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エッセイ 『大人になってから友達ができない』

※謙虚さを欠く内容ですが客観的な分析のためです

ずっと疑問に思っていたことがある。

大人になってから友達が一人もできないのである。
よって、私の現在の友達は中学と高校からの友達だけだ。

大人になってから、私はたくさんの人と友達になろうとトライしてきたが、全員私と友達にはなってくれなかった。
職場などの同じコミュニティに属している間だけは、飲みに行ったり、LINEをしたりと関わってくれるが、せっかく仲良くなっても、同じコミュニティに属さなくなると皆関わることを止めようとするのである。

LINEなどを交換していたとしても、皆表面的になり、まともに会話する気がなくなり、フェードアウトしていくのである。
(この記事おける「友達」の定義は、学校や職場など、共通のコミュニティに属さなくなってもプライベートでの関係が継続される人のことです)

私は特に人より性格が悪いとも思わないし、気遣いは割とする方であるし、マウントだって自覚している限りでは取ったことがない(そんな人に嫌われるようなことをする度胸は私にはない)。
そして、ある程度の距離感であれば関わりを継続する人もいるので、嫌われているという感じでないことも多い。

そんな中、今回気付いたのは、多くの人は、自分より精神年齢が高い人と関わることが苦手なのではないか?ということだ。

私は、かなりふざけた性格なので、ヤンチャな人と関わるのが好きだ。
ヤンチャそうな人に告白したこともあるが、「ええわあ、、」とか、「君はまともでしょ」などと言って、なんだか苦い顔をされ断られるのである。
そして、私とお付き合いをしてくれたのは、超真面目な人ばかりなのである。
ちょっと育ちの良さそうな真面目な人には好かれることが多いのである。

しかし、繰り返すが、私はふざけた性格なので、ヤンチャな人がタイプなのである。
厳密に言うと、矛盾しているようだが、ヤンチャであるが、人間性は高い人が一番好みだ。軽薄で自己中な人はそこまでタイプではない。

ただ、そんな人はほとんどおらず、真面目で人間性があるか、ヤンチャで軽薄であるかのどちらかしか、実際に会った中ではあまり見たことがない。

大人になってから出会った人で今でも親交があるのは、大学教授とか、大学講師だけだ。
そう言えば、大学の時は、生徒よりも、そういう人たちと遊んでいたように思う。

しかし、ずっと連絡を取り合っていたマルタ人の大学講師が最近私と関わることを苦手に感じ出しているように思う。
会話をしても、以前のように饒舌ではなくなり、歯切れが悪く表面的になってきたのである。

かなり長いこと続いていた関係だったので、私は不思議に思っていたのであるが、今回の説「人は自分より精神年齢が高い人と関わることが苦手」を当てはめると、納得がいくように感じた。

年齢と共に私の精神年齢が進化・成長し、そのマルタ人の精神レベルを超えてしまったのかもしれない。
つまり、私がその人より「大人っぽいことを言うようになった」ということだ。
そのため、私に対して、自信を持って接することが出来なくなったのではないか、という説である。

これは私の精神年齢が絶対的に高いと言っているわけではなく、あくまで相対的に人は自分より精神年齢が高い人と関わることに苦手意識を持つのではないかということだ。

そのため、私と過去にお付き合いをしてくれた超真面目な人たちは、確かに、「気遣いと思いやり」みたいなタイプなので、私に対して精神年齢の苦手意識を感じず、精神的な距離を縮めることが出来たのではないか。

エッセイ『人に迷惑をかけた方がいい理由』において、
”だらしがなくて、とにかく人に迷惑をかけ続ける、マナーの悪い私の友達は、自分より精神的に大人な人と関わることが苦手であるそうだ。
その理由として、「敷居が高くて緊張する」からだと言っていた”

と書いたが、これは単にマナーの問題だけでなく、そもそも精神年齢自体の問題なのではないか。
つまり、私は、(相対的に)私より精神年齢が低い人に「緊張」されているのではないかということだ。

自分に置き換えて考えてみると、私は自分より精神年齢が高い、つまり大人だなと思う人はむしろ魅力を感じ積極的に関わりたいのである。
なぜなら、そういう人に対して私は精神的に甘えることができるからだ。

そのため、私は、精神年齢問題が原因で私と関わることを避けたり、避けてくるようになった人たちの感覚というものが理解できない。
なので、今まで私が、友達や恋人として付き合いたのに付き合ってくれなかった人が、なぜ私を避けるのかを理解するのが遅れたのかもしれない。

そして、今回の説がもし正しかったとしても、理屈として把握はできても、感覚としてはやはり理解できない。

私の中学や高校からの友達は、皆私に対してマウントを取ってくる。
私は普通に名前で呼んでいるのに、彼/彼女たちの私への呼び方は「お前」とか「こいつ」であり、態度も全体的に上から来るのである。

しかし、この友達たちは、明らかに私より精神年齢は低い。手に負えないほどに低いのである。
しかし、人は中学、高校などの比較的若い時に出会い一緒に過ごした人であれば、ある種、兄弟や姉妹などの感覚で精神年齢問題を乗り越えて図々しく関われるのではないか。

