見出し画像

貿易都市が変えた音楽史【等身大のイギリス⑥】リヴァプールとThe Beatles

優れた工業力があっても、港がなければ物資は動かせない。「世界の工場」としてのイギリスの発展を支えたのは、大西洋に開かれたリヴァプールの港だった。17世紀以来の大西洋三角貿易で繁栄し、20世紀には史上最大の音楽バンドであるザ・ビートルズを輩出する。実はビートルズの成功も、リヴァプールが英国の海の玄関口であったことと関係している。偉大なロックバンドは、コスモポリタンな貿易都市だからこそ生まれたのだ。


前回はこちら:


三角貿易の拠点

マンチェスターの滞在中、西に足を伸ばし、リヴァプールを日帰りで観光することにした。前編で述べたとおり、マンチェスターとリヴァプールには強い結びつきがある。産業革命後、工業都市であるマンチェスターと港湾都市であるリヴァプールとの間に鉄道が開通したことで、大量輸送・大量生産・大量輸出が可能となったからである。両都市の距離は50kmほどと近く、今でも人の移動は多い。1時間ほどバスに揺られ、雨のリヴァプールに到着した。

リヴァプールの位置

あいにくの天気で人影はまばら。まずは、アルバート・ドックと呼ばれる赤レンガの建物にやってきた。建物が水域を囲むように立っており、雨粒が水面を打ち付ける。

ここは古く19世紀中頃に建設された港湾施設だ。17世紀から19世紀にかけて、リヴァプールは大西洋三角貿易の拠点となってきた。大西洋三角貿易とは、大西洋に面するイギリス・アフリカ・アメリカを文字通り三角形で繋ぐ海洋交易である。イギリスを出航した船はアフリカに雑貨などを持ち込んで利益を得る。今度はアフリカで奴隷を乗せ、プランテーションの広がるアメリカに向かう。アメリカに到着すると、奴隷を売り捌き、現地で生産された綿花やタバコをイギリスに持ち帰る。空荷をなくすことで最大限の利益を上げ、大西洋沿岸の経済を繋いだ。

大西洋三角貿易は各地の経済に依存関係を生み出した点で、世界を変える大きな影響力を持っていた。アメリカはアフリカからやってくる奴隷なしにプランテーションを経営できないし、イギリスはアメリカから輸入される綿花なしに綿工業を続けられない。三角貿易は大西洋岸の人口構成も産業構造も変えてしまったのだった。

アルバート・ドック

アルバート・ドックには船が停泊するための船溜まりが掘り込まれており、かつてはここで荷物の積み下ろしが行われていた。象牙や絹、砂糖などの交易品が保管されていた倉庫棟は、現在は商業施設としてリニューアルされている。


「人工の良港」を作る

港には、船の点検や修理のための場所も必要となる。そこで作られるのが乾ドックだ。地面を掘り込み側面を階段状にすることで、船を完全に水から引き上げ、下部や側面も含めて補修を行えるようになっている。また、片方が堰き止められ水が入らないようになっており、逆に船を出すときはここを開いて出航させる。そのサイズを見るに、リヴァプールに出入りしていた船はそう大きくなさそうだ。19世紀まで使われていた船なので、まだ大型化する前だ。

掘り込まれたドック

しかし、いくら船が小さいとはいえ、入港に際しては頭を悩ますトラブルがあった。水深が浅いのである。これはリヴァプールが川に面した港湾であることに由来している。実は、リヴァプールの港湾施設は大西洋に直接は面しておらず、マージー川という川の河岸に作られている。しかし、流れの緩やかな河口付近は土砂が堆積しやすく、小型船でも簡単に座礁してしまう。残念ながら、リヴァプールは天然の良港ではないのだ。世界史で「リヴァプールはイギリスを代表する港」と覚えた私には衝撃的な事実だ。

