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エッセイ 『ストレンジデイズ』

私は、過去のエッセイで、私が年々、友人関係であっても恋愛関係であっても、人と関係性の距離が近づくほど怖がられて、徐々に距離を取られてしまうことの理由について考えてきたが、その解像度が上がったので書こうと思う。

結論から先に言うと
「私に、どういう人間で、どういう心理なのか把握されることが怖いから」である可能性がある。

私は過去に、「ミニシアター系(芸術系)のヒューマンドラマを観ることを苦手に思ったり、怖いと思う人が多いように思うが、それと同じ怖がられ方をしている気がする」と書いた。

そして、過去に、アート系のヒューマンドラマ映画を観ることをなぜ「怖い」と思う人がいるのかを考えた時に、「自分と向き合うことになるから」という答えが出た。

つまり、普段、多くの人は、自分の至らなさや、醜さや、弱さや、しょぼさを「見ないようにしている」が、アート系作品(ミニシアター系のヒューマンドラマ映画や、ある種の純文学)において描かれる登場人物の至らなさや醜さに触れると、自分の至らなさに気づき、向き合うことになるためであり、そのことで自分を直視することが怖いのではないか、と書いた。

もっというと、自分の至らなさが描かれているような感覚がして、自分の至らなさを見せられているような気がするのではないかということである。作品において、登場人物の至らなさ、卑怯さ、醜さが解像度高く描かれているとは、それはつまり、その作品が、つまり、作者が、他人のそういう至らなさを見て、理解している、つまり「把握」しているということだからである。

私がこの作業を怖いと思わず、日々アート作品に触れ続けている理由は、人の至らなさを許容しようとするスタンスのアート作品を通して、自分の至らなさと向き合い、それを許容するという「自己受容」をし続けてきているためであると思う。

また、そもそも、私は、自分のことも、ある種「他人」のように客観視して観察し理解することが好きなので、つまり、自分も観察対象・研究材料のようなものなので、自分をサンプルのように扱う変態気質なところがある。そのため、本当の自分と向き合うことを「怖い」とは思わないのだと思う。

そして、それは、他人から本当の自分を見られることも同じである。大学時代、仲の良かった教授は、人のことを解像度高く把握して、良い部分だけでなく、至らなさも含めて本質的な部分まで見透かすことが得意だった。

そして、「あなたはこういう人間だよね。こういういいところがあるよね。こういう弱さがあるよね」ということをユーモアを交えながら、しょっちゅう伝えてくるのであるが、多くの生徒はこのことを非常に「怖がっていた」ので、その教授にあまり近づこうとしない人もいた。

私は、人のことをそれだけ「理解」できるということが「興味深い」という意味で、面白くてたまらなかったので、どんどん、私のことをスキャンして、深くまで解像度高く理解して、それを教えて欲しかったので、その教授と仲良くしていた。

つまり、私は「人間や人間心理」に興味があるということであると思う。なので、そのため、人間の生態や、人間心理を深く繊細に理解していくこと自体に刺激や喜びを感じる。

これは、アリの研究家が、アリの生態について研究することが喜びであることと同じであると思う。

しかし、多くの人は、他人についても、自分についても、そこまで深く繊細に理解することに興味がないのかもしれない。
また、その場合、自分はこれだけダサくて、弱くて、しょぼくて、醜い人間だということを知ること自体を「怖い」と思うため、見ないようにしているし、見ることに興味もない場合も多いのかもしれないと思った。

しかし、私は、自分のことも、良いところも至らないところも含めて、真っ向から見て、深く繊細に理解していく作業が好きである。つまり、そういうことを見つめることを、「恥ずかしい」とか、「怖い」という感情よりも、「興味深い」「面白い」という感情が勝つということである。

ただ、このスタンスで生きている私と向き合うと、私と親しく関わる相手というのは、私にどういう人間なのかを「把握」されてしまう度合いが強くなってしまうと思う。

そのため、自分がどういう人間なのかを深く繊細に理解することを自分でも怖いと思っている場合、それを他人からされることはさらに怖いのではないか。

そして、自分を深く繊細に理解された上で、「低評価」を受けようものなら、もう最悪なのではないか。


そして、私が、上記の教授のように、ガッツリ相手をどれだけ理解しているか、つまり、相手のことを「見ているか」を伝えなくても、上記のエッセイのように、相手をイジったりすること、つまり、相手の弱みをユーモア的に指摘することで相手には伝わると思う。

