エッセイ 『関与力のパワーゲーム』
私は、過去のエッセイで、私が年々、友人関係であっても恋愛関係であっても、人と関係性の距離が近づくほど怖がられて、徐々に距離を取られてしまうことの理由について考えてきたが、その解像度が上がったので書こうと思う。
結論から言うと、
「関与力のパワーゲームにおいて、私が相手をぶっ潰してしまっているから」という可能性がある。
私は最近、「精神的に成熟した大人である」という意味で「尊敬」している相手と、恋人や親しい友人の距離感に入ったことがないので、そういう相手とその距離感で対した時の自分の状態というものを忘れていたが、過去にそういう状態になっていたことを思い出して違いを発見したので書いてみようと思う。
私は、リスペクトがない相手にも、相手を尊重するスタンスはあるので、上から接することはないが、相手のことを尊敬はしていないので、相手を尊敬していないという態度は微妙にではあるが出てしまっていて、
その微妙な態度のニュアンスに、親しくなってきた相手や、勘がいい人は親しくなる前にも気づくのだと思う。
厳密に言うと、人は、尊敬している相手と接する時には「怯えと甘え」が混ざった態度というものが微妙に発生することが多いのかもしれないということである。
私は、尊敬していない相手に対してこの態度がないので、相手は「見下されている」「ナメられている」「自分に対して恐怖心が見えないため怖い」という印象になることもあるのかもしれないと思った。
それは、単に私がフランクでラフで気さくであるという印象とは違うもっとドライで冷たい印象なのだと思う。
「尊敬」とは、何かしらの要素によって、相手に「精神的に圧倒されること」で成り立つ感情であると思われる。
それは、主に相手の「大人性」、つまり精神的成熟度合いを認めることで発生することが多いと思う。
そのため、普通、多くの大人は、自分よりも精神的に未熟だと思う若い人を尊敬はせずに可愛がるようなある種ナメた態度で接することが多いと思うが、ちゃんと大人だと思う人にはやはりある程度の「怯えや甘え」というものが発生すると思う。
私は、おそらく大学生頃から、自分が関わっている世の中のほとんどの大人が自分よりも精神的に未熟であることに気づき、無意識ではあるが、基本的に、相手が教授であっても人のことをナメていた(尊敬していなかった)のだと思う。
なぜ、世の中のほとんどの大人が自分よりも精神的に未熟かと思うかと言うと、私よりも、感情の自制心がなかったり、気遣いのない利己的で軽薄な態度言動を高頻度・高強度でするためである。
そして、私が一番仲良くしていた大学の教授はそのことに気づいていて、
「お前は人のことを見下している」と定期的に私に言っていた。
それは、私が人と接する時に「怯えと甘え」がないことに気づいたからであると思う。
尊敬の念と言えるはどうかはわからないが、相手への精神的な圧倒という意味で、例えば「ルックス(恋愛的魅力)」による精神的な圧倒というものがあると思う。
美女やイケメンなどは特に、親しくしたいと思っている相手にわざとちょっかいを出したり、ボディタッチをしたり、イジったりして、相手を照れさせるという行為をすることがあると思う。
これは、ある種、愛情表現としてのマウント行為だと思う。
ただ、私は、精神性を尊敬しておらず、恋愛的魅力による精神的な圧倒も受けていない相手にちょっかいを出された時に、全く照れず友達に肩を叩かれた時のような顔で相手を見るので、ボディタッチなどをしてちょっかいを出してきた人が「ウッ」などと声に出して露骨にうろたえたことが何度もある。
そして、その後、そういう相手は私を「怖がり」始めるように思う。なぜなら、相手が私に「関与(影響)」することが出来ないことを知ったからであると思う。
これはある種、気の強さで相手を怖がらせて支配下に置こうとするジャイアンタイプの脅し行為にも似ていると思う。
そういうタイプには、私は相手のことを尊敬していない場合、上司でも、友人でも、教授でも、威圧的な態度を取られても全く怯えないので、相手がそれを見て私を「怖がり」始めることが多いように思う。
つまり、この場合も、相手が私に関与(影響)することが出来ないことを知るためだと思う。
