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長崎街道を歩いてみた【1回目/出島~肥前古賀 後編】

長崎街道歩きを始めました。1回目は長崎出島から肥前古賀まで約19㎞。前編を読んでない方は以下リンクからご覧ください。

〇ルート図(前編分含む)

〇本河内高部堰堤~日見峠(約1.8km)

本河内高部堰堤の公園で雨宿り、15分程度おとなしくしていましたが、なんとか雨が止んでくれたので11時半頃から日見峠に向け出発することに。

県道116号沿いの小路を上っていきます。県道116号?という感じですが、以前の国道34号線が日見バイパスの開通により県道に降格となったらしいです。昔の国道の日見トンネルは暗く・狭く、いつも渋滞していた記憶しかないのですが、今は交通量も少なくなっていますね。そのトンネル前の歩道橋を渡り山道へ。

ちなみに、その日見トンネルが昭和初期に開通したことで、峠越えそのものが過去のものとなりましたが、そのおかげで古い街道の峠が開発から逃れ、今日まで保存されてるようです。

日見峠上り標識(右横下には日見トンネル)

途中の茶屋跡には以下の記載が。当時の面影はあまり残っていないですが、石垣や石盥(いしだらい)は当時の物らしい。
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西の箱根といわれた日見峠は旧長崎街道の中でも屈指の難所であり、旅人たちは茶屋で休憩を取りながら、険しい山道を越えていました。
(中略)日見峠には東側中腹に1軒、頂上に1軒、西側中腹に2軒の茶屋があったといわれています。ここは「新茶屋」と呼ばれ、藤棚の休憩所であったそうです。

日見峠の茶屋跡
「長崎街道 日見峠路」と刻まれた石碑

山道をずっと上っていきます。今ではコンクリートの階段と小路ですが、コンクリートの下にも当時の石畳が残っているそうです。

延々と続く日見峠への上り
要所に案内の標識

階段を上り終えると、車両通行可の日見新道(明治新道)に合流。12時半頃にやっと日見峠(標高242m)に到着です。 

 ちなみに日見新道は従来徒歩でしか通過できなかった日見峠を数十m切り崩し、明治15年 約1年4ヶ月の工期と当時の約4万7,000円(現在だと10~15億円程度)の工費をかけ人力車や馬車などが通行できるようにしたもの。なお明治22年まで通行料を徴収し、日本で初めての有料道路でもあったとのこと。

日見新道ルート ※案内板の図から(旧ルート峠は新道工事で消失)
日見峠付近 Google Mapsから
日見峠(明治新道) ※長崎市街地側から撮影
日見峠(明治新道) ※日見側から撮影
日見峠(明治の新道開通当時)※案内板の写真から

なお日見峠の日見側には、倒幕の機運が高まっていた幕末の混乱期、江戸幕府は往来する人々を監視するために「関番所」なるものを設けていたらしい。

日見峠関番所跡 ※新道建設に伴い敷地の半分程度消失

〇日見峠~日見公園(約3.2km)

日見峠からはずっと下り、日見新道の折れ曲がりの道の途中に、新道をショートカットできる旧街道が石畳のまま残されており、江戸時代当時の雰囲気を感じられます。

途中のお地蔵さま こんな場所でも花を供えてくれる方が
昔のままの街道区間 安全のため柵は設置

途中に長崎出身の江戸時代の俳人「向井去来(きょらい)」の芒塚句碑。長崎の俳人達が去来を偲んで建立したらしい。

芒塚句碑
※去来が長崎を離れる際に見送りの人達に詠んだ句「君が手もまじるなるべし花薄(すすき) 去来」が刻まれている。
峠から下りる途中からの日見側の眺め
日見新道の七曲り(明治当時) ※日見宿案内板の写真から

日見宿跡まではずっと下りで、13時過ぎやっと到着。とは言え日見宿跡が分かるのはこの「日見の宿跡」の石碑、そして街の名前が「宿町(しゅくまち)」であることぐらい。ここは長崎のベッドタウンで東長崎の主要な住宅街・商業地区でもあるので歴史を感じさせる物はほとんど残ってないようです。

昼食に入るようなお店が日見宿跡近くになかったので、すぐ近くの「日見公園」でトイレ休憩。近くのスーパーで買ったお弁当を食べることに。ちょうど桜も満開で、公園は花見の方々が大勢で賑わっていました。

日見の宿跡の石碑

〇日見公園~肥前古賀・福端寺(約7km)

歩き疲れたこともあり、日見公園で食事を兼ねてのんびり40分ほど休憩。ここまで9㎞ちょっとですが、難所の日見峠だったこともあり想定以上に疲労しました。ここで今日どこまで歩くか悩みます。朝、歩き始めた時には「諫早近くまで行けるのでは」と甘く考えていたのですが、想定以上にあちこち見る箇所もあり思った以上に時間かかってしまいました。

ここから長崎駅に戻るのは時間がもったいないので、諫早までの間で国道やJR駅に最も近い「肥前古賀」までは歩いてみようかと決め、14時頃に日見公園をスタート。次の宿場町、矢上宿跡を目指します。

途中、国道34号線日見バイパスを横断する箇所で「腹切坂」の石碑。説明書きによると熊本細川家の家臣が長崎から帰郷の際、この地で棒術名手の町人に試合を申し込んだがあえなく敗れ、武士の面目から腹を切って果て、それを哀れに思った村人が丁寧に葬ったとのこと。

