エッセイ 『プライド蹂躙ゲーム』
最近のエッセイで、友人関係であっても恋愛関係であっても、私が、距離が近づくほど人から怖がられて去られてしまうことの原因を探ってきたが、その解像度が上がったので書こうと思う。
私が、私のどういうところが「怖い」と感じるのか、色々な人に聞いてみたところ、人間関係において発生する「あるゲーム」の存在が浮かび上がってきた。
そして、私は、そのゲームに無意識的に参加していて、そして、そのゲームが強すぎて怖がられてしまうというのが今回の結論である。
多くの人には「プライド」というものがある。
それは、私がよく話題に出す「アイデンティティ」とも深く結びついていて、簡単に言うと、自分の「格」の自覚である。
そして、自分の存在の「格」を高く見積もっているほど、「プライドが高い」と言うのだと思う。
人と人が関わる時、特に、同じコミュニティに属したり、友人になったり、恋人になったりというようなある程度近い関係性の場合、おそらく人は無意識的にお互いに「戦って」、どちらが精神的主従関係において優位に立つのかという攻防をするのだと思われる。
便宜上、これ以下ではこのゲームのことを「プライド蹂躙ゲーム」と呼ぶ。
このことは、最近のエッセイで書いてきた、私が嫌っている、人間関係で「上下関係」を決めようとする戦いや文化に非常に似ているので、私は、人に対して優位に立とうとするゲームなどしていないと思っていた。
この一般的によく言われる上下関係を、以下では便宜上「マウントゲーム」と呼ぶ。
ただ、この二つの上下を決めるゲーム(戦い)は、それぞれ目的が違う。
「プライド蹂躙ゲーム」の目的は、相手のことを愛でること、
「マウントゲーム」の目的は、テイカーとして他人のアイデンティティを奪い自分のアイデンティティを保障することである。
私は、「マウントゲーム」が非常に嫌いである。
人の上に立って、相手から自信を奪うことで自分の自信を得て自尊心を保とうとすることは、見ていることも、参加することも、とても醜く、不快で、楽しくないからである。
「プライド蹂躙ゲーム」の説明をするにあたり、私が人からなぜ怖がられるのかを書いていく。
まず、私は、基本的に、人に対して「素」で接することがないことがわかった。
これは、心理的な壁を張り、ものすごく表面的に人と接するというような意味ではない。
おそらく私は、一般的な日本人より、人とフランクに近しい距離感で接する方だと思う。
自分がどういう人間なのか、どういう気持ちを持っているのか、ということも開示する方だ。
しかしながら、私は、ある程度慣れている人の前ではほぼ素ではあるが、「相手に気を遣っている状態」であるという意味で素ではないということだ。
なぜなら、「プライド蹂躙ゲーム」の勝敗を決めるのは、相手より大人でいることであるからである。
「プライド蹂躙ゲーム」において競っているのは、人の「格」なので、より相手に気を遣うことができる方が勝つのである。
そのため、相手や人に対して気遣いができず、子どもっぽい姿を見せるということは、人間的にその人がどういう人なのか、という「底」が見えてしまうということだ。
これは、最低限の気遣いが前提にある、意図的に子どもっぽく振る舞うコントロールされた姿のことではなく、否応なく出てしまった人としての至らなさのことである。
なので、「プライド蹂躙ゲーム」をしている私からすると、「マウントゲーム」のプレイヤーというのは、「格下」なのである。
なぜなら、人にマウントを取り尊大に振る舞うという行為は、人として幼稚で、害悪的で、品格がないからである。
そのため、もし大企業の社長が私に、自分の地位や年収を誇示しマウントを取ってきた場合、それは私が気を悪くするかもしれないということに対する気遣いがまるでないため、その人は、人として私より幼稚で格下なのである。
そして、「プライド蹂躙ゲーム」における、「負け」とは、相手に自分がどういう人間なのか理解されてしまうことである。
なぜなら、どういう人間か=その人の「本質」だからである。
過去のエッセイで書いたように、人の本質とは、「恥と醜さ」だと思われる。
つまり、人として品格を保てないという意味で至らない部分がその人の本質なのである。
大人が子どもっぽい言動をした時に、恥ずかしい、みっともない、ダサい、と言われてしまうのは、幼稚さ=恥と醜さだからである。
そして、幼稚さの一番大きな要素は、他者に対する気遣いのなさである。
逆に、他者に対して、気遣い、気配りができる子どもを見て、大人っぽいと、その品格を褒めるのはこのためだ。
ここでいう気遣いとは、基本的には、他人が不快になるような態度言動をしないことや、他人を尊重することである。
つまり、マナーとリスペクトを持って他者と接するという強度のことである。