また、そういうことをしなくても、普段のやり取りにおいても、徐々に私が相手のことをどれだけ見て理解しているかは、あらゆる言動から相手に伝わるのかもしれない。

また、過去に、恋愛に発展しそうになった相手が、私の小説を読んでから私を怖がり始めて、私とまともに話せなくなり、最終的に去ってしまったという状態になったことがある。
それは、私が、どれだけ他者理解、つまり他者の生態や心理についての理解力や、他者がどういう人間で、どういう心理をしているのかを見ていく「スタンス自体」があるかを相手が確認したからである可能性があると思った。

こういう「スタンス」や「能力」が他人から「怖がられる」例として、村上龍の小説『ストレンジ・デイズ』がある。

主人公の男性・反町が、驚異的な演技力がある女性・ジュンコと出会い、彼女を主演に映像作品を作ろうと奮闘するというストーリーであるが、ジュンコは「他者理解」の能力が高すぎて、接する人を緊張させ、怖がらせて、余裕をなくならせてしまうという要素を持っている。
つまり、接している相手が、どういう人間で、どういう心理で言動をしているのかを理解する力が高いということである。

西新宿の比較的新しいホテルのロビーで、反町とジュンコはカリタという男に会った。ディレクターだと名乗って名刺を差し出した若い男と、カメラマンとその助手も一緒だった。ディレクターという若い男の名刺には人魚のマークが刷り込まれて、肩書はクリエイティヴ・デザイナー、となっていた。テレビの下請けプロダクションに数年居て、仲間と小さなCGの会社を作ったもののまったく仕事がなくアダルトもので何とか食いつないでいる、そういう顔をしていた。カメラマンは反町も名前を知っている、女性のヌード写真集を何冊も出している人物で、これも三十代の前半だった。助手はまだ二十歳そこそこというところだろう。その三人とカリタを見て、反町は最初すぐに断ろうと決めた。名前は多少知られているが、男性週刊誌のグラビアで重宝がられているだけのカメラマンと、人魚のマークの名刺を持つディレクターにジュンコを扱わせても何の意味もないと判断したからだ。こいつらじゃ無理だ、と思った。だが、ジュンコを見た後の彼らの態度が反町の判断を変えた。約束の時間に二分ほど遅れてやって来た四人は、名刺を出したり挨拶したりした後、ロビー・ラウンジのソファに坐ったが、向かいに坐るジュンコを遠慮がちに眺めているうちに、しだいに落ち着きを失くしていったのだ。最初に反応したのはカメラマンの助手だった。ごく普通にソファに腰を下ろしたジュンコに視線を向けるたびに、居心地が悪そうな、どこかそわそわした感じを見せるようになった。ソファに坐ってからしばらく四人は何も喋らなかった。一分もしないうちに助手は、ちょっとすみません、とトイレに立ち、カメラマンはしきりに煙草を吸い、ディレクターはまったくジュンコの方を見なくなり、カリタという男は何かを喋らなくてはいけないと焦って言葉を捜しているのがよくわかった。ジュンコさんは、と言いかけて言葉を呑み込み、慌ててまた別の話題を捜したが見つからなかったようで、バツが悪そうに携帯電話を取り出しボタンを押して下らないどうでもいい話を始めた。反町には、並んで坐っているジュンコが普段と変わったことをしている風には見えなかった。後で考えてわかったのだが、ある程度の期間一緒にいることによって、反町にはジュンコに対する耐性ができていたのだ。最初の頃はジュンコを目にすると心臓が壊れるのではないかと思うほど緊張した。ジュンコは常に演技をして生きているのだ。恐らく小さい頃から他人の落ち着きを奪う子供だったのだろう。確かにきれいな顔とからだをしているが、ジュンコ以上に整っている顔立ちの女や、よりスタイルのいい女や、官能的で目立つ女はたくさんいることだろう。ジュンコは人を魅了して離さないというわけではない。他人の不安を瞬時にして読み取って、それを自らの表情や動作に反映させるのだ。不安は感情的にリラックスできず想像力をコントロールできない時に発生する。不安から逃れるには何かに集中するしかない。それがテレビや漫画や麻雀の人もいれば、他者を観察して自分でそれを体現するというタイプの人間もいるのだ。ジュンコはたぶん気を許せる友達が一人もいなかったのだろう、それに自分がどんな人間かわからなかったはずだ。他者の表情や動作を観察して体現する時だけ、彼女は集中とリラックスを得ることができる。だからこそジュンコは自分の体内に棲む虫を設定しなければならなかったのだ。じゃあ早速ですが部屋の方へ参るってことでよろしいでしょうか? ライティングとかの進備もありますので、カリタはそう言って立ち上がった。カメラマンも立ち上がり、これからヌードになるにあたってリラックスさせようとジュンコに何か話しかけようとした。