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エッセイ 『”オシャレ”とはなんぞや?』

私は、過去のエッセイで、私が年々、友人関係であっても恋愛関係であっても、人と関係性の距離が近づくほど怖がられて、徐々に距離を取られてしまうことの理由について考えてきたが、その解像度が上がったので書こうと思う。

結論を先に言うと、
「相手に嫉妬や劣等感を持たれているから」である可能性がある。

以前のエッセイで、私の母は、おそらく私と同じく「自他境界」がはっきりしているので、他者との「関連」があまり起こらず、つまり、あまり他人と自分を比較することがないため、多くの人よりは嫉妬や劣等感を感じにくいのではないかと書いた。
そして、本人も、「自分よりすごい姉がいても、自分よりすごい人と親しくしてもあまり嫉妬とかしたことがない」と言っているし実際にそう見える。

ただ、最近、母を見ていて、「これは嫉妬と劣等感からくる言動ではないのか?」と思うことがあった。

母と話している時に、私が「最近は作家の金原ひとみにハマっていて、情熱大陸に出演した彼女がすごく素敵だった」と言うと、母が、見たいというので、録画してあるものを見せたことがある。

そしてしばらくしてから、母に「情熱大陸見た?」と聞くと、「あんなのただのおばさんじゃん」と言い始めたのである。

私は、金原ひとみは「すごく大人なんだけども、若さ(無邪気さ)があってそのギャップが素敵なんだ。ルックスも綺麗で可愛い」と母に言っていたが、私が好きだと言っている人に関してなぜわざわざそういう嫌なことを言うのか理解できなかったが、

おそらく、母は、私が金原ひとみを褒めていることを含め、「嫉妬と劣等感」を抱いたため、そういう嫌味を言ったのではないかと思った。

また、私が「アート系のヒューマンドラマ映画を観ると、特に濱口竜介作品(映画『ドライブマイカー』など)などを観ると、私が想定していたまともな人間性のある大人が出てくるので、その人たちと関わっている感じがしてすごく助かる、私の友達はみんなすごい幼稚で、私は常に頭を抱えているから正気を取り戻せる」と言うと、

母は「そんなのただの現実逃避だ。作品はリアルとの関わりとは違う」と、また嫌味を言ってきた(そもそも映画好きは母の影響なのに)。

そして、私は「私は現実でも人と積極的に関わろうとしてるし、作品に対しても「人」を求めているので、現実逃避ではないのでは?現実の関わりをシャットアウトして、作品だけに向かうならそう言えるかもしれないけど」と言うと、母はそこで嫌そうにしながら話を終わらせた。

つまり、ここでの母の発言の目的は「事実の確認」ではなく、「私に嫌味を言うこと(私が好きな作品の否定をすること)」だったのだと思う。

つまり、上記の金原ひとみの例と同じく、私が、人や作品の魅力やハイレベルさを褒めたことで、母は嫉妬と劣等感を感じたのだと思う。

確かに母は、私が知っているほとんどの人より嫉妬や劣等感とは無縁であるように思ってきたが、そんな母でも、人の好きなものを否定する嫌味を言うほどに嫉妬や劣等感を感じることがあるのであれば、

多くの人はもっと簡単に強度高く他人に嫉妬や劣等感を感じることがあるのではないかと思った。

私が、関わっている他人に明確に嫉妬や劣等感を感じて、言動に出てしまったのは、大学院の時が最後かもしれない。

カーディーラーに就職した知り合いが、会社の上司の計らいで店にある試乗用のスポーツカーに乗せてもらったとしつこく自慢してきたので、私は「しょーもな」と、嫉妬や劣等感で、よくわからない否定をしてしまったり、そもそも仕事の話をそこまでまともに聞こうとしなかったことがある。

それは、大学院に進みまだ学生をしていた私と違い、私の知り合いたちが先に社会に出て働いていることに私は自信がなくなり、劣等感を感じていた時期だったためである。

私が、明確に他人に嫉妬や劣等感が原因で変な対応をしてしまったのは、その時だけかもしれないと思った。
それ以外では、自分より能力が高い人と関わっても、自分よりルックスがいい人と関わっても、私は特に嫉妬や劣等感は感じず、ただ相手の豊さを面白がっていたように思う。

なので、ある程度仲良くなった相手と、相手がマウントを取って来ているわけでもないのに「関われなくなる」ほど嫉妬や劣等感を感じる、という感覚がよくわからないため、私は、年々「友人関係であっても恋愛関係であっても、人と関係性の距離が近づくほど怖がられて、徐々に距離を取られてしまうことの理由」がわからなかったのかもしれないと思った。

