国立西洋美術館のピカソが大集合! こんなに持ってたのね!?……ピカソの人物画(前編)
先日(8月上旬)、フラッと上野の国立西洋美術館へ行ってきました。『ピカソの人物画』という特集が組まれていると知ったからです。行ってみると、ピカソの展示が「どうだ!!!」と言わんばかりに展示されていました。展示点数は30超! 博物館事情にもピカソ事情にも詳しいわけではありませんが、これだけの数のピカソ作品を所蔵(寄託含む)している美術館って、そんなに多くないんじゃないでしょうか。

それもですね……展示名が『ピカソの人物画』とあるので、人物画だけを集めたわけで、もしかすると国立西洋美術館には、この他にもピカソ作品を持っているのかもしれません。また、これらの作品はコレクション展で見られるんです。つまりは、500円のワンコインで見られてしまうということ。びっくり仰天のこの展示は、10月5日まで開催されています。
今回は、その『ピカソの人物画』特集をnoteしていくのですが……同展については国立西洋美術館の公式サイトにて、展覧会パンフレットがPDFで配布されています。このパンフレットが、充実した内容で、同展を網羅した内容になっています。つまり、わざわざわたしのnoteを読まなくても同展に関して……さらにピカソに関して……深く知ることができてしまいます。正確に知りたい方は、同パンフレットを読むことをおすすめしておきます。
今回も長いので、ドビュッシーでも聞きながら読んでいってもらえればと……。
1 友人たちの肖像 ─「四匹の猫」初個展(1900年)
Wikipediaには「パブロ・ルイス・ピカソは、1881年10月25日の23時15分に、スペイン南部アンダルシア地方のマラガ市で生まれた」と記されています。父のホセ・ルイスは、美術教師であり、修復家であり、美術館学芸員長、画家でした。母はマラガ市で生まれ育った一般的な女性でした。
1892年、10歳の時にラ・コルーニャの美術学校に入学し、12歳の時には父がパブロ・ピカソの才能に圧倒され、絵を描くことを辞めた(絵画作品の制作をやめた?)……という逸話は有名ですね。その翌年には家族でバルセロナに移住して、やはり美術学校に入学します。
今回のこととはまったく関係ありませんが、この頃、同じバルセロナでは、ピカソのママ友が、後に著名な画家となる子どもを生んでいます。その子とは、ジュアン・ミロです。それぞれが育った自宅は、500mほどしか離れていなかったそうです。
1897年……15歳の時には、父の指導のもとに描いた古典的様式の『科学と慈愛』がマドリードの国立美術展で入選・佳作を受賞し、約2週間展示されます。さらに同年秋には、マドリードの王立サン・フェルナンド美術アカデミーに入学するも、翌年には猩紅熱(しょうこうねつ)に罹り、同アカデミーを中退し、療養することになりました。
17歳になるとバルセロナに戻り、若き芸術家や知識人たちが集まっていた、カフェ「四匹の猫」に通うようになります。そしてこの頃に、初めての個展を開催。注目を集め始めるようになります。
このカフェ「四匹の猫」は、1897年の6月……ピカソが15歳の時に、バルセロナのムンシオー通りにオープンしました。カフェの創設者の一人には、画家のラモン・カザスがいました。国立西洋美術館(西美)では、彼がカフェのために手掛けたロゴの最終段階の原画素描が展示されています。

ペラ・ロメウと四匹の猫
1897年頃 鉛筆・インク/紙 国立西洋美術館
そのロゴには、カフェ「四匹の猫」の店主であるペラ・ロメウ(Pere Romeu(ペレ・ロメウ))の顔と四匹の猫が描かれています。ロゴは、カフェにかかわる様々な印刷物に用いられ、カフェの開店を記念して開かれたグループ展のパンフレットにも見られます。

