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エッセイ 『めんどくさすぎる大人の人間関係』

私は、過去のエッセイで、私が年々、友人関係であっても恋愛関係であっても、人と関係性の距離が近づくほど怖がられて、徐々に距離を取られてしまうことの理由について考えてきたが、その解像度が上がったので書こうと思う。

結論を先に言うと、
「自分がどういう人間なのか理解されてしまって、自分は相手を理解できない場合、人は他人と親しくなることを恐れる」という可能性がある。

私は、過去に何度も、他人と恋愛関係や友人関係になろうとするときに、相手に否定されたり、振られたりすることが怖いという理由で相手と向き合うことから逃げたことが一度もないと書いた。

それはなぜか考えたときに、私は、関わっている他人が私に「関与し切れる」と思ったことが一度もないためではないかと思った。

つまり、相手が私に関与できない部分がガッツリあると分かっているので、相手は私のことをそもそも「認めることができない」ため、「否定することもできない」という感覚が無意識であるのかもしれないと思った。

例えば、ほとんど小説を読んだことがない人が、いきなり芥川賞受賞作品を読んで「面白くない」と言って「否定」して、その本を捨てても、その人はその小説の内容をそもそも理解できていないので、つまり、言葉を変えると、小説の内容の良さや価値を「発見し認めることができていない」ので、その小説を本当の意味で「否定」することができない。

一杯、500円のウイスキーと1万円のウイスキーを飲み比べて、どちらが1万円なのか言い当てることができない人は、1万円のウイスキーの価値を理解できない=価値・良さを発見し認めることができないので、1万円のウイスキーに対して「これに一万円の価値はない」と言っても、本当の意味で「否定」することができない。

なので、もちろん私は、恋愛関係に発展した相手に振られてしまうと毎回傷つきはするが、恋愛関係や友人関係に入っていくとき、ガッツリ親しい関係になる前に相手に否定されることや振られてしまうことなどが怖くて関係をやめてしまうという心理になったことがないのは、傲慢であるが、他人は私のことを理解できないと思っているためではないかと思った。

それはつまり、他人は私のことを否定することはできないと無意識では思っているということかもしれない。
そのため、私は好きな人であれば、振られることになってもいいから付き合いたいと思うのかもしれない。

そして、私と親しくなりかけて、途中で何かを怖がり去っていってしまう人というのは、この逆の心理になっている人もいる可能性があると思った。

つまり、私にどういう人間か理解されている、または、このまま関係性の距離を縮めていくと理解されてしまうと思い、そして、私のことは理解できないと感じた場合、私が一方的に相手を否定できて、相手はできないという不公平な状態が発生するためではないか。

実際に、以前、私に興味を持ってくれて関わっていた人は、「自分は簡単にどういう人間か理解できてしまう人には興味がない」と言っていたが、途中で、「自分はあなたのことが理解できないし、見透かされてる気がするため怖い」と言って私から去ってしまった人がいる。

私は、それを聞いて何が問題なのかわからなかった。簡単に理解できない方がいいと言っていたにも関わらず、理解できないことを理由に私を怖がり始めたためである。

そして、私も、理解できない人が人間的な奥行きを感じて好みであるし、私をできるだけ理解してくれる人と関わりたいと思っている。つまり、できるだけ私がどういう人間か「良さも悪さも含めて」見透かしてくれる(理解してくれる)人と関わりたいと思っているということである。

ただそれは、私が、関わっている他人から深くまで理解されたと感じたことがないため余裕があるだけで、例えば、私が憧れている作家や映画監督などに囲まれたときに、簡単に理解されて「しょぼい」とか「幼稚」だとか思われて飽きられてしまったり、非難されたり、ナメられてしまうような人が相手だと、私は、その人たちを自分の懐に入れて親しく関わっていくことを「怖い」と感じる可能性があるのかもしれない。

もっと言えば、私を理解できない人を私の懐に入れたとしても、理解できない=関与できないので、私は、相手に全体的に否定されたと感じることがないということかもしれない。

