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【2万字超え】ペスハム(石澤亮輔)の自分史「人生を振り返ってみる」

自分のこれまでの人生を全力で振り返ってみます!

ペスハムとして活動している2020年以降のことは結構振り返ってましたが、それより前の話(人間、石澤亮輔として)はあまりアウトプットしていないので、ここで思い出しつつアウトプットしてみます。

ガッツリ書いてたら、2万字超えてしまいました!全部手書きです。心してご覧くださいw

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自分史の大切さについてはブログでFIREして今コーチをやっているヒトデさんのコンテンツを参考にやってみようと思いました。

相談業(コーチング)をやっている自分としては

  • 「こういう人にコーチングお願いしてみたい」という安心感になる

  • 自分自身の過去を振り返った時の特徴を見つける気づきになる

  • さらけ出すことがエンタメになる

このあたりの効果があるんじゃないかと思います!

【幼少期】:人生の絶頂期。この子は学者にでもなるのか、とも言われる本の虫。

1989年、横浜の一番下、横須賀との境目で産まれる。

5歳上の兄がいます。兄は理系で天才肌。弟の僕は文系でコツコツ型。電話口の声だけ似ている、基本全然違う兄弟です。5歳上だと弟の役割は基本パシリ。喧嘩はいつも負ける。
幼少期のあだ名は「どってん」(よく転んでたから)とか「なすぴー」(顔が長かったから)。今思うとひどい家族だ。

子ども時代から「気になったことをやり尽くすまでやり込む」ことが得意でした。まず初めに来たのが「本」。

幼少期はとにかく本を読んでました。親に読み聞かせてもらうのが嬉しかったのがきっかけだったのかな。家じゅうの本をとにかく読み漁る。ご近所さんで学級文庫的な感じで自宅の車庫をガレージにして簡易図書館をやっている人がいたんだけど、そこに毎日通って、毎日大量に借りて、全冊読んでは返すを繰り返していたみたい。しまいには簡易図書館の本、全部読んでいた?らしい。

その後は市民図書館に行くようになり、図鑑やら物語やら、ジャンルを問わず読みまくっていた。実際親からは「この子は学者にもなるのか。とんでもない子が産まれてしまった」と思われてたらしい。

しかしその後一気に人生を堕落させるツール登場。そう。スーパーファミコンです。
最初は「スーパーマリオワールド」を兄がやっているのを後ろで見ているところからのスタート。ちなみに「マリオカート」はいつまでたっても苦手だった。「マリオカート」みたいな反射系、スポーツ系は苦手。「マリオワールド」とか「マリオRPG」みたいなコツコツ系、何度もチャレンジする系は得意、この傾向は、ずーーーっと人生を通してあるなぁという感じがあります。

で、とにかくスーファミにハマって、ひたすらやってた。特にハマったのは「スーパードンキーコング」。神ゲーの代表格。グラフィックめちゃくちゃ綺麗だった。音楽も神だった。1,2,3があって、全部それぞれ101%,102%,103%まで全クリ。一番好きだったステージは「スーパードンキーコング2」の「どくどくタワー」。下から徐々に上にせまりくる「どく」がめちゃくちゃこわくてエキサイティングだった。

ヘビのラトリーのスーパージャンプ駆使して登りまくる前半が鬼門だった…

小学校の勉強は昔取った杵柄というかで、小学校のテストとかは余裕で出来たんだけど、家で勉強らしい勉強は全然はまらなかったなぁという記憶があります。

昔から興味のあることにはとびついて、ひたすらこれでもかというくらいやるけれど、興味ないことはとことんやらない。そんな幼少期だったなぁと思っています。

【小学生~中学生】:人と比べることを恐れ続けた暗黒期

小学生までは無邪気にやりたいことやってたって感じだったけど、高学年くらいになってどんどん「人との比較」にめちゃくちゃ悩ませるようになります。

まずは「兄との比較」

うちの兄は天才肌で、授業中に聞いているだけで全部勉強を覚えちゃうような子供でした。兄が中学受験に成功して進学校に行ったことで、当時小1だった僕は無邪気に「同じところ行きたい!」と言っていたが、高学年になって思った以上に自分の実力と受験の水準が離れていることに気づく。。

直前の模試で合格点マイナス78点を取ったことで、さすがにヤバイと思い、怒涛の特訓が始まった。追い込み追い込みを重ねて、当日の問題との相性も良く、結果的に合格することが出来たが、自分の「出来なさ」を感じた強い経験になった。

さらには兄はめちゃくちゃ運動が出来た。一方僕は太っていた。これが相当コンプレックスになってしまった。「なんで僕は…」を常に自問自答していて、相当自己肯定感が下がっていたと思う。

おデブなぼく。周りの友だちとのコンプレックスが相当強くなっていった。

小学校の頃は幼少期の頃の積み上げ貯金もあってか、勉強は余裕だった。学校の中では「勉強できるくん」キャラで通ってたし、いろんな人に教える行為を通して、自己肯定感が伸びていった。

しかし中学校はそんな僕が背伸びをして、両手を掲げて、運も味方につけて何とか入れたくらいの進学校。周りのレベルがえげつなかった。最初の成績は225人中205位。

変にプライドが高い少年は、鼻っぱしらをスコーンと折られて、見事に人間不信に逃げ込みました。
人に対して優位である」ことが当たり前だった過去を捨てきれなかった。優位な自分を落としてまで友だちと仲良くなりに行くのは、多感な中1の少年には、どうしても許せなかったみたいです。

中学1~2年は暗黒期で、クラスの友だちはほとんどできなかった。クラスの友だちが出来ないという事実をクラスの人に知られるのがプライド的に許さない、というよくわからないロジックから、昼休みはトイレの中でご飯食べることもあった。

そんな暗黒少年が唯一居場所を感じることが出来たのが、「吹奏楽部」でした。

【部活】熱中することで自分の居場所を確立していくスタイルが確立

そもそも「吹奏楽部」に入ろうと思ったのも、「兄との比較コンプレックス」からでした。

兄は運動できる→じゃあ僕は運動以外でポジション取ろう、という単純な思考ですね。

でもこの考え方はビジネスにおいても生きてますよね。人がやらないことをやる、自分の得意分野を見つけてそこを攻める、ビジネスの基本。

僕は別に元々音楽が得意だったわけではないので、消去法だったのですが、幼少期にピアノをやっていたことと、高学年の時にふとしたきっかけで吹奏楽のコンサートに行ったんですよね。