1897年
国立西洋美術館

パンフレットになにが書かれているのかを見てみました。
BREU RELACIÓ
簡潔な記録
DELS DIBUIXOS & ESTUDIS AL OLI FI
QUE ALGUNS PINTORS PARROQUIANS HAN EXPOSAT
常連の画家たちが展示した素描と油彩による習作
A LA SALA GRAN
DELS.
Quatre Gats
「クアトレ・ガッツ」の大広間
ELS DEMÉS PARROQUIANS PODRAN VEURE-LA I DIR-HI LO
QUE'LS SEMBLI, DEL DIUMENGE II AL DIUMENGE 18
他の常連客も、2日から18日まで展示を鑑賞し、自由に意見を述べることができます
BARCELONA
バルセロナ
M.DCCC.XCVII
1897年
VAL UN RAL
価格:1ラル(レアル)
さて……1900年……18歳のピカソは「四匹の猫」で再び個展を開催します。約150点のアール・ヌーヴォー風の線画……肖像デッサンを展示します。西美のパンフレットによれば、前述の画家ラモン・カザスが、前年10月に木炭による肖像画シリーズを発表して成功を収めたのに対して、ピカソも約150点の肖像デッサンを展示しました。「しかし、カザスがバルセロナの社交界の名士たちを描いたのに対し、ピカソがモデルとしたのは自身の芸術家サークルの友人や知人─その多くは無名のボヘミアンたちでした」としています。
この個展で展示されたと考えられる作品が2点、国立西洋美術館で見られます。

ピカソがモデルとしたのは、身近な友人や知人でした。左は、医師のマヌエル・リバス・イ・カレラスであり(no.1、8月12日まで展示)、右は法律を学ぶ学生だったリュイス・アレマニです。今展パンフレットによれば「いずれも、木炭の素早<力強い筆致でモデルの風貌を的確に捉え」、さらに「彼らのアイデンティティや人となりまでも伝えるようです」と評されています。

リュイス・アレマニの肖像
1899-1900年
グアッシュ・木炭/紙
井内コレクションより寄託
カフェ「四匹の猫」における個展の後に、ピカソはパリを訪問します。以降、彼はバルセロナとパリを行き来するようになったそうです。そして翌年の1901年……19歳のピカソはパリでも個展を開きます。この頃から、いわゆる「青の時代」が始まりました。なお、今回の西美の展示では、その青っぽい作品は見られませんが、Wikipediaに掲載されていた青の時代の作例を参考までに添付しておきます。

左が『アンヘル・フェルナンデス・デソト氏の肖像』
右が『腕を組んで座る女』
出典:Wikipedia
2 周縁化された人々へのまなざし
西美の展示の第二章では、「周縁化された人々へのまなざし」とタイトルが打たれています。言葉の意味がわたしには分からなかったので調べてみました……「周縁化」とは「社会的に中心から外れた立場に置かれている人々」といった意味のようです。そんな彼らに向けられた関心や視点、見方のことを、このタイトルは指しているようです。分かりづらぁ……。簡単に言えば、「差別されていた人たちへのまなざし」というと語弊があるでしょうか……。
さて、1902年……20歳のピカソは、前述のラモン・カザスと二人展を開催しています。当時のラモン・カザスは、既にバルセロナで大御所と呼ばれるような存在だったようで、そんなラモン・カザスに、ピカソは才能を見出されていたと言えるでしょう。
そして、同じ年の10月には、パリでマックス・ジャコブと同居しはじめました。さらに1904年……22歳になると、そのマックス・ジャコブの勧めで「洗濯船」と呼ばれるモンマルトルの建物に部屋を借り、パリに本格的に拠点を移します。
その頃の作品でしょうか……同年に描かれた版画《貧しき食事》が展示されています。まさに「周縁化された人々へのまなざし」ですね。

貧しき食事 1904年(1913年刷り)
エッチング
国立西洋美術館
一般に「青の時代」と呼ばれるこの頃は、暗い青色が特徴の絵を描いていました。パンフレットによれば、これは「親友の画家カルラス・カザジェマスの自殺を一つの契機に、貧困や孤独に苦しみながら社会の底辺を生きる人々が繰り返し描かれました」と記されています。