じゃさっさと始めて早く終わらせようか、とか、撮影中に流す音楽はどんなのがいいかなオレとしてはとりあえずレニー・クラヴィッツとバネッサ・パラディンを持って来たんだけどさ、みたいなことを言おうと思ったのだろう。ほとんど同時にソファから立ち上がったジュンコは、一歩進み出たカメラマンに、よろしくお願いします何にも知らないんです、というその辺のバカなタレントのような笑顔を見せた。それは相手を油断させる本当にイノセントな笑顔だった。乗せられたカメラマンが軽く何か気のきいたことを語りかけようとした時、信じられないようなタイミングで笑顔を解き、これ以上はないという冷たい表情になり、その後最初から相手が存在していなかったかのように視線を外して無視した。カメラマンは何も言えなくなってしまい、何かたまらなく恥ずかしいことをしてしまった後のように頬を紅潮させた。部屋に入った時も、カリタの気の遣いようは少し異常だった。狭い部屋でちゃんとした控室もなく本当にすまない、と何度も反町に弁明した。ギリギリの予算でやっているもんで何とか我慢して下さい。そして四人は寝室に反町とジュンコを残してライティングの準備を始めたのだ。ずっとわたしは裸でいるのかしらね、とジュンコはベッドの縁に坐り、組んだ脚をブラブラさせながら言った。「だって普通こういう時って他に人がいるもんなんじゃないの?わたしはよく知らないけどメイクの人とか、衣装とかさ」
そういうことをジュンコは言ったが、反町はたとえスチール写真にせよ撮影の雰囲気をジュンコが楽しんでいるように感じた。もちろん緊張しているし、表情も硬い。だが本当にイヤだったら誰が何と言おうと彼女なら帰ってしまうはずだ、と反町は思った。脚本がないっていうのも何か変だよね、多重人格っていったって人格がまるっきりないわけじゃないんだからさ、とジュンコが言っている時に、ディレクターが寝室に顔を見せた。ディレクターはライトのせいだろうか、ジャケットとシャツの袖をまくり上げて、額からこめかみ、頬にかけて汗を搔いている。
「お待たせしてすみません、ライティングにはもう少し時間がかかります、それで、メイクとスタイリストがもうすぐ来るはずですが、その前にきょうの大体の段取りを説明させていただこうと思いまして」ディレクターは坐るところがなく、突っ立ったままハンカチで汗を押さえてそう言った。
気の毒になるくらいジュンコの前で緊張している。ジュンコはごく普通の格好だ。灰色のぴっちりしたジーンズに、淡い緑色のシャツ、デニムのブルゾン。まったく無名のジュンコにどうしてこれほど緊張しなければいけないのだろう、と反町は思った。ロビーで会った時よりも緊張の度合が増している。
「よろしいでしょうか?」
ええお願いします、とジュンコは言って、微笑んだ。ディレクターの顔から、緊張が解けていくのがわかった。それまで泣いていた子供がふっと急に笑ったような感じで、ディレクターは緊張を解いた。その瞬間、透かさずジュンコは微笑むのを止めて、言った。
「大体の段取りじゃなくて、詳しいことを話して欲しいんですけど」
ディレクターの顔が青ざめるのがわかった。まるで外回りの営業マンのような安っぽいダブルのスーツを着ているが、両手でジャケットの銅を外しながら何か言うべきことを考えているようだ。
「詳しい段取りって、ボクらの業界じゃほとんどないんですよ」
ディレクターはわざとらしい明るく高い声でそう言って笑おうとしたが、ジュンコにじっと真剣に見つめられて笑うことができなかった。
「どうすべきかわからないと、何もできないんじゃありませんか?」お前は本当は完全なアホなんじゃないか、という風にジュンコは言った。声には棘があり、言っていることには間違いはなかった。ディレクターはほとんどパニックに陥ろうとしていた。
「うん、そうなんだ、ボクもそれを考えていて、ただCGに画像を転換する時にスチール写真の解像度が要求されるわけですよね、だからライティングに時間をかけているわけです、つまりかなり強い光がないとF値が下がってしまってCGの場合、ピントが合っていないとそれは致命的なんですよ」
ジュンコは途中から視線を外した。ディレクターの言っていることはジュンコへの返答ではなくただの弁解だった。反町は、最初にコンビニで会っていた頃を思い出して、ディレクターの気分が理解できた。この女の子に嘘をつくと大変なことになる、誰だってそれはわかる。だが、ジュンコから真剣な顔で見つめられ質問された時、あらかじめシミュレーションを済ませていなければきちんとした答えを返せない。どぎまぎして焦ってしまうのだ。ジュンコは、あらゆる局面でリハーサルを済ませている。一瞬にしてリハーサルを行なうことができる。だからジュンコとの会話には常にひどく神経を遣うし、たぶん、ジュンコには日常会話というものがない。