その時、「あ、これ面白そう」と直感的に思ったんですよね。

吹奏楽の楽しいところはこれだと思います。

・みんなで作り上げる一つの作品
・仲間と非言語コミュニケーション
・練習すればするほどできる訓練

この辺りは今でも生きていますね。

・みんなで作り上げる一つの作品
 →コミュニティ活動、NINJAメタバライブ
・仲間と非言語コミュニケーション
 →コーチングで心の動きの機微を察して対応
・練習すればするほどできる訓練
 →AIを徹底的に学んで新しい価値を提供

吹奏楽部は大体の人が中学生から楽器をスタートするので、スタートラインが一緒ということも良かったです。

サッカーとか幼少期から積み上げているやつらに勝つの、無理ゲーにもほどがあるwww

楽器は、ほんとはサックス🎷をやりたかったんだけど、体験入部で相手してくれた先輩がチャラくて怖そうだったのでやめたw

先輩が優しそうで、人数がたくさんいたクラリネットを選択。あと顧問の先生が僕の「歯」を見て、「キミはクラリネットが向いている!」と言ってました。ホントかw

【大学ボート部】吹奏楽からガチムチ世界へ転身

大学に入って、体重が10kg増えました…

これ、肥満ではなくて、筋肉です。幼少期はムチムチだった僕の体は、高校生に上がるころには比較的スリムにはなっていたのですが、それがボート部に入ることでまた違ったムチムチになっていました。

華奢だった文化部員の、ありとあらゆるズボンをパツパツにさせたガチムチ集団。それがボート部でした。

当時の新歓PV。ナツカシイ。

今はどうなっているかわからないですが、大学の新歓(新入生勧誘)ってすごいエネルギーだったんですよね。毎日いろんなところに連れまわされて、飲み(自主規制)会があって、色々な人と毎日話してキラキラしていました。

そんな中でボート部は、一、二を争うもりあがりを見せている部活でした。イメージとしては、なんというか「バランスよくさわやかなお兄さん」という印象。

アメフトとかにありがちな、ゴリゴリのガチムチで「趣味:パンプアップ」とかではなく、かといってテニサーみたいなイケメン美女だらけの非現実なハーレムでもなく、みんなで楽しそうに仲間と熱血!、そんな感じ。

仲良くなった先輩の下宿先がめちゃくちゃ近所で、その先輩はその後オリンピック選手になったのだけれど、大学から始めてもトップになれる(ここ重要)というのも魅力的だった。

にしても吹奏楽部からのボート部入部は誰もいなかったし、驚かれた。こういうちょっとだけぶっ飛んだことをしてしまう傾向が、自分にはあるらしいです。



ボート部の練習は、、、マジできつかった。。。

朝と夕方の二部構成になっていて、朝は早いと3時台に起きて、暗い中から練習が始まる。だから「艇庫」と言われる宿舎に泊ってセルフ合宿状態の生活を送るのです。

で、朝練が終わったら眠い目をこすりながら学校行って、帰ってきて夕練を行うって感じ。

1週間を朝夕の2つに分けた14コマのうち、11コマ練習があって、木夕と金朝がないから、そこだけ自宅に帰れる。そんな感じの生活だった。

艇庫のある戸田公園駅と大学のある国立駅は電車で1時間近くかかるから、大抵の人は学校に行かなくなる。過去問流通ネットワークは先輩から脈々と受け継がれてるから、試験対策は全然平気。

朝練習、朝食、昼寝、夕練、夕食、夜寝。。。
ほんとにそんな感じの部活漬けの日々…

練習は毎日体力の限界まで追い込み、マネージャーさんが作ってくれるご飯は、毎日ほんとにこんな感じのマンガ盛り。

食わなきゃやってられん

こういうマンガみたいな生活をやって、1年半で腰を壊した。。。

ヘルニアではなく、体の方さから筋肉を傷める「筋膜炎」という怪我だった。。。

ボート部は、よくある体育会的な「年次ごとの上下関係」はほとんどなくて、その代わり実力主義が徹底されていた。

それ自体はすごく居心地が良くてありがたいんだけど、怪我してどんどん周りのメンバーに抜かされていき、次に入ってくる後輩もどんどん自分を追い抜かしていく感覚があった。

もともと「他人との比較」でコンプレックスを感じてしまいがちな自分にとっては、この状態は辛かった。

それでも、じゃあやめます。というのは逃げる感じがして嫌だった。

もともと1年生の夏までに半分以上が辞めてしまう世界。1年以上続けてメンバーとも仲良くなっている中で、怪我が辛くて逃げ出しますじゃあ、なんとも後悔しか残らないだろうな、と。

だから、自分の中で一つゴールを立てた。

なんとか試合に出られるまでリハビリ頑張る。で、辞めよう。と決めた。

で、その通り、腰を8割治して試合に出て、そこで宣言して退部しました。。。

練習がきつかったというよりかは、やっぱり成果を出したくて、でも成果を出せない自分が辛くてやめたって感じ。

でもぼくの中では決めたゴールを達成できたということでスッキリしており、これは就活でも鉄板ネタとして語っていた。

【大学吹奏楽部】またもやガチ部活へ。。

で、ボート部をやめて、また吹奏楽をやることになるのですが、これまたコンクール常連校のガチな吹奏楽部に途中入部します。

自大学の吹奏楽部が途中入部を受け付けてなかったというのもあるんだけど、自大学の近くに下宿していながら、わざわざ自転車で30分くらいかけて他大学に行き、しかも途中入部で週5で通うという、超絶前向きエネルギーを発揮していました。

この頃はホント若かったな。。。(遠い目)

新しい部活は、やっぱりボート部とは全然違う雰囲気でした。ちょっと"なよっと"している、というか、内側には熱いものを持っているんだけど、やっぱり文化部特有のゆるっとした雰囲気があった。同期のメンバーとはなんとなく馴染めなくて、つかず離れずの関係が続いていた。先輩にガツガツした熱い人がいて、その人とばかり仲良くしていた。

