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エッセイ 『ロストイントランスレーション』

私は、過去のエッセイで、私が年々、友人関係であっても恋愛関係であっても、人と関係性の距離が近づくほど怖がられて、徐々に距離を取られてしまうことの理由について考えてきたが、その解像度が上がったので書こうと思う。

結論を先に言うと、
「私が人間を愛していないから」
または、
「私の”愛情の受信感度”が弱いため、相手に十分な愛情を返すことができていないから」である可能性がある。

現在、せっかくプロジェクターとスクリーンを買ったので、クリストファー・ノーラン監督の映画『インターステラー』を観ている。

異常気象で作物が育たなくなった地球に見切りをつけて、他に住める星を見つけに宇宙に探検に行くというストーリーである。

元宇宙船のテストパイロットで、現在は農業をしている主人公の男性・クーパー(マシュー・マコノヒー)は、NASA(アメリカ航空宇宙局に、パイロットとして宇宙へ探検に行くように依頼される。

クーパーの妻はすでに亡くなっており、義父と娘のマーフ(10歳)と息子(15歳)との4人暮らしである。

未知なる宇宙への旅で、ワームホール(別の銀河にワープできるやつ)とか通る予定だし、地球に戻ってこれる可能性は結構低い探検であることをクーパーは知っている。

一応、大義として「人類や子供たちの未来を守るため」という目的を元に探検に行こうとするが、クーパーはめっちゃ知的好奇心旺盛なので、「未知への興味」が本当の理由である。

ちゃんとそのことを義父に気づかれていて、普通に注意されるシーンがある。

義父:この世界は物足りないか?
クーパー:つまり俺が宇宙に取りつかれていて、興奮してると?悪いことじゃないだろ?
義父:違うな。正しい行いが誤った動機ではいかん

『インターステラー』

つまり、「自分の好奇心を優先して、娘たちを置いていくのか?もう多分2度と会えないんだぞ?ひどくね?」ということを、家族として普通に注意されてるわけである。

しかし、クーパーはそんなのお構いなしで、娘にも「置いていかないで!」と泣きつかれるが、悲しむ娘を置いて普通に宇宙に旅立つ。

つまり、彼には家族に対する「愛情」というものはちゃんとあるが、父親である前に、生き物としての研究者なのだと思った。そのため、何の迷いもなく娘たちを置いていく。

私は、クーパーのこの行動を見て、「明るいな」と思った。

この「明るい」という感覚を説明するのはかなり難しいがトライしてみようと思う。

まず、この「明るい」とは、「陽気である」という意味ではない。ワクワクするという意味で「希望が持てる」という意味だと思う。また、何かの分野に精通していることを、例えば、「心理学に明るい人」などと表現すると思うが、そういう意味でもある。

そのため、知性や好奇心の強度がある人や作品を、私は「明るい」と感じる。
それは、言葉を変えると「発展の可能性」のようなことかもしれない。

私が最も恐れていることの一つが「退屈」である。
そしてそれは、全てが予定調和になり、自分にとって未知のことがなくなる生活になることが恐ろしくてたまらないということである。

それとは逆で、「未知」とは私にとっての希望なのだと思う。
それは自分にとっての「発展性」と言ってもいい。自分の世界や人生に何も変化や進化や新鮮味がなくなることは私にとっては「終わり」である。私にとって、何も新しいものが強度高く出てこない世界に残るのは「虚しさ」だけである。

そのため、娘たちを置いていったクーパーは普通に「ひどい」が、同時に私は、彼に希望を感じたのだと思う。
彼は、滅びゆく地球で娘たちとの人生を送ることよりも、未知なる宇宙を見にいくことを選んだのだ。

つまり、彼は、「家族(人間)」よりも「未知」の方を、より愛しているという意味で、生き物としての「研究者(探究者)」なのだと思った。

私は、過去のエッセイで、「格下」に上から甘える(マウントを取る、先輩然とする)ことができないと書いた。
ここで言う「格下」とは、学校や職場での後輩や、年下や、精神的後輩や、また、過去に書いた「プライド蹂躙ゲーム」や「関与力のパワーゲーム」で私が勝った相手である。

これらの相手にも、私は、同等然として、友達のように接してしまう。その理由として、人に対して上から接するという「マウント行為」自体が下品であるという価値観があることや、自分が認めていない相手に関与されることをプライドが許さないからではないか、などと過去に仮説を立ててきた。

ここでの「関与されること」とは、私が相手に上から甘えて(マウントを取るという迷惑をかけて)、相手にそれを受け入れてもらうことで、相手との深い関係性を作るということである。