つまり、人は、自分に対して全く「怯えと甘え」がない相手は自分が関与できない人なので「怖い」と感じることも多いのではないか。
私は、人に失礼な対応はしたくないので、相手を威圧したり、相手を見下した言動はしないようにしているが、「怯えと甘え」の態度がない場合、相手は「見下されている」と感じたり、「怖い」と感じたりすることもあるのだと思う。
大人性でも、ルックスでも、年齢差でも、気の強さでも、知性でも、コミュニケーション能力でも、その他の能力や価値でも、相手に何か「精神的に圧倒されることがある場合」、
つまり相手に尊敬や畏敬の気持ちがある場合、相手のことを「怖い」と思う気持ちがあるので、相手と接する時に「怯えや照れや甘え」が発生するのだと思う。これが、今回述べている、人から人に対する「関与(影響)」がなされている状態である。
そしておそらく、この「怯えや照れや甘えの態度」というものが、相手を「認めている=ナメていない」という印象につながるのだと思う。
そして、私は、相手の要素をある程度「すごい」と認めていたとしても、おそらく精神的に圧倒されるほどの強度ではないことが多く、そのため、精神的に圧倒されるという意味で「尊敬」はしていない場合がほとんどなのだと思う。
そして繰り返すが、私が他人を一番尊敬する要素は、マナーよく余裕を持って気遣いや思い遣りができるという意味で「精神的な成熟」である。これがないと、相手に他にすごいところがあっても台無しになってしまうし、その人自体を尊敬することはできないことが多く、相手からの精神的な圧倒を受けにくいと思う。
そして、多くの人は、自分に対して全く尊敬も畏敬も畏怖もない人と親しくなるのは「怖い」のかもしれないと思った。
なぜなら、自分が相手に「関与」できないためである。つまり、自分の大人性も、ルックスなどの魅力も、気の強さも、その他の能力や価値も、相手には「効いていない(精神的に圧倒できていない)」ので、関係性において主導権を握ることができる割合がほとんど無いということである。
人間関係において、関係性における互いの主導権が50:50に近いほど、おそらく「健全な関係性」である。
つまり、互いの価値や意見に重みがあり、互いに影響力を同じだけ持っているという状態である。
そして、このパーセンテージが傾いてしまうほど、「不健全な関係になる」と思われる。
そして、私が相手にほとんど関与されない場合、そして、私が相手に関与する力がある関係性の場合、私が相手のことを尊重していたとしても、関係性の主導権は30:70などになってしまい、相手は私に否応なく優位に立たれてしまうことになる。
つまり、私がそうしたいかに関わらず、私がその関係性をコントロールする立場になってしまうということである。
つまり、人は、自分が主導権をある程度確保できない関係性に入っていくことは「怖い」と感じるのではないか。
そう言えば、近年私は、基本的に尊敬できる人と関わったことがあまりないので、友人グループやコミュニティにおいて、いつの間にか私がグループのリーダーのような扱いになってしまうことが多いように思う。
それは、私が他人から関与されないためであると思う。つまり、私に関与しようとして失敗した人は、それでも私と関わることを選んだ場合、ソフトにであっても私に対して下手に出るように思う。
そのことを全員としている間に、私がそのグループのリーダー的な扱いをされてしまうということだ。
私は、基本的に他人とは同等でいたいので、誰かの上に立ちたいなどとは思わないが、「関与」という問題がある以上、人間関係とはそういうものであるということかもしれない。
過去に、観光地にいるイケイケの猿が、観光客にちょっかいを出して威嚇して怖がらせようとしたが、相手が全く怯えなかったので、猿の態度が急変して怖がり始めるという動画を見たことがあるが、おそらく人間も同じで、影響できない相手にはこの状態になるのではないか。
これもつまり、相手を怖がらせるという「精神的圧倒をして関与をしようとした」ができなかった例である。
つまり、自分のいかなる要素を使っても相手を精神的に圧倒することが出来ない場合、つまり、強度高く感心させることも、甘えさせることも、照れさせることも、怖がらせることも出来ないということを確認するほどに、無意識であっても、相手のことを「怖い」と感じることもあるのではないかと思った。