この時にむちゃくちゃ練習したおかげで、のちにネットで披露できるくらいクラリネットが上手くなりました。

そして先輩が卒業し、自分が一番上の学年になる前に、就活があるからと部活にはいかなくなりました。

こうやって振り返ってみると、ほんと多動迷子な人生。。。

【就活】東日本大震災とニート

ちょうど就活が始まるタイミングで震災が起きました。

会社説明会に行くためにスーツに着替えようとズボンを脱いで片足で立っている最中に揺れ出したので、めちゃくちゃ焦りました。

幸い当時は東京の都心に住んでおり、計画停電の大きな影響も受けることなく、親族が被害に遭ったりすることもなくでしたが、就活は完全ストップ。

ひたすら2chとニコニコ動画を見ていました。

そして就活がぐちゃぐちゃした中でも、奇跡的に4月7日に内定を出してくれた企業があったので、(面倒なので)そのままそこに入ることに。

正直社会に出てこれをしたいとか、こんな会社に入りたい、とかなかった。趣味を楽しむためのお金を稼ぐために行くのかなぁ、くらいに考えていた。

父親が超仕事人間で、朝も早い、夜も全然返ってこない、でも休みの日は遊んでくれる、そんな感じだったのもあるかもしれない。

自分はなるべく楽をして稼いで、熱中できる楽しい趣味や子育てにお金と時間を使いたいな、と思っていた。

就活終了から大学卒業までの1年間は、ひたすら遊んだり、バイトしたり、震災ボランティア行ったり、モンゴル行って馬乗ったり、これまで大学生的な大学生活を全く送っていなかったので、戻らない時間を焦って取り戻すかの如く、遊びました。

震災ボランティアは南相馬市、主に荒れた農地の復興をお手伝い
内モンゴル自治区で1週間ひたすら馬に乗る学生団体に

今思えばこのときに海外バックパッカーでもっと世界を回っておけばよかったな~と後悔。

この時に「ニコニコ動画」で「VOCALOID」にめちゃくちゃハマった。

もともとは、同じゼミに超絶アニメオタクの友だちがいて、そいつがめちゃくちゃ”いいやつ”だったのがきっかけでした。

やっぱり当時って、オタクというと、「電車男」とか、「上下チェック柄で首からカメラ」みたいな感じで、あんまりいいイメージが無かったと思うんですよね。

でも彼は普通にスポーツが出来て、ゼミの中でもみんなのまとめ役で、普通に話が面白かったんです。そしてその話の大半がアニメでしたw

なんか、いい意味でカルチャーショックでした。「好き」なことをこんな楽しそうにありありと話せるのか!もともと興味なかった人を巻き込んで動かしちゃうってすごいな!と純粋に思いました。

彼に感化されて「ひぐらしのなく頃に」とか「とらドラ」とか「コードギアス」とかを見たが、どれもめちゃくちゃ面白かったですw

でもその中で一番ハマったのは「VOCALOID」でした。
初めて聞いたボカロの曲は「初音ミクの消失」って曲で、なんというか、絶対に歌えない曲すぎて最高でしたw

僕は吹奏楽部出身で、絶対音感とは言わないまでも、なんちゃって相対音感があります。

「初音ミクの消失」という曲は、「ララララララララララララララララララララララララララララララ」という同一音の連続早口から始まるのですが、(あ、「ラ」というのは、音符の「ラ」ですね。)

そこから突然めちゃくちゃキャッチーなサビに行くんですよ。
「らーみー らしどーしーらー しどれーれれーみれー れーどーしーどーしー・・・」

なんかこの展開が新しすぎて、なんというか、震えたんですw

その他にも、とにかくVOCALOIDを聞きまくっていました。

社会人になってから熱が冷めてしまったんですが、その後気づいたら、米津玄師さんとか、Ayaseさんとか、いつしか時代の音楽ブームが完全にボカロの曲になってましたねw

あの時にブログで好きな歌い手やボカロPをひたすら紹介する活動とかをやってたら、少しは小銭になってたかもしれないな~と思ったりしますw

【就職】いい会社というお湯につかってた

で、就職した企業は、総じて良い会社でした。
給料はいいし、穏やかで良い人が多かったです。

30年前、自分の親の世代のときに入社していたら、きっと定年まで勤めあげていたのかもなぁと思います。

当時は本当に「自分のやりたいこと」なんて全くわかりませんでした。
だから、目の前に与えられた業務を、「これが自分のやりたいこと」と脳内変換して、深く考えずに、熱中していました。

それでもまあまあ楽しめたし、周りにはいい人が多かったので、特に不満なくやれていたんです。

今思うと本当にもったいないですね~。現状に不満を感じてもっと早く行動してればよかったのになぁと思いますw

【新人時代】最初の現場が一番楽しかった

新人研修の最初に体験した家庭用小売部門の関連会社、いわゆる「町のガス屋さん」の雰囲気が好きでした。(あ、務めていた会社は○○ガスという会社ですw)

ガスの点検でお客さん宅に行って、奥さんと世間話していく中で「お困りごと」がないかどうか訊き出します。そして点検が終わった後に自社商品を提案して、興味を示してくれたら営業に引き継ぐ。営業さんは、奥さんにさらに心を開いてもらい、さらに高い商品を提案して、どんどん「その気」になってもらって買ってもらう。

はた目に聞くと、ちょっとヤバそうに見えるけど、世の中の営業なんて大体そんなもんですよね。ちゃんと「その気」にさせているので、買ってくれる方からはほとんどクレームなんて出ませんでした。

昔は点検をしているだけで良かったんだけど、どんどん親会社からの手数料が年々少なくなっていって、自分たちで物を売らなきゃ生きていけなくなってました。

だからハングリー精神が強い人たちが多く自分で考えて行動してなんとか数字を残そうとする人たちと、ひたすら「昔は良かった」と愚痴を吐き出す人たちと完全二極化していました。

今は訪問販売もかなり厳しいと思うので、どうなっているかはわかりません。当時は純粋にすごいなと思っていたし、あの営業力と「その気にさせ力」がある人達であれば、どこでも生き残っていけるんだろうなと思います。

研修の後も、同じ職場に教育配属になって、現場のおっちゃんたちに世間のイロハを色々教えてもらいながら、ガッツリ現場を回って、僕自身ガツガツ商品を売ったりしてました。

結構治安の悪い地域だったので、家じゅうがわけのわからない白い粉に覆いつくされている家を見たり、耳元でどんなに怒鳴り声で叫んでも「、、、え?」と聞き返すマンガみたいなおばあちゃんがいたり、「あの真っ黒い家が893さんの家でさ、、」と教えてもらったり、お昼には相乗りの車で先輩たちとカップラーメンを食べて、煙草を吸う先輩の隣で愚痴を聞きまくったり、めちゃくちゃ楽しかったです。