貧しき人々 1905年(1913年刷り)
エッチング
国立西洋美術館
「青の時代」は、それほど長く続いたわけではないようです。1905年……23歳になると「バラ色の時代(桃色の時代)」が始まります(〜1906年)。
しかし……と、展示パンフレットには書かれていました。
パトロンの獲得にも成功し、新しい彼女(フェルナンド・オリヴィエ)もできたピカソの生活は「バラ色」になります。それでも、周縁へのまなざしは継続されていました。パンフレットには「サーカスの軽業師や道化師、そして放浪の旅芸人サルタンバンクの家族といったこの時期の主題には、なお『青の時代』の名残が見られます」と記されています。

貧しき人々 1905年(1913年刷り)
ただ……サルタンバンクが「周縁」だったというのは、現在のわたしの感覚……おそらく多くの日本人の感覚……では分かりづらいです。まず、この作品の解説が正しいとすれば、サルタンバンクを「流浪の旅芸人」と定義しています。今は異なるかもしれませんが、「流浪」や「芸人」は、どちらも差別の対象になりやすいですよね。江戸や明治の頃の日本でも同じです。
そんなことから、ピカソが描いたサルタンバンクは、いわゆるジプシーのことだったんじゃないかと、ちょっと検索してみましたが、そうしたことは言われていないようです。ちなみにヨーロッパでサーカスと言えば、「ジプシー」と呼ばれた人たちを思い浮かべる人も多いかと思います。この「ジプシー」という言葉は、ざっくりと言えば、差別を受けていた「ロマ族」の蔑称……蔑視を含んでいる言葉とされています。今でもフランスでは、日本人を含むアジア人への差別がけっこう残っていると聞きますが、第二次大戦前のその頃は、今の比ではなかった……かもしれませんね。まぁどの時代のどの地域でも、貧しい人たちは差別されてしまうのが現実です。自身を振り返っても、「差別をしちゃいけない」と自分に言い聞かせることはできますが、差別意識をなくすのは難しいものです。

サルタンバンク
1905年(1913年刷り)
ドライポイント
国立西洋美術館

3 キュビスムに目覚めたあとの肖像画
1906年の夏頃になると「ピカソはそれまでの物語性に富んだ象徴主義的な表現を捨て、その関心を主題よりも人物像の造形的探求へと向けていきました」……と、どこかに書いてあった文章をコピペしてみましたが、キュビスムの作品と同じくらいに、意味が分かりません。
ただし、たいていの人にとっては、ピカソといえば、このわけのわからない雰囲気の作品ですよね。
1907年に、古代イベリア彫刻やアフリカの造形物に関心を抱くようになり、《アヴィニョンの娘たち》を描き、ピカソはキュビスムに目覚めます。《アヴィニョンの娘たち》は、もちろん今回は展示されていませんが、重要なキー作品なので、noteしておきます。

《アヴィニョンの娘たち》を1907年に描いたピカソは、「もしかすると、求めていた絵は、こういうんじゃないのか!?」って思ったんでしょうけど、この誰が見てもへんてこりんな絵が、世間で認められるという自信はなかった……かもしれません。描いてみたものの、1916年の「サロン・ドートンヌ」に出品するまで、9年前後も公開はされませんでした。
この時期には、盟友であるジョルジュ・ブラックと、キュビスムの実験を始めます。余談ですが、国立西洋美術館や東京国立近代美術館には、ジョルジュ・ブラックの多くの作品が所蔵されていますね。
1910年の夏には、詩人マックス・ジャコブの著作『聖マトレル』の挿絵を、版画で制作しています。わたしが行った8月上旬には、その中から《レオニー嬢》という作品が展示されていましたが、現在は異なる作品が展示されているようです。タイトルの《レオニー嬢》から、「なんかよく分からないけど、女性を描いたんだろうな」と推測できます。

レオニー嬢
マックス・ジャコプ著「聖マトレル」より
1910年(1901年刊)
エッチング
東京国立近代美術館
8月12日までの展示
なお、この時期の作品は「分析的キュビスム」と呼ばれているそうです……ピカソ検定とかがあれば、「青の時代」や「バラの時代」などとともに覚えたほうがいいんでしょうけど、そうじゃなければねぇ。

