エッセイ 『精神的なコミュニケーション』
過去に、強度高く、意思疎通ができない人、できないかもしれないと感じる人、とのセックスにモチベーションがあまり出ないと書いたことがある。
男友達が、似たようなことを言っていて、面白いと思ったので、書いてみようと思う。
その人は「風俗に興味がない」と言っている。利用したことはあるが、特に楽しく無かったと。つまり、満たされるものが無かったということだと思う
「まず、知らない人だし、おっぱいを触っても、それって水風船触ってるのと変わらないっていうか。なんか、中身がない」
私はこれを聞いて、「あー、なんか言ってる意味わかるかも」と思った。
これはつまり、「精神的なコミュニケーション」がない、ということを言ってるのかもしれないと思った。
これは、「体を触ることで、精神的にコミュニケーションをすることができない状態の相手」である場合、精神的な交わりがない、意思疎通がない、相互承認がないということではないか。
これはどこに「エロ」を見出すのか、という問題でもあると思う。
よく知り合っている相手、だったり、知性や気質が合う人が相手な場合、体を触り合ったり、セックスをすることは「心を開きあってする本音の会話」に近いと思う。
つまり、相手の人格とのコミュニケーションであり、それはつまり、意思疎通の感覚である。
つまり、意思疎通がある程度の強度でできる相手の場合、「おっぱいを触ること自体」ではなく、「おっぱいを触っているという意味の共有」が「エロい」ということである。
「自分たちは今エロいことをしているよね」という意味の共有は、相手との意思疎通が取れていないとあまりできないということである。
つまり、ここで重要なのは、体を触り合ったりセックスやキスなのどのエロいことをすることで、互いをより精神的に「受け入れる」ことが意味として
「エロい」ということである。
確かに、そういう観点で見ると、風俗嬢は、男性のことを受け入れてはいないし、男性も、よく知らない風俗嬢を精神的に受け入れることはないと思う(常連として仲良くなれば別かもしれないが)。
この、「相互の受容」がない性行為は、それがある性行為に比べて「エロくない」。むしろ、他人に受容されたいという目的込みでしている場合、虚しさや寂しささえ感じるかもしれない。
簡単に言えば、相互受容がないセックスは、精神的にセックスをすることができないため、エロくない=中身がない、ということかもしれない。
相手の人格と精神的なコミュニケーションができないセックス=マネキンやロボット相手のセックス的=おっぱいも水風船、ということかもしれない。
「今あなたのおっぱいを揉んでるよ?」
「うん」
これです。
この「行為の意味の共有」を非言語ですることが精神的なセックス(性行為)なのだと思う。
これがセックスにおいて本質的にエロい部分(中身の部分)なのだと思う。
これは意思疎通、つまり「わかりあう」という状態での肉体的接触でないと、相手とエロいことをしているという意味の共有ができないため、あまりエロくないということである。
もっというと、精神的な「共同作業」として成り立っていないということである。
これは例えば、ある映画のシーンがあるとして、「このシーンいいよね」という感覚の共有が互いにできること=意思疎通が成り立っている状態、
というくらい、逆に言うと、意思疎通があまり取れない相手とのセックスとは、「していること」の「意味の共有」ができない。
ただ「おっぱいを触っている」という単純なことなのであるが、意思疎通が強度高く取れない相手の場合、「互いに、相手が今どう思っているのか、どう感じているのかわからない」ということであり、
実際今何をどういう理由でしているのかという意味の共有が強度高くできない。
「互いにとってどういう意味があるのか」という意味の共有ができないと、そこに精神的な交わり、意思疎通、精神的なコミュニケーションは生まれないため、本質的な(中身の部分)エロも生まれない。
つまり、体を触っても相手とより近づくことができないどころか、より遠く感じることもあるということである。
アメリカ人作家のミランダ・ジュライの短編小説集『いちばんここに似合う人』における短編『モン・プレジール』において、セックスレスになってしまった夫婦が描かれる。
妻の方が夫とセックスをする気分になれなくなってしまったが、人生において最も怖れていることは、「夫と2度とセックスできないかもしれないこと」である。
ある日、妻は、「一緒にできること」をするために、映画のエキストラ俳優を一緒にしてみたいと夫に提案する。
そして実際に、映画で「主人公がカフェで会話をしているシーンの後ろに映るカップル」としての役を二人で手に入れて演技をする。