現場でお客さんと真摯に向き合う先輩たちが、少しでも待遇が良くなってほしい。報われてほしい、という気持ちで必死で働いていました。

【中堅時代】女子のドロドロ関係に巻き込まれる

現場配属期間が終わって本社に戻ってきて、広告プロモーションの部署に移ることになりました。

華やかそうに見える部門ですが、
実際女性の方も多く、内実は激しくドロドロな人間関係。

お局さんの存在や、出世欲にまみれた人同士の醜い争い、会議のための会議、根回しのしあいっこ、派閥の存在など、あげ出したらキリがない。

この頃の僕を自己分析してみると、とにかく女性の細かい感情の機微を読み取るのが苦手でした。(今は結婚して少しマシになりましたw)

そして極めつけが、お局上司の存在でした。

僕の上司は、広告業界一筋30年以上の大ベテランの女性でした。

彼女は、大卒ではないため年齢の割に役職的には低い位置ながら、業界では知らない人はいない「影のドン」。

別部署からやってきた門外漢の上司たちを次々と動かし、あらゆる人間が彼女の操り人形となってました。

彼女は、めちゃくちゃ建前づくりが上手でした。

広告代理店やその下請けであるクリエイターには、大きな顔をして価格を下げさせ、上司に対しては、相手の付け入るスキを与えない建前を作り出し、仕事を次々と成功に導いていきました。

僕は、彼女の仕事力を尊敬する一方で、常に本音がチラついてしまう性格のため、彼女に気に入ってもらうことが出来ませんでした。

彼女の周りの優秀な人材は、皆彼女と同様建前が上手。

優秀な下僕たちは、彼女の前では建前を貫き、機敏に動き、彼女からの評価=会社からの評価として優秀な立ち回りを見せました。

僕は、マジで彼女の下では、何一つ成果を出すことが出来ませんでした。

僕は、何度か逃げ出しました。

彼女に「こんな出来ない部下を持ったのは初めてだ」と何度か言われました。

飲み会がマジで苦手でした。

二次会に行こうと誘われ、断り切れずに、でも直前でどうしても無理になって、建物の陰に隠れて、その場をやり過ごして帰ったこともありました。

次の日の朝、嫌がる自分を奮い立たせてなんとか定時ギリギリに出社すると、周りの同僚たちが、口元は笑みを浮かべながら「どこ行ってたの?心配したよwww」と言ってきました。

僕は平謝りをしたり、言い訳をしながら、どんどん暗い穴の底にもぐっている感覚がありました。

そんなある日、会社として繋がった広告代理店の下で働いているクリエイターの方が、一日16時間働いているが手取りは23万円だという事実を聞かされました。

そこに感じたのは、同じように薄給で働いている前の現場職のおっちゃんたちとは全く違う、やるせない感情と業界の闇でした。
発注元企業という、ヒエラルキーの頂点で甘い汁を吸っている自分に、すごく自己嫌悪したりしてました。


【プロジェクト時代】人生の転機となる出会い

そんなどす黒い暗黒期の年度末のタイミング、「新しいプロジェクトが始まるからちょっと手伝ってあげてよ」そんな声をかけられ、とある新商品のプロダクトローンチを手伝うことになりました。

若手中心で結成されたメンバーで、これまでとは違うめちゃくちゃ天国な職場環境だったんですが、そこで人生の転機となる出会いがありました。

新サービスのコンセプト設計ということで、ベンチャー企業を中心にコンサルをやっている会社にマーケティングを一緒に考えることになったのですが、そこの人がめちゃくちゃすごい人だったんです。

名前は伏せますが、電通出身でベストセラー本も何冊か書いている人です。

その人はたくさんのスタートアップ経営者と関わっていて、メルカリの山田親太朗さんの話とか、Oisixの高島宏平さんの話とかをリアルにしてくれました。めちゃくちゃ刺激的でした。

今振り返ると、そういう世界があるってことは、ググれば一発でわかることなんですが、そういうアンテナが全く立ってなかったんですよね。完全に家と会社の往復で、頭の中に全くなかったんです。

その人は「顧客を徹底的に観察しろ」「広い視野を持て」「とにかく行動してみろ」と、ビジネスの基本を教えてくれました。こういうことすら、大企業の中では誰も教えてくれなかったのです。

そんな2018年、Twitterのアカウントを初めて開設、最初は会社の宣伝をしたり、ニュースにコメントをしてました。当然「いいね」はゼロ。今思えば当たり前なのですが、「やっぱりうまくいかないな」と早々に諦めてしまいましたw

副業として本格的に挑戦しだすのは、もうちょっと先のことです。


【楽しかったのもつかの間】呪いの期中異動

そんなこんなで忌々しい広告部署をやっとの思いで抜けると、次に配属された部署では、高卒現場育ちの男性が多い職場で、機械学習を用いた新プロジェクトの立ち上げを行うことになりました。プロジェクト自体はすごく楽しかったのですが、プロジェクトが後少しでリリースできる!というところで、突如期中に異動を命じられました。

7月のある日、突如肩を叩かれ「ビクッ」とした僕に対し、上司が「ちょっときて」と個室に連れてかれました。

突如異動の内示を告げられ、ぽかーんとしている僕に、上司はこう言いました。

「いやぁ、俺は反対したんだよ。向こうの上司にもさぁ、貸し1だよって言ってさぁ…」

半袖姿の上司のぼやきを片耳で聞きながら、遠い目で僕は、あの時、広告の仕事をしていた時のお局上司の存在を考えていました。

ぞわぞわっとした感覚。
「まさか。。。ね。」

彼女の社内での影響力は強く、人事の人間とも濃い繋がりを持っていました。
遠い部門への異動とはいえ、もしかしたら何かあったのかもしれない。
確たる証拠のないまま、僕の脳裏には呪いのように、見えない楔(くさび)のようなものが突き刺さっていました。


