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働きやすい会社は、社員から「普通」を奪わない

新卒で入ったスーツ販売店では、僕の「普通」が毎日少しずつ消えていった。

勤務開始は午前10時。

ただし、新人は誰よりも早く来るものだと教えられ、僕は9時20分には店にいた。

店頭に旗を立てる。
床を掃除する。
店内の電気をつける。
開店の準備を進める。

9時46分になったら、タイムカードを押す。

それでも、給料の計算は10時からだった。

つまり僕は、毎朝40分ほど働いているのに、その時間は最初から存在しなかったことにされていた。

先輩からは、こう言われた。

「新人は一番に来るものだから」

当時の僕は、会社がおかしいとは思えなかった。

むしろ、

「社会人とは、こういうものなのかもしれない」
「新人なのだから、これくらい当然なのかもしれない」
「嫌だと感じる自分が甘いのかもしれない」

と、自分のほうを疑っていた。



「新人だから」で、人の時間は無料になる

今振り返れば、明らかにおかしい。

でも、新卒にとって、最初に入った会社のルールは「社会のルール」に見える。

先輩たちが当たり前のように受け入れている。
同期も何も言わない。
誰も問題にしていない。

すると、異常なことまで「社会人なら我慢すべき普通」に見えてくる。

朝の40分だけではなかった。

休憩は、本来90分あることになっていた。 けれど、本当に90分休んでいたら怒られる。 20分ほどで売り場に戻るのが、暗黙のルールだった。

書類の上では休憩がある。

でも、実際には休めない。

制度は存在する。

ただし、使うと嫌な顔をされる。

そんな環境だった。



夜11時まで働いても、給料は増えなかった

夜11時まで残業する日もあった。 残業代はつかなかった。 休日に出勤しても、お金は出ない。

というより、その会社には「休日出勤をしている」という感覚そのものがなかった。

休みでも、仕事があれば出る。ようやく休めると思った日も、新人研修で削られた。

それだけ働いて、

手取りは約12万円。

今こうして並べると、どう考えてもおかしい。

それでも当時の僕は、

「仕事を覚えるまでは仕方がない」
「新卒なのだから、まずは耐えるべきだ」
「ここで辞めたら、どこへ行っても通用しない」

と、自分を納得させようとしていた。



ブラック企業が最初に奪うのは、お金ではない

もちろん、お金も時間も奪われていた。

でも、今振り返って一番怖いと思うのは、そこではない。

あの会社で最初に奪われたのは、

「これはおかしい」と判断する、自分の感覚だった。

異常な環境に長くいると、人は環境より先に自分を疑い始める。

周りも耐えている。
先輩も同じ働き方をしている。
誰も声を上げていない。

だから、自分がつらいと感じることのほうが間違っているのではないかと思う。

「辞めたいけれど、自分が甘いだけかもしれない」
「どこの会社に行っても同じかもしれない」
「この程度も耐えられないなら、次も続かないかもしれない」

会社を辞めたいのに動けない人の中には、退職後の不安だけで止まっている人もいる。

でも、それ以上に、

自分の違和感を信じられなくなっている人もいると思う。



福利厚生は、壊れた土台を直してくれない

働きやすい会社と聞くと、福利厚生を思い浮かべる人は多い。

住宅手当。 社員食堂。 特別休暇。 無料のドリンク。 おしゃれなオフィス。

もちろん、あるに越したことはない。

でも、本当に働きやすい会社を決めるのは、そこではないと思う。

働いた時間が、正しく扱われる。
残業したら、その分の対価が支払われる。
決められた休憩を、普通に取れる。
休みの日は、普通に休める。
理不尽なことを、理不尽だと言える。

僕があの会社で欲しかったのは、特別な制度ではなかった。

人として、普通に扱われることだった。

無料のコーヒーがあっても、毎朝40分が消えていい理由にはならない。 特別休暇があっても、普段の休憩すら取れないなら意味がない。

採用ページに「社員を大切にしています」と書いてあっても、働いた時間をなかったことにする会社が、本当に社員を大切にしているとは思えない。

福利厚生は、ゼロにプラスを足すものだ。

マイナスを隠すための飾りではない。



いい会社は、「何があるか」より「何を奪わないか」

会社を選ぶとき、僕たちは「何をもらえるか」を見がちだ。

給料はいくらか。
手当はあるか。
休暇制度は充実しているか。
キャリアアップできるか。

でも、それと同じくらい、

その会社では、何を奪われないか

を見たほうがいい。

働いた時間。
休む権利。
仕事が終わったあとの生活。
自分の意見を言える安心感。

そして、「これはおかしい」と感じる自分の感覚。

本当に働きやすい会社は、夢のような特典を与えてくれる会社とは限らない。

人としての普通を、静かに守ってくれる会社だ。

決められた時間に働き、働いた分の給料が支払われる。休憩時間には休める。休日には仕事から離れられる。

文章にすると、あまりにも地味だ。でも、その地味な普通が守られていることこそ、働きやすさの土台だと思う。



3か月で辞めた。正解だった

僕は、そのスーツ販売店を3か月で辞めた。

当時は迷った。

新卒で入った会社を、たった3か月で辞めていいのか。
履歴書に傷がつくのではないか。
根性がない人間だと思われるのではないか。
もう少し頑張るべきではないか。

でも、今ならはっきり言える。辞めて正解だった。

3か月で辞めた僕は、仕事から逃げたわけではない。

普通が壊れている場所から、自分の感覚まで壊される前に離れただけだった。

理不尽に慣れることと、社会人として成長することは違う。

我慢できることと、我慢すべきことも違う。

長く耐えた人が偉くて、早く離れた人が弱いわけでもない。



「辞めたい」と思う自分を、最初から否定しなくていい

会社を辞めたいなと思いながら、毎日を過ごしている人もいると思う。

今すぐ辞める必要はない。勢いだけで決断する必要もない。

ただ、「辞めたいと思う自分は甘い」と、最初から自分を否定しないでほしい。

一度、自分の会社で失われている「普通」を考えてみてほしい。

働いた時間は、正しく扱われているか。
休むことに、必要以上の罪悪感を持たされていないか。
休日まで、当たり前のように仕事に侵食されていないか。
会社の問題を、自分の努力不足として背負わされていないか。

福利厚生を見る前に、普通が守られているかを見る。

会社が掲げる言葉ではなく、毎日の扱いを見る。そして、自分が感じている違和感を、なかったことにしない。普通がない場所で苦しいと感じるのは、あなたが弱いからではない。まだ、自分の感覚が残っているからだ。

働きやすい会社は、社員に特別なものをたくさん与える会社ではない。

まず、人の時間を奪わない。 休むことを責めない。 働いた分を、なかったことにしない。

社員から「普通」を奪わない。

それが、人間らしく働くための最低条件だと思う。


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