エッセイ 『本気のしるし』
私は、過去のエッセイで、私が年々、友人関係であっても恋愛関係であっても、人と関係性の距離が近づくほど怖がられて、徐々に距離を取られてしまうことの理由について考えてきたが、その解像度が上がったので書こうと思う。
結論から先に言うと、
「全体的な関与力に差があるため」である可能性がある。
私は、現在ガチ恋しているYouTuberがいる。その人は、私よりも明らかに「幼稚」であるが、私はその人に対して、私が最近のエッセイでよく言っている「おばあちゃん状態」になることができていると思う。
つまり、孫が、おばあちゃんのことを理解していないから、おばあちゃんを包容する精神性や知性がないから、おばあちゃんに一方的に甘えているから、尊敬できる対象ではないからと言って、おばあちゃんは孫に心を開かないわけでもないし、承認をあげないわけでもない。
それは、「目に入れても痛くない」という表現があるように、おばあちゃんが孫の愛らしさにメロメロになっているため愛しているからである。つまり、孫のことを至らなさも含めて「かわいい」と思っているということだ。
これは結局、「孫(血縁者)」という関係性も含めて、孫が「かわいさ」という「関与力」をおばあちゃんに持っているため愛されているし(承認されている)、心を開かれているということだと思う。
上記の、私がおばあちゃん状態になっているYouTuberは、私から見てものすごくルックスが良く、キャラクターがユーモラスで面白く、美的センスがある、という私に対しての全体的な「関与力」を持っている。
私は決して面食いではないが、つまり、ルックスが非常に良くないと他人を恋愛対象として好きになれないわけではないが、ルックスも関与力の一つであることに違いはない。
そして、このYouTuberが、精神性や知性を持って私を強度高く理解して包容してくれない人だからと言って、私はこの相手に心を開けない、承認できないということにはならない。
そのため、私は過去のエッセイで、私が簡単に他人に心を開いたり、承認を渡すことができないのは、私を理解してくれない相手に心を開くことが「怖いから」ではないかと書いたが、
おそらくそれだけではなく、「全体的に相手にあまり関与されていない」ため、相手に好意があったとしても相手を認めきれていないため、真っ当に心を開いて承認や愛情を相手に向けることができていない可能性が高いと思った。
過去のエッセイで、全体的な関与力に差異があるほど、それが暴力的なものでなくても、より関与力がある方は相手に「怖がられてしまう」傾向にあるように見えると書いた。
そして、私は過去のエッセイで、年々、創作や思索や作品消化やコミュニケーションで「知性」が上がるほど、周りの人の存在感が薄くなってきている気がすると書いた。つまり、これは周りの人に以前より「関与されなくなってきている」ということだと思う。
これはつまり、私に対しての「有力感」を以前より周りの人から感じなくなった、ということだと思う。
私たちは恋愛関係にあるような気がしなかった。やっぱり弘斗は若くて、私の見ているものと弘斗の見ているものの違いは大きいような気がした。これまでの男に対して抱いてきた気持ちと、弘斗に対するそれとの違いは、尊敬の有無なのかもしれない。仕事を持っていない男を、女は尊敬出来ないのかもしれない。例えば我が子を尊重する事は出来ても、小さい内は尊敬する事は出来ないように、私は弘斗の事を尊重してはいるけれど、尊敬はしていない。専業主婦や小さな子供に対して抱くような、この人は無力なのだ何も特別な能力は持っていないのだという先入観にそれは近い。考えれば考えるほど、私は弘斗を男として認識出来なくなっていく。不意に、惇を思い出す。私は彼をリスペクトしている。美由起のこともそうだし、もちろん直哉もそうだ。私は弘斗に、そういう何かのプロとしての立場を持ってもらいたいのだろう。だからこんなに成熟を急かし、留学を勧めているのだろう。私は弘斗に、私の知らない事をたくさん知っている人になってもらいたいのだ。そんな欲望を持っている自分がひどく傲慢な人間に感じられた。そして同時に、弘斗は同年代の女の子と付き合うべきだという呆気ない結論が出る。弘斗は私を性的に圧倒する事は出来たとしても、私を精神的に圧倒するような力は持ち合わせていないに違いない。
以上の引用は、金原ひとみの小説『軽薄』において、主人公の社会人女性が、自分と性的関係にある学生の男性・弘斗に対して持っている感情の描写である。
主人公は、弘斗のことを恋愛相手として見ることができないと感じるが、その理由を「自分を精神的に圧倒する力がないため尊敬することができないから」としている。
この主人公は、つまり、「性的魅力」という要素だけでは、全体的な関与力が足りないため、相手のことを認めることができない、ということを言っているのだと思う。
そのため、「仕事を持っている」という、自分に対する強度の高い関与力があれば相手を「恋人」として「認めることができる」と言っているのだと思う。
おそらく、この主人公にとっての「仕事を持っている」という他人の要素は、私にとっての「ある程度の知性がある」という他人の要素と同じことだと思われる。
つまり、自分が他人からの「関与」を最も強く感じる要素であるということである。
この主人公が「仕事」を持っていない人を「尊敬」できないように、私の場合は「軽薄さ」をある程度感じてしまうと、他人を「尊敬」することができないためである。
ただ、この主人公も、もしかすると、私と同じで、まだ学生で仕事を持っていないような相手だとしても、ルックスがドンピシャでタイプであるとか、自分よりも精神的に大人びているとか、声が好きすぎるとか、他に尊敬できる能力があるとか、
そういう「全体的な関与力」を相手に感じれば、相手からある種「精神的に圧倒」されて、つまり、相手からの強い関与を感じて相手のことを「認める」ことができる可能性はあると思った。
