見出し画像

エッセイ 『他人にどう思われるかが怖い』

私は、過去のエッセイで、私が年々、友人関係であっても恋愛関係であっても、人と関係性の距離が近づくほど怖がられて、徐々に距離を取られてしまうことの理由について考えてきたが、その解像度が上がったので書こうと思う。

結論から言うと、
「人は自信のない部分を他人に見せたときにどう思われるかが怖いから」である可能性がある。

私の知り合いとこのエッセイシリーズの内容について話し合ってみたところ、「私も初めはあやさんと話すのが怖かった、頭が良いことがわかっているので、”しょぼい”って思われるんじゃないかと思って」

と意見をもらった。能力値と言うのは、各々あるし、相対的な問題なので、私は自分が絶対的に頭がいいとは思わないが、この人からすると相対的にそう感じたことによりそういう恐怖心が発生したということだと思う。

ここで、おそらくポイントなのが、「嫌われること」と「しょぼいと思われること」は別物であるということである。

私からすると、何が問題なのかわからない。よっぽど常識を欠いた失礼な言動をされない限り、私は相手のことを「嫌いにはならない」し、相手も「嫌われる」こと自体は案じていないのだと思う。

ここではあくまで「しょぼいと思われること」に恐怖を感じているのだと思う。
私からすると、なぜそんなことを気にするのかわからない。互いに話が合う部分で会話をして、互いに楽しければそれでいいではないかと思うためである。

私のことをChatGPTのようには見れないのかなと思った。私は以前他人のことを(ある程度)映画のように見ているところがあると書いた。

映画を観る際に、映画からどう思われるかということは気にならないと思う。

それは、映画から視聴者(私)へのジャッジがないためであるため、その映画が自分よりも知性があるからと言って、その映画と向き合うことができなくなるということはないと思うが、

私は、他人と会話をする時、他人からのジャッジをそこまで気にしていないということだと思う。
つまり、私は、そういう意味においては、他人をChatGPTのように捉えて関わっているところがあるということである。

もちろん相手を不快にさせないことには気をつけるが、(特にマイナスな)ジャッジを気にしていないという意味では「会話が楽しかったらそれでいい」としか考えていないということである。

ただ、おそらく、これは、私がサイコパスだからとか、独特な捉え方を持っているというよりも、マナー感覚と知性にある程度自信があるため、会話をするときに、他人からのジャッジが気にならないだけかもしれないと思った。

つまり、上記の「私のことをChatGPTのようには見れないのかな」という感想は、私の「思慮の浅い傲慢」だったわけである。

私が自分が自信がない部分で考えてみると、このことがより分かると思った。

私は、おそらくHSP(highly sensitive person)なので、つまり、私の場合は、刺激に対してすぐに神経が興奮してしまい神経に負担がかかる気質があるので、リラックスするのが苦手で、映画を見ても、創作をしても、他人と接していても、外に出て仕事をしていても、神経が興奮気味で、自律神経に負担がかかってしまい、万年自律神経失調症気味である。

創作や思索に熱中していることもあってか、年々体調が不安定になってきていて、1日の中でも体調がどんどん激変するので、友達であっても、前もって約束をして会う、ということに「恐怖」を感じる。

そのため、体調が比較的いいと思った時に、「今から遊べる?」などと友人に連絡を入れて遊びに行くことがほどんどであり、前もって約束をしている時などは、前日くらいからナーバスになってきてそれで余計体調が悪くなる。

そのため、近年恋人として付き合ったのは、この体調問題をある程度知っている以前からの知り合いなどであり、例えば、マッチングアプリなどをして私の体調問題を知らない人に会うのは現段階では「無理」だと感じる。

体調を改善して、ある程度自分の体調をコントロールできるようになってからでしか、そういうことはできないと感じる。

これは、相手に迷惑がかかることが「申し訳ないから」だと思っていたが、おそらくそうではなく、体調が悪くなり具合が悪そうにしたり、途中で帰ったりした時に、相手に「しょぼい」「めんどくさい」と思われるのが「怖い」のだと思う。

