国立西洋美術館のピカソが大集合! こんなに持ってたのね!?……ピカソの人物画(後編)
先日(8月上旬)、フラッと上野の国立西洋美術館へ行ってきました。『ピカソの人物画』という特集が組まれていると知ったからです。行ってみると、ピカソの展示が「どうだ!!!」と言わんばかりに展示されていました。展示点数は30超! 博物館事情にもピカソ事情にも詳しいわけではありませんが、これだけの数のピカソ作品を所蔵(寄託含む)している美術館って、そんなに多くなんじゃないでしょうか。
ということで、『ピカソの人物画』特集をnoteしていますが、いつものとおり長くなってしまったので前後編に分けてnoteしています。今回はその後編です。もし余裕があれば、前編も見てもらえればと思います。
それでは後編です。
6 親密な肖像……17歳のマリー=テレーズとの出会い
この章の解説は、パパラッチ的な視点で読むと興味深いので、少し長めにパンフレットの文章を引用させていただきます。
1927年、ピカソはパリの街角で当時17歳のマリー=テレーズ・ワルテルと出会います。「きみは面白い顔をしているね。きみの肖像画を描いてみたい。」マリー=テレーズの回想によれば、ピカソは彼女にこう声をかけたといいます。ピカソのアトリエを訪れ、彼のモデルを務めるようになったマリー=テレーズは、ほどなくして画家の愛人となります。妻子のいたピカソは彼女との関係を隠し続けますが……
悪意のある文章に書き換えると……
1927年、パリの街角で、当時45-46歳だったパブロ・ピカソは、まだ17歳の少女マリー=テレーズ・ワルテルに声をかけたのでした。彼女の回想によれば、ピカソは開口一番こう告げたといいます。
「君は面白い顔をしている。肖像を描いてみたい」
その言葉に導かれるように彼女はピカソのアトリエを訪れ、ほどなくしてピカソの“ミューズ”となったのです。だけれど、実際にはそれ以上の関係が始まります。妻と6歳の幼子を抱えた大画家は、未成年の少女とスタジオで密会を重ねました。
今の日本の法律に照らせば、18歳未満の者に対するわいせつ行為ということになるので、合意があっても「不同意わいせつ罪」「強制性交等罪」「準強制性交等罪」などに問われる可能性が高いです。現在のフランスの法律でも、同じような罪に問われます。おそらくは、当時のフランスでも友人などに話せるようなことではなかったかもしれません。
そのためでしょう……ピカソはマリー=テレーズとの関係を隠し続けます。なのですが……キャンバスには彼女の姿が何度も描かれ、「隠された恋」が作品として残されることになるわけです。

1935年、ピカソ(54歳)とマリー=テレーズ(26歳)との間に娘マヤが誕生します。ピカソは妻オルガと以後別居するも、離婚には至りませんでした。そのため彼がマリー=テレーズ母娘と正式に家族になって共に暮らすことはありませんでしたが、彼女たちと定期的に会い、幼い娘の成長の記録を描き留めています。
ということで、マリー・テレーズとの間に生まれた娘……マヤを描いたのが、下の作品です。

画家の娘
1942年(マヤ:7歳頃)
鉛筆/紙
国立西洋美術館
山本英子氏より寄贈
そんなふうにピカソとの関係の始まったマリー=テレーズ・ワルテルですが、1935年に別れています。なぜかと言えば、シュールレアリストの集まりで出会った、写真家のドラ・マール(Dora Maar)との関係が始まったからです。
ちなみに、今回の西美の特集『ピカソの人物画』でも示唆しているとおり、ピカソの画風は、ちょくちょく変わっています。有名なものだと、前編で書いたとおり「青の時代」や「バラの時代」などがありますが……山田五郎さんもですが……ピカソの画風と、ピカソが付き合った女性とを関連付けて考察する人は少なくないようです。↑「青の時代」から「バラの時代」へ至ったのも、最初のミューズ……恋人……フェルナンド・オリヴィエからの影響によるものとする見方もあります……というか、ピカソの絵を、そうして考察する方が主流っぽいですね。それにしても、例えば英字Wikipediaでは、歴代の彼女が、それぞれ解説されていて……日本語は何人か抜けています……そんな画家はほかにいないんじゃないかなと驚きです。
その文脈で言うと……「何々時代」という呼称はしませんが、下の《小さな丸帽子を被った座る女性》は、「ドラ・マール時代」と言ってもいいかもしれません。