【副業】多動→失敗→得意の発見

この頃から、副業での活動を始めました。

「このままではうちの会社はいい加減やばい。絶対にどこかで会社にいられなくなる時が来る。その前に準備しておかないと。」

なんとか副業で稼いで会社から抜け出したい、頭の中には「稼ぐ」しかありません。こういうマインドでいると、最初は投資を始めるんです(あちゃー)。

当然ながら種銭の無い博打投資なんてうまくいくはずありませんよね。

個別株を買ったら価格は下がり、売ったら価格が上がりました。典型的な初心者狩りにあい、見事に資金を溶かしましたw

そこでやっと、「地道にやっていかないとダメだ」ということで、眠っていたTwitterのアカウントを再起動させ、「ハム」という名前で活動を始めました。

ちなみに「ハム」というのは、「ハムストリングス」というもも裏の筋肉の名前から来ています。ボート部の時にそこが異常に肥大しすぎて、友だちから「ハム」と呼ばれていたのが由来ですw

一番最初のタイミングで、1か月だけMLMをやってました。

MLMとは、「マルチレベルマーケティング」の略で、連鎖販売取引といいます。よくねずみ講と勘違いされますが、ねずみ講は違法。マルチは合法です。

高額商材を購入することで連鎖に入ることが出来、他者に紹介して他者が買ってくれたら自分に報酬が入るというものですね。

自分が買ったんだから当然他の人も買うだろうと思って薦めるんですが、当然知っている人は警戒しますし、知らない人も思った以上に0→1の一歩は中々踏み出しません。

結果的に1件も売れずに疲弊し、1か月で退散しました。

そしてその後もブログを始めては続かず挫折、ではプログラミングだ!と当時流行っていたプログラミングスクールに30万円課金。しかし、その一週間後には、その30万円を棒にふるうことになりますw

コロナ禍だったので、ある日Twitterで仲良くなった人と「ZOOM飲み会をしよう!」ということになりました。そこで僕は「何とかして目立ちたい」と思って、クラリネットを持ってきたのです。

実は妻が自宅でピアノの先生をやっており、自宅を新築する際に防音室を作っていたんですよね。

だから、夜の飲み会の時間にクラリネットを吹いても怒られなかったのです。

そこで、いきものがかりの「ありがとう」を吹いたのですが、なんと涙を流してまで喜んでくれた人がいたのです...!

僕としては、「こ、こんな下手くそな演奏で…?なんで?」という思いでいっぱいでした。

僕の周りの「クラリネットを吹いている人=プロとかオーケストラで吹いているめちゃくちゃうまい人」だったので、「自分なんて全然うまくないし、取るに足らない存在」という思い込みがありました。

ですが聴いてくれた人にとっては、「クラリネットの音色自体初めて聴く」「普通にめちゃくちゃうまい(他を知らないから)」「身近な人でこんな特技を持ってるなんて知らなかった」という感動体験に繋がったのです。

ものすごーくわかりやすい「得意なことは自分にとって当たり前で気づかない」典型例だったのです。

その後、ZOOMに参加したメンバーと、当時流行っていたライブ配信アプリで話した際に「ハムさん、クラリネット吹いてみなよ。この前のあれめっちゃよかったからさ。」

と言われて、試しにライブ配信でクラリネットを吹いてみたのです。

来てくれたのは数名でしたが、万感の拍手でした👏

気づいたら、プログラミングのことは忘れてましたねw

始めて「自分の得意で人を喜ばせる」ことに手ごたえを感じた僕は、そこから「稼ぐ」目的ではなくて、「自分が楽しむ」目的で活動する意味を感じ始めるのでした。



【子会社人事時代】人を見すぎて静かに病んでいく

一旦本業の話に戻ります。7月に突然異動を命じられた先は、子会社の人事部門でした。

これまでの営業寄りの部署とは違って、この子会社は主に工事を担当している会社でした。

どちらかというと、きちんと言われたことを正確にこなす、いかにミスなく事故なく仕事を終わらせられるかが大事な部門ということで、どんな時代でも必要だけど、そこまで伸びしろもない。いかに効率よく人を減らして業務をこなせるか、が求められている会社でした。

ぶっちゃけ全体的に楽しくなかったです。

その頃、副業で「全然稼げないけど自分が楽しい、そして人に喜んでもらえる」という世界を知ってしまったぼくは、正直仕事に身が入りませんでした。

人材育成ということで、入社したての若手をよく見ていました。こういう会社を求めて新卒で入ってくる若手たち。

「彼らは、何を求めてこの会社に入ってくるんだろうか。」

仕事終わりにスマホゲームをするのが楽しみという本音を聞きながら、僕は考えました。

会社の仕事は完全にライスワーク(ご飯を食べるための仕事)。他にライフワークがあればいいのだけれど、見る限りそこまで考えて動いている人がいるかはわかりませんでした。

人が生きていく上でなくてはならない仕事。
そこを支えていく、社会の歯車になる人。
必ずしも自分が本当にやりたいことではない。
でも、選んだ道を進んでいく人。
彼等は、何を求めているのだろうか。

そんな考えを巡らせつつ、人が少ない中で、好きなことも嫌なこともとにかく降ってくる大量の仕事をこなす日々を送りました。

辞めていく人もたくさん見てきました。
社内では「うちを辞めるこえないところで、嘆き馬鹿にし軽んじる人たちの声を聞きました。

「こいつ、SNSで怪しげな発信をしているから注視して見ていてくれ。」そんな依頼もありました。

彼は情報商材を販売していたり、マルチにハマっている様子でした。

実際少しでもマルチに関わった経験がある自分としては、彼の気持ちはなんとなくわかりました。

でも当たり前ですが、人事の立場として彼に声をかけることは、絶対に出来ませんでした。

自由に言いたいことを言えない。目の前の人を救えるかもしれないのに言えない。このストレスは、結構自分にとってしんどかった。


毎日毎日、たくさんの数の人、人、人。
数えきれないほどの人が様々な現場でめまぐるしく動いている中で生きていました。

政府と交渉してお役所仕事に辟易している人。
工事前の騒音の説明で各家庭を回って頭を下げている人。
現場に入ってくるクレームに一軒一軒対応しなきゃならない人。


後からわかったのですが、僕はストレングスファインダーで「個別化」という特性が優位にあるんです。

これは、つい人を1対1の対個別の存在として考えてしまうという特性。

めまぐるしい「人の動き」は、個別化人間である僕にとっては、めちゃくちゃストレスだったのです。


「この人はなんでこんなことを言うのだろう」
「なぜあの時あんな風に言われたのか」
「あの人は異動先でどんな人生を送るのだろうか」

そんな、いらぬ想像をしては、自分の心がむしばまれていく感覚。。


たくさんの負のエネルギーを感じながら、僕は緩やかに病んでいきました。。。


【人生の転機2】オリンピック開会式とゴール

2020、コロナで延期された2021年の東京オリンピックの開会式。

ひーどかったですよね(笑)