上下関係をつけて他人に対して上から接することは、他人を見下しているひどい行為だと一見見える場合もあるが、実は、私がしている「上から接さない」ということの方が、相手を「受け入れていない」、つまりまともに深く関係性を築く気がない、まともに関わる気がない、という意味では、マウントを取るよりひどい「相手の存在価値の否定」につながる行為である可能性がある。

そして、実際、私は、格下にマウントを取らないことで、相手は私に「認められていない」と感じて、私と親しく関わることを怖がって、私から距離を取ったり、去ったりしてしまっているパターンが多いように思える。

私は、今まで、私のこの行動は、日本的価値観(上下関係を重んじる)と、欧米的価値観(個人の尊重を重んじる)の違いであり、私は、後者の価値観が強いため、人と上下関係をつけて接しようとしないのではないかと考えてきた。

つまり、逆に、日本人は、他人と親しく関わる場合、ソフトにであっても上下関係をつけないと関われないのではないかということである。
それは、「上下関係という甘え合い」ができないためである。

「互いに互いの至らなさ(迷惑、甘え)を受け入れる」という意思表示のために、どちらかが格上になり相手に上から接することで、それが相手に対する「甘え(迷惑)」のファーストステップになり、親しい「関係性」というものを築くことができ、そして、これがないと日本人は怖くて他人と親しくなれないのではないかと過去に書いた。

なので、私が、「プライド蹂躙ゲーム」や「関与力のパワーゲーム」で勝っている相手に、ソフトにであっても「上から接する(マウントを取る)」という行為をしないと、相手は私と親しくすることができないのではないかということである。

私が、頑なに、他人に対して上から接することがない理由として、上記した理由以外にも、本質的に「格下に興味がない」ということがあるのかもしれないと思った。

ここで言う「興味がない」とは、相手と関わりたくない、相手と関わっても楽しくないという意味ではなく、「真っ当に関係性を築くモチベーションがない」という意味である。

上記したように、私は「未知」に一番価値を置いている。
そして、『プライド蹂躙ゲーム』などでも書いたが、私が人間の「格」として、置いているのが、精神性である。

そして、「格」云々の前に、私が他人に一番「興味」を感じるのは、知性とセンスを強度高く持っている人である。

知性とは、私的には、精神性(他者を思いやり尊重する気持ち、真心)+知能だと思っている。

そして、「知性」をある程度相手に感じない場合、私は相手を「発見」することができないため、よって、発見することができていない対象を「認める」こともできない。
これはプライド云々の話ではなく、私が「能力的に出来ない」ということである。

なぜなら、相対的に見て、知性がある程度ない人は、私を「発見し、認めること」ができないためである。

これはつまり、例えば、純文学や芸術系の映画をほとんど読んだり観たりしたことがない人が、そういう作品を読んだり観たりした場合、ストーリーを追うことはできても、何が描かれているのかや、そのストーリーを持って何を伝えてようとしているのかや、また、叙情性含め、どういう「良さ」があるのか、または悪さ(至らない点)があるのか、「発見」することができないことと同じである。

これは、お酒にグルメではない人が、「何年モノ」みたいなウイスキーを飲んで「いいね」と言っても、実際は、そのウイスキーの良さを強度高く「発見し、認める」ことはできていないことと同じである。

つまり、この場合、この人は、その作品やウイスキーのことが「見えていない」という比喩表現をすることができる。
そして、このことと同じで、私は、ある程度知性を感じない人は、私のことを「見えていない」と感じる。つまり、私のことをあまり「理解していない」ということである。

そのため、心理的な意味で、相手と真っ当に「目が合った」と感じることがない(私のことが見えていないため)。
この「目が合う」という感覚を「意思疎通」と言うのだと思う。

そして、「精神性」という要素を重要視している点もここにある。
知能だけ高くても、例えば、「人をいじめるのは良くない」という精神性・感覚を共有できない場合、相手から私を「理解されている」とは感じないため、意思疎通の感覚は感じないため、私が相手を発見することができないためである。

そのため、私は、目が合わない相手の存在を強度高く発見することができないため、「認める」こともできない。

それではなぜ、私以外の多くの人は、知性(知能+精神性)が合わない相手、つまり、自分のことを「理解していない」他人に「マウント」を取って、積極的に相手を「認めよう」とするのかというと、おそらく、彼らには相手に対する「愛情」があるためである。