男の頭部
1912年
エッチング
国立西洋美術館

道化師
1918年
鉛筆/紙
国立西洋美術館 井内コレクションより寄託
4 総合芸術「バレエ・リュス」への参画
1914年に第一次世界大戦が始まりますが、今回は、そこには焦点を当てません。それよりも、2年後の1916年に、バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)の活動に参画したことのほうが、ピカソにとってはエポックだったようです。
バレエ・リュスは、ロシア出身の芸術プロデューサー、セルゲイ・ディアギレフ(1872年 - 1929年)が主宰したバレエ団です。「ロシア・バレエ団」と訳されるため、勘違いしがちですが、中心としていた活動場所はフランスのパリです。また「バレエ」というと、「歌舞伎」のように一部の愛好家だけが楽しむ伝統芸能のようなものを(わたしの場合は)イメージしてしまいますが、バレエ・リュスに関しては、ピカソが参加していたことから類推すると、当時の最先端をいく芸術だったのではないでしょうか。Wikipediaは、「20世紀前半の舞踊・音楽・美術が、バレエ・リュスに結実した」と記しています。ちなみにピカソとは活動時期がギリギリ重なっていないようですが、音楽家のクロード・ドビュッシーも参加していました。
とにもかくにも、ピカソは演目の一つ「パラード」の舞台美術と衣装デザインを担当しました。この1917年の演目が、今展示の解説によれば「スキャンダラスな成功」を収め、ピカソは同バレエ団の中心的な芸術家となっていきます。なお、バレエ・リュスでの活動は約10年間続いたそうです。

1920年12月
国立西洋美術館研究資料センター
左の「LA・DANSE」と大書されているページには、「Aquarelle de Picaso(ピカソの水彩画)」と記されています。この旭日旗に……鉤爪状にはなっていませんが……浮世絵の波のようなデザインは、ピカソが考えたものなんでしょうかね……。
右に展示されているページを読むと、「1920年12月21日のプログラム」とあり、「1 PULCINELLA(道化師) 2 PARADE(パレード) 3 LE TRICORNE(三角帽子)」の3部構成だったことが分かります。その下には、まずは第1部のPULCINELLA(道化師)について詳しく記されています。
「Ballet avec chant en un tableau(第一幕:歌入りのバレエ)」とあるので、わたしがイメージしているようなバレエを鑑賞するものではなく、もっとミュージカルに近い感じだったんでしょうね。「舞台装置・衣装:パブロ・ピカソ」と記されています。
ARGUMENT
Le sujet de Pulcinella est tiré d'un manuscrit trouvé à Naples et datant de l'année 1700, contenant un grand nombre de comédies mettant en scène le personnage traditionnel du théâtre populaire napolitan. L'épisode choisi pour servir de livret au ballet est intitulé: Quatre Polichinelles semblables.
Toutes les jeunes filles du pays sont amoureuses de Pulcinella; les jeunes gens, piqués de jalousie, cherchent à tuer celuici. Au moment où ils croient avoir réalisé leur projet, ils empruntent le costume de Pulcinella pour se présenter à leurs bienaimées. Mais Pulcinella, malin, s'était fait remplacer par un sosie, lequel avait feint de mourir sous les coups de ses ennemis. Pulcinella luimême, s'habille en mage et vient ressusciter son double. Au
moment où les jeunes gens se croyant débarrassés de lui, viennent chercher leurs fiancées, Pulcinella, le véritable, fait son apparition et arrange tous les mariages. Il épouse luimême Pimpinella, sous la bénédiction de son double (Fourbo), lequel prend, à son tour, l'aspect du mage.
La partition de ce ballet est publiée par J.W. CHESTER Ltd, II, Great Marlborough Street, LONDON, W. I.
※※※※あらすじ(和訳)※※※※
『プルチネッラ』の題材は、ナポリで発見された1700年頃の写本から取られており、その中にはナポリ民衆劇の伝統的なプルチネッラを登場させた多数の喜劇が収められている。バレエの台本として選ばれたエピソードは「四人のそっくりなプルチネッラ」と題されたものである。
物語はこうだ。
村中の娘たちは皆プルチネッラに恋をしている。それを妬んだ若者たちは、彼を殺そうと企む。計画がうまくいったと思った若者たちは、プルチネッラの衣装を借りて恋人たちの前に現れる。ところが、賢いプルチネッラはあらかじめ自分そっくりの替え玉を立てており、その替え玉が敵の攻撃を受けて死んだふりをしていたのだった。
本物のプルチネッラは魔法使いに扮し、自分の替え玉を蘇らせる。そして、若者たちが「もう厄介者はいない」と思い込み、娘たちを迎えに行ったその時、本物のプルチネッラが現れ、すべての結婚話をまとめてしまう。彼自身はピンピネッラと結婚し、その式を替え玉(フォルボ)が司祭役となって祝福する。さらにそのフォルボも、今度は魔法使いの姿に変わる。
このバレエの楽譜は、ロンドンの J.W. CHESTER Ltd(11 Great Marlborough Street, London W.1)から出版されている。
あらすじと言ってもよく分かりませんが、Wikipediaに記されているプルチネッラのあらすじにも、似たようなことが書かれているので、上の訳が大きく間違っているわけではなさそうです。
それよりも、先ほどの「第二章 周縁化された人々へのまなざし」の時代に、ピカソは、周縁の人々として「ピエロ」……プルチネッラ……道化師を描いていました。その時の経験が、バレエ団でも役立ったということなんでしょうかね。それともピカソが「次は『プルチネッラ』をテーマとした劇をやろうじゃないか!」と言って、そのとおりになったということなんでしょうか。そこのところは、よく分かりません。
いずれにしても、バレエ・リュスの『プルチネッラ』大ヒットし、様々な場所へ行って上演しました。そうした旅先で描いたのか着想を得たのかした作品が《青い胴着の女》です。描かれているのは、イタリアの民族衣装を着た女性。同展パンフレットには「ピカソがデザインしたバレエの登場人物の衣装とよく似ています」と記しています。


