エッセイ 『バブられるよりもバブりたいマジで』
私は、過去のエッセイで、私が年々、友人関係であっても恋愛関係であっても、人と関係性の距離が近づくほど怖がられて、徐々に距離を取られてしまうことの理由について考えてきたが、その解像度が上がったので書こうと思う。
結論を先に言うと、
「私の方が相手より精神年齢が高い場合、”社会性”のように相手を否定する関与力が発生してしまうため」である可能性がある。
過去にも書いたが、私は、「子ども性(若さ)」と「大人性」を、強度高く同時に保有していると思う。
私は、このことは、大人であれば強度の差こそあれ皆そうなのだと思っていた。
しかし、最近わかってきたのは、思っていたよりそうではないようであるということだ。
つまり、社会の現場や、ある程度礼儀正しく接している関係などで、「大人」として立ち振る舞っている人たちの多くは、実は「大人っぽい演技をしているだけ」である可能性があるということである。
それは、実際にその人が持っている人格(素)は、している立ち振る舞いよりも「子ども」なのであるが、大人として他者と接する理由は、大人として他人に迷惑をかけないため、というだけでなく「幼稚性がバレないようにするため」である可能性がある。
私の場合は、子ども人格と大人人格の、二つの「素」を保有しているため、演技ではなく「素」の「大人」として他者と接していると思う。
そのため、学生ノリ(若者ノリ)で、互いに子どもの「素」を出して関わって親しくなってきた相手が、親しくなるほど、私が「大人」の人格(素)をある程度の強度で保有していることに気づいた瞬間に、相手は怖がって逃げてしまっているという可能性があると思った。
そして、互いに大人の人格で、大人同士接している場合も、相手の大人としての立ち振る舞いが「素」から来るものではなく、演技である場合、
私は「素」で大人であるが、相手が保有している「素」は、相対的に見て「子ども」のみなので、親しくなるほどに相手の幼稚性というのは必ず私よりも高強度、高頻度で露呈してくる。
つまり、他者を尊重できない、マナーの悪い利己的な態度・言動が露呈したり、私よりも幼稚な思想・考え方が露呈するということである。
それは、他人と距離を取って、表面的に接すればある程度隠すことができるが、距離感近くまともに関わるほどに必ず露呈してくるものであると思う。
そのため、私の大人としての立ち振る舞いは演技ではなく「素」の人格から来るものであると相手が気づいた場合、また、考え方自体が相手よりも軽薄ではない精神年齢の高いところが相手よりも多いと相手が感じた場合、怖がられて距離を取られたり、去られたりしてしまっている可能性がある。
なので、子ども人格で関わっていても、大人人格で関わっていても、どちらから入っても、私に、ある程度の強度の「素」の大人人格があることが問題なのだと思う。
つまり、基本的に、(相対的に見て)子ども人格のみ保有している人は、大人人格を保有している人と親しくすることは、上下関係がしっかりとある場合などでないと怖くてできないということだと思う。
それはおそらく、相手の「幼稚性(他者を尊重できない、マナーの悪い利己的な態度・言動、及び、人格の状態)」というものが、私の「大人人格」によって非難(否定)される可能性があるためであることが考えられる。
上記のエッセイで書いたが、「子ども人格」のみ保有している私の友人や知り合いは、年齢を重ねるほどに、精神を病んで自己否定的になっている人が非常に多い。
それは、日本の社会性の厳格さに原因があると思われる。つまり、日本において、年齢を重ねるほど、「子ども性」というものは許容されず否定されてしまうということである。
そのため、例えば、
「30を超えてまともに就職せずアルバイトをしている人は恥ずかしい」
「30を超えて結婚しておらず子どもを持たない人は恥ずかしい」
というような「社会的な価値観」により、アイデンティティ(存在価値)が否定されてしまうため、
30を超えてアルバイトをしている人は自分に引け目を感じていたり、自信を持てなかったり、30を超えて結婚しておらず子どもを持たない人は引け目を感じていたり、自信を持てなかったりすることもあると思う。
また、その状態を避けるために、本当は定職に就きたくないけれど無理やり就職したり、本当は結婚したり子どもを欲しいとは思っていなくても結婚して子どもを持つ人もいると思う。
このように、社会性(社会的な大多数の大人)からの非難・否定とは、簡単に人のアイデンティティや自信を奪ってしまったり、人の生き方に関与してしまう威力があるのだと思う。