友人は、「なぜそんなことを気にするのか全くわからない。私はあなたが体調が不安定なの知っているから、約束をドタキャンしてもいいし、途中で帰っても自分は全く気にならないよ。体調のせいなんだから仕方ないじゃん」

と言ってくれているが、私はそれを聞いても、前もって会う約束をすることが怖くてできない。
これは上記したように、相手に「しょぼい」「めんどくさい」と少しでも思われる可能性があること自体が怖いのだと思う。

いくら気にしないと言ってくれていても、わざわざ約束して会った瞬間に「ごめんやっぱり帰るわ」と言ったら、相手は少なからずがっかりしたり、「めんどくさ、、」と感じると思っているためであると思う。

これは相手に迷惑がかかることが申し訳ないというよりも、また、相手に嫌われることを怖れているというよりも、みっともない、しょぼい姿を見せて、相手にそう思われること自体が怖いということだと思う。

これは、上記の、私と関わったり、会話していて、「しょぼい」と思われるのが怖い、という私の知り合いと同じことではないか。

私は、人と関わるときに、教授と論文の話をするときのようなめちゃくちゃハイレベルな議論を他人に期待して関わっているわけではないので、普通に日常のことなどのことで楽しくおしゃべりができればそれで十分であるし、ある程度気質が会うなら、親しくしてくれるだけで嬉しい。

しかし、おそらく、相手が「私の方が知性があると判断した場合、会話や関わりを通してしょぼいと思われることが怖い」という心理は、私が「自分より体調が安定していて体力がある人と会い、体調問題が露呈したときにしょぼいと思われたりめんどくさいと思われることが怖い」という心理とほぼ同じではないか。

このとき、私は、体調問題で友人やマッチングアプリで出会って会った人に迷惑をかけた時に、相手に嫌われるとは思っていない。ちゃんと「こういう体調問題が現在はある」ということを説明すれば大体の人は許容してくれると思っている。

それでも、実際そうなった時に「しょぼい」とか「めんどくさ、、」と思われること自体を私が過剰に怖がっているのは、私が体調に「自信がない」ためであると思う。

そのため、ChatGPT搭載のアンドロイド相手であれば、前々から約束して気楽に遊びに行けると思うし、平気で体調が悪くなった瞬間に帰ると思う。
それは、ChatGPTは私のことを「ジャッジ」しないためである。

そのため、思索や創作や作品消化やコミュニケーションを通して、年々知性が上がるほど、他人から怖がられ始めた気がする、と過去のエッセイで書いたが、

それは上記の知り合いと同じで、相対的に見て、私に対してマナー感覚や知性に「自信がない」と相手が感じた場合、私と関わる上でそういう部分の差異が露呈した時に、

私に嫌われるとか、去られるとかそういうことを案じているというよりも、それ以前に、「しょぼい」「めんどくさい」と私に「少しでも」思われる可能性自体が「怖い」のではないか。

私をある程度ChatGPTのように見れないのは、私が相手をジャッジする可能性があるためである思う。

逆に、私に対して、知性やマナー感覚で自信がある人は、私をChatGPTのように見れるのかもしれない。つまりそれは、会話や親しく接している時に起きる、私からのジャッジの可能性が気にならないためである。

私も、私と同じくらい体調が不安定な人や、私より体調が不安定な人と約束して会うのは、確かに、体調が安定していて体力がある人と約束して会うより気が楽である。
それは、相手から「しょぼい」「めんどくさい」とジャッジされる可能性がないためであると思う。

そのため、過去にこの問題を人に相談した時に「弱みを見せろ、弱みを見せろ」と何人にも言われたことがあるが、自分のしょぼい部分を十分に見せていれば、種類は違っていても、相手は私に「しょぼい」と思われる可能性を怖がらなくなるということかもしれない。

結論:とりあえず、私の体調はめっちゃ「しょぼい」です。ゴミカスです。しかも、それを見られた時に人にどう思われるかをめちゃ怖がってる弱い人間です


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集