マージー川。右に10kmほど進むと大西洋に出る。

そこで一役買ったのが、地元の水先案内人(英語でパイロットという)である。水先案内人は特定の水域の地形や天候に精通したスペシャリストで、港に近づいた船に乗り込み、操縦を補助する役割を負う。入港の難しいリヴァプールにおいては、水先案内人が大西洋からマージー川への遡上をサポートする。彼らの働きのおかげでリヴァプールは水深が浅くても、大西洋の玄関口になりえたのである。

リヴァプールの歴史について理解を深めるため、すぐそばの博物館に向かった。ガラス窓を抱えた上層が迫り出しており、巨大船のような見た目をしている。

リヴァプール博物館

博物館には地元の小学生が見学に来ており、少年たちが床に座り込んで船の模型を写しとっていた。思わずぶつかりそうになりながら展示を見て回る。イギリスの公立博物館は校外学習にうってつけだろうなといつも思う。知識欲に応えてくれるきちんとした説明もあれば、子供たちが満足するような体験や展示も充実している。

展示で印象的だったのは港の改良に関するものだ。先ほど水深の浅さについて触れたが、次に立ちはだかる難題は潮の満ち引きへの対応である。海辺では1日2回、潮の満ち引きがあるが、この際に船を岸にピッタリ停泊させてしまうと水面の高さの変化に対応できず、いかりがうまく機能しない。しかし船が流されたら困るので、川に浮かせたままにするわけにもいかない。そこで作られたのが、陸地を人工的に掘り込み、満ち引きの影響を受けにくくした水門付きの湿ドックだった。先ほど紹介したドック(乾ドック)は補修のために水を引かずに使うものだが、こちらの湿ドックは水を引き入れ、船を停泊させるために使う。たしかに、最初に訪れたアルバート・ドックでは、ドック内と川が水門で区切られ、ドック内の水面は変化しないようになっていた。

ドック内(左)はマージー川(右)と水門で区切られ、潮の満ち引きの影響を受けない。

こうした閉鎖式商業用湿ドックの建設は世界初の試みだった。リヴァプールでは1715年にレンガと木で作った水門が完成し、100隻もの船が停泊できる最初の湿ドックが誕生した。建設には多大な資金が必要となったが結果的に大成功を収め、リヴァプールのその後の発展を支えた。湿ドックを作り出した技術力も感嘆ものだが、良港を作るために前例のない投資を行った決断力も称賛に値する。いわば、リヴァプールは「天然の良港」でないからこそ、投資と技術によって課題を克服したのだ。不完全な港を、「人工の良港」に作り替えた、とでも言おうか。

水門で区切られた湿ドックが複数建設された


「帝国第二の都市」の盛衰

当時のイギリスはある意味で脆弱な国だった。人口規模は隣国フランスを大きく下回り、19世紀初めにはフランスの半分以下だった(田所, 2025,  p.71)。陸軍も弱く国土の経済力も限定的だった。その代わり、イギリスが他の追随を許さぬ特別な地位を得たのは国際貿易であった。国内がそれほど豊かでなかったイギリスにとっては、国際貿易こそ繁栄の手綱であり、リヴァプールはその要衝であったのだ。

リヴァプールの街は大英帝国の繁栄とともに大いなる成長を遂げた。荷役や運搬で多くの雇用が生まれ、街には高架を走る蒸気機関鉄道も開通した。マンチェスター・リヴァプール鉄道の開通後は工業製品の輸出拠点になり、帝国が栄華を極めた19世紀には、「帝国第二の都市」とさえ呼ばれた

しかし、当然ながらリヴァプールの発展は奴隷貿易など国外の搾取と共犯関係にあった。また、国内にも負の側面をもたらした。労働者は過酷な環境で長時間労働を強いられ、10代の子供たちを使役するような児童労働も普通に行われていた。博物館の展示はこうした負の側面にもスポットを当てており、例えば児童労働に関連して、架空の少年が現場の過酷さを訴えるイメージ動画を流していた。足を止めた女性二人が「こんなにも若いのに」と呟いていたのが印象的だった。