青い胴着の女
1920年
鉛筆・水彩・グアッシュ/紙
国立西洋美術館 松方コレクション


やたらと手が大きくゴツいのが印象的でした。まぁ首も太いし、かなりガッチリとした女性ですよね。
5 オルガ・コクロヴァとの出会いと古典古代への憧憬
第五章は、第一次大戦以降のバレエ・リュスに参加していた頃のピカソ作品です。この頃の彼が、単にキュビスムに取り憑かれていたわけではなかったことが分かる作品が展示されています。
1917年にバレエ・リュスに参画したピカソは、バレエ団で踊り子をしていたオルガ・コクロヴァに手を出します。1918年で結婚するのですが、彼女はピカソのわけのわからない絵を理解できず、「自分を描くのなら、ちゃんとキレイに描いてほしい」と注文していたと言われています。そこでピカソは、コクロヴァの注文に応えるべく、若い頃に習った“ちゃんとした”古典主義風の絵画を描くようになった……とも言われています。今回の展示を観ている時に、同じタイミングで鑑賞していたお母さんが娘に向かって「ピカソは本当は、とても絵が上手だったんだよ」って説明していました。よく聞く言葉ですね。それは、この頃の絵を念頭に語り継がれているんじゃないかと思います。

※今展では展示されていません
出典:Wikipedia

泉
1921年(1929年別り)
ドライポイント・ビュラン
国立西洋美術館

三人の女
1922年
エッチング
国立西洋美術館

三人の浴女
1922-23年
ドライポイント
国立西洋美術館

夜、少女に導かれる盲目のミノタウロス
1934年(1939年刷り)
アクアティント
国立西洋美術館
井内コレクションより寄託
ということで、1回に収めようと思ったのですが、時間がかかりすぎているので、今回は前後半に分けてnoteしたいと思います。『ピカソの人物画』の前編は以上です。近々 後編もnoteしたいと思います。後半は、The Picasso な感じの絵が多くなります。
※後編をnoteしました ↓
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