何というちぐはぐさ、一貫性の無さ、担当者が作ったものを上司に一部分だけ塗り替えられて、結果的に何が言いたいのかわからなくなってしまう、あの感覚。

僕も当時は、他の人と同じように笑っていました。


とある記事を見るまでは。

今では消されてしまっていますが、週刊文春から出たその記事を見た時、天地がひっくり返りました。

〈東京五輪開会式の闇〉「このやり方を繰り返す怖さ」「日本は終わってしまう…」 女性演出家MIKIKO氏を“排除” した「電通五輪」

初めに断っておきますが、僕は週刊文春という会社のことは嫌いです。総じて本当に胸糞悪くなる記事だらけで、なんであんな記事を書いて人を煽ってPVを稼いで儲ける仕事をやっている人がいるんだ、と、正直いつも反吐が出ています。


でもこの記事を見た時は、「これは捏造ではない。少なくとも大部分が真実なのだろう。」と思いました。


簡略化して言うと、
「世間に酷評された東京五輪の開会式は、元々はMIKIKO氏というPerfumeの振付などで実績のある一人のクリエイターが一貫的に創っていた。その作品はIOC(国際オリンピック委員会)にも絶賛されていた。しかしその後国の利権の様々な影響を受けMIKIKO氏は解任、次いで担当になった電通の佐々木氏も様々にかき乱して渡辺直美さんの容姿侮蔑発言で解任、その後も作曲家の小山田氏、演出家の小林氏も、過去の発言などを取り上げられ解任、てんやわんやのぐちゃぐちゃが絡み合った結果、あのような体たらくを世界に見せてしまっていた。」
という話。


元記事は消されてしまいましたが、大部分を引用している記事がnoteにあったので、リンクを貼らせていただきます。

三宅香帆さんの「日本の”空気”が産み出した戦争の”失敗の本質”」と掛け合わせた論も痛快です。

僕は本件の”被害者”MIKIKOさんのように一流のクリエイターでもなく、IOCに絶賛されるような作品も作ることが出来ない、ただの一般人です。

ですが、日本の「空気読み文化」が複雑に絡み合っている大組織のせいで、、本来持っている自分の価値を発揮できてない人が今も大勢発生している、ということに、僕の中の潜在意識が大共感したのです。


この瞬間ふと

「クリエイターがもっと報われる日本になってほしい」

そう純粋に思ったのです。

今では、クリエイターに限らないと思っています。

本来であれば、自分が生きてきた経験や、自分が得意にしていることを通して、誰かにもっと変化という名の価値を提供できる、はずなのに、日本社会特有の上下関係や、”空気”の存在、自信喪失や運の悪さ、一歩踏み出せない勇気の無さなど、様々な要因で、自分の価値を発揮できない人。

そんな”価値ある人”が、もっと報われる日本になってほしい。


これが、僕の中の「羅針盤」

常に目指していきたい「方向性」を指し示すゴールになりました。

もちろん、現実的に、完全な形でそれを達成するのは、無理でしょう。

達成されるとしても、それは僕の力によるものではないはずです。

でも、どんなことがあっても、自分が動く矢印はこの方向を向いていたい。

MIKIKOさんという知りもしない人の無念が、それくらい僕の内側にあるものを方向付けたのでした。


【身近な存在】報わせたかった人

ペスハムという名前は、「ペス」と「ハム」からなるクリエイターユニットです。

ここでようやく、「ペス」の存在が出てきます。

「ペス」は絵を描くクリエイターでした。

「ペス」と出会ったのは、音声配信アプリ「stand.FM」。お互い顔も知らず、住むところも離れている、声だけを聴き合う間柄でした。

「ペス」には全般性不安障害というパニック障害を患ったお兄さんがいました。身内で頼れる人も他におらず、妹のペスがずっと経済的、精神的なサポートをしていなければならなかった。

絵は好きだけど絵で食っていくことは出来ず、癒し効果のある声で何人もの人を癒していましたが、マネタイズは全くできていませんでした。

そんな中、日本に「NFT」の波が来て、クリエイターの絵が飛ぶように売れるようになっているという情報をキャッチした僕は、2021年9月、「ペス」に持ちかけました。

「めちゃくちゃ怪しいと思うだろうけど、めちゃくちゃ稼げる副業があるんだ。一緒にやってみない?」(笑)

そんなめちゃくちゃ怪しい声かけを経て、NFTクリエイターユニット「ペスハム」が誕生しました。

「これなら売れる!」と思って出したNFT作品。

なんとすぐに、、、

1作品売れました!

stand.FMで仲良くしてくれる方が買ってくれました。これは本当に、めちゃくちゃ嬉しかったですね。


しかし、世の中そんなに甘くはありません。

その後は中々売れず。。。

何度かコレクションのテイストを変え、手を変え品を変え、少しずつ作品を買ってくれる人が増えていきました。

結果的には1年半の活動で、約50万円ほどのNFT作品を売り上げ、売上は全額「ペス」に渡しました。


しかしその後、後に記述する「NINJAメタバライブ」と「めたばっち」の忙しさから、ふとしたすれ違いが発生してしまい、彼女を傷つけてしまいました。

そこから、ペスハムの活動は休止。今ではペスは自分自身で立ち直り、“心地良さ”をテーマにしたオンラインサロンを運営しています。

本当の意味で「報わせたかった」クリエイターを、「報わせられなかった経験」は、自分の中でズンと重くのしかかっています。


NINJAメタバライブとめたばっち

「ペスハム」としての活動が始まるのと時を同じくして、「NinjaDAO」での活動が始まります。

NinjaDAOのcredo(行動指針)

日本のWeb3界の黎明期を作り上げ、今でもトップを走り続けるこのコミュニティに、立ち上げ当初から関わることが出来たのは、人生で一、二を争う幸運な出来事だったと思います。

NinjaDAOにこれほどまでに深くかかわることになったのは、Web3やNFTに対するワクワクや、ファウンダーのikehayaさんの魅力はもちろんですが、なによりもこのcredo(行動指針)が、自分の掲げたゴール「クリエイターが報われる社会」とドンピシャでピンと来たから、に他なりません。

  • 一、クリエイターの可能性を信じよう

  • 一、失敗を歓迎し、成功を喜びあおう

  • 一、他人にやさしく、自分にもやさしく

  • 一、マイノリティでいよう

しかし、ここでNFTクリエイター「ペスハム」としての活動を宣伝するのも何か違う…

自分が何かできることはないか…?