小さな丸帽子を被った座る女性
1942年
油彩/カンヴァス
国立西洋美術館
井内コレクションより寄託
ドラ・マールは、先代の彼女……マリー=テレーズ・ワルテルとスタジオで喧嘩になった時に、嫉妬に狂って大泣きしたことで有名です。その、彼女が大泣きしている姿を描いた《泣く女》は、ピカソの代表作の一つとも言えるでしょう。また2人がアトリエで大喧嘩したところ、ピカソがご満悦だったという狂気じみた話も有名ですね。そして、《泣く女》を描くまでに至るインスピレーションを与えてくれたからなのか、その後のメインの恋人はドラ・マールとなります。
マリー=テレーズが去り、ドラ・マールとの関係が本格化した1937年5月に、《ゲルニカ》の制作に取り掛かり、6月中旬に完成させました。ドラ・マールは、その制作過程を写真で記録していったことでも有名です。

とはいえ、今回の《小さな丸帽子を被った座る女性》がドラ・マールをモデルにしていたのかは確証が得られません。いちおうドラ・マールをモデルにしたと、タイトルに記されている2作品を貼付しておきます。どうですかね……。《小さな丸帽子を被った座る女性》は、やたらと指が長くて手が大きいですね。

右:《Dora Maar in an Armchair》1939 出典:MET

女性の胸像
1942年
油彩/板
国立西洋美術館
井内コレクションより寄託
こちらの絵は、《女性の胸像》というタイトルから、まぁ女性を描いたものなんだろうなぁというのは分かります。ただ、誰がモデルだったのかは記されていません。そこで今回はChatGPTとPerplexityの2人に「誰がモデルなの?」と意見を聞いてみました。すると2人とも「ドラ・マールの可能性が高いです」と言います。ほんとかよ?
この2人の生成AIの中でわたしがより信頼しているのはPerplexityの方です(翻訳はChatGPTのほうが良い気がします)。そこで彼の分析を載せておきます。あくまで生成AIくんの話なので、話半分以下で聞いて下さい。
この作品は、ピカソによる「女性の横顔(Woman in Profile)」に分類される絵画で、モデルはピカソの愛人でありミューズだったドラ・マール(Dora Maar)と考えられます。
理由は:
・このくっきりとした角ばったフォルムや冷たい色使いは、ピカソが1936年以降ドラ・マールを描いた作品の特徴。
・マリー=テレーズ・ワルテルを描いた時期は、より柔らかく曲線的で、甘美な色調が多かった。
・フランソワーズ・ジローを描いた1940年代後半はもっと軽快で明るさがある。
この絵のように濃い陰影と幾何学的な処理をされている横顔は、特に1937~38年頃、ピカソがドラ・マールを題材にしてよく描いたスタイルに一致します。したがって、この作品のモデルはおそらく ドラ・マール です。

↑上の《女性の胸像》の髪の毛を見ていたら「葉っぱの葉脈のような線が入っているなぁ」と思いました。思ったものの、特に気にすることもなく、いまは次の絵を見始めています……↓ 下の《ヘアネットの女性》です。
《ヘアネットの女性》のモデルはフランソワーズ・ジロー(Françoise Gilot)です。ピカソと出会ったのは、彼が約61歳の1943年。彼女は21歳の画学生でした。1946年にピカソは「若々しい活力と絵画への情熱に満ち溢れたフランソワーズを“成長する植物”とみなし、彼女の肖像を花に見立てて描」いたそうです。それがどの絵なのか分かりませんが、西美の解説には、こうも書かれていました。ピカソは、アンリ・マティスの「フランソワーズの肖像を描くとしたら髪の色は緑にする」という提案に触発されて、「彼女の髪を大きな緑の葉に変説」させたと。
解説では、やや唐突な感じでアンリ・マティスが登場しますけど……ピカソとマティスはお友達というか親友って言えるほどの仲だったっぽいです。「時には2人の巨匠の橋渡し役として、時には緩衝材として、2人の友情と生活を最も近くで感じていた」と、DVD『マティスとピカソ 二人の芸術家の対話』のPR文に記されています。※このDVD、見てみたいなぁ。
まぁそんなこんなでマティスはピカソに、「僕がフランソワーズを描くとしたら、髪は緑色にするだろうなぁ」とポツリと語った……のかもしれません。
そして1949年に描いたのが、この《ヘアネットの女性》です。ピカソはここでも、髪を鮮やかな緑色にし、植物的なアラベスク模様を施したのです。

