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夢と鰻とオムライス 第12話

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「……おーい」
 瞼を開けると、目に飛び込んできたのは、つややかな、こうちゃんの赤ら顔だった。
「何度か起こしたんだけどさ。瞬太、全然起きないんだもん。俺、一人でワインカーヴ行って、さっき、温泉風呂にも入っちゃったよ。ほら、見て。お肌つるつる」
 確かにこうちゃんのお肌はつるつるしていたが、その向こうに見える窓の景色に、俺は驚いていた。
「え?」
 さっきまで眩しかったはずの昼の空が、穏やかに暮れようとしていたのだ。
 時計を見ると夕方六時。
 一瞬にして時計の針がぐるりと進んでしまったようだった。

「ワインカーヴは九時には空いてるからさ、明日、朝食を食った後にでも見に行こう」
「うん」
 こうちゃんが話すのを聞きながら、俺は前後不覚になっている自分に戸惑っていた。ワインカーヴに行った記憶はあるが、状況だけ見れば、それも夢だったような気がしてくる。思い返そうにも、記憶がもつれた糸みたいになって、上手く取り出せなかった。
「おっ、そろそろ飯の時間だ。六時半に予約してあるから、瞬太、そろそろ支度しろよ」 
 頭の中はあやふやだったが、鳴きはじめた腹の虫のおかげで、腹が減っていることはわかる。おかしなことは一旦脇に置くことにして、俺はこうちゃんと、ホテルにあるレストランへ向かった。

 料理を待ちながら、暮れゆく景色を眺めていると、魔法にでもかかったような気分になってくる。
 さすが展望レストランというだけあって雰囲気が良い。南アルプスと甲府盆地を望む、一面の大きな窓。青々とした山並みの麓には家の灯りが連なり、光の粒を散りばめたみたいになっていた。
 だが、どう考えても、四十を過ぎたおっさんと高校生男子が向かい合う場所じゃない。

「なんかさ、俺たち場違いじゃない?」
 小声で言うと、
「おい、なんだよ『俺たち』って。俺を巻き込むなよ」
「あ?」
 自分は場違いじゃないとでも言いたいようだ。
「雰囲気に呑まれるなんて、瞬太もまだまだだなぁ。俺くらいのナイスミドルになると、もはや、何ものにも吞まれないぞ。どこへ行っても平常心だ」
 などと言っている。「あぁ、さいですか」と、あしらいながら料理を待つ。

 山梨県産の豚肉が食べられると聞き、メインは二人とも肉料理にした。その料理名は、
 《山梨県産のクリスタルポークのバラ肉のポッシェ ニンニクと黒胡椒のソース》
 と、ある。長い。
「なぁ、瞬太。この《ポッシェ》ってなんだろうな」
 こうちゃんが訊いてくる。俺はさっきのお返しとばかりに
「そんなことも知らないなんて、こうちゃんもまだまだだね」
 と言ってやった。もちろん、俺も《ポッシェ》が何かは知らない。

 そんなことを言い合ううちに、予約したコース料理がうやうやしくテーブルに並び始めた。慣れないフォークやナイフの作法に少し手こずりながらも、焼きナスとズッキーニを使った前菜や、繊細なスープの味に舌鼓を打つ。
 こうちゃんはご満悦の様子で、料理とワインのマリアージュを愉しんでいた。
「うん、なんだかわかんないけど、このポッシェって赤ワインに合うわ」
 こっそりスマホで調べてみたら、《ポッシェ》とは、《ポシェ》ともいうらしい。水やブイヨン、ワインなどで食材をゆっくり煮込む調理法だそうだ。
 さっぱりと茹でられた豚のバラ肉に、ニンニクと黒胡椒のソースがとてもよく合っていた。

 考えてみれば、母と食べた鰻といい、このコース料理といい、自分ばかりが贅沢をしているようで気が引ける。でも、そんな後ろめたさの分だけ、旨さが増しているようにも感じるのだから、人の心は裏腹なものだ。

 食事を終えて部屋に戻ると、俺はバスルームの蛇口を捻り、温泉を湯船に溜めた。
 せっかくの温泉だ。一秒でも早くつかりたい。
 張り終えた湯を手で掻き混ぜてみると、家の風呂とは比べものにならないくらいお湯が滑らかだ。ゆっくり湯船に体を沈めると、
「あー、極楽極楽ー」
 思わず声が出た。
 俺の極楽が聞こえたのか、部屋のほうから「じじくさいなー」と笑う、こうちゃんの朗らかな声が飛んでくる。

 この湯に肩まで浸かって、声の出ない人がいるならお目にかかりたい。
 体に溜まっていた疲労物質が抜けていき、抜けたところに温泉成分が入り込む。
 これぞ疲労回復。
 こうしていると、疲れた大人たちが温泉を崇拝する気持ちがよくわかる。

 風呂から上がり、髪を乾かし終えると、こうちゃんが、へっへっへ、と不適な笑みを浮かべて俺に近づいてきた。
「ん?」
「瞬太、そろそろ夜食にしようぜ」
 取り出したのは、カップ焼きそばだった。いつの間にそんなものを買っていたのだろう。
「さっき、コース料理食ったばっかじゃん」
 こうちゃんが口を尖らす。
「なんだよ、食わないの?」 
 あの独特なソースの香りを想像したら、腹にぐぐっと隙間が空いた。
  電気ポットに水入れてくるよ」
 俺が言うと、こうちゃんはまた、へっへっへ、と悪い顔をしながら、焼きそばのフィルムを剥がし始めた。