児童労働の過酷さに関する展示

街の繁栄も永遠には続かなかった。大西洋の交易は次第に衰退し、二つの大戦を通じて大英帝国のプレゼンスや生産力も弱まった。さらに、20世紀に入ると船舶の大型化とコンテナ輸送の普及が進み、18世紀以来使い続けてきたリヴァプールの港湾施設は完全に時代遅れになった。港は廃墟同然になり、雇用は失われ、街には失業者が溢れた。世界に誇る港だったリヴァプールは産業を失い、寂れた都市に変わってしまったのである。


アイドルとしてのビートルズ

しかし、戦後のリヴァプールにはそうした鬱屈を吹き飛ばすようなスーパースターが生まれた。史上最大の音楽グループ、ザ・ビートルズ(The Beatles)である。メンバーはジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターの4人。全員が中産階級以下の家庭出身で、第二次大戦以後のリヴァプールで生まれ育った。寂れた地方都市リヴァプールで泥臭く生きてきた、やんちゃな青年たちである。デビュー前、彼らは窮屈なデニムと黒光りのレザージャケットを着て、前髪をリーゼントでたくしあげていた。見るからにやんちゃで乱暴なロッカーズだった。

しかし、デビューを期に彼らはスーツに身を包み、髪型はいわゆるマッシュルームカットになり、柔らかくお行儀の良いグループへと一変した。方向転換に向けてアドバイスをしたのが、マネージャーのブライアン・エプスタインだった。1961年、デビュー前のビートルズに出会ったエプスタイン(彼自身もリヴァプールの生まれ育ちだ)は、だらしない見た目をより清潔なアウトフィットへと変更させ、彼らとのレコード契約を取り付けた。

ビートルズは小綺麗なスーツに身を包んだ

柔和な容姿でテレビの前に姿を現し、自分たちの楽曲をクールに歌い上げたビートルズはたちまち時代の寵児となった。襟付きのスーツでギターを構えるマッシュルームの4人組は、今見ても存在感がある。それでいて、彼らは天性のやんちゃさも持ち続けていた。メディアでは「リヴァプールの労働者階級」というキャラクター性を押し出し、ユーモラスに権威をからかった。規範を逸脱しながら自由を求める振る舞いが戦後世代の支持を集め、多くの若者が狂ったように彼らの虜となっていった。

楽曲についても触れておこう。まずは日本でも有名な、1964年発表の「ア・ハード・デイズ・ナイト(A Hard Day's Night)」(11位/Rolling Stone誌のビートルズ100選)。G→C→Gという基本的なコードを皮切りに走り出す、シンプルで明るい一曲だ。メンバーは時折目を合わせながらリズムに乗っている。

観客も黄色い歓声をあげ、全身を使って踊り狂っている。まさにライブ・バンドとしてのビートルズがピークを迎えた時期である。彼らは世界を席巻するアイドルとなり、若者(特に若い女性)から熱狂的な支持を得た。

ビートルズのすごいところはいくつもあるが、まずは全員が歌えることだ。ジョン・レノンとポール・マッカートニーの掛け合いに代表されるように、誰か一人がリーダーとして君臨することなく、それぞれの声が重なりながらバンドとして音楽性を高めている。もう一つは、これまた全員がオリジナル曲を書いていることだ。ビートルズの曲にはジョン・レノンとポール・マッカートニーの2人が手がけた「レノン=マッカートニー」名義のものが多いが、ジョージ・ハリスンも例えば「ヒア・カムズ・ザ・サン(Here Comes The Sun)」を、リンゴ・スターは「オクトパスズ・ガーデン(Octopus's Garden)」を作っている。それまで、外部の作詞家・作曲家の作った曲を歌う歌手はいたが、自己表現として自ら音楽を手がけるグループはほとんどいなかった。彼らは音楽作りを通じて互いに切磋琢磨し、優れた楽曲を持ち寄り、アルバムの選曲をめぐって熾烈な競争を繰り広げた。こんなバンドは他に類を見ない。