そして、これは、遠い距離感であればできる人は多いが、タメ口で話すような近しい距離感になるほどできなくなる人が多いように思う。
自分の素に近づくほど、自分を取り繕うことが困難になり、自分の本性が出てしまうからである。
そのため、近い距離感になるほど、人としての格の違い、つまりどちらがより自制心やマナーや思いやりを持っているかというものが浮き彫りになる。
この距離になるほど、人は、自分の本質を相手にバラしてしまうことになるのである。
つまり、その人の人間性的な「底」を見られてしまうわけである。
これが、人の本質(恥や醜さ)を見たという意味において、その人がどういう人か理解された状態である。
なぜなら、幼稚さというものは、取り繕うことのない「本当の素」だからである。
逆に、底が見えない人、というのは、普通の人が知らないようなことまで知っている博識の人のようなことではなく、この「本当の素」を見せない人のことだと思う。
つまり、この「プライド蹂躙ゲーム」においては、先に幼稚さを見せた方が負けなのだ。
なので、「どっちが大人ゲーム」と言い換えてもいい。
そして、私は、この自分の本質(幼稚さ)を人に見せないゲームにおいて、かなり上級者なのだと思う。
そのため、気遣いの強度などを見て、いかに私が人に本性を見せないかという圧力が生まれて、それがある種の「壁」を人に対して張っているように感じられて、人を寄せ付けないオーラが出てしまっているのだと思われる。
つまり、「この人全然心開かないな」と思わせてしまうということだ。
なぜなら、人はおそらく、心を開いた相手には、あまり気遣いをしすぎない素の状態というものを見せるからである。
この気遣いをしない、つまり自分を取り繕わない状態で接するということが「私はあなたのことを信頼していますよ」という意思表示なのである。
逆に、私は、前回のエッセイでも書いたように、人間性、つまり大人性をリスペクトしていない人の前で、怒りや悲しみなどのネガティブな方向性で感情的になることがあまりできない。
なぜなら、感情的になる=自分の幼稚さ、本性、素を相手に見せて、自分がどういう人間なのかを晒すことになるからである。
しかしながら、私は、自分の本性を人に見せたくないために、頑なに隠しているわけではない。
むしろその逆で、私は自分の本性を人に見に来てもらいたいという願望がある。
しかしながら、おそらく、見て欲しいのは、私が自分の本性を隠すために引いている知性や精神年齢や人間性などの防御網を突破して、私の本質を見ることができる人だけである。
そういうプロセスを経て私を「理解」してくれた人にだけ、私は心を開いて、甘えることができる、つまり、取り繕わない幼稚な自分を晒すことができるのだと思う。
つまり、私が日々本気で取り組んでいるこの「プライド蹂躙ゲーム」において、私は「負けたい」のだ。
ある方が言うには、特に恋愛においては、これが「惚れた」という状態であるらしい(惚れ方にも色々あると思うが)。
なぜなら、私は、自分がこのゲームで負けることにより、初めて他人のことを人として尊敬できるからである。
そのため、私は、親や友人や先輩や上司や教授のことは基本的に尊敬していないが、大人っぽい思慮深さゆえに好んでいる作家、映画監督や、今まで出会って自分より大人だと思った数人は尊敬している。
これらのことからわかるのは、私は、「大人性」というものにものすごく価値を置いていて、人の格をそのゲージで測っているということである。
そして、自分より大人な人に、刺激、安心感、尊敬を感じるということである。
私は以前から、恋愛関係だけに限らず、他人が私のことをどれだけ包容できるのか、つまり、私の幼稚さ(本質)をどれだけ理解した上で許容できるのかという度合いによって、相手に存在感や好意を感じていたように思う。
「包容力」という言葉があるように、自分より精神的に大人であり、人に対する愛情深さや思いやりや気遣いがある人には、おそらく、単に態度が柔和であるというような印象だけでなく、この、自分の幼稚さを理解された上で許容されたり愛でられたりされているという実感を感じるのだと思う。
そして、理解された上で許されているという実感をすることで、その精神性に甘えたいという気持ちが発生するのだと思われる。
つまり、私は人に「許されたい」のであるが、私が「許された」と感じるのは、私の防御網を突破して私の幼稚さ、醜さを理解した上で、まだ私のことを愛でてくれる人だけだということだ。
私にとってこの「プライド蹂躙ゲーム」を重んじる気質は、人と関わる上での足かせであり、同時に、刺激的な遊びなのだと思う。
どちらが相手のことを先に理解するのか、というせめぎ合いが、人間関係の一番の楽しみだからだと思うからだ。