ヘアネットの女性
1949年
カラー・リトグラフ
国立西洋美術館
井内コレクションより寄託
《ヘアネットの女性》の絵について書きながら、先ほどの《女性の胸像》が気になって仕方ないです。2つの絵が共通するのは……単にわたしの見解ですが……どちらも髪の毛が葉っぱというか植物的です。そして《女性の胸像》が描かれた1942年は、まだフランソワーズ・ジローに出会う前で、ピカソの恋人はドラ・マールでした。モデルは当然フランソワーズ・ジローではないわけで、髪の毛が植物的に描かれた女性も、フランソワーズ・ジローが初めてではないということ……か。

気になったのは、この首や肩にかけての三角の形です。「なんか、こういう山を描いていた画家がいたよなぁ……」と。結果的に、全く異なる形だったのですが……その画家と作品は、パウル・クレーの《パルナッソスへ(Ad Parnassum)》です。パルナッソスとはギリシャ神話で、アポロンとミューズの居住地とされている山。その山には9人(柱)のミューズが住んでいたとされ、そのギリシャ神話におけるミューズとは、文芸・学術・音楽・舞踏などを司る女神たちの総称です。
結局、パウル・クレーが1932年に描いた《パルナッソスへ(Ad Parnassum)》の山と、1942年にピカソが《女性の胸像》の中に描いた三角形は、似ているとは言い切れないのですが……もしこの三角形がパルナッソスだったとしたら、《女性の胸像》でピカソが描いたのは、特定の誰かではなく、ピカソが感覚的に捉えた普遍的な女性像……ミューズなのかもなと。
また、ピカソは女性に植物的な何かを感じていたのかもしれないなと。そして数年後に、若いフランソワーズ・ジローと出会い「あぁ、この子こそが私が考えているミューズ像に最も近い」と感じ(まぁ新しい誰かと出会うたびにピカソは、彼女こそ理想のミューズだと思い込み、思い込むことでインスピレーションを得て、自分の画風を変えていったんだろうなと……)、そして彼のなかの最先端のミューズとして描かれた、植物的な女性像が《ヘアネットの女性》などジローをモデルに据えた作品群だったのかも……と。自分でも何を書いているのか分かりませんが……。
次の1952年に描かれた《窓辺の女性(Woman at the Window)》もまた、その制作時期からすると、モデルは「フランソワーズ・ジロー(Françoise Gilot)」が最有力候補と言えるでしょう。相変わらずヘンテコな画法ですけど、なんとなく《ヘアネットの女性》と似ているような気がしてくるから不思議です。ただしこの作品では、アフリカの影響が色濃いように感じます。

1952年
アクアティント
国立西洋美術館(井内コレクションより寄託)
下の《赤い胴着(The Red Bodice)》が描かれた1953年、ピカソのプライベートは、また変革期にありました。約10年続いた約32歳のフランソワーズ・ジロー(Françoise Gilot)に、約72歳のピカソは振られてしまいます。ざまーみろ! と言いたいところですが……。
歴代の愛人でピカソを振ったのは、このフランソワーズ・ジローだけだったと言われています。たしか山田五郎さんはYouTube番組のピカソ回で「唯一、ピカソから生還した女性」と表現していた記憶があります。
ただ……フランソワーズ・ジローが出ていった同じ1953年には、最後のミューズとなる当時26歳のジャクリーヌ・ロック(Jacqueline Roque)を見初め、猛アタックしていました。
つまり《赤い胴着(The Red Bodice)》は、2人の女声の入れ替え時期に描かれているため、後に2人めの妻になる、新愛人のジャクリーヌ・ロック(Jacqueline Roque)だとは言いにくく、フランソワーズ・ジロー(Françoise Gilot)だった可能性もあるわけです。ただ、わたしの直感では新しい彼女であるジャクリーヌ・ロックだったんじゃないかと思います。間違っていても謝りませんけどね。そんな気がするだけですから。

1953 年
油彩/カンヴァス
国立西洋美術館(井内コレクションより寄託)
それよりもこの絵が、親友のアンリ・マティスの影響が色濃くはないか? と感じています。どこが!? って言われれば、色使いというか色の塗り方がです。
さすがの天才ピカソも、だんだんとアイデアが枯渇してきたのかもしれません……なんて、ピカソのことを知らないため、勝手なことを書かせてもらっていますし、アンリ・マティスの影響じゃね? って感じてしまう作品はこの後にも続きます(ちなみにわたしが勝手に感じているだけで、解説パネルに書いてあったとか、専門家の誰かが言っているのを聞いたとかではないです)。