ビートルズの展示

彼らはヴォーカル・ギター・ベース・ドラムという構成を基本に、自ら手がけた楽曲を披露する「ロックバンド」という形式を確立し、その世界的な先駆者でありながら最高峰の成績を上げた。イギリスはもちろん、海の向こうのアメリカでも驚異的な人気を獲得し、1964年にはビルボードの上位5曲を独占するという偉業を達成した(現在も破られていない)。テレビに出演した際は視聴率が70%を超えたという嘘みたいな話もある。世界で最も注目されるグループになった彼らは、猫の手も借りたいほど忙しい毎日に追われた。そこで、1965年発表の「ヘルプ!(Help!)」(15位/RS誌100選)である。同曲はイントロがなく、「助けて!誰かが必要だ!」という叫びから始まる。


大西洋をまたぐ革命

博物館を出ると、マージー川に顔を向けるようにして3棟のビルが立っていた。あいにくの悪天のため色がくすんで見えるが、優美にそびえるその美しさから「スリー・グレイシズ」と呼ばれている。3棟いずれも20世紀初頭に建てられたもので、海運会社や保険会社、港湾局など貿易に関する機関が入居していた。奥の時計台は約100mもの高さを誇り、今でもその存在感は大きい。また、ひときわ優美な手前の2棟の壁面にはイングランド南部で切り出された白い石灰岩が使われている(白い石灰岩について詳しくはセブン・シスターズ編)。

スリー・グレイシズ

スリー・グレイシズのうち、ドームを持つ右側の建物に入った。現在、この建物には「英国音楽体験(British Music Experience)」という夢のような施設が入っている。2009年にオープンした常設展示で、戦後の英国における音楽史を概観し、時代ごとのブースではアーティストが実際に使ったギターや衣装、手書きの歌詞などを見ることができる。少しでもイギリスの音楽に親しみのある人なら鼻血が出そうになるほど楽しい場所だ。

解説は大西洋を超えた繋がりから始まる。第二次世界大戦後、アメリカ発祥の「ロックンロール」がイギリスに伝わった。「ロックンロール」とは、シンプルな3コードを基本としたリズム&ブルースに、カントリーなどの要素を加えたアップテンポな音楽のことである。その名自体が性的な隠語に由来するように、禁欲的なマナーを取っ払う反体制的なエネルギーを内包していた。アメリカでロックンロールが生まれたのは偶然ではない。リズム&ブルースを発展させたのはアメリカ南部の黒人音楽であり、ロックンロールの下地もそのカルチャーの中で培われたからだ。1950年代には、エルヴィス・プレスリーら白人のアーティストが火付け役となり、若者や労働者階級の音楽としてより広く認知されるようになった。

英米の繋がりを解説する電子パネル

しかし、その後のアメリカではロックンロールはしばらく下火となる。これに対し、外来のロックンロールを受容し再興を果たしたのが、イギリスのビートルズであった。彼らはアメリカの黒人音楽やロックンロールからの影響を自覚しており、訪米時の記者会見では真っ先に黒人音楽へのリスペクトを口にしている。

ただし、ビートルズの活動はアメリカの流行の二番煎じでは全くなかった。彼らは音楽面でもビジュアル面でも、「ロックンロール」を高次のレベルへと押し上げ、「ロック」という別物を作ってしまったからである。「ロック」は単純な「ロックンロール」とは異なり、そこに芸術的な要素を加えた発展系である。ビートルズは自ら作詞・作曲の担い手となることで自己表現としての音楽を追求し、「ロックバンド」という形式を世界に普及させた。また、リーゼントとレザージャケットがつきものだった「ロックンロール」から、モッズ風の柔らかい印象へとイメージチェンジを遂げ、より多くの人にアピールするとともに、容姿の面でも当時の若者の心を掴んだ。

ビートルズが再興・発明した「ロック」という新表現はやがてアメリカに逆輸入され、あまりの衝撃の大きさに「英国の侵略(ブリティッシュ・インベイジョン)」として恐れられた。ビートルズをめぐる音楽史には、アメリカからイギリスへ、イギリスから再びアメリカへ、という大西洋を超えた繋がりがあるのだ。

