エッセイ 『社会からの非難で病んでいる人々』
私は、過去のエッセイで、私が年々、友人関係であっても恋愛関係であっても、人と関係性の距離が近づくほど怖がられて、徐々に距離を取られてしまうことの理由について考えてきたが、その解像度が上がったので書こうと思う。
結論を先に言うと、
「私に"非難"されることを恐れているから」である可能性がある。
このエッセイで例に出した村上龍の小説『ストレンジ・デイズ』の登場人物・ジュンコや、アーティストの椎名林檎が、接している相手を「緊張させる」つまり「怖がらせる」のはなぜか?ということを考えた時、
これらの人物は、「マナーが良く」かつ「洞察力が高い」という特徴があり、この人たちの前では、あらゆることが「ミス」につながってしまうため、ミスをすることが怖くなり緊張してしまうのではないかと書いた。
ここで「ミス」するとはどういうことかというと、『ストレンジ・デイズ』の引用でもあったように、嘘をついたり、気遣いのない言動をしたりして他人に迷惑をかけたり、適当に浅はかなことを言った場合、そのことがバレて、「ナメられる」ということではないか。
つまり、「バカにされる」ということだと思うが、この行為は相手を直接バカにしなくても、内心「ああ、なるほどね、そういう人なのね」と思われるだけでも成り立ってしまうものだと思う。
私は、上記の引用箇所で「ミス」をすると、相手に「ナメられる」「バカにされる」ため、そのことを恐れているのではないか、と書いたが、少しニュアンスが違うかもしれないと思ったので、そのことについて掘り下げて見ようと思う。
おそらく、ここで「ミス」をした場合、接している相手は、ジュンコや椎名林檎に、内心であっても「非難される」「軽蔑される」という「低評価」を受ける可能性があり、そのことを恐れているのではないか、と思った。
私は、過去に、人の「格」を決めるのは基本的に下品であるが、「精神性」という要素だけは特例として、他人を「見下しても」良いのではないか、または、他人を「格下」であると思ってしまうことは仕方がないのではないかと書いた。
例えば、ルックスや、能力や、財力などの要素で、他人を「格下」であると見下すことには、「優越感」という感情が混じってしまうことが多いと思う。
この場合、それは、相手を自分より劣っていると「バカにしている」という状態が成り立ちやすく、これは、下品でひどい行為になってしまうと思う。
ただ、マナーや卑しさなどの要素で、他人を「格下」であるとすることは、
例えば、「人をイジめること」「利己的な嘘をつくこと」を、「咎める」という行為になると思う。つまりこれは、上記したように、非難であり、軽蔑である。
そういう場合、相手は自分よりも「低レベルである」「低俗である」「程度が低い」と思ってしまっても、それは、相手を「バカにしている」とはならないのではないか。
ただ、この場合も、相手を自分よりも「下」の存在(低レベルである)として認識しているので、「見下してはいる」と思う。
ただ、この場合だけは、「人を見下すなんてひどい行為だ!」と糾弾はされないと思う。
なぜなら、他人が倫理的に間違ったことをしていることを非難することは、倫理的に「正しい」行為だからである。
私は、過去に、付き合っている人や、仲の良かった教授から「あなたは人のことを見下している」と非難めいた口調で言われたことがあるが、すぐ精神性以外の要素で他人にマウントを取ったり、優越感を感じているような発言をする彼らになぜそんなことを言われないといけないんだろうと不服であったし、何を持ってそのようなことを言っているのかも理解できなかった。
そして、なぜそう思うのか尋ねても、決して教えてはくれなかった。
この時、おそらく、彼らは、私が彼らの「精神性を見下している」ということを言っていたのだと思った。
つまり、彼らの倫理的ではない、卑しい言動を、つまり、「他人を尊重することができていない言動」を、私が内心「非難している」ということは、彼らには伝わっていたのだと思う。
そして、私が実際に、相手の言動を口に出して責めたり注意したりしていなくても、相手に「あなたは人のことを見下している」ということを言われたので、相手には、私が相手の「精神性に欠ける言動」を内心であっても非難していることはなんとなく伝わるのだ思った。
そして、過去にも書いたが、友人に私がなぜ人から怖がられるのか聞いたときに、「フランクだから初めは騙されるけど、徐々にライオンが獲物を捕らえる直前みたいにお前が背中を反らして臨戦態勢を取っている事がわかってくるだからだ」と意見をもらったが、
おそらく、私は、私にはない相手のマナーの悪さや、卑怯さや、他人を尊重できていない言動を見て、内心非難していて、相手を認めて、心を開いて受け入れることができていないため、そのことを相手が感じ取るのかもしれないと思った。
つまり、私は、おそらく、マナー感覚や他人を尊重するスタンスが一般的な人より高いため、無意識で接している相手のことを内心非難してしまい、そのことが相手に伝わり、そのことで相手が怖がっているということかもしれないと思った。
私が、口うるさく相手に注意しまくるのであれば、相手がそれを「ウザい」と思ったり、叱ってくるため「怖い」と思って、私と関わることができなくなるのであればわかるが、