これはなぜかというと、多くの人は「社会性(社会の大多数の大人)」が自分よりも精神的に大人だと信じているからであると思う。
そして、人は、自分よりも精神的に大人な人からの関与(影響)を受けやすい。それは、おそらく精神性(大人性)が、最も強力な「格」として認知されているためである。
そのため、自分より「格上」から非難(否定)されてしまうことは、自分のアイデンティティ(存在価値)を否定されてしまうことである。
そして、仕事や結婚・子どもという要素だけでなく、「年齢に合わせた立ち振る舞い・実際的な精神年齢を保有している状態」というものも、特に日本においては、社会性から厳しいジャッジを受ける。
そのため、アダルトチルドレンとまでは言わなくても、年齢を重ねるほど、子ども性のみを素の人格として保有しているほど、つまり、社会が求める大人としての「素」を保有していない人は、常に社会からの非難(否定)を感じるようになり、
それにより、アイデンティティを脅かされて、自信がなくなり、自己否定的になり、精神を病んでしまう人がいるのだと思われる。
そのため、上記のエッセイからスタートした、私の「なぜ大人になってから出会った人とまともに親しくなろうとしない人が多いのか?孤独や退屈は感じないのか?」という問いの答えも一つ見えてくるように思う。
つまり、社会性が求める大人性を持っていない場合(社会から求められている精神年齢の状態のハードルが高すぎるため、多くの人が持っていない可能性が高い)、大人になってから出会った人と親しくなることで幼稚性が露呈して、自分は社会に求められているほどは大人ではないということを他人にバレてしまうことを怖れている可能性があると思った。
それは、互いに大人としての演技をして表面的に関わっている場合、相手が自分よりも大人である可能性があるので、親しくなることで露呈する幼稚性を相手に見られてしまった場合、そのことで「うわ、、子どもだ」と内心であっても非難されたり、引かれてしまった場合、
それは社会性(自分より精神的に大人な社会的な他者)に自らの幼稚性、及び、自分の社会的なアイデンティティを否定されることにつながるのだと思う。
また、そのことが原因で相手に「受容」されない場合、つまり、相手に心を開かれることなく、精神的に受け入れてもらえない場合、より強いアイデンティティの否定を感じ、自己肯定感が下がってしまうため、
そのことを多くの人は、年齢が上がるほど、ほぼ無意識的に恐れるようになる=大人になってから出会った人と親しくなるのが怖い、という心理につながる可能性があると思った。
実際、私の、学生からの友人は、学生からの友達グループはものすごく大事にしていて「精神的支柱」とまで言っているので、親しい人間関係自体は重要視していることがわかるが、大人になってから出会った人とは、恋人以外は表面的に関わり頑なに親しくなろうとしない。
これは、幼稚性が許容される年齢(学生)の時は、他人にアイデンティティを否定される怖れなく他人と距離を縮めて、親しくなることができたため、その時から続いている関係であれば近しく関われるが、
大人になってから出会った大人=社会性に対して、本当の自分をジャッジされることに自信がない、耐えれられないということだと思う。
つまり、恋愛関係でもない場合、自分が他人から真っ当に受容される(受け入れられる)とは思っていないということだと思う。
なぜなら、自分の精神年齢やマナー感覚に「自信がない」ためであると思う。
そのため、その友人は、たくさんの人と関わりはするものの、ある程度表面的に接して、真っ当に友人として親しくはならないし、実際に「大人になってから出会った人に心なんて開けない」と発言している。
「大人になってから出会った他人」というだけでも、おそらく多くの人が強度の差こそあれこの状態なので、「明らかに自分よりも精神年齢が高い人格を保有する他人」は、さらに厳格に自分をジャッジしてくる可能性が高く、否定の力も上がってしまうので、関わることが「怖い」ということだと思う。
なぜなら、素の人格の精神年齢に差異があるほど、「他者を尊重する精神性や実際的なマナー感覚」に差異が出ることが多いため、「受容・許容できる範囲」に差異が出るためあるし、
上記したように、「精神性」は最も強力な「格」として扱われている可能性が高いので、相手を「否定」できてしまう関与力の強度が上がるためである。
