見出し画像

エッセイ 『劣等感が生まれる理由』

私は、過去のエッセイで、私が年々、友人関係であっても恋愛関係であっても、人と関係性の距離が近づくほど怖がられて、徐々に距離を取られてしまうことの理由について考えてきたが、その解像度が上がったので書こうと思う。

結論から述べると
「自己肯定感やアイデンティティを守るため」に私と親しく関わることを止めているのではないかということである。

つまり、簡単に言うと、嫉妬や劣等感が強く発生してそれが苦しいのではないかということである。

私は、他人への嫉妬や劣等感で、他人と親しく関われなくなった経験がないので、どういう感覚なのか理解できないが、色々な例を出しながら考えてみようと思う。

過去のエッセイで、私は、人と人との「上下感覚」が感覚的によく理解できないと書いた。
そしてそれは、私が、上下関係を重んじる日本的価値観ではなく、「個人」を尊重する欧米的な価値観に近い感覚を持っているからではないかと書いた。

この違いを説明するために役に立ちそうな言葉として「自他境界」という心理学的なワードがある。

”自他境界とは、 「自分の感情・考え・責任の範囲」と「他人のそれ」とを区別する心理的な線のことで、この線がはっきりしていると「私は私、人は人」として自分も相手も尊重した関係を築けます。”
(shinrikyoiku.com)

私は、おそらく、多くの日本人よりも、この自他境界が「はっきり」している。
そのためこのことにより、「嫉妬と劣等感」という感情自体を、おそらく、一般的な人より強く感じることがない。

つまり、自分は自分であり他人は他人であるという感覚が強いので、他人と自分を比較する強度が少ないということである。

そのため、自分よりも美形の男性や女性とも積極的に仲良くなろうとしてきたし、相手が自分よりも能力があったり、精神的に大人であったりしても、私は、それらのことに魅力は感じても、相手と親しく関われないほどの強い嫉妬や劣等感というものは感じたことがない。

これは、私の母親が、私よりさらに自他境界がはっきりしているので、遺伝なのかもしれない。
私の母親は、頭脳明晰で皆から好かれる姉を持っているが、幼い頃から嫉妬や劣等感自体を彼女に一度も感じたことがなく、友人も自分より美形だったり、能力があったり、ハイソな人だったりしても、全く気にならずむしろ魅力に感じたり、そのような姉や友達を持っていることが自慢であると感じていると言っていた。

そして、逆に、自他境界が曖昧な人というのは、自分と他人を比較することにより、優越感を持ったり、劣等感を持ったりする強度が高いのだと思う。

そのため、そのようなタイプの人は、他人にマウントを取りがちだったり、自分より優れていると感じる人と親しくできなかったりするのかもしれないと思った。

以前私が恋愛に発展しそうになった相手が、私の小説を読ませて欲しいと言ってきたので、読んでもらったことがある。
その人は、初めは「面白い!」と言って読んでくれていたが、途中で完全に手が止まり、その頃から私と表面的にしか接してくれなくなった。
そして、最終的に私と恋愛として向き合うことに前向きではなくなってきたと伝えてきて、その理由として「あなたはまともでしょ、自分はクズだから」ということを言ってきた。

エッセイ『あなたには誠がない』

このエッセイにおいて、引用部分の相手は、私の小説を読むことで、「私の方が相手よりも軽薄ではない」と感じたため、私と関わることが怖くなったのではないかと書いたが、

それだけでなく、今回の内容に当てはめると、相手は「自分よりも私が優れている」という「劣等感」を感じたため、読み進めたり、果てには私と親しく関わること自体できなくなった可能性があると思った。

これは、過去にも書いたが、友人グループでバンドマンをしている一人が、「ライブをしにフランスに行った」という話題を出した時に、他の友人たちがその話題を不自然にスルーしようとしたことと似た心理ではないかと思った。

私は、その話に「劣等感」は感じずに、単純に「面白い、興味深い」と感じたため、話を聞いたり、色々と質問をしようとしたり、撮影してきた写真などを見せてもらおうとしたが、他の友人たちは、「バンドでフランスにライブをしに行った」という事実を「自分よりも優れている」と感じ「劣等感」を感じたのではないかということである。