『ストレンジ・デイズ』

私は、このような「他者理解」の能力が高い人物を以前から好んでいるように思う。
例えば、以前も例に出した、椎名林檎である。

彼女が、芸人のチュートリアル・徳井さんと対談した時、徳井さんが「緊張する」と、本当に少し余裕がなさそうにしていたが、それは椎名林檎が美しいからとか、音楽の実力や、品があるからという理由だけはなく、この「他者理解」の能力に長けているからだと思った。

つまり、椎名林檎が、接している相手のことをものすごく「見て」、理解していて、把握していることは相手にも伝わるのだと思う。

つまり、相手がどういう人間なのか、倫理観や、マナーや、知性はどのくらいか、今発した言葉に嘘はあるのか、嘘をついているならどのような嘘をどのような理由でついたのか、相手の現在の精神的な余裕はどのくらいあるのか、相手がどの程度「素」なのか、または演技をして表面的に接しているのか、そしてそうやって対応する理由は何なのか、など、あらゆる相手のこと、相手の心理を、見て理解して把握して、それを踏まえて相手に対応するのであるが、そのレベルが高いほど、それをされた相手はそれをしてくる相手に、裸にされた挙句、高強度で見張られているような、一つのミスも許されないような「緊張」を感じるのかもしれない。

ここで「ミス」するとはどういうことかというと、『ストレンジ・デイズ』の引用でもあったように、嘘をついたり、気遣いのない言動をしたりして他人に迷惑をかけたり、適当に浅はかなことを言った場合、そのことがバレて、「ナメられる」ということではないか。
つまり、「バカにされる」ということだと思うが、この行為は相手を直接バカにしなくても、内心「ああ、なるほどね、そういう人なのね」と思われるだけでも成り立ってしまうものだと思う。

この「相手をバカにする」ことがひどい行為とは限らないのは、例えば、ユーモアとして他人を「イジる」場合、それは相手を「バカにしている」わけであるが、相手を責める意図がない場合、相手の至らなさを「可愛い」と愛でて許容する行為でもあるためであるし、「心の中だけなら何を思うのも自由(ナミビア語録)」であるためである。

ただ、それであればまだいいが、自分のことを色々と見透かされて、ジャッジされて、「この人は軽薄で他者への尊重がないひどい人だから軽蔑する」とか「この人には興味がない」と思われてしまうと精神的に傷付くと思うので、

そういうことに至る可能性自体にも恐怖を感じるということかもしれず、そのため、自分が見せてもいいと思っているところ以外もどんどん見られてしまうという意味で、この他者理解の能力が高い人は「怖がられる」というところもあるかもしれないと思った。

そして、私は、この「把握」を他人からされることがすごく好きなので、これを「怖い」と思う感覚はあまりわからない。

なぜなら、上記したように、自分の至らなさの自己受容がかなりできていることや、そのことも手伝ってか自己肯定感が割と高いため、他人から本当の自分を見られることにあまり抵抗がないのかもしれないし、また、そんな芸当ができる人と接することは「面白すぎる」ためである。つまり、私にとってはそういう人物は「アトラクション」であり、同時に理解者となってくれる「包容力」のある人である。