そこでまず思ったのが、「ファンソングの作曲」でした。実はつたないながらも、クラリネットのライブ配信活動を通して、作曲能力を体得していたのです。

La,La,La,NINJA」と題したその曲は、CryptoNinja初のファンソングとして、(勝手に)ブロックチェーンに刻んでいます。

今はCryptoNinjaのファングッズを公式に取り扱っている「Fanspire」にて、222円で販売しているので、応援がわりにぜひポチっとお願いします!

そして次に実施したのが「メタバース音楽ライブ=NINJAメタバライブ」でした。

メタバライブについてはこちらをどうぞ!

その1周年記念として、ジェネラティブNFT「めたばっち」をリリース。

NFTとしての一次販売売り上げは10ETH(約250万円)総流通高は160ETH(日本円にして約4000万円)。

完全にバブルの煽りこそありましたが、リリースに向けた約4か月間のプロダクトローンチマーケティングの経験は、とても大変でしたがめちゃくちゃ学びになりました。

8月にキャラクターが産まれ、最初はメタバライブを楽しんでいる人へのファングッズ的な位置づけで良いかなと考えていたんです。

しかし、9月にイケハヤさんと我々メンバーとの対談で、「やるならリリースのタイミングでなるべく多くの優良なユーザーの手に渡した方が良いですよ」というアドバイスを頂き、そこから「優良なユーザーに手にしていただくための」怒涛のマーケティングが始まりました。

認知獲得のために毎日のようにNFT界隈の主要なコミュニティのファウンダーの方々にアポ取り、スペース対談、アローリスト(優先購入権)配りの精査と、ユーザー参加企画の検討、コミュニティ管理と、あちこちからやってくる海外垢をスパムか否か判断し(当時は極まれに優良な海外ユーザーがいたんです)、エンジニアとの調整やクリエイティブとの調整などなど、精査に精査を重ね、12月10日のリリースまでもっていきました。

そしてなんとローンチ当日に、息子が椅子から落ちて流血し、救急車で運ばれるという大事件が発生...!

急遽Xスペースはメンバーに任せ、救急車の中で一次販売の完売を知り、一安心も、その後救急病院でコロナに罹る...!

最も二次流通が回った販売後約1週間の間、完全に倒れており、販売後の定期スペースやツイートなどはすべてメンバーにお任せする形となってしまいました。

この辺の、めたばっち周りのエピソードは、意外とまとめたものがどこにもなかったですね。ということに書いてて気づきました。

退職

そして、このマーケティングのエネルギーは、完全に

「俺、これが成功したら退職するんだ...!」

をエサにしていました。

怒涛の12-1月が終わって少し落ち着いたある日、職場に退職の意を告げます。

反応としては、あっけないものでした。

「そっか。残念だけど仕方ないね。よくわからないけど面白そうなことやるんだね。頑張ってね。」

え、そんななん?もうちょっと引き留めるとか、ないの?退職時のテンプレのやつ、ないの?

やけにあっさりと退職、そして今の今まで、よほど仲のよかった人以外からは一切連絡ありません。

そんなものかー。そんなもんなのかー。

ほんと、あっけないものです。


【退職後】ファウンダーの退任、NFTのバブル崩壊

退職して数か月、NINJAメタバライブのファウンダーと意見が合わずに喧嘩別れすることになりました。

もともとNINJAメタバライブは退任した彼がファウンダー、僕がコーファウンダーということで、二人で立ち上げたプロジェクトだったのですが、彼が降りて僕が代表という形になりました。

この経緯については、ここではあまり詳しく書きませんが、僕の内省として書くのであれば、「テキストコミュニケーションの罠」だったなと感じています。

もともとNINJAメタバライブは、NinjaDAOの文化を強く受け継いでいたということもあり、なるべくミーティングをせず、テキストコミュニケーション至上主義でフルリモートでチームを回していました。

僕自身経験不足なところがあり、テキストコミュニケーションで相手を思いやる言葉が紡げなかったり、自分の意図しない形で相手に伝わってしまったりなど、多くのミスコミュニケーションがあったと思います。

今コーチングをしたり、オンラインコミュニティでも定期的なボイスチャット、さらには「会いに行く」ことの重要性を意識しているのも、この経験があったからだと思います。


そして、会社を辞めた直後の2023年4月~9月頃にかけて、NFT市場は急速に冷え込んでいきました。

その原因もここでは詳しくは書きませんが、Blurショックとミームコインの台頭が大きいですよね。

退職後あてにしていた、めたばっちの二次流通手数料は全くあてにならず、また当時2件ほど携わらせていただいた「ジェネラティブNFTのAL(優先購入権)マネージャー」といった仕事も需要が出てこなくなりました。

NINJAメタバライブで音楽NFTをライブコマースで販売するという取組も2件ほど成功事例が出せましたが、そもそも音楽NFT自体が販売されなくなってしまいました。


いきなり大ピンチです。。。

【資金調達】半年かけた活動も成果ゼロ

ここで知人の紹介から僕は「ナミエシンカスタートアッププログラム」に応募し、当選して参加することになります。

これは、住友商事が中心となり、福島県浪江町の地方創生を基軸にしながらも、幅広い範囲でスタートアップの事業相談、プレゼン、資金調達を支援するプログラムです。

ここで、メンターの方にお世話になり、NINJAメタバライブをビジネスとしてどうやって回していくかを事業相談させていただきました。

地方創生のメタバースイベントや物産展など幅広いアイデアは出たのですが、0→1を作るまでは至らず。

その事業相談の中で出てきたアイデアとして「誰もが一日一枚発行できるNFT会員券」=FAN PASSを形にすべく、プロトタイプの商品を作ってTwitterの知人に案内しまくりました。

結果的に3か月で累計250万の流通実績を作ることが出来ました。収益は発行者に全額還元したので、自分としては利益ゼロでした。

この取組をグロースさせたいと思い、資金調達のためにVCやエンジェル投資家、創業融資などを回りましたが、一件も獲得することが出来ず、取組としては頓挫せざるを得ない状況となりました。。。