内心であっても、相手の言動をジャッジして、相手を非難していること(しかもほぼ無意識的に)を怖がれてしまう場合、どうしたらいいのだろうか。
そして、これは、私が特別不寛容であるというよりも、おそらく、各々のマナー感覚からの差異によるものである。
つまり、一般的なマナー感覚や倫理観がある人であれば、Xでよく見るような、他人への尊重も何もないアンチ合戦を見て、内心非難しないことは不可能であると思う。つまり「うわあ、、」と思ってしまうだけでも、それは内心の非難になってしまうということである。
そして、私は、過去に、年齢的には「大人」である多くの人々が、私が想定したよりも、幼稚だったことに驚いていると書いた。
つまり、思っていたよりも、自制心がなく、他人への思いやりに欠ける言動を高強度、高頻度でするということである。
そのため、上記のXの例のように内心「うわあ、、」と思ってしまうことは確かにある。
私は過去に「プライド蹂躙ゲーム」、つまり、「どちらがより大人であり、どちらより幼稚であるのかを決めて、関係性の主従関係を決める戦い」を無意識で他人としているのではないか書いた。
そして、その戦いに勝っても、私が相手にマウント(上から先輩然として接すること)を取らないため、相手は自分のマナー違反が許されていないとなり怖がられているのではないかと思っていたが、
このゲームの存在以前に、相手は内心私に「うわあ、、」と思われていること自体、つまり、内心「非難」されていること自体を怖がっているのではないかと思った。
私からしてみると、私にそう思われることがあったとしても、相手には相手のマナー感覚があるのだから、私に口に出して実際に責められていない場合、いちいち気にする必要はないのではないかと思うが、
それでも、おそらく、多くの人が、このことが原因で私を怖がってしまう理由として、「人は自分より精神性が高いと認めている相手の意見を受け入れてしまう」という心理作用があるためである可能性がある。
過去に何度も分析してきたが、私の知り合いや多くの人を観察していると、精神年齢が低い人(自制心がなく、他者を尊重した言動ができない人)ほど、年齢が上がるにつれて「元気がなくなり、病んできている」という現象が起こっている。
そして、好奇心もなくなり、物事や人間関係に興味を持って色々と行動して、自分の世界を広げていくというようなこともしなくなっているように見える。
私は、この現象の理由として、初めは、精神的に成熟して「大人しくなった」のかなと思っていたが、どうやらそうでもないことが多いように思える。
なぜなら、明らかに元気がなくなり、病んで、自己否定的になっている人が多いからである。
そして、自信や自己肯定感が低くなり、他人に嫌味を言ったり、マウントを取ったりするような幼稚性が以前よりも増している人も多い。
なぜ、年齢が上がるほど、このような現象が起こるのか考えてみると、おそらく、「社会性の圧力」が原因である。
社会性のある人(社会を従うべき自分よりも上の存在として捉えている人)は、社会が求める年齢に応じた「状態」というものに準じることができていない場合、社会から「非難」されているという感覚に無意識であってもなっているのだと思われる。
そして、日本が求める「社会的な大人」の姿は、おそらくかなり厳格であり、年齢が上がるほど、「若さ」があまり認められていないように思われる。
そして、若さとは「好奇心」を内包しているので、「若さの否定を受け入れてしまった人」というのは、好奇心も合わせてなくなるのだと思われる。
私は、欧米に、留学や、旅行に行った時、年齢的には「大人」の人々が、日本に比べて、子どもっぽくふざけるし、好奇心も旺盛であることに驚いた。
学校の先生は、持ってきたスピーカーで爆音で音楽を流して踊り始めるし、店員さんも歌ったり踊ったりしているし、ホストファミリーのホストマザーなども、思いやりのある頼りになる人であったが、ゴルフに行ったり、パーティーに行ったり、学生のような遊び方をしていて、新しい興味を常に開拓しようとしていた。
このことから分かるのは、欧米の社会性とは、日本よりも、「若さ」を許容している、認めているということであると思う。
そして、「社会性の圧力」というのは、いわゆる「同調圧力」のように、実際的に注意や命令という形でなくても、全体的なムードや、内心の「非難」という攻撃方法を持って言うことを聞かせようとしてくるのだと思う。
それは、家族からも、友人からも、職場からも、メディアからも、そして自分が飼っている社会性からも、「非難」という圧力がなんとなくかかるのだと思う。
そして、社会性の圧力(若さの否定)によって、完全に自己否定的になってしまっている私の友人には、あらゆる「若い言動」自体に対して否定的になっている人もいる。
つまり、以前は一緒にふざけていた私の友人は、私が少しふざけて冗談を言っただけで、「恥ずかしい」ということを言ってくるのである。
しかし、その友人は、社会に否定されて下がった自己肯定感を補うために、他人に、自分の能力や得意分野においてマウントを取り続けるということをし始めたので、
そちらの方が、私からするとよほど「恥ずかしい幼稚な行為」なのであるが、なんとかして自己肯定感を保つためにそこはコントロールできずにしてしまっているように見える。