私は、自分をできるだけ理解してくれる人との関わりを望んでいる理由として、上記の小説やウイスキーの例ではないが、私を深くまで理解できない人は、私を「否定すること」はできないが、同時に、私を「認めること」ができないので、相手と関わってもそこまで「承認」を感じることができない。

そして、過去にも書いたように、人は、「承認」を求めて他人と親しくし、「非難・否定」を恐れて他人と親しくすることを怖がることも多いと思う。

そういう意味で、私はこの「理解し合いゲーム(承認ゲーム、否定ゲーム)」において、私とやり合ってくれる人でないと、相手のことを認めることができないということかもしれない。

つまり、健全な人間関係とは、互いに「同じぐらい理解できない部分があり、理解できる部分がある状態を作れる関係」ということではないか。それはつまり、互いを同じくらい認めることができていて、また、一方的に一方が一方を否定できてしまうような関係ではないということである。

もちろん、「承認」というのは、「理解」だけによってなされるものではなく、相手のルックスが好きとか、声が好きとか、キャラクターや人間性が好きとか、趣味や考え方や気が合うとか、そういうことによっても生まれるものであると思う。

ただ、「理解」という「関与」に、差異が生まれるほど、つまり、一方だけが相手がどういう人間なのか分かっている場合、もし、飽きたり、しょぼいと思ったり、非難したりした場合、一方的に「全体的に否定されてしまう」という関係性になるので、理解されてしまう側は親しい関係性に入って相手に全体を見せることを「怖い」と思うのではないか。

そのため、完全に理解されてしまう前に、距離を取ったり、関係を切ったりして、自己防衛しているパターンもあるのではないか、つまり、相手から「全体的に否定される可能性」を回避している可能性があるということである。

私は、親しくなってきた人に、自己開示をして、自分がどういう人間なのかを相手に知らせることは得意な方であるが、それは、そういう情報を相手に与えても、相手が私を全体的に理解できるとは思ってないためではないかと思った。

私は、なぜ気が合って親しくしようとしている相手のことをこれほどまでに怖がる人が多いのか謎であったが、以上の意味で、人間関係とは「戦い」という要素があるのかもしれないと思った。

つまり、互いに距離を縮めて関わって、互いに全体を見せ合った後に、飽きられるとか、しょぼいと思われるとか、軽薄さを非難されるとか、そういう「否定」が起こる可能性があるため、互いに「相手にどの程度理解されるのか、また自分はどの程度相手を理解できるのか」を含めた「力量の差異」を測り合うという戦いが無意識で起こっているのではないかということである。

そのため、自分を否定する可能性が低く、長い目で見ても確実に承認してくれる人としか親しくしたり、付き合ったりできないという人も多いのかもしれないと思った。

そして、その場合、私が相手にどれだけ興味を示し、褒めていても、相手が私のことを理解できない(理解という関与できない)と感じ、かつ、自分は理解されてしまう可能性が高いと感じた場合は、相手が私に興味があろうとなかろうと、私と親しくすることはできない、まともに近しい距離で関わることはできない、という心理になる可能性があると思った。

そして、私は、年々「知性」が上がるほど、他人から怖がれている気がすると過去に書いた。

知性とは、知能+精神性(他人を尊重する気持ち)であると私は考えている。

つまり、他人を尊重するとは、「軽薄ではない」ということである。そして、精神性とは「知識」ではなく「状態」なので、状態を共有できない人は、私のことを感覚的には絶対に理解できないと思う。

そのためか、私の友人を見てみると、知能が高く知識が豊富な人でも、幼稚で軽薄な人は、親しくすることを怖がられていない人が多い印象である。

このことからわかるのは、「幼稚性や軽薄さ」とは、他人への「甘え(迷惑)」になり得るので、その人がどういう人間かを理解できる1番のポイント、つまり関与の隙、なのではないかということである。