そして、私は、この「把握のし合い」が、人間関係において最も楽しいやり取りであると考えている。私は刺激が好きなので、そういう遊びを他人としたいということでもあると思う。

想像力がありすぎると、
人は全て見透かされてる感が出て怖がる人が多いですよね?
想像力を人は痛がるんですよね。
私は見透かされるのが好きなので。でも、絶対に把握はさせたくない。
そのせめぎ合いが、一番のエンタメな気がします。

散文 『恥部公開&映画紹介』

上記の記事で、私は、過去に好きな人に送ったメッセージを書いていて、そこで引用箇所のように相手に伝えている。

つまり、ここで私は、「どういう人間なのか、また、どういう心理なのか、を見透かされることを怖がる人が多いけれど、私はこの見透かしあいが一番の人間関係におけるエンタメであり、それをあなたとならハイレベルにできると思うので、あなたのことが好きです」という告白の仕方をしている(告白の仕方キモ)。

ここで私は、「絶対に把握はされたくない」とも書いている。なぜなら、相手にどういう人間で、どういう心理構造なのかを完全に把握されることは、この「把握ゲーム」において、「負け」だからであり、相手よりも「単純で薄っぺらい人間」ということが確定し、プライドが折られるためである。

しかしながら、私は同時に、私のプライドを折ってくれる人との関わりを望んでいるとエッセイ『プライド蹂躙ゲーム』で書いた。

このゲームで負けてプライドを折られることで、私は初めて、相手のことを「認めて」、相手に心を開いて、相手に甘えたり頼ったりすることができるためである。
無理やり折られたプライドを守る必要がなくなるためであると思う。そういう意味で、関係性において、私は、プライドを自分ではなく、他人に折ってもらいたいということだと思う。

人間の「格」には、ルックスや、気の強さや、財力や、暴力や、人気や、社会的地位や、コミュ力などなど、色々な要素が絡んでいると思うが、私は、基本的に、この「他者理解の能力」と「精神性」を最も重要視している気がする。

また、私には、「精神性」以外で他者にマウントを取るのは下品だという価値観もある。精神性だけは、親や先生が子どもを「可愛がる」ように、相手が精神的に幼稚で劣っていることを「愛おしい」と思う愛情が絡むため、下品ではなくなるためである。

つまり、知能が高く、心理学や精神分析などの知識が豊富にあり、他者を理解する能力に長けていたとしても、他者を尊重し思いやる心が欠落している人を、私は、面白いと思うことはあっても、尊敬することはできないということでもある。

以上のことを踏まえると、大人になってから出会った人と親しくなろうとしない人が多いのは、おそらく「自分を見られるのが怖いから」ではないかと思った。そして、見られた上で、低評価を受けることもまた怖いのだ思う。そのため、距離を取って表面的にしか接しなかったり、親しくなろうとしない場合が多いのかもしれないと思った。

年齢的に大人になるほど、社会的なものを含め、「アイデンティティの獲得
」が行動原理になり、それを失うことを恐れている人が多いことからも、他者から「否定」「低評価」されることを恐れる心理が発達することがわかる。

私は、こういう恐怖よりも、とにかく「刺激や楽しさ」を求めているので、人と親しくなり、どんどんと上記のようなゲームをして遊びたいのであるが、おそらく、多くの人は、すぐ色々と見透かしてくるような人が相手でなくても、そもそも人から自分を見られること自体が「怖い」と感じる可能性が高いと思った。

私が他人から怖がられないようにするには、私が相手を「受け入れていること」をなんとか伝えないといけないのだと思う。それはつまり、相手を「否定しないよ」ということを示すことだからである。

つまり、私がまだ相手を受け入れておらず、「ジャッジ中」という状態に相手が耐えきれなくなるということだと思う。私にどれだけ見透かされても、私が相手のことをを受け入れていることが伝わっていれば、相手はそのことを怖いとは思わず、むしろ理解者として、包容力を感じてくれる可能性もあると思う。