大西洋を超えたカルチャーは音楽そのものだけではない。LSDなどのドラッグは快楽を求める戦後世代の嗜みになり、ヒッピー文化と合わさって英米の若者に広まっていった。ビートルズもこうした流行を横目に、「楽な逃げ道」の「片道切符」というフレーズを交えて「デイ・トリッパー(Day Tripper)」という曲を書いている(1965年発表、39位/RS誌100選)。ちなみに、この曲のリズム感や際立ったベースラインにも、黒人音楽のリズム&ブルースからの影響が感じられる。


以上を踏まえると、ビートルズがリヴァプールから生まれたことは非常に興味深い。貿易都市であるリヴァプールの開放性こそが、世界中の文化の混淆を産み出し、ビートルズを育てる土壌となったと考えられるからである。

前述の通り、リヴァプールは大西洋三角貿易の一角として大英帝国の発展を支え、ヒト・モノの移動の玄関口となってきた。海峡を隔ててすぐのアイルランドからは歴史的にたくさんの移民が移住してきた(ビートルズのメンバーのうち3人はアイルランド系である)し、大西洋を跨いだアメリカとも数世紀にわたって交易を行ってきた。ジョン・レノンはリヴァプールの開放性について、次のように語っている。

リヴァプールにはアイルランド系の子孫や黒人、中国人がとても多く、他にもいろいろいた。(中略)リヴァプールはコスモポリタンで、船員たちはブルースのレコードを船に積んで帰ってきたものだった。

ジョン・レノンの述懐(小関, 2021, p.78)

リヴァプールはイギリスきっての開放的な都市であり、文化が交わる交差点であったからこそ、ビートルズを育むことができたのである。


ビートルズ、ライブをやめる

しかし、もし仮にビートルズが黄色い歓声で包まれる「アイドル」の座に甘んじていれば、彼らは世界最高峰のロックバンドにはならなかっただろう。ビートルズの評価を決定的にしたのは、わずか10年弱(1962年~1970年)のキャリアの中でも進化を恐れず、積極的に音楽の新技法を開拓しにいったからである。

時代背景も大きく関係していた。当時、音楽技術の発展によってスタジオで複数の音源を別々に録音・加工する「マルチトラック録音」が普及し始めていた。ビートルズの絶頂期は、「スタジオ録音時代の幕開け」のタイミングとも重なったのである。彼らはこの波に乗り、やはり先駆者ながら最高峰の到達者となる。1966年、ビートルズはライブ・ツアーを終了し、スタジオでのレコーディングに専念し始めた。音楽表現はライブから曲作り・レコーディングに、収入源はコンサートからレコードに移っていった。

1967年のビートルズ。もはやかわいげなアイドルではない。
(image by Capitol Records & Henry Grossman)

ビートルズがライブからスタジオに活動の場を移したことは、彼らの曲作りにも決定的な影響を与えた。1966年以降の楽曲は、それまでのTV受けする「アイドル」としてのビートルズを卒業し、クラシック音楽をも圧倒するような芸術性を纏い始め、まさに「実験家集団」としての彼らの姿を出現させることになったからである。


実験家集団としてのビートルズ

レコーディングで勝負するならば、作曲時もライブでの再現性を度外視したエフェクトやループを加え、誰も耳にしたことのないような音を作り出すことができる。例えば、ドラッグによる幻覚症状を再現するといった未踏の挑戦にも踏み出せるかもしれない。1966年発表の「トゥモロー・ネバ・ノーズ(Tomorrow Never Knows)」は、ジョン・レノンがLSDで「トリップ」した感覚を音楽に落とし込んだ作品である(18位/RS誌100選)。ドラッグの幻覚症状を再現した「サイケデリック・ミュージック」の代表曲の一つとされている。「心を休ませて下流に漂う、それは死ぬことじゃない」という哲学的な歌詞に始まり、別世界のような効果音が近づいては離れてを繰り返す。まさに音楽的実験だ。