会社の資金が1万円を切る→コーチングに出会う

そうこうしている間にどんどん会社の資金はなくなっていき、何度も個人資産で補填をしながら、結局9,337円まで残高がいきました。

何か稼がなければ、と考えていた時に、ふと「コーチング」の文字が目に入りました。

コーチング=COACHING:大切な人を馬車に載せて目的地まで届ける伴走支援。。

実は、コーチングはNFTを始める前の2021年に興味を持って勉強しており、友だちに無料で提供したりもしていました。

当時「FAN PASSが中々売れない。。。」と悩んでいる人がいました。一日一枚発行を続けていって、継続的な応援を呼び掛けていくものなのですが、人の興味は「取り組みを始めます!」というタイミングに最高潮に達するものの、その後はどうしても興味が薄れてしまい、買われずらくなってしまうからです。

「中々売れないと悩んでいる人をコーチングで助けることはできないだろうか。。。」

そこからコーチングを再勉強し、FAN PASSを行っている人に呼びかけました。

何名かの方が反応してくださり、まず2名の方が「有料でも受けてみたい」と言ってくれました...!



人生初の有料オフラインセミナー

Xでこれまで関係性を持った人たちに声をかけていき、半年間で20名の方に体験コーチングを実施、5名の方に有料で受けていただきました。

売上としては50万円ほどとなり、会社としても何とかすれすれのところで生きながらえることが出来ました。

あわせて、UdemyでAIの動画講座を始め、少しずつですが毎月のストック収益を作れるようにもなりました。

そんな中でとある一通のDMが新しい流れを作りました。

トークイベント、オフラインセミナーか、、ドキドキ。

自分にできるのか。失敗したらどうしようか。

でもコーチング理論は言います。

「できるかどうかなんてわからなくてドキドキすること、それでもやってみたいことが、本当に向かいたいゴール」。

これはやるしかない。チャンスには波乗りしていく...!


自分のやってきたことで、コーチングとも絡みつつ、幅広い層が興味を持ってくれそうな内容は何か...!

そこで考えたのがこれ。

企画と内容を考えながら、とにかく集客を頑張りました。泥臭くDMを送り続けた結果、

オフライン18名+動画購入61名!

の人にご購入いただきました!👏

本当に感謝です!

AIをとにかく使い倒す

AIに触り始めたのは2023年の後半くらいから。

また遅い。と自分で思ってました。

が、現在から振り返ってみれば、この時から触っておいてよかったと思っています。

今では当たり前のAIですが、当時は画像生成もすぐに崩れてしまい、全然意図したものにならず、文章生成も「これ自分で書いた方が早いじゃん」という内容でした。

そんな中でも触ってみようと思ったのは、「不完全なうちから触っておくことがワクワクしておもしろいから」

最新技術は完璧になって世の中の多くの人が「便利」と思ってから触り始めるのでは、大体遅いです。

「うまくいかない」「不便だ」というのをコミュニティでお互いに愚痴吐き合いながら、試行錯誤するくらいがちょうど良いのです。

僕はWeb3やメタバースでこのことに気付いていたからこそAIについてもどんどん触ることができました。

今ではいろんな団体や企業、オンラインサロンなどでAIを教えることが出来ています。


日本一のバンジー飛ぶ...!

NinjaDAOのメンバーに「なんか刺激が足りない」と誘われて、人生初の日本一の高さを誇る「岐阜バンジー」バンジージャンプへ。。。

コーチングのマインド形成で「”今ここ”の積み重ねに未来がある」という考えがあるのですが、まさに「”今ここ”」に集中するというのがバンジーという極限体験なんだろうなと思います。

”今”がめちゃくちゃ怖いという状況なんだけど、そこから踏み出した先にある未来を見ていれば、飛ぶことが出来る。

そして飛んだ先にやっぱり「自分が思い描いていた未来」がある。

そんな疑似体験を簡単に(?)することができる、のがバンジージャンプだと思いました。結論最高です!

コーチングを"多動迷子コーチング"にリニューアル!単月最高益達成!

コーチングのサービス名を「ペスハムのコーチング」→「パーソナルナビゲーション」→「多動迷子コーチング」とブランド名とコンセプトを二転三転させていたのですが、「多動迷子コーチング」がヒットしました。

「多動迷子」とは

「好奇心があって行動力もある!」「でも自分が何の人なのか見失いがち...」そんな人です。

学術的にはADHDや、HSS型HSPが近い言葉ですが、もっと主観的な言葉でいいと思っています。

「アテンションエコノミー」最盛期の現代において、「多動迷子」の人は多いと思います。

何を隠そう。僕自身が最も「多動迷子」である自信があります。

でも、行動すれば報われる、行動を継続すればどこかでヒットする。そんな時代において、「多動迷子」の特性はうまく使えば最強です。

この「多動迷子」の使い方を伝えていくための「自己理解」、「羅針盤の見つけ方」そして「価値ある人が報われるために自分のリソースを何でも提供する人」。

この位置づけが需要に刺さる。そう感じた瞬間でした。

松本3DCGプロジェクト→松本三次元に参画

松本市が3DCG産業の育成を目指して始まったプロジェクトに参画しました。

このプロジェクトは、もともと「デジタルシティ松本推進機構(DigiMAT)」の一環として立ち上がり、観光メタバースと3DCGの産業育成を目指していました。

松本市外からこのプロジェクトにジョインすることができたのは、過去にメタバース音楽ライブの実績や、複数の3DCGクリエイターとの人脈を評価していただけ、ご紹介していただきました。

詳しくはこちらの記事をご覧ください。

このご縁をキッカケに、「地方創生×最新技術」の分野で、今需要の高い、AIを中心に活動範囲を広げていこうと思うことが出来ました。

引き続きガリガリと活動していきます。


おわりに

この自分史は、活動を重ねていくごとに、どんどん書き換えられていくものだと思っています。

これからのAI時代においては「人間らしさ」「関係性」「土地」「履歴」といったものが非常に重要になってくると思っています。

この自分史も、書きながら必要性を痛感しています。

今後需要がある分野に足を使って関係を作っていきたいと思います!

その際に「こんな人間です」というのを世の中に発信していることは、確実に強みになると思います。

このデータは確実にAIに読み込まれます。

AIが「ペスハム(こくざわ)って誰だ?」と思った時に、簡易版の自己紹介に加えて、要所要所でエピソードを抜き出して、私という存在の人間性を追加してくれるのです。

簡易版の自己紹介

DeepResearchによる客観的な他己紹介

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