部分的にであっても、自分よりも優れている他人の要素に対することは、自他境界問題と、全体的な自己肯定感の問題もあると思う。

フランスの話題をスルーした友人が、もっと強い自己肯定感や自信を持っていれば、その話題に劣等感を感じることなく純粋に楽しむことができた可能性もあるためである。

自己肯定感が低い人ほど、自分を上回る他人の要素に触れると簡単にプライドやアイデンティティが脅かされてしまうのだと思う。

しかし、私の母は、「自分が何か他人より特別優れていると感じたこともないし自信自体はそこまでない」と言っていて、実際にそう見えるが、それでも他人に劣等感を感じない理由は自他境界がはっきりしているからだと思う。

つまり、この場合、「他人と自分を関連させる強度があまりない」ということだと思う。
例えば、多くの人が、プロの作家や監督の小説や映画を読んだり観たりしても、嫉妬や劣等感なく向き合うことができるのは、その作者と自分との「関連」をあまり感じていないからであると思う。

しかし、上記した、私の小説を読んでもらった相手は、私と親しくしているという「関連」を感じているので、プロの作家の小説と向き合うことはできても、それらより随分レベルが低い内容だとしても私の小説とは向き合うことができなくなり、私自体とも向き合うことができなくなったのではないか。

このことは、例えば、美形で才能豊かな芸能人を画面やイベントで見る分には、劣等感を感じることなく純粋にその人の魅力を楽しむことができても、プライベートでの親しい付き合いになると「劣等感」を感じて向き合うことができなくなる人が多くいるであろうことと同じであると思う。

そして、おそらく自他境界がはっきりしているほど、親しく関わっている相手のことも、あまり相手と自分を「関連」させることなく、画面で見る芸能人のように相手と向き合うことができるのだと思う。

私自身、他者を見るとき、それが親しく関わっている相手であっても、映画や作品などのように捉える強度が強いと思う。
つまり、私にとって相手が、興味深い、おもしろい、優しい、不快ではない、共感できることがある、などの視点で見ていて、その相手(映画)が私よりも、優れているか、劣っているかは関係がない。

このことは、私が、自分と相手を、強く「比較」するほどは関連させていないということだと思う。
そのため、私は、関わっている他人にあまり劣等感を感じたことがないだけでなく、「マウントを取って優越感を感じたい」と思ったこともあまりない。

おそらく、どちらの心理も、自分と相手を強度高く関連させることで起こるものなのだと思う。

このことは、私が以前から欧米的な個人主義の価値観の強度が強い傾向が強い、と書いてきたことと通ずるものがあると思った。

つまり、逆に、「他人と自分を集団の一部」として捉える日本的価値観おいては、自分と他人は溶け合っている=自分と他人を強く関連させている=自他境界が曖昧である、という感覚が強くあるのだと思う。

そして、個人主義においては、「自分と他人は別物である」という感覚が強くあり、またそれは、その方がいいという価値観であると思う。

そのため、個人主義においては、ある程度他人を「自分とは本質的には関連のない他者である」という捉え方をしていて、それは、プロの作家や監督の作品を見る、画面越しに芸能人を見る時のような感覚に近いのだと思う。

つまり、集団的価値観よりも、個人主義的価値観の方が、親しく関わっている相手であっても「他者に関与(影響)されない」という強度が強いのだと思う。

このことを「我が強い」という見方をする人もいると思うが、私は少し違うと思う。
「我が強い」という場合、他人を尊重せず自分の意見を通す、というニュアンスが含まれているように見える。

しかし、私は、私と他者の関係性が常に同等であることを望んでいるし、それは個人主義の価値観の「尊重と尊敬」という価値観にも通ずると思う。
つまり、相手の領域を脅かしてまで、自分の我を通そうとはせず尊重しようとするということである。