その代わり、マウントを取って上から接する方法でないと、この精神年齢の差異問題が発動し、関われないということなのかもしれない。

私としては、人にマウントを取られるのは好きではないので、出来ればそのような嫌な態度はやめていただきたいが、関わってくれないよりはマシなので、このまま放っておこうと思う。

ただ、マウントにも大きく分けて二種類あると思っていて、
ポーズ(ふり)としてのマウントと、本気のマウントである。
そして、友達たちは、ポーズとしてのマウントなので許容できるのである。

それはある種、兄弟や仲の良い友達同士が「お前」「こいつ」などと呼んだり、キツくイジったりする感じに近い。
しかしながら、彼/彼女たちは、基本的に私だけにそういうポーズとしてのマウントを取るため、今回の説で行けば、それは精神年齢問題を乗り越えるための手段としてポーズマウントを使用している可能性がある。

一方で、「本気のマウント」とは、関係性として優位に立とうとするマウントである。
全て自分の思い通りにして、自分が話題の中心でないと気が済まず、相手が少しでも出過ぎた真似をすると無視をする、のようなことをする関係性におけるマウントである。

私は、この「本気のマウント」は、誰が相手でも許容することが出来ず、そういうことをし出しす人とは、プライベートであれば関係をやめてきた。
しかし、現在付き合っている私の友達は、それをするのはまずいという認識がおそらくあり、ポーズマウントだけにとどめているように見える。

ポーズマウントで、この問題が解決するのであれば、そうしてくれても構わないが、これができるのは上記の通り、兄弟/姉妹的な感覚を持つことができる若い時に出会った人だけのようである。

私は、アートを楽しむためにも、精神的・能力的な進化・成長を信条としているので、能力や精神年齢を上げ続けることを止める気は無い。
しかしそうなってしまうと、知性の高さをリスペクトしていたマルタ人の大学講師でさえ脱落したのならば、これから私と近しく関わってくれる人というのはさらに減ってくるのではないか、という恐れがある。

誰も関わってくれなくなることで、孤独や暇にはなりたく無いので、どうしたらいいのだろうか。
対策として考えられるのは、精神年齢が低い演技をするみたいなことだろうか。

しかしながら、上記したように私は気遣いはある方だと思うので、専門的なことや小難しいことを言って人を圧倒するようなことは、身に覚えのある限り無いように思える。
そのため、精神年齢が低い演技とはどうすればいいのかわからない。

そうなってくると、映画『ナミビアの砂漠』において、普段は年齢不相応に大人びているものの、見事にあどけなさ、幼さが残る21歳の女の子を演じ切った河合優実にやり方を聞いてみるしかあるまい。

しかし、私は小説の執筆の際には、あえて精神年齢や人間性を下げて登場人物を描くことに成功しているので、実際の人との関わりにおいてもできる可能性があるのではないかと思った。

しかし、それは私とは別人を描いているから出来ることであり、河合優実も自分とは別人を演じているのだから、撮影における演技の時のみ、人を相手にしていても精神年齢を下げた振る舞いができるのかもしれない。

逆に、河合優実も大人になってから誰も友達になってくれない事に悩んでいたらもう八方塞がりである。
じゃあ、私と河合優実が友達になればいんじゃね?(ただの願望)
誰か優実の電話番号知りませんか?←

冗談はさておき、
この問題に加えて、私が友達を作ることが年々困難になってきている理由として、「アイデンティティ問題(自信問題)」を挙げることができると思う。

人が人に心を開くには、最低限の自信が必要だと考えられる。
そしてそれは、年齢が上がるほど高強度の自信が必要になってくるように思える。

エッセイ『生きている意味』において、
私の知り合いたちが、年齢を重ねるほどに、心を病み、暗くなり、イライラし、無気力無関心になってきていることの理由を考察した。
私の知り合い=私の環境でもあるので、私にとって大ごとであるためだ。

アイデンティティとは、簡単にいうと、「自己に感じる存在価値」である。
この自己に感じる存在価値は、その人や、その人が属するコミュニティ(国や地域を含む)の価値観にかなり依存するので、一概に、どの要素を持っていれば存在価値があるとは言えないが、基本的には、社会的な価値を持っていると感じることが出来ると思われる。

強力な社会的価値の例として、
育ちの良さ、学歴、収入、ルックス、スポーツや芸術や収入につながる能力、また、それらを高く持っているパートナーや子供や仲間の所有が挙げられる。

そして、傾向として、人は年齢が若いほど、上記のようなアイデンティティを持っていなくても精神的に元気でいることができるように思われる。

なぜなら、まだこれからアイデンティティを得ることができる可能性があるからである。
また、年齢的に強度の高いアイデンティティを持っていなくても存在を許される期間だからである。これがいわゆるモラトリアム期というものではないか。

モラトリアムとは、大人でも子どもでもない、いわゆる青年期のことを言います。 一般的に14歳、15歳から大学を卒業するまでの間とされ、社会に出ることや大人になることを待ってもらっている猶予期間のこと

https://gakuseinews.eshizuoka.jp/e1479019.html#:~:text=(酒井先生)モラトリアムとは,猶予期間のことです%E3%80%82