そして、過去にも書いたが、作品消化や、創作や、思索や、コミュニケーションを通して知性が年々上がってくるほど、人々から怖がれている気がするし、特に、創作を始めてからより怖がれている気がする。

創作物を見て、そういう感情を持たれるのであれば、そういうものを相手に見せなければいいが、
親しく関わっていく中で、私が相手より気遣いや自制心があるという意味で「大人」で、”金原ひとみ”が好きで、濱口竜介が好きで、カニエ・ウェストやケンドリック・ラマーが好きだ(最近書いてる小説ネタ)、ということが判明してくるだけでも、相手は「嫉妬や劣等感」を感じて関われなくなるという可能性があると思った。

そう言えば、私の知り合いは「自分よりオシャレな人とは関わりたくない、劣等感が刺激されるから」と明確に発言しているが、それはその人が極端にそういう思考が強いのかと思っていたが、

上記の「相手より気遣いや自制心があるという意味で「大人」で、”金原ひとみ”が好きで、濱口竜介が好きで、カニエ・ウェストが好きだ」みたいな要素は、もしかしたら、この知り合いが言うところの「オシャレ」の範疇に入り、多くの人も、「自分よりオシャレ」な人に嫉妬や劣等感を感じて関わりたくないと感じる可能性があると思った。

私は、その心理は感覚的には全く理解できない。私は、自分よりレベルの高い出来るだけ「オシャレ」な人とも関わりたいと思っているためである。
なぜなら、私は、上記の知り合いが言うところの「オシャレさ」が大好きだからである(知的で大人っぽくてセンスフルで優雅で粋である的な?つまり、洗練されていて垢抜けている的な?)。

私からすると、この意味での「オシャレさ」とは「明るさ(以下のエッセイで説明している感覚)」でもあるので、つまり、オシャレさとは希望(未知?豊さ?)であるので、頭がおかしくなるくらいキレキレのオシャレな作品や人が好きである(作品のオシャレさでトベるタイプ)。


そのため、相手があからさまに見下してマウントを取ってくるというようなことをしない限りは親しくしたいと思う(見下してマウントを取る、こと自体ダサいので、その分人として”オシャレ”ではないと思うが)。

そのため、私は、金原ひとみや濱口竜介やカニエ・ウェストの作品から「オシャレさ」をねぶり倒しているのだと思うし、実際に自分より”オシャレな人”と付き合っていたこともあり、その時、特に嫉妬や劣等感はなく、私にとってはただのキャンディーだった。

自分よりもオシャレな人や作品に嫉妬や劣等感や苦手意識を感じて遠ざけようとするか否かの違いはなんなのか。
根本的な自己肯定感の問題か、自他境界の強さ弱さの問題か。

つまり、前者であれば、大学院の時の私のように、自信や自己肯定感が低ければ、アイデンティティが脅かされやすいので、簡単に他人の要素に嫉妬や劣等感を持つのだと思う。

後者の心理であれば、プロの作家や映画監督の作品を読んだり観たりした時は、嫉妬や劣等感を感じなく普通に楽しめても、実際にある程度の距離感で関わる人の場合、相手と自分を強度高く「関連」させるので「この人は自分よりもオシャレだ」とか「この作品は自分よりもオシャレだ」と感じると、嫉妬や劣等感を感じるのかもしれない。

嫉妬や劣等感を感じるとはつまり、自分のプライドやアイデンティティを脅かされる、という事だと思う。

確かに、多くの人を見ていると、学生などの頃と比べて、年齢を重ねるほど、アイデンティティ問題というのはシビアになってくるので、よりそういう「自分のアイデンティティをいかに守るか」というようなことに敏感になる人もいるのかもしれない。

過去に、人から怖がれる理由として、「私が相手に甘えないためではないか?」という仮説を考えたこともあるが、上記で言うところの「オシャレさ」により発生する嫉妬と劣等感が理由なのであれば、そういう問題だけでもない可能性も出てきた。

また、私が相手より精神的に「大人」でも、全体的に相手よりダサかったら相手は問題なく関われるのだろうか。
(気遣いができず、自制心もない場合、人として"ダサい"のでその分"オシャレ"ではなくなるとは思うけど、全体的な意味で)

私は、オシャレなものや人は大好きであるが、「オシャレ」の代表格であるファッションとかには割と疎いし、自分がオシャレかどうかは考えたことがなかったし、また、オシャレさを異様に苦手がってる私の知り合い以外の人も「オシャレさ」を嫌がる人が多いと考えたことがなかったが、もしそうなら、自分よりも大人な人or"オシャレな人"を見つけて関われば怖がられないということだろうか。

結論:オシャレとはなんぞや?
確かに、「センス圧」とかいうワード聞いたことある


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