そして、面白いのが、上記の私がガチ恋しているYouTuberは、私より明らかに「幼稚」であるが、つまり私のことを強度高く理解する知性はないと思うが、私は相手に「甘える」気持ちがある。
つまり、過去のエッセイでは、私は、相手に精神性や知性からくる私への理解や包容力を感じないと、私は相手に甘える気持ちは湧かないのではないかと書いたが、私はこのYouTuberには、デレデレした気持ちがあり、相手に甘えたり、わがままを言って「しょうがないなぁ笑」などと言って受け入れてもらいたいという気持ちがある。
つまり、相手に甘えてもらいたいし、自分も甘えたいという「甘え合い」をしたいという気持ちがあるということである。
そういう深い関わり方(相互関与、相互承認)をしたいという気持ちがあるということである。
つまり、全体的な関与力を感じることで、相手から精神的に圧倒されていれば、つまり、自分が強度高く「認めている」相手であれば、相手が自分より精神的に大人であるとか子どもであるとかは関係がなく甘えたいという気持ちが湧くということだと思う。
つまり、「自分が認めている相手からは認められたい」と思うということだと思う。
つまり、「甘え合い」という、強度の高い相互関与、相互承認をして、認め合いたいという欲求が湧いているということだと思う。
逆に言えば、相手からの関与を強く感じていない場合、つまり、私が強度高く認めることができていない相手からは、そこまで、「認められたい、相手と深く関わりたい」という欲求が湧かず、相手に甘え、頼る気持ちが湧かないということだと思う。
簡単に言うと、相手からの有力感をある程度の強度で感じていないと、私は相手を真っ当に愛することができないということだと思う。
そして、これは、「相対的」な問題なのだと思う。私が持っている全体的な関与力に対して、どれだけ相手が関与力を持っているのか、ということで、私が相手からの「有力感」「精神的な圧倒」を感じることができるのだと思う。
そして、おそらく、そうやって「認めている」相手のことであれば、相手の至らなさを「かわいい」と思えるのだと思う。
そのため、相手の「甘え」を「かわいい」として受け入れることができる、つまり心を開くことができる、ということだと思った。
以前も書いたが、私は、学生からの友人の「甘え」を「かわいい」とは思っておらず、おそらく「我慢」しているだけであるし、私が友人に甘えることもほとんどない(失恋して余裕がなくなっている時に話を聞いてもらうという「甘え(愚痴をぶつける)」をすることはあるが)。
つまりそれは、「許容」はしているが、日頃の相手の「甘え」を、ちゃんと迷惑には思っていて「受容」はしていないということだと思う。
しかし、おそらく上記のYouTuberであれば、相手を受容している(認めている)ので、私は相手からのわがままや甘えを「かわいい」「嬉しい」と感じると言うことだと思うし、自分も甘えたいと思うのだと思う。
つまり、私は、前者と強度高く相互関与、相互承認したいという欲求はないが、後者とはあるということだと思う。
そういうことであれば、全体的な関与力的に「自分が認めている相手からであれば認めてもらうことができるが、自分が認めていない相手からは認めてもらうことができない(認められたとは感じない)ため、強度の高い相互関与をする欲求がない」ということだと思う。
そのため、私は、相互関与が強度高くできない相手とも親しくすることができるが、相互関与が強度高くできない、甘え合いができない相手と親しくすることは「怖い」と感じたり、自分が認めている相手から強度高くは認められないと「プライドが傷付く」ため、私と親しくすることを怖がってしまう人も多い可能性が高いと思った。
そのため、関係性の初期において、私が相手を受容したり(心を開いて受け入れたり)、甘え合いをするスタンスを見せているかどうかに限らず、「全体的な関与力の差異」自体を相手が感じると、それはつまり私に「関与できない」と感じて、「怖い」と感じたり、関わることを諦めたりする可能性もあると思った。
なぜなら、上記したように強度高く関与してくれない(精神的に圧倒されない)相手を私は認めきることができないためであり、それはおそらく、多くの人も同じなので、「自分が相手に関与できない=相手と相互関与が成り立たない=相手から真っ当に承認される可能性が低い」と感じて、私と関わることを諦めてしまうのではないか。
私は、「甘え合い」をするような強度の高い相互関与ができなくても、他人と親しくすることができるが、そういう関係は苦しい、怖い、寂しいと感じて、相手と関わることができなくなる人も多いのかもしれないと思った。
つまり、相手とちゃんと関わる気があるという「甘え合いのスタンス」という「本気のしるし」を相手に示すことができていないということかもしれない。
それが相手を「受容し、認めている」というしるしなのではないか。
また、私は親しくしていても「他人に強度高く甘えない」ということが普通なので、他人に甘えるまでのハードルがかなり高いということも問題としてあると思う。
逆に、私が、親しくしているという理由だけで簡単に他人に甘えるようなタイプであれば、それが相手への「関与の隙」になり、相手が相互関与の可能性や実感を感じて、私と無理なく関わることができるのかもしれない。
そう言えば、以前、恋愛に発展しかけていた相手に「自分に甘えて欲しい」と言われたので、私は「少しでいいので私を養ってくれたらあなたに甘えることができる」というクズみたいなことを冗談で言ったことがあるが、
これは、相手からお金が欲しいということではなく、相手からの関与力(私に対しての有力感)をもっと感じることができれば、相手を認めることができるため、精神的に甘えることができるという「感覚」のことを言っているのかもしれないと思った。
結論:関与されないと甘えることができない私のせい