そうなってくると、人が持ちえる1番のアイデンティティとは、精神的な成熟なのかもしれない。
モラトリアム期は、大人としてちゃんとしていなくても許される猶予期間だからである。

大人としてちゃんとしているとは何か?
それは単に、真面目に働いている、というようなことだけでは無く、感情をコントロールする自制心や、人に対する気遣いや思いやりを持っていること、安易に、逃げる、嘘をつく、人のせいにする、マウントを取るなどして、人に迷惑をかけない、みたいなことも含まれるのだと思う。

そのため、年齢に合わせて、アイデンティティの強度を持っていないと、その分、自分の存在価値に自信がなくなり、人は精神的な健康を損なっていくのではないか。

私の多くの知り合いは、学生から社会人になったタイミングで皆一様に1段階性格が暗くなった(ふざけることが少なくなり、笑うことが減り、好奇心が減った)。
このことに、私は初め、学生の頃のように自由で在ることができず、一日中働くことが精神的に負担であるからだと思っていたが、上記の精神的成熟度におけるアイデンティティを十分に感じていないこともあるのかもしれないと思った。

そして、30歳を超えた私の知り合いは、さらに皆一様に暗くなり、イライラして、物事や人と関わることに興味関心を失った。要は軽いうつ状態になってきたように見える。

周りを見ていると、より高強度の精神的成熟が求めれるラインとして、まずは、
学生→社会人
20代→30代
があるように思える。

別に、精神的に成熟などしなくても、各々で勝手に元気に生きていればいいとは思うが、人は社会的な動物なので、年齢に応じたアイデンティティが無いと自分の存在価値に自信がなくなってしまうのだと思う。

そして、特に上記の「ライン」を超えた時に、その時の年齢に応じた必要分のアイデンティティの強度を持っていないと、アイデンティティクライシス(自己同一性の喪失)が起こっているように見受けられる。
つまり、自分に自信がなくなっているのである。

以前からあるミッドライフクライシス(中年の危機)という言葉に加え、最近は、クオーターライフクライシス(30歳前後に起こる自己同一性の喪失)という言葉もあり、私の知り合いたちは、おそらくその状態により精神的健康を損なっている可能性が高い。

私は、知り合いたちが暗くなってしまった理由を最近まで理解できなかったが、おそらく私は以前にアイデンティティクライシスを起こし、自信をなくし、軽いうつ状態になったことがあるため、おそらくそれと同じような状態なのだと思った。

私は大学卒業後、大学院に進んだのであるが、私の同級生たちが就職し社会的なアイデンティティを会得した中で、その社会的なアイデンティティを持たないことに劣等感を感じたのである。

おそらく、私はその時、自分の存在価値を認知できなくなったということだ。つまり、自信が無くなったのである。
自信が無くなるとどうなったかというと、常にどんよりと気分が落ち込み、人と関わることが怖くなり、友達と話す時も言葉があまり出てこなくなった。そのため、できるだけ人と関わらずに済む仕事がしたいと思っていた。

そして、その状態は、社会に出てある程度経つとすっかり無くなり、人と関わることが大好きな真逆の性格になったので、そこで私は、欠落感を感じていた種類のアイデンティティを得ることができたのだと思う。

私が自信がなくなった時に、人と関わることが怖くなったり、人に心を開くことが怖くなったりしたように、年齢を重ねるほど、年齢に応じた強度の自信がないと人に心を開くことが困難になってくるのではないか。

私の、友達の一人は、「20歳を超えてから出会った人に心を開くことなんて出来ない」と断言していて、
私は、これまでどういう事なのか理解できなかったが、おそらくその友達は、20歳以降に新しく人に心を開くために必要なアイデンティティを会得したことが無いということなのかもしれない。

その友達は、ちゃんと正社員として働いているし、色々芸術的な才能や知能の高さもある。しかし、精神年齢がすごく低いのである。

その友達は、すぐ感情的になる、気遣いが極端に出来ないことがある、すぐマウントを取るなど、かなり子供っぽいこと高頻度でするのであるが、私は今まで、平気で人にそういうことをするのだから、自分が子ども的であることを気にしていないのだと思っていた。

しかし、おそらくそれはコントロール出来ないことであり、それが原因で、20歳を超えてから新しく人に心を開くことが出来るだけの自信、つまり精神的成熟におけるアイデンティティを会得することが出来ていないということかもしれない。

このことから、「マウンティング」は、自分のアイデンティティの不足分を補おうとする自然発生的な行為であり、それを抑制する自制心が無いと、どうしてもしてしまう人もいるのかもしれない事が分かる。

そういう理由もあり、年齢を重ねるほどに、人は人に心開くことが困難になっていくのだと思われる。
そのため、私は年齢を重ねるほど、さらに、友達になってくれる人や、付き合ってくれる人が減っていく事が予想されるので、自分と同じくらいの精神年齢を持っている人をなんとか見つけるか、河合優実と友達にならないと孤独になり精神的に餓死すると思われる。

みんな!私の屍を越えてゆけ!(ようけ書いて疲れたから最後適当)





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