この頃のビートルズはインド思想にも惹かれ始めていた。音楽性のみでなく歌詞や哲学にも奥深さを求め、しまいにはインド北部の山内に修行に行くなど前代未聞の領域にまで踏み出していった。デビュー当時、かわいげな「アイドル」像に押し込められていた彼らは、スーツを脱いで個性を爆発させ、長髪のジョン・レノンはオノ・ヨーコと手を繋ぐ新時代の教祖となった。その思想は彼らしい深遠なものなのだろうが、狂信的な信者を従えた彼ははたから見ていると少しオカルト的でもある。

ビートルズの最高傑作も「実験家集団」時代に生まれた。1967年発表の「ア・デイ・イン・ザ・ライフ(A Day In The Life)」だ。ローリング・ストーン誌のビートルズ100選で1位に輝き、「あまりにも強烈」な「ビートルズの頂点」(RS誌)、「ビートルズが生み出した最も重要かつ完成度の高い、疑いもなく歴史に刻まれる曲」(小関, 2021, p.100)などと評される一曲だ。

優しげなギターのストロークと囁くようなジョンの声で幕を開けるが、ポールのパートに移ったあと、気づけば音はどんどんアップテンポに、そしてどんどん高く大きくなっていき、最後は世界の破滅のようなピアノの強打が鳴り響く。まさに聞いている人の意表をつく展開だ。しかも、曲が終わったかと思いきや、最後に鳴らされるEメジャーの音はなんと40秒以上も余韻を残し続ける。スピーカーの音量を最大限にすれば分かるのだが、最後の方まできちんと録音に成功しており、斬新な音楽表現への飽くなき探究心が伝わってくる。

ビートルズの数々の実験は、「ロック」の地位そのものを変えてしまった。当初は労働者階級の音楽と見下され、到底メインストリームとはみなされていなかった荒っぽい「ロック」は、彼らの先進的な取り組みによって高尚かつ最先端の音楽へと発展し、ついにクラシック音楽との上下関係も揺るがし始めた。とりわけ「A Day In The Life」の終盤は、ビートルズのメンバーとプロデューサー(ジョージ・マーティン)がオーケストラを好き放題に使う試みとなっており、まさにクラシックとロックのヒエラルキーが逆転した瞬間だった(同, p.102)。ビートルズの手によって、「ロック」は決して馬鹿にできない音楽となったのである。


色褪せぬインパクト

ビートルズは方向性のずれや経営をめぐるいざこざなどから次第に溝を深め、1970年に解散を迎えた(なお、その10年後にジョン・レノンは凶弾に倒れてこの世を去った)。しかしそのインパクトは色褪せることなく、無数のアーティストに大きな影響を与え、今でも史上最高峰のグループとして音楽史に君臨し続けている。

そこで、1990年代のロックシーンについても軽く取り上げておきたい。当時はオアシス(Oasis)とブラー(Blur)という二大バンドがブリット・ポップ競争を繰り広げ、再び英国のロックが世界中に広まっていく輝かしい時代であった(クール・ブリタニアという)。

1990年代のブリット・ポップの展示。ちなみにケースの中央右寄りに置かれているユニオン・ジャック・ギターはOasisのノエル・ギャラガーが実際に演奏に使ったギターであり、これを見るためだけでも足を運んだ甲斐がある。

このうち、マンチェスター出身のOasisはデビュー当時から「同じ労働者階級」としてビートルズへの敬愛をたびたび公言しており、実際に歌詞の中にキーワードを混ぜ込んだり、メロディやリフを真似たりと、様々な形でビートルズからインスピレーションを受けていた。ライブでも頻繁にカバーし、1996年には前方の大画面にジョン・レノンの顔を映し出してリスペクトを示したこともある(YouTube)。Oasisがデビューしたのはビートルズのデビューから32年後になるが、ビートルズがこうした後進のバンドにもたらした影響力は絶大なものがあるのだ。