とたんにわたしたちは役者になった。いかにも会話をしている人らしく交互にしゃべり、聞き、うなずき、音なしで笑い、ちびちびと料理を食べた。口と顔を動かし、若いカップルがよくやるように、ときおり身振り手振りをまじえていきいきと会話した。カールがわたしの話にうなずきながら、途中でわたしをさえぎって口の形でさらに何か言い、わたしは人々が楽しげに会話しているときのことを思い起こして、もしかしたら彼はいま何か冗談を言ったのかも、とピンときたので、声をたてずに大笑いした。カールも笑った。本物の笑顔、わたしを笑わせたことが嬉しくてならない笑顔だった。その笑顔にわたしは心の底から幸せな気分になった、自分が光り輝いて美しくなったような気さえして、カット。もう声を出してもよくなったのに、わたしたちは一言も口をきかなかった。目を合わせることもできなかった。気まずかった。わたしは落ちつかない気分でアクションの声を待った。やがてデイヴの声がかかって目を上げると、カールと目が合った。その目が細められて笑みに変わる。襟のあるシャツを着て髪を切った彼は、うっとりするほど素敵だった。彼がワインを注ぎ足し、わたしたちはめいめいのグラスを持ち上げて口の形で言った、二人に!でもその"二人”がわたしたち自身ではなくこの二人ー「モン・プレジール」で初めて出会った男女だということを、わたしたちは知っていた。わたしがテーブルの上にそっと手を伸ばすと、カールがすぐにその上に自分の手を重ね、わたしは燃え上がるマッチのように明るく輝いた。はいカット。ふたたびわたしたちはうつむいたまま待った。彼の手はわたしの手の上にのったままだったが、もう生命を失っていた。周りでスタッフたちが照明を調節しているあいだ、わたしはいったいあと何テイク残されているのだろうと考えた。いくらあっても足りなかった。アクションの声がかかると、わたしはカールの指をきゅっと握り、彼もわたしの指を握り返した。もうぐずぐずしている暇はなかった。テーブルごしに互いに身をのりだし、わたしが彼のあごひげに手をそえ、主役のテーブルの邪魔にならないように素早くキスをした。胸を刺すような悲しみと切迫感がわたしたちを突き動かしていた。見つめ合う目を一瞬たりともそらせなかった。吸いこむ息の一つひとつが問いかけだった。(そうなのね?)ーそして答える、(そうだよ)。落ちては止まり、落ちてはまた止まり、そうしてわたしたちは不確かで活き活きした場所に落ちていった。きっとどこかにあると前からわかっていた、でもどこにあるのか見当もつかなかった場所。それまで知らなかったカールのユーモアのセンスが沈黙の中で花開き、彼がしてみせた絶妙に滑稽なしぐさに、わたしは不覚にも声を立てて笑いそうになった。そしてわたしのする動作の一つひとつがそのままセックスだった。椅子の上でちょっと腰をずらす、フォークを持ち上げる、目に入った髪をはらう、そうした動きのいちいちが、まるでハチミツの中をかきわけてするようにゆるやかで、意味深なニュアンスを幾重にもはらんでいた。二人の息づかいが周りに聞こえてしまわないかと心配だった。わたしが両手で彼の腕をつかむと、彼はテーブルの下で靴を脱ぎ、足と足が言葉よりも雄弁に押し上げ、押し下げた。デイブが叫んだ、はいカット!そしてーエキストラのみなさんはこれにて終了です。どうも今日はお疲れさまでした!これが、終わる?カールとわたしはじられない思いで顔を見あわせた。スタッフが拍手を始め、みんなが拍手した。わたしたちはやっとの思いで立ちあがり、他の二十二人の客たちに混じって、よろよろと部屋を後にした。男女の更衣室に別れるときも、一度も目は合わせなかった。帰りの車の中は、息詰まるような果てしない沈黙地獄だった。庭の芝生を横切る途中でカールが立ち止まり、前の日にわたしが出しっぱなしにしていたホースを巻きはじめた。わたしはしばらく待っていたけれど、急に突っ立っているのが間抜けに思えて、先に中に入った。もう遅い時間だったので、夕食を作りはじめた。向かい合わせで座ると、急にすべてがひどく現実ばなれして見えた。また二人でこうして無言で食事をしていることが。青菜にフォークを突き刺したまま、わたしは泣きだした。カールが顔を上げ、テーブル越しに二人の目が合った。もう隠しきれなかった。わたしたち、もうこれ以上いっしょにはいられない。
引用箇所は、エキストラ俳優として演技をする二人のシーンであるが、ここで何が起こったのか、私なりの解釈を書いてみようと思う。
「愛し合う二人(カップル)」という「役」の二人として向き合うことで、おそらく、擬似的にではあるが二人は久々に「愛し合えた」のだと思う。
それは、互いの愛情を互いに感じることで生まれる「意思疎通」の感覚によって相互に確認される。
「(そうなのね?)ーそして答える、(そうだよ)」とあるように、この時、二人は「わかりあった」のだと思う。つまり強度の高い意思疎通をしたということである。
これは、私が上記した、
「今あなたのおっぱいを揉んでるよ?」
「うん」
この、「非言語の」確認作業と全く同じ事象であると言える。
この二人は、エキストラなので、演技中声を出して会話をしていない、そのため、(そうなのね?)(そうだよ)というカッコ内のやり取りは、非言語でのやり取りである。
つまり、相互関与、相互承認と呼べるほどの「意思疎通」というのは、最低限互いの言語が通じていて会話が成り立っているからといってなされるというわけではないということである。
そのため、過去にも書いたが、この「意思疎通」は、基本的には「知性と気質」になどよる、「相手がどういう人間で、どういう考えで、どういう感覚を持っているのかという理解」を互いにすること、
または、おばあちゃんが、孫から愛らしさという関与を受けることで、孫を愛しているように、相手に愛情を持つこと、によって成り立つのだ思う。
つまり、「愛情」とは、相互理解がなくても成り立つ相互関与(意思疎通)だと言える。