そして、自分は相手に対して影響力がないと感じると、相手に「見下されている」とか「自分には大して興味がない」などといった感情に陥ることもあるのかもしれないと思った。
それはつまり、自分の「価値の否定」を感じることもあるのかもしれず、そのことで関係における自信を失ってしまうこともあるのかもしれないと思った。
逆に、過去に私が「尊敬や畏敬の念」を抱いていた相手への態度を思い出してみると、私は確かに相手に対して「怯えと甘え」の態度がソフトにではあるが出ていたように思う。
つまり、相手のことを「怖い」と思うからこそ、少し下手に出て「甘えて」許してもらおうとするし、また、「怖い=頼り甲斐」なので、デレっとした頼る気持ちが出ることもあるのだと思う。
そして、その「怯えと甘え」の態度で接している場合、相手は確かに、私を怖がるようなことはなかったように思う。
これはつまり、私のそういう態度を見て、相手が私に関与力を感じているためだと思う。
ただ、上記の教授には、「お前は人のことを見下している」と非難めいた口調で言われたが、「怯えと甘え」の態度で接さないと相手に失礼であるとは思わない。
最低限のマナーと尊重と、形だけであってもリスペクトを示していれば(年上などであれば最低限そのことを尊重するなど)、「失礼」ではないと思う。
しかし、「尊敬していない」という意味では確かに「見下している、ナメている」という見方をされても仕方がないが、「尊重」とは相手を自分と同等に扱うという意味なので、私は他人を「見下している」とは思っていなかった。
そして、関係性の距離が近づくほどに、私の「怯えと甘えのない態度」だけでなく、他の色々な私の要素を見て、「自分はこの人に関与できない」と感じた場合、親しくなっていくことが「怖い」感じるのかもしれないと思った。
それは、上記したように、その関係性において、自分が主導権を握れる割合があまりないことを予想するからではないか。
そして、そもそも、強度高く関与できない相手と関わること自体を怖いと思う人も多いように思う。
私の知り合いには、相手を配下において自分が関係性において主導権を握れる人しか友人も恋人も周りに置かないというタイプがたくさんいる。
私はそういう人たちを見て、なぜ、そういう下品なことをするのだろうと思っていたが、おそらく、そういう人たちは根本的に自信がなく、自分が関係性において主導権を多く握れる関わりではないと不安になってしまうのだと思う。
また、そういう関係性を作ることで、自己肯定感(自信)を高めようとしているのだと思う。
逆に、そういうタイプの人たちは、おそらく根本的な自信がないため、自分が主導権を多く握れない関係の場合は自己肯定感が下がってしまうのだと思う。
これはまさにマウンティングをする人と同じ心理であると思う。マウンティングとは、他人に自分の方が上だということを示し圧倒することで、自己肯定感を得たりキープしたりしようとする心理からきている行為であると言われている。
私は、この逆で、自分が主導権を多く握れてしまう関係には物足りなさを感じることが多い。それはおそらく、相手に認められたという「承認」の感覚をあまり感じないためであると思われる。
そのため、主導権の割合が同等になるか、相手に多く主導権を握って欲しいと思っている(そうすることが私に対して器である人に)。
このことは、このエッセイを引用して過去に何度も書いてきたように思う。
人と人との関係性の距離が近づくと否応なく発生していしまうと思われる、関係性の主従関係を決める戦いにおいて、私は相手と「引き分けるか負けるかしたい」としつこく述べてきた。
つまり、そうすることで、私は、相手のことを「尊敬」できるため、相手と親しくしてもらうことで、私は相手に甘えることができるし、相手からの承認という充実感を感じることができるためである。
そして、このことは、今回のエッセイの内容に当てはめると、この戦いで引き分けるか、勝敗にあまり差がない場合、互いの互いへの「関与力」が釣り合っていて、互いに尊敬できている状態であり、関係性の主導権の割合に偏りがない健全な関係を築くことができるということであると思った。
