞬間のレイを信じることができた。
ネックレスの「月と猫」は、
まるでわたしたちのようだ。
追いかけても触れることができないとわかって、ただ月を見つめる猫。
それでも猫は、月がいつも静かに自分のことを見ていてくれると知っている。
ネックレスの猫に自分を重ねて、
少し切ないけど甘やかな気持ちになった。
それからのわたしたちは、
「名前のない関係」のまま季節を重ねていった。
一緒に出かけたりお互いの部屋で過ごすことはあっても、二人の間に未来の話が出てくることはなかった。
ずっと前のわたしだったら、きっとすごく傷ついただろうし、この関係を一刻も早く抜け出したいと思ったはずだ。
でも「恋人」という枠組みに縛られない今の関係は、シンゴのことで深く傷ついたわたしにとって、あまりにも心地よかった。
このずるくて甘い関係を失うくらいなら、
二人の関係に名前なんてなくてもいい。
いつも失う恐怖と隣り合わせでいるくらいなら、何も始まらなくてもいい。
曖昧で、不誠実で、
どうしようもなく愛おしい時間。
けれどこの時間は間違いなく、
瀕死だったわたしの心を、
ゆっくりと穏やかに癒してくれた。
――春の気配がほんの少し感じられるようになった頃。
その日はレイの運転でドライブをしていた。
カーステレオから流れるレゲエのコンピレーションアルバムの、ゆったりとしたリズムに身を委ねる。
レイのタバコと、車の芳香剤が混ざった匂い。
タバコの匂いはキライだけど
なぜだか今日は、そんなにイヤじゃない。
途中のコンビニで缶コーヒーを買って車に戻ると、レイが静かに言った。
「オレ、東京に戻る。仕事決まったんだ」
その言葉を聞いた時、何も感じなかったわけではない。でも驚きもしなかったし、涙も出なかった。
どこかでそれをわかっていた自分がいたから。
「……そうなんだ」
わたしが言うと、
レイは何も言わずにエンジンをかけた。
静寂が二人を包んだまま、
夜の道をどこまでも走り続けた。
レイはいつだって、
わたしの前にふらりと現れては去っていく。
まるで通り雨みたいに。
季節の変わり目に吹く風みたいに。
でも今度ばかりは、
今までとは違うような予感がしていた。
絶対に認めたくないというわたしの気持ちなんかおかまいなしに、心の底ではどうしようもなく確信している予感が。
――きっと、もうレイには会えない。
悲しいはずなのに、
なぜかわたしの心は不思議なほど凪いでいた。
カーステレオからは
UB40の「Falling In Love With You」が、
静かに流れていた。
つづく。
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第十四話「大晦日の奇跡」