施設を後にした私は、坂を上がり市庁舎前の通りまでやってきた。多くの観光客が向かうのはやはり、スリー・グレイシズ前の広場にあるビートルズの4人の像と、市庁舎近くの路地にあるジョン・レノンの銅像である。ジョン・レノンの銅像は順番待ちになるほど賑わっており、周囲からはミュージックバーでの演奏の音が溢れるように聞こえてきた。

左:ビートルズの銅像、右:ジョン・レノンの銅像

ふと顔を上げると、はるか頭上ではカモメやウミネコなどの海鳥が飛び交っていた。やはり、海に開かれたリヴァプールだからこそ、世界を変えるロックバンドを輩出できたのだろう。


現在のリヴァプール

さて、現在のリヴァプールはというと、再開発や産業構造の転換を進めているものの、隣のマンチェスターなどと比べると少し活力に劣るというのが正直なところだ。失業率は5%を超えており、英国の都市としてはトップ10の常連だ(City Council; Centre for Cities)。観光客の集まる場所には、路上で物乞いをするホームレスがちらほらと目に入る。私が話を聞いた40代くらいの男性は、耳にタバコを挟み、透明なコップを抱えて座っていた。妻と離婚して家を追い出されてから職もなく、こうして路上で生活しているという。優しげで、綺麗な英語を話す人だった。未開封のドリンクを一本手渡すと彼は丁寧に感謝を述べた。

さらに坂を登り、東の方に進むと中心街に着いた。小腹が空いたので、目に留まった店でハンバーガーを頂くことにした。焼きたての肉の上に野菜をたっぷり載せたボリューミーなハンバーガーで、値段は5ポンド(おそらくロンドンではこの2倍近くするのではないだろうか)。店員はブルガリアから来たという18歳の青年で、笑顔でハンバーガーを手渡してくれた。美味しかったと伝えて店を出ると、「5つ星つけといて!("put five stars!")」という声が飛んできた。

ハンバーガーを頂いたお店

残された時間で、まずはWalker Art Galleryという美術館に向かった。貿易がもたらした蓄財を背景に多様なコレクションが残されており、マンチェスターのケースと同様、産業の発展が文化の発展を支えた構図だと言える。しかしリヴァプールの収入が奴隷貿易や搾取的な労働の上に成り立っていたことを考えると、豊かなコレクションは身の毛のよだつような残酷さも帯びている。

右の絵はウィリアム・ホガース作「リチャード三世を演じるデイヴィッド・ギャリック」

続いて中華街へ足を運んだ。ロンドンやマンチェスターと同様、貿易都市のリヴァプールにも立派なチャイナタウンがあり、その入り口には大きな門が立っていた(マンチェスターの門より大きいのではないかと思う)。ジョン・レノンの言う通り、リヴァプールには海を渡ってきたたくさんの移民が暮らしているのだ。

チャイナタウン

バスの時間が刻一刻と近づく中、最後に小走りで駆け込んだのが、丘の上にあるリヴァプール大聖堂である。英国一巨大な大聖堂と呼ばれているだけあって、外から見ても中から見てもその大きさには驚愕させられる。上を向くと天井は抜けるように高く、感嘆の声が漏れそうになるほどの開放感が広がる。煌びやかなガラス窓と照明が砂岩を柔らかく映し出しており、アーチの繋ぎ目も絵画のように美しい。

うっとりしていたら時間切れになってしまった。バスに間に合わせるため、スリー・グレイシズの頭をめがけて丘を駆け下った。ビートルズもこの景色を見ながら走ったことがあるだろうか。私の頭の中には、今日も彼らの音楽が流れている。


つづく・・・。



【参考文献】

  • 小関 隆(2021)『イギリス1960年代:ビートルズからサッチャーへ』中央公論新社.

  • 田所 昌幸(2025)『世界秩序:グローバル化の夢と挫折』中央公論新社.


いいなと思ったら応援しよう!

へいすてぃ よろしければ応援お願いします!記事は全て無料公開中。チップが励みになります