そして、「関与力」に差がありすぎて(このゲームで勝敗が開きすぎて)、関係性の主導権の割合が大きく偏ってしまった場合、つまり、一方が一方にあまり「関与できない」場合、
この勝負で負けた方は、相手から真っ当に「承認(認められる)」されることがないと思う。なぜなら、上記の私の例と同じく、人は、相手から関与(精神的圧倒)されることがない場合、相手を強度高く「尊敬」することが出来ないためである。
つまり、このゲームで相手に負けても耐えることができるのは、ゲームの勝敗がついても、相手からの尊敬(相手への関与力)がある程度残っているという意味で、相手が自分を認めてくれる範囲内だけである可能性があるということだ。
そのため、関与できない人=自分を承認してくれない人(自分の価値を認めてくれない人)=自分を否定してくる人、という意味で怖がられるということもあるのかもしれないと思った。
しかし、私が、人々を尊敬しないのは、したくないからではなく、単に出来ないからであり、基本的には、尊敬できる人と親しい友人や恋人になりたいと思っているということだと思う。
そして、過去に、親しくなった人に怖がられないための対策として書いてきた、「人に甘えて迷惑を許容してもらい相手に関与の隙を見せる」ということであるが、これをしても、私が根本的に相手のことを尊敬していない場合、そもそも私がそこまで関係性において充実感を感じることが出来ないという可能性があると思う。
なぜなら、尊敬している相手でないと、相手からの「承認」を感じることが出来ないためである。この点は、楽しくワイワイ遊ぶだけの友人関係であればまだいいが、恋愛関係であるとかなり致命的な問題となるように思う。最低限尊敬できない人を恋人として強度高く好きでいることは難しいからである。
また、この場合、私は(相手が私を認めてくれていたとしても)相手に承認されたと感じないし、相手も私から承認されることがないため、互いに関係性に充実感を感じずに、虚しいと感じてしまうこともあると思う。
そのため、他人に無理やり甘えるということは、あくまで孤独にならないための対症療法であり、根本的な問題の解決のためには、自分が尊敬できる人と関わるしかないのかもしれないと思った。
また、精神年齢でも、ルックスでも、能力でも、気の強さでもなんでもいいので、私がある程度相手から精神的に圧倒されて、相手に対して尊敬や畏怖の念を持てる関係であれば、相手は私への関与力を感じて、私と親しく関わることを「怖い」とは思わないのかもしれないと思った。
そうでなくては、私が一方的に相手を精神的に圧倒してしまう関係になり、相手が私に対する自信がなくなったり、怖くなったりする可能性があるからである。
そして、私は過去に付き合っていた人に、
「あなたに何も勝てるところがない」と言われて振られたことがある。
それに対して私は「なんでそんなこと気にするの?私があなたを好きなんだからそれでいいじゃん」と言ったが、相手は聞く耳を持ってくれなかった。
今回のエッセイの内容に当てはめると、これもおそらく、関与力の差によって相手が潰れてしまった例だと思った。そして私は、相手のことが好きではあったが、強度高く尊敬はしていなかったと思うので、それにより相手は私からの承認をあまり感じずに、自己肯定感が下がってしまい、辛かったのだと思う。
私はこれまで、親しくなろうとする人に途中から「怖がれる」という現象を、私が最も重要視している「精神性(大人性)」を中心に考えてきたが、おそらくそれだけではなく、精神性を含めたもっと全体的な「関与力」を怖がられているのかもしれないと思った。
そして、この現象は、私が映像制作や、執筆活動を始めてからより強くなってきている気がするので、そういう要素も含めての「関与力」なのかもしれないと思った。
逆に言えば、『花より男子』のヒロイン・牧野つくしが、育ちやルックスや経済力や学内ヒエラルキーで格差のある道明寺司との恋愛関係が成り立ったのは、精神性や気の強さという別の「関与力」があり、関与力のパワーゲームで拮抗したためだと思った。
「自分で稼いだことのないガキが、調子こいてんじゃねー!」
結論:ある程度均等な相互関与が成り立つくらい尊敬できる人を探す
or 牧野つくしをデートに誘う