そして、私は、友人や恋人などが、行きたい場所、食べたいもの、遊び方、関わり方、などは相手が我を通してきた場合、基本的に相手に合わせるため、そういう意味では我は強くないと思う。
私が相手に合わせることができないのは、器ではない相手が私に関係性的にマウントをとってくることだけであると思う。

しかし、「他人からあまり影響されない」こと自体を「我が強い」と表現するのであれば、私は我は強い方だと思う。

高校、大学などは、かなり偏差値の低い場所に行ったので、誰も勉強はしていなかったが、私は自分が興味を持ったものであれば、周りに関係なくし続けていたし、クラスメイトのほとんどがある一人をイジメたりハブったりしていても、私は相手に興味がある場合は周りに関係なく普通に関わっていた。

そして、日本の集団的価値観とは、他者と自分を関連のある一個体として捉えることにより「安心感」を得ようとするスタンスが強いように感じる。
このことは、日本人は、世界でも有数の恐怖心が強く自信のない民族であると言われていることとも関係しているように思う。

つまり、過去にも『上下関係という甘え合い』というエッセイでも書いたが、日本は甘え合いの文化なのだと思う。

そのため、親しく関わっている他者と自分の「バランス」が繊細なまでに大事なのだと思う。強く関連させるということは、強く比較するということなので、簡単に相手に「関与・影響」されてしまうことにより、このことで、相手の優れている部分により自分のプライドやアイデンティティを脅かされやすいのだと思う。

つまり、「相手が自分より劣っていようが、優れていようが、自分は自分であり相手とは関係がない」という感覚をそこまで強く持てないということだと思う。

つまり、親しい存在であるほど、他者の存在により自己肯定感が左右されやすいということである。
そのため、マウントを取り自己肯定感を得ようとしたり、自分より優れている部分がある人に劣等感を抱きやすいのだと思う。

私の友人は、おそらく、自己肯定感が低い+自他境界が曖昧である人が多いので、他者の、自分よりも優れているところに対してものすごく敏感であるように見える。

私が大学生の時、先輩に芸能人のような美女がいたので、私がクラスメイトの男の子二人に、「あの人、すっごい美人じゃない?!」と言うと、「そう?わかんない」ととぼけられたことがあり、また、積極的にその先輩と仲良くしようとしていた私と違い、クラスメイトは先輩がフレンドリーに接してくれようとしてもあからさまに避けていたので、意味不明だったが、

今回のエッセイの内容を当てはめると、おそらくその人たちは、その先輩の存在を認知し、親しくするほど、自己肯定感やプライドがぶっ潰されるため、その先輩をいないものとして扱い、関わりたくなかったのかもしれないと思った。
これは、上記の「バンド活動としてフランスにライブをしに行った」という話題の例と同じであるのかもしれない。

そして、私の知り合いは、「おしゃれな人たちとは関わりたくない、劣等感が刺激されるから」と発言している人もいる。

ここでいう、「おしゃれな人」とは、ファッションだけの話ではく、美形であったり、精神的に成熟していて爽やかに人と接することができたり、何か能力や経験が色々とある、ある種、学内ヒエラルキーで上位にいたようなイケてる人という意味であると思う。

ただ、そんな知り合いであっても、好きな芸能人やアイドルは才能あふれる美形の人を好んでいたりするので、やはり、「イケてる人」自体が苦手なのではなく、関連させてしまうので劣等感が発生し、自己肯定感やプライドが脅かされることが苦しいということなのだと思う。

そして、以前よりも自己肯定感が下がってきた友人は、私と遊んでいる間中、私のことを下げる発言をし続けて私がいかにしょうもない人間かということを確認しようとしてくるので、そうすることで、私と親しくするときに感じる劣等感を軽減し、自己肯定感・自尊心を守ろうとしているのだと思った。

しかし、友人のこの方法は、学生の頃からの付き合いなのでできることであり、大人になってから出会った人は、私にここまで図々しいことをすることはできないため、「関わることを止める」という方法で自尊心を守ろうとすることもあるのかもしれないと思った。

結論:自他境界がはっきりしている人か自己肯定感が高い人と関わる
or
自分がいかにしょうもない人間かを開示し、相手の自尊心を守る


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集