ただ、大人同士の関係においては、「相互に理解し合える存在であるため、相手と意思疎通の感覚を感じて、相手を愛することができる」とパターンが多いと思う。
そして、引用の最後の部分では、「わたしたち、もうこれ以上一緒にはいられない」と二人は感じるが、
これは、「役の二人として向き合ってようやく大事な人と再び愛し合えたことで、皮肉にも二人とももう互いに気持ちがないんだということを知った」ということだと思った。
つまり、長らくできていなかった、高強度の意思疎通の感覚を久々に体験したということである。
そして、この二人はおそらく、相手がどういう人間なのかという相互の理解はできているが、いつの間にか相互に対して愛情がなくなっていたので、「愛情の交換という相互承認(意思疎通)」はできていなかったということだと思う。
「わたしのする動作の一つひとつがそのままセックスだった」と引用にあるように、やはり「意思疎通」がセックスの本質であると言える。つまり、上記したように精神的なコミュニケーションが行われることが、セックスにおける本質的なエロであることがわかる。
そして、「役」の外での二人は、もうセックスをしても、強度の高い「意思疎通」ができなくなっているので、「役」として二人で会話をする方が、セックスよりも本質的な"セックス"が出来たということだと思った。
つまり、妻が一番怖がっていた「もう2度と夫とセックス出来ないかもしれないこと」というのは強度の高い「意思疎通」、「相互承認」のことであることがわかる。
私は、以前、親しくなりある程度の距離まで来た人に、「あなたのことが理解できないから怖い」という旨のことを言われて、去られてしまったことがある。
私からすると、簡単に理解できてしまう人よりも、理解しきれない人の方が、面白みがあるので魅力的だという考えがあるので、私のことを理解できないことの何が問題で怖いのか分からなかったが、
理解できない強度が高い場合、やはりこの「意思疎通」ができないことが問題なのではないか。
確かに、例えば、名前も聞いたことがない国から来た、言語も文化も異なる外国人がいたら、何を考えているか分からなさすぎて、つまり、意思疎通が出来なさすぎて、確かに「怖い」と感じるかもしれないし、
または、
私のことを理解できない=私に関与できない=私と相互関与できない=私に発見され認められることがない=私に存在を否定される=怖い
というプロセスも、もしかすると無意識で感じることもあるのかもしれない。
つまり、エッセイ 『他人にどう思われるかが怖い』で書いたように、私を理解できないことにより、(私が実際に思うかどうかに関わらず)私に「しょぼい」と思われる「可能性」を感じて、つまり、否定される可能性を感じて、関与できない(理解できない、取り扱えない)対象は「怖い」と感じるのかもしれない。
また、上記のエッセイでも書いたように、他人と親しくすることや、恋愛関係になることの本質的な目的は、単に「楽しむこと」ではなく「相互に承認すること(認め合うこと)」である可能性があるので、そのことを私とはできないと感じて私と関わることを諦めたり、怖いと感じるのかもしれない。
そして、最初に書いたように、確かに私はある程度の強度で「意思疎通」ができないと感じるほど、初めは興味があった相手であっても、恋愛感情がなくなってしまったり、もっと言うと性的な欲求も相手に向かなくなることがある。
これは、やはり、上記したように、”本質的なセックス”ができないと感じるため、相手との性的接触を「エロい」と感じなくなるためではないか。
なので、男女ともに、別にセックスをするだけなら、肉体的な接触のみにエロを見出すことができ、意思疎通とか関係なく楽しめるという人もいると思うが、
私の場合は、(よっぽどルックスがタイプとかなら別かもしれないが)この本質的なセックスの可能性を相手に感じないほど、相手に性的欲求が向かなくなるように思うし、してもなんか虚しいと感じ、そして、この気質は、上記の友人と共有しているものであると思う。
つまり、「意思疎通」という精神的なコミュニケーションを相手とある程度取れないと、そこまでモチベーションが湧かないということである。
カップルが別れる理由として、よく言われるのが「価値観が合わなかった」とういうものがあるが、これはつまり、相手の考えを理屈として把握は出来ても、感覚的な理解は出来ないという状態であると思う。
これもつまり、「意思疎通が出来なかった」ということだと思うので、私だけが異様に気にしていることではないことがわかる。
そして、過去にも書いたが、私は、昔は怖がられなかったが、年々「知性」が上がるほど、人から怖がられ始めたので、私の考えや感覚が理解できない=意思疎通が出来ない存在=怖い、として、捉えられている可能性があると思った。
特に、その意思疎通が取れない私の人格の範囲が、相手より精神年齢の高いものであれば余計に怖いのではないか。
そして、上記のエッセイで、私が「おばあちゃん状態になれる(相手から強度高く理解されなくても愛せる)」と言っていたyoutuberも、「気質」がかなり私に近いと感じる相手なので、これもある種の相手からの「理解」であり、「意思疎通」の感覚があるため、相手を愛することができている部分もあるのかもしれないと思った。
結論:「意思疎通の可能性」が私にとっても、他人にとっても大きい