ただ、過去に何度も書いているが、関係性の初期において、相手のことを本当に信頼できるのか、相手に完全に心を許し開いて受け入れる対象なのか「ジャッジ中」であるのは、お互いにそうだと思うので、私が実際に相手に慣れて、信頼し、受け入れるところまで辿り着くまでに相手が耐えきれなくなるのは、

やはり、「把握ゲーム」や、全体的な関与力において、私が強すぎるため、相手からすると、とっくにゲームで負けているのに、私が相手のことをまだ受容しないので、相手は私に「否定されている」と感じるのかもしれない。
または、このままどんどん自分のことを知られた上で、「受け入れられる」とは思わず、がっかりされる(否定される、低評価を受ける)と思っている可能性もある。

いずれにせよ、相手が、私から「見られること(知られること、把握されること)」に耐えきれなくなるパターンが多いような気がするので、「どんどん自分を見て欲しい!」という自己肯定感が高い人か(お花畑私タイプ)、または、プライドが折られた上でしばらく受容されなくても気にならない人か、または、私に見られていることに気付かない人か、または、「把握ゲーム」で拮抗してくれたり上回ってくれる人でないと、私と親しくすることを怖いと感じるのかもしれない。

なぜなら、理解力自体が高まった今、私が、関わっている相手を「見透かしてやろう!」と思っていなくても、もう見えているからである。そのため、相手を「見ない」というコントロールが逆にできない。

そして、私が相手に関して理解したことを伝えなくても、私が相手を解像度高く理解していることは、上記したようなあらゆる私の言動から伝わってしまうのだと思った。

実際に、私が普通に楽しくおしゃべりしていただけのつもりであるが、私と話すことは「気が抜けない」と伝えられたり、「隙がない」を伝えられたことがあるので、強度の差こそあれ、上記の、ジュンコ(ストレンジ・デイズ)、椎名林檎状態に無意識になっているのだと思った。

つまり、「気が抜けない」とは、私が相手の「甘え(迷惑、至らなさ)」をよく見ているということであり、「隙がない」とは、私が相手に「甘えない」ようにして自分の致命的な落ち度を作らないようにしているということだと思う。

そういうことであるなら、まだ、慣れていなかったり、信頼できていない相手にも、やはり、私が無理やり「甘えて(頼ったり迷惑をかけて)」いけば、相手は私を怖がることなく関わることができるのだろうか。
それが、相手に私を「理解してもらう」ことを促すということに繋がり、「把握ゲーム」で相手が潰れることもないのだろうか。

というのも、この「把握ゲーム」において、一番の相手に対する「理解」とは、相手の幼稚性、つまり「甘え(至らなさ)」がどこにあるのかを把握することだと思うためである。

『ストレンジ・デイズ』の引用で、ジュンコが、主人公から「ジュンコは常に演技をしている」「ジュンコはたぶん気を許せる友達が一人もいなかったのだろう」と分析されていたが、これは私が、エッセイ『ひらいて』においてした自己分析と重なる部分があったので面白いと思った。

上記のエッセイで、私は、親しい友人や恋人と接しているときも、常に演技をしていて、その演技とは、つまり相手を「気遣う」ことを止める事ができない=相手に遠慮なく甘える(迷惑をかけること)ことができない、という意味で「素」ではないと書いた。

そして、その理由は、(特に精神性を)認めていない相手に頼り甲斐を感じないため甘えることに遠慮が出てしまうことや、認めていない相手に甘えることをプライドが許さないからであるとも思う。

そのため、私は単に「把握ゲーム」が刺激的で好きだからしているという理由だけでなく、自分で心を開けないから、「私のプライドを折って心を開かせて欲しい」という「他者への甘え」として、このゲームをせざるを得ないということでもある気がしてきた。

そう言えば、よく話題に出す、濱口竜介監督作品で、他人に心を開けない人物が無理やりキスされたり、シャワーをぶっかけられたりして物理的に無理やり「関与」されて、無理やり心を開かせられるというシーンを見て、「あ、これ私かも、、」と思ったものである。

そして、私のプライドを折れない(関与できない)人は、私が相手を受け入れない(心を開かない)ため、私からの「否定」を感じたり、「否定の可能性」を感じて私を関わることを怖がって去ってしまうのではないか。

私:「心を開かせて!」
相手:「このままじゃ否定される!」
のせめぎ合い説。

結論:一番の甘えん坊は私説

2回目

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