過去にも話題に出したが、おばあちゃんが、知性も合わない、理解もしてくれない「孫」の存在価値を発見し、認めることができるのは、孫に対して「愛情」があるためである。

私はおそらく、私のことを強度高く理解してくれない存在に対して、つまり、意思疎通の感覚をあまり感じない対象に「愛情」というものをあまり感じないのだと思う。
そのため、現段階で私は「子ども」にあまり興味がない。そして、猫よりも犬の方が好きである(より意思疎通が取れるため)。

そのため、私にとってももちろん他人の「ルックス」などは「魅力」であり「格」なのであるが、私は知性をあまり感じない対象がものすごくイケメンだったり美女だったりしても、造形の良いロボットのようにしか感じないことも多い。あまり、人格を保有しているように感じないということである。

そして、相対的に見て、知性がある程度ない場合、私は相手に「未知」を強度高く感じることができない。
思考や、出してくる情報、などに新鮮味や知的な強度がなく把握できるものが多い場合、私は「未知」に強度高く触れることができずに、私は狭い世界に閉じ込められてしまう。つまり、家の中から外に出ないし、ネットなどでも外の情報に触れない生活のような退屈さと虚しさと閉塞感を感じてしまうのである。

そして、関わっている相手がどういう人間か大体理解できてしまい、また、新しい情報も出してこない状態になると、私は、相手の「底が見えた」という感覚になる。
つまり、行き止まりがきて、そこからもう世界が広がらないということであり、この状態になると、私は相手に途端に興味をなくしてしまうことも多い。

これは、相手と関わることが、宇宙(未知)への探検の旅ではなく、地球に留まり、変わり映えのない毎日を生きる状態になるというような感覚になるということである。

ただ、知性が合わない相手であっても、好奇心が旺盛で、どんどんと自分の世界を広げて、新しいものを見ようとしている強度が強い人であれば、私はそこに「未知」への可能性を感じ、「明るさ」、魅力を感じることはある。
つまり、他人との「意思疎通」や、他人からの「理解」とは、この「好奇心の強度」も含めてであることがわかる。

そのため、私は、知性における「格下」に「未知」を強度高く感じないため、相手を真っ当に愛することができず、相手にマウントを取ってまで深い関係性を築くという、積極的な関わり方ができないのではないかということである。

そのためプライド蹂躙ゲーム(特に精神性や知性という要素)において、私に勝ってくれるか、せめて引き分けてくれる人でないと、相手に未知を強度高く感じないため、相手を愛することができないのではないか。

私は、映画や小説などで、私よりも知性が低い作中人物であっても「愛している」と感じることがあるが、それはその作中人物が内包されている作品が私にとって「未知」だからである可能性がある。

つまり、私が持っていない、理解しきれない、知性やセンスや情報が込められた作品が、キャラクターのことを発見し認めているため、私は作品の「未知」ごと、キャラクターのことを愛せるのかもしれない。

そうすることで、私は作中人物のことであれば、その人物が格下か格上かなど関係なく、発見し、認めることができるのだと思う。

そのため、私が愛しているのは、「人間」そのものではなく、人間が持つ「知性」という「未知」なのかもしれない。

しかし、相手に知性を感じれば、私は相手自体にも愛情を感じることができるので、私自身を「サイコパス」と呼べるのかどうか不明である。

他人にマウントを取ることができる人は、どういうプロセスで他人を愛しているのだろうか。
例えば、相手の顔面の造形が美しくて好きだから相手を愛している場合、それもある種、「サイコパス的」なのではないのか。

ただ、ほとんどの場合は、相手(格下)からの「気持ち(愛情)」に対して、相手への愛情を持つことができるということかもしれない。

ただ、私は上記したように、ある程度相手からの「理解」、相手との「意思疎通」を感じないと、相手からの愛情が私に向けられていたとしても、私はそれを「感知」することができないのかもしれない。

そのため、「知性」が私にとっての「人間存在」である可能性が高いと思った。
なぜなら、それが、相手との「意思疎通」という「交信」の可能性を生むためである。

「交信」が強度高くできない相手からの「愛情」を私は受信することができないということかもしれない。
そのため、相手は、私に対して自分の愛情が響いていない(届いていない)と感じて「怖い」と感じるのではないか。

そういえば、私は、作品からは「愛情」を強度高く感じることができるため、私も作品や作中人物に愛情というものが発生して、作品やキャラクターに対して愛情を向けることができているように思う。
それは、作品と、「知性の共有」という意思疎通感覚が生まれ、作品と強度高く「交信」しているためであると思った。

結論:"孫"からの愛情の受信感度を開発セヨ



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