腹切坂の石碑

腹切坂の石碑から住宅地内の車道を2㎞足らず歩くと矢上宿跡。ここも日見宿跡同様に住宅と商業施設が多く、往時の面影が全く残っていません。矢上番所跡の石碑が残っているぐらいでしょうか。

矢上番所跡の石碑

それにしても日見宿と矢上宿、他の宿場間に比べやたら近いような気が。その理由をAIのGemini君に聞いたら、以下の様な役割分担があるとの回答でした。

【日見宿:長崎の検問・待機所】
・日見の番所では、長崎へ入る人々の身分や荷物を厳しくチェック
・峠越えでボロボロになった身なりを整えたり、役人との調整をしたりするための「長崎の門前」としての機能が集中

【矢上宿:佐賀藩の拠点・物流の結節点】
・佐賀藩(鍋島領)の重要な拠点。長崎奉行所の力が強い日見とは「管轄」が異なる。
・陸路だけでなく海路(網場など)からの物資も集まる場所。長崎へ送る前の荷造りや、逆に長崎から出た後の最初の大規模な休憩・物流拠点

日見から矢上の図(長崎古今集覧名勝図絵より)

矢上宿跡から、大楠で有名な矢上八幡神社矢上神社前を過ぎ、国道34号沿い西側にある車道を北上。

矢上八幡神社の大楠(樹齢不明ですが300年以上とも、市天然記念物)
矢上神社

矢上神社から1km足らずで、国道34号線とそれと並行した八郎川を横断。
ちなみに矢上で忘れられないのが昭和57年(1982年)の長崎大水害。当時私は大学4年生で長崎市内北部に下宿していたのですが、市内あちこちに浸水被害・がけ崩れなどが発生、この八郎川も氾濫し矢上地区に甚大な被害が出ました。
今では川幅も拡張、護岸もコンクリートで整備され過去の災害の教訓が活かされているようです。護岸の桜並木がちょうど見ごろ、過去に大災害が発生したことを感じさせない素敵な光景でした。

八郎川の桜
長崎大水害時の矢上(長崎大水害40年パネル展資料より)
長崎大水害時の八郎川氾濫状況 (長崎大水害40年パネル展資料より)

矢上市街地を過ぎてから、この日のゴールでもある肥前古賀の福端寺まで、長崎大水害やそれに伴う復旧工事、河川拡幅・護岸整備や道路工事などで、往時の長崎街道の面影が全く残ってないのは致し方ないのかもしれません。

ちなみに肥前古賀地区では、キリスト教の伝来以降信仰が盛んで、全住民がほぼ信者であったらしい、その後 江戸幕府の圧力で、長崎の教会施設の一斉破却が強行されますが、その禁教政策の一環として、古賀の住民のキリシタンからの改宗を目的として福端寺が建てられたらしい。

福端寺までのルート図
福端寺(長崎と天草地方のキリスト教関連歴史文化遺産群ウェブサイトから)

〇肥前古賀・福端寺~諫早市塚原バス停(約3㎞) 

16時近くとなり、福端寺前に到着。福端寺は時間もあまりなかったため門前を通るだけに留め、帰路を考えることに。JR肥前古賀駅が近いのですが、上り坂を1kmほど歩く必要があり、しかもこの時間帯は諫早まで1時間に1本程度のダイヤ。「路線バスの方が諫早まで早く行けるのでは」と国道34号線沿いのバス停まで歩いて行くことにしました(結果として、これは大失敗でした)。

500mほど離れた長崎市つつじが丘のバス停で時刻表を見ると、諫早行きのバスは40分ほど待たなければならないことが判明。ただボーッと待ってるのも癪(しゃく)なので、「長崎バイパスからの道路と合流する喜々津付近まで行ったら本数増えるかも」と、さらに2㎞以上国道を歩き、諫早市の塚原バス停まで行きましたが・・・結局バスの本数は変わらず。夕暮れ冷え込む中、そこで30分ほど待つことになってしまいました。素直にJR肥前古賀駅に行くべきだったと反省しきりです。

長崎県営バスで諫早駅に着いたのは17時半近く、帰りは諫早駅から西九州新幹線「かもめ」、そして武雄温泉駅から特急「リレーかもめ」に乗り継いで博多まで。結局、20時過ぎにはなんとか自宅に辿り着きました。

今回の歩きのルート図(約19km、約7時間)
諫早駅から新幹線で帰還

〇長崎街道歩き(1回目)を終えて

ノルウェーの考古人類学者トール・ハイエルダールは、戦後間もない1947年に「ポリネシアの人々は南米から来た」という仮説を立てました。彼はこの仮説を自ら実証するために仲間5人を集め、南米の原住民とまったく同じやり方でいかだを復元し、それに乗ってペルーからポリネシアを目指しました。この挑戦の貴重な記録が「コン・チキ号漂流記」として出版され(後に映画化もされました)、小学生時代にわくわくして読んだ記憶があります。

今回の長崎街道歩きは、コン・チキ号漂流記とはスケールこそ違いますが「江戸時代の人と同様に街道を歩いたら、何かその当時の様子が感じ取れるのでは」との思いもありました。
実際に歩いて現地を見てみると、部屋の中で書籍やPCからの情報を平面的に把握することとは違い、「なぜ江戸幕府は諸外国に対し長崎だけ開港したのか?」と言った問いを多面的に考えることが出来始めたような気がします。まだ歩き始めたばかりですが、小倉まで歩き終えたときに何を感じとっているのか。それが楽しみだと思えた帰宅後の夜でした。

長崎街道歩いてみた【2回目】については以下リンクからご覧ください。





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