私の価値観としては、「大人性」とは、自制心と他者の尊重なので、そこさえ押さえておけば、他人の迷惑にならなずにTPOを守っていれば、子どものようにふざけても、好奇心旺盛に色々なことに取り組んでも、否定されるべきではないと思うが、
おそらく、私の友人含め、多くの人は、「若さ(子ども性)」と「幼稚性」を混同しているのだと思われる。
ここで言う「若さ(子ども性)」とは、子どものようにふざけたり、物事や人間関係に好奇心を持つこと自体である。
そして、ここで言う「幼稚性」とは、自制心がなく、すぐに感情的になり他人に迷惑をかけたり、その他、他人を尊重できない言動を、コントロールすることができずにしてしまうことである。つまり精神性の欠如である。
しかし、多くの人は、これらを混同して、社会が否定してくる「若さ(非大人性)」、つまり、社会的な大人として間違っていること、として捉えているように感じる。
そして、多くの人は、他人を尊重できない「幼稚性」はしっかりとあるが(能力的な問題なので、コントロールできないため)、ふざけたり好奇心を持ったりする「若さ」は無くなっているという、本末転倒状態になっている場合が多いように見える。
つまり、社会から求められている「社会的な大人の状態」の内、精神性が発達することによる他者への尊重、気遣いや思いやりのある対応、は能力的にできないが、ふざけない、好奇心を持たない、ということはできるため、せめてそちらを実行している(させられている)ように見える。
ただ、それでも、社会が求める状態、には達していないため、「非難」「存在の否定」を感じて、精神が病んで元気がなくなっている人が多いように見える。
カウンターカルチャー的(反社会的)なジャンルの音楽活動をしている友人も、ちゃんと正社員として働いている友人も、
同じような時期(年齢)から一斉に、自己否定的になり精神を病みだして、好奇心がなくなり、ふざけなくなり、人と積極的に関わることも止め始めたので、
この、他者(この場合は社会)からの「非難」の力というものはかなり強力であることがわかる。
私の場合は、以前も書いたが、社会(社会の大多数の大人)を自分よりも「上の存在」とは捉えていないので、社会からの「非難」の圧力にはあまり関与を受けていないように感じる。
というのも、社会に出てみて、ほとんどの年齢的には大人の人々が、私よりも「幼稚」であったためである。つまり、私よりも自制心がなく、他者を尊重した言動をできないことを確認したということである。
私はそのことに優越感を感じているわけではなく、むしろがっかりしているのであるが、現段階では「若さの非難」の圧力からは逃れることが出来ているという点では、個人的には良いことなのかもしれないと思った。
私は、現段階では、しっかりと若い人格を飼っているので、TPOに応じて学生のようにふざけることが可能であるし、好奇心は年々増すばかりである。
ただ、問題は、社会から「非難」を受けて、自己肯定感や社会的なアイデンティティを奪われ、病んでしまっている人が多いように、私が内心であっても、私と親しくしようとしている人の「自制心や他者への尊重のなさ」を「非難」してしまっていて、
そのせいで相手の自己肯定感を奪ったり、アイデンティティ(存在価値)を否定してしまっているため、そのことを怖がり、そのことを避けるために、私と親しくすることが出来ない人が年々多くなってきている可能性があると思った。
そして、どちらのパターンも、非難してくる対象が自分よりも「上の存在」であるという認識をするほど、その「非難、否定」の強度が強くなるのだと思う(逆に、私が、社会を自分より「上の存在」として認識していないため、「非難、否定」という社会からの関与から逃れているように)。
そして、作品消化や創作や思索を通して、年々「知性」が上がるほど、人から怖がられ始めている気がする、と過去に書いたが、
知性とは、知能+精神性であると私は思っていて、つまり精神性とは「大人性(自制心と他者への尊重)」のことなので、自分よりも「大人」から非難されるとは、社会(自分よりも大人)から非難されるような破壊力が出てしまうのではないか。
そうなってしまうと、やはり、基本的には、自制心や他者への尊重がある程度あるとう意味で「大人性」をちゃんと保有している人でないと私と親しくすることを怖がってしまう可能性が高いと思う。
または、どうにかして私が相手に「マウント(上から接するという甘え、迷惑)」を取るしかないのだと思う。
そうすることで、私が相手を受け入れていることを示すことにつながるのだと思う、つまり、相手の至らなさを受け入れることを示して相手を安心させることができるということである。
しかし、おそらく、半端なマウントでは、私からの内心の非難の威力の方が上回ってしまうので「ジュース買ってこいよ」くらい言えるようにならないと、怖がられてしまう可能性が高いと思った。
確かに、周りを見ても、知能が高く知識が豊富なだけであれば怖がられないが、ちゃんと「大人」な人は怖がられている印象である。それは、バカにされるなら耐えれても、「非難」されることは耐えられない人が多いためではないか。
結論:練習「ジュース買ってこいよ、ジュース買ってこいよ」