そして、この大人ゲームにおいて負けた場合、相手に「プライド」というものが折られるわけである(何がその人のプライドを支えているかにもよるが、大人性というものは多くの人に共通するプライドを構成する要素である)。
前回のエッセイで、私は「プライドが高い」と人から言われてしまうと書いたが、私が、ここまで人に対して自分の本質を見せることを拒む理由は、上記したような「楽しみ」のためだけでなく、プライドが異常に高く、簡単に折りたくないからだと思われる。
そのため、私のプライドを折ってもいい人のレベルを、自分の中で出来るだけ高い位置に設定したいという心理があるのだと思う。
"この人になら"、折られても自尊心がそこまで減らないと思うからである。
そして、自分のプライドを折った人、というのは、精神的に格上であると認めているということになるため、折られた側は精神的にある種の支配を受けることになる。
人によって強度の差はあれど、ある程度相手の言うことを受け入れてしまうようになるということだ。
それは、要求だったり、思想だったり、在り方だったり、趣向だったりする。
強要されてではなく、自分が望んで戦った結果負けて被支配の状態になることが喜びであるのは、単に包容してくれる相手に自分をさらけ出せる安心感だけではなく、精神的SM的な要素があるからなのだと思う。
これは私の好きな作家・村上龍が度々描いている、支配・被支配の関係、精神的な奴隷としての快楽のエロティシズムと同じものだと気づき、私が彼の作品が好きなことの理由の一つだと気づいた。
そのため、このゲームは恋愛と非常に相性がいい。
つまり、人はリスペクトしている相手に精神的に屈することが快楽であることもあるということである。
今回の内容に当てはめてみると、私は、前からこのゲームの強者が好きであることがわかった。
例えば、私がずっと好んでいる椎名林檎のような人である。
彼女のメディア露出を見ていると、彼女自身はフランクで気さくなのであるが、品格を落とさないため人を緊張させると言われているのを目にする。また、人を寄せ付けない雰囲気があるということも理解できる。
おそらく、彼女が人を緊張させるのは、つまり、人を怖がらせてしまうのは、幼稚な姿(本質)を見せようとしない、ということと、他人の幼稚な部分を見透かそうと、ものすごく人のことをジャッジしているからであると思われる。
言いようによっては、これもある種の「マウント行為」、「マウント心」なのであるが、「マウントゲーム」のマウント行為と違うのは、目的が相手を蔑むためではなく、愛でるためであるということだ。
つまり、簡単に言うと、相手の可愛い(幼稚な)ところを探しているのである。
つまり、「プライド蹂躙ゲーム」は、「可愛がられたら負けゲーム」とも言える。
しかし、この「可愛がる・愛でる」というのは、単に相手のお茶目な部分を可愛いとするようなことではなく、もっと本質的な幼稚さを「認める」ということである。
なので、通常、人は、自分が本当にダサい部分は人には見せたくないので、その可愛さを見せないように守ろうとするのだ。
そして、このゲームはおそらく、相対的にある程度同じ「大人レベル」の人同士でしないと成り立たないのだと思われる。
簡単に"可愛い"ところを見せる人は物足りないし、「いい勝負をした結果負けた」のでないと、プライドが折られすぎてしまうからだ。
そのため、私が人に怖がられてしまう理由として、このゲームが得意で、かつ、無意識的ではあるが、誰に対してもこのゲームの上で関わっているからかもしれないと思った。
つまり、多くの人がそうなのかもしれないが、人間関係=プライド蹂躙ゲームになってしまっている可能性があるということだ。
一向に見せようとしない本性(幼稚さ)と、相手のことを無意識的に観察しジャッジして幼稚性を見透かそうとしているスタンスというものがおそらくある種の圧力として伝わってしまうからである。
また、私に対して興味を持って仲良くなろうとしてきてくれた人も、ある程度私と関わると急に怖がり出して去ろうとするのは、このゲームにおいて勝負にならないほど力の差があることに気づくからだと思われる。
そのため、村上龍を読みすぎてゲーム上級者になってしまった私に、気軽に人が近づきやすい状態になるには、このゲームをなんとかしてやめないといけないということだ。
ただ、そのためには高すぎるプライドをなんとかしないといけないということで、これは、「尖っている」ということでもあるのかもしれないと思った。
尖っているとはつまり反骨精神のことであり、つまり、基本的に誰にも上に立たれたくないということである。
そのため、私が人から怖がられなくなるには、もっと年齢を重ねて、丸くなる必要があるということかもしれないと思った。
それまで待てないのであれば、ゲームのオンオフスイッチを見つけるしかないので、その方法やこの問題の対策もこれから考えていきたい。