私は、今まで、私と親しくなるほど、途中で何かに気づいて怖がって距離を取ったり、去ってしまう人が、「私に幼稚性を非難されること」を怖れているとは思っていなかった。
私に、「子どもだな、、」と思われたところで、それがなんだというのだと今でも思う。そんなことどうでもよくね?ええから遊ぼうよ、と思う。
しかし、そこまで怖がる理由は、上記した社会性からの非難(否定)から多くの人が生き方を左右されるほどに関与を受ける理由と同じではないか。
つまり、問題は、相手が「自分よりも精神年齢が高い他者」として、社会性や私を認知した場合、社会性や私は相手のアイデンティティを簡単に奪う力を得てしまうということである。
そして私は確かに、自分にはない精神的な幼稚さにより、私に気遣いや思いやりに欠ける言動を強度高くする人と、親しくすることはできても、精神的に「受容」はしないと思う。
つまり、相手を内心非難せずに、相手を信頼し、相手に完全に心を開いて接するということはしないということである。
このことが相手にとって問題になっているということも、私は今まで知らなかった。
私がやたらめったら、相手のマナーの悪さや気遣いのなさを非難し続けるのであれば、「怖い」とか「ウザい」と感じるため親しくできなくなるのはわかるが、
相手を信頼しきれず、心の壁を微妙に張って接しているというだけでも、おそらく相手からすると、私と親しく接することは、私に迷惑を許容されておらず、いつ非難(否定)されるかわからないため気が抜けないため怖い、という状態になっている可能性があると思った。
私は、「自分の幼稚性、つまり、マナーの悪さや気遣いのなさや、浅はかな言動を他人に、非難されたり、「しょぼい」とバカにされたりする可能性があるため、他人と親しくなることが「怖い、できない」」と感じたことが一度もないので、私と親しくなるほど私を怖がる人の気持ちが今までわからなかったのだと思った。
(大学院の時だけは、先に社会に出た知り合いたちを見て、自分に自信がなくなり、口癖が「人間が怖い」になり、人と接すること全般が怖くなったことあるが、それでも実際に親しい関わりを回避するほどにはならなかった)
私に内心非難されたりしょぼいと思われたりすること、つまり、私に低評価を受けること、それがなんだと言うのだ、と思っていたためである。
そんなことよりも、親しくなって楽しもうよと思っていたためである。
つまり、私の人間関係におけるプライオリティは「楽しむこと」であり、
多くの人のプライオリティは「アイデンティティを守ること」であるという違いがあるため、
私は多くの人の「他者と親しくなることを「回避」しようとする」という行動をミステリーに感じていたのだと思った。
私は、自分の「素の大人性の人格の精神年齢」が上がるほど、つまり、他者をより尊重できる精神性や実際的な思いやりや気遣いのスタンスを手に入れるほど、さらに他人と親しくすることを「怖い」とは感じなくなるが、
そうなるほどに、他人からは私と親しくすることを「怖い」と感じられてしまい、関わってくれる人がどんどんと減り孤独になるという皮肉を抱えているということだと思った。
そのため、私は、私の多くの知り合いが陥っている「社会性からアイデンティティを否定されて心を病んでしまう」という状態は回避できているが、
親しくしてくれる人がどんどんと減り、孤独で心を病んでしまう可能性が出てきた。
そして、私が、せめて親しくしたいと思っている相手にくらい、オールウェルカムな姿勢、つまり、「なんでもいいよ全部許しちゃうよ〜😊」というある種の柔和さ(受容のスタンス)があれば、相手もなんとか怖がらずに済むのかもしれないが、まだそこまで達観できているわけではない。
つまり、結局、「許せていない(相手自体を受容できていない)」ことが問題なのだと思うので、私がもっと精神的に成長して全然自分とマナー感覚が違う他人を受容できるネクストレベルの器の広さを手に入れるか、なんでも許しゃうくらい好きな相手と関わるか、私を怖がらないくらい同じような「状態」の人と関わるしかないのだと思う。
ここまで多くの人が他人からの「非難」を怖れているとは知らなかったので、現在の自分との感覚の違いに驚いている。
私はむしろ、私を叱れる器として叱ってくれる存在との親しい関わりを望んでいるからである。
それは、他者から包容力を感じることと同義であるため、そういう存在が周りにいないと、精神的にすがり頼りにできる存在がいないことになり不安であるためである。
結論:誰かバブらせろマジで、私の面倒を見ろ