つまり、言葉を変えると、その人のことを「ナメれるポイント」であり、「否定できるポイント」である。つまり、「弱み(隙)」なのではないか。

上記のエッセイでも私は、今回のエッセイで述べた「理解し合いゲーム」と酷似する内容を書いている。

そこでも、私は「このゲームは、相手の幼稚性を見透かし合うゲームである可能性がある」という旨のことを書いているが、それは、「恥や醜さ」つまり「幼稚性や軽薄さ」が人の「本質」だからではないか。

そのため、私に「幼稚性や軽薄さ」を一方的に発見されない自信がある人、または、私の「幼稚性や軽薄さ」をたくさん発見できる人でないと、私と親しくすることを怖がってしまう人が多い可能性があると思った。

そのため、私が、親しくしたいと思っている相手に「幼稚性や軽薄さ」を見せれば、相手は怖がらない可能性は高いと思ったが、そもそも根本的な「幼稚性や軽薄さ」が全然違う場合、それ以前の問題で怖がられるのではないか。

もちろん、その人がどういう人間であるかを理解するポイントは「幼稚さ、軽薄さ」だけではないが、どれだけ知識が豊富な人で能力がある人でも、強度高く幼稚さがある人は、確かにナメられている人が多い印象である。それはつまり、怖がれていないということである。

もちろん、嫌味のない幼稚性であれば、それは「親しみやすさ(関与しやすさ)」になるので、上手く弱点を晒せる愛されキャラになると思うが、それは、コントロールできることとできないことがあると思う。

確かに、失恋直後など、私が取り乱して幼稚性全開で人に甘え頼りまくる時は、一気に関わってくれる人が増える印象である。
それは、私が幼稚性を見せ、つまり関与の隙を見せ、私をナメれる、
取り扱える、または人に頼りまくろうとしている私を「助ける」という関与ができる状態になるためではないか。

とにかく、人と人が親しくなろうとする時、無意識であってもある種の「戦い」が起きることが多い、という面倒な結論である。

そして、私は、友人に「あなたは悪くないけど、年々問題児になってきた」と伝えられたことがあるが、これは、

「理解」を含め、強度高く関与してくれない相手を真っ当に受容(承認)しようとしないスタンスが年々強くなってきた、ということかもしれないと思った。

私にとって謎なのは、「理解による関与」でなくても、何かしらの「関与」を強く相手から受ければ、私は相手のことを受容(認める、承認)するのかどうかということである。

例えば、ルックスが超タイプで私がメロメロになるような相手であれば、相手が私のことを全然理解してくれなくても、私は相手のことを受け入れて承認し、相手はそのことを感じとり、私に否定される可能性を感じず、怖がらずに親しくなってくれるのかどうかわからないということである。

もし、理解に限らず、全体的な「関与力」が問題なのであれば、つまり私が、相手のルックスでも才能でも愛らしさでもいいが、ある種「降参」してしまうような強度のある「関与の受け方」をすれば、相手は、私を「扱える」と感じて怖いとは思わないのであれば、

「幼稚性の発見ゲーム」だけではなく、上記のエッセイ『関与力のパワーゲーム』の内容でも、この相互関与ができるかどうかが決まるのではないかと思った。

つまり、「相互関与ができる」とは、関係性に不公平性が生まれない健全な関係が作れるという意味である。

いずれにせよ、相手が私を否定できない(関与できない)、つまり、ナメれないことが問題なのだと思う。

そのため、深い理解をくれる人か、何かしら強い関与を与えて私を降参させてくれる人でないと、相手が私を「扱えない(関与できない)」と感じ、怖がってしまう可能性があるので、

つまり結局私が相手をちゃんと「認めれていない」のかもしれないので、どの方向からでもいいので、私を蹴散らして降参させてくれる人を探す旅に出ます。

「負け顔を見せる」とか言うよね。そういうのができてないんだろうねきっと。

結論:認めるとか認めないとか、勝負とか、否定される恐怖とか、大人の人間関係は思ったよりめんどくさい。互いに興味や好意があるだけでは親しくなれないこともある。


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