 かやくを入れ、湧いたポットの湯を入れて蓋を閉め、ソースを上に置いて重しにする。
「豪勢な飯を食った後のカップ焼きそばって、堪らなく旨いんだよなぁ。こんな甘美な罪悪感、他にはないよ」
 こうちゃんがそう言って、恍惚と目を細める。
 三分経って湯を捨て、俺が蓋を剥がそうとすると、
「ていっ!」
 まるで蚊でも退治するように手をはたかれた。
「なんだよぉ」
 痛くはないが、むっとする。

「まだ開けたらだめだ。開ける前に、蓋を叩かないと!」
 こうちゃんは、紙の蓋をバンバン叩いた。
「こうすると、蓋の裏にくっついたキャベツが下に落ちるんだよ。ほら」
 蓋を剥がすと、油揚げ麺のチープな香りが、湯気とともに上がってきた。確かに、蓋にキャベツはついていない。
「おお……」
 俺が感嘆の声を上げる。
 あとはソースを入れて、丹念に麺と混ぜていく。このインスタントならではの独特の香りは、本当にくせになる。
「いただきまーす」
 麺を持ち上げ、口に運ぼうとしたそのとき、こうちゃんが懐かしむように、視線を浮かせた。

「俺が、こうやってカップ焼きそば食ってるとさ、恵梨子のやつ、絶対に『一口ちょうだい』って言い出してたなぁ」
 そりゃあ、隣でこんなソースのいい匂いを嗅がされたら、どうしたって食べたくなる。
「でも結局、一口じゃ済まなくて、もう一個作るはめになんの。で、食い終わったら怒るんだ。太ったら俺のせいだって。理不尽だろう?」
 寂しそうに笑うこうちゃんを見ていると、なんだか切ない。
 きっと、スーパーやコンビニでカップ焼きそばを見かける度に、こうちゃんは恵梨子さんのことを思い出しているのだろう。
 そう思うと、なんだかじれったくなった。

「ねぇ、こうちゃんさぁ、まだ恵梨子さんのこと好きなんでしょう? だったら、一か八か、思い切って連絡してみたら?」
 俺の言葉に、こうちゃんの箸が一瞬止まる。そして軽く首を振ると、勢いよく焼きそばを啜り上げた。

「そんなことできないよ」
 もさもさと口を動かしながら言う。
「なんで?」
「今更、復縁迫られたって迷惑だろうし、それに、もう相手がいるかもしれないし……」
「いないよ!」
 驚くほどの即答に、こうちゃんも目を見開く。
 なぜ、そんなことを言ったのか、自分でもわからない。それでも俺は、おかしなくらい確信を持って「いない」と断言してしまった。でもそれが、あまりにも根拠のない一言だと気づき、俺はうろたえた。

「あ、いや、そんな気がするんだよ。ほら、俺、勘が良いからさ」
 しがない高校生の勘なんて、なんの気休めにもならない。そう思うと尚更、むきになった。 
「でもさ、相手がいたなら、それでもいいじゃん。そのときは、幸せになれよ! って言って、身を引けばいいだけだよ」
 そんなことを言う俺を、こうちゃんが眩しそうな顔で見る。
  若いって、いいなぁ」
「なんだよ、それ」
 馬鹿にされた気がしてむっとする。

「高校生にとってはさ、十年、二十年先のことなんて、ピンとこないくらい、遠い未来に感じるだろう? 若さってさ、そういう限られた時間を永遠みたいに感じられるから、まばゆい輝きを放つんだ。当たって砕けろ精神で痛手を負っても、解決してくれる時間がたっぷりある。それって、すごいことだよなぁ」
 こうちゃんは、感心したように頷いている。
 俺は、そんなこうちゃんを見て、またじれったくなった。大人から若さを賞賛されても、ちっとも嬉しくない。なんで今が一番楽しいって言ってくれないのかと、もどかしくなってしまう。
 地団駄を踏みたくなる気持ちを抑えて、俺は言った。

「確かにねぇ。老い先短いと、残された時間が少ないから、心にダメージを負っても、もう、時間が解決してくれなくなるもんね」
 こうちゃんは頬張った麺を、ぶっと噴き出しそうになった。
「お、おいっ、今、《老い先短い》って言ったか?」
「え? 違うの?」
 すっとぼける。
「人を老いぼれみたいに言うんじゃないよ。俺だってまだまだこれからだ」
 思わずにやりとする。
「じゃあ、当たって砕けても大丈夫じゃん。まだまだ若いんだから、解決してくれる時間はたっぷりあるって!」
 そう言って励ますように、バシバシ肩を叩くと、こうちゃんは苦い顔をして笑った。人の気も知らないで  、とでも言いたそうだ。

「なぁ、瞬太。覆水盆に返らずって聞いたことあるだろう?」
 確かに、そういう言葉もあるにはある。
「でもさ、焼け木杭に火がついて、元の鞘に収まるなんてこともあるかもしれないよ」
 俺は容器の中に残っていたキャベツをかき集め、口に運ぶ。ソースの匂いだけを残し、カップ焼きそばの容器は空になった。
「ごちそうさまー。あー、腹いっぱい」
 俺が調子よく腹を叩くと、こうちゃんは頭を掻きながら、
「本当に、お前ってやつは、ああ言えばこう言うだなぁ」
 そう言って、笑っていた。
 



 第13話につづく

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