次の《女性の肖像 (クラーナハ(子)に基づく)》という作品は、ピカソっぽさが薄れています。それもそのはずで、これは1564年にドイツ・ルネサンスの画家ルカス・クラーナハ(子)が描いた《女性の肖像》を、ピカソがアレンジしたものだからです。とはいえ、原画と見比べてみると、やはりピカソ色が強いなと思わされます。

女性の肖像 (クラーナハ(子)に基づく)
1958年
リノカット
国立西洋美術館 井内コレクションより寄託
下にルカス・クラーナハ(子)の絵と並べた写真を貼付しました。西美の解説では「左右は反転しているものの、構図や女性の煌びやかな宝飾品の描写は原図にほぼ忠実な一方、頭部には横顔と正面向きの顔を組み合わせるピカソ特有の表現が見られます」と記されています。
そのピカソのアレンジを見ると、こちらもアフリカなのか、とにかく西欧美術ではない何かを取り込んでいますよね。

右がルカス・クラーナハ(子)
それにしても、この作品の解説パネルを見ると「リノカット」と書かれています。リノカットってなんだろう? とググってみたところ、noteが表示されました。読んでみると、この方はアーティストのようです。リノカットについてとても詳細が説明されているので、興味のある方は読んでみると良いでしょう。
そしてリノカット(Linocut)とは、リノリウム……床材としてよく聞く言葉ですね……そのリノリウムを使った版画のようです(床材とは少し異なるようですけどね)。そのリノリウムをカットしているから、リノカットなんでしょうか? とにかく版画ですね。調べてみるとピカソは多くの版画作品も残しているようです。間近で見ても「版画」という感じはしませんでしたが、こうしてみると、精緻な版画を彫っていたんですね。

そして次はクレヨンで描いた作品です。青や緑などがメインで使われていますが、女性が泣いているようにも見える絵なので、あまり明るい感じではありません。

頭部
1962年
クレヨン/紙
国立西洋美術館
井内コレクションより寄託
解説パネルによれば「本作は、1962年1月9日にクレヨンの鮮やかな色彩で頭部を表した4枚の素描の一つ」なのだそうです。ピカソが80歳のときの作品ですね。
そういえば1953年からは、ジャクリーヌ・ロック(Jacqueline Roque)という女性が、ピカソの恋人になっています。ピカソは70過ぎ……古希(こき)ですよ。この時に、なかなか落ちない彼女に、絵や花をプレゼントと猛アタックだったそうです。もしかすると長寿の秘訣かもしれません。
ということで、ここからはピカソの「ジャクリーヌ・ロック」時代なのですが、ジャクリーヌ・ロックと付き合い始めた翌年の1954年11月3日に、親友のアンリ・マティスが亡くなりました。享年84歳。ピカソが73歳の時です。
そして次の作品は1960年と1965年に描かれた作品です。ピカソは1973年に亡くなるので、両作品は彼の最後の10年に描かれた……最晩年の作品と言えます。

左:アトリエのモデル 1965年
わたしは、なんとなくですがピカソの親友だったアンリ・マティスの影響が強いなぁと感じました。晩年のマティスは、鮮やかな色彩表現から脱していたような記憶がありますが、若い頃のマティスの色使いって、こんな感じじゃなかったかなと。
だって、例えば右の《横たわる女》などは、背景の壁面が赤で、床面が緑です。ピカソのアトリエって、こんなに色彩豊かな……住んでいたら発狂しそうな色使いだったのか? そんなことはないと思うんです。
あと、横たわっているモデルの女性が、土偶とか埴輪みたいだなとも。おそらくアフリカ彫刻の影響なんだろうと思いますが……。

横たわる女
1960年
油彩/カンヴァス
国立西洋美術館 梅原龍三郎氏より寄贈
左側に飾ってあった《アトリエのモデル》も、抽象っぽさが和らいで、ちゃんと「女性だな」って分かりますね。ただこちらも、手や足などを異常に大きく表現する描き方です。

アトリエのモデル
1965年
油彩/カンヴァス
国立西洋美術館
梅原龍三郎氏より寄贈

ピカソが81歳の時には、キュビスムをともに試行錯誤したジョルジョ・ブラックが亡くなった……享年81歳。ブラックの作品も、国立西洋美術館だったか国立東京近代美術館だったか……どちらか覚えていないが、精力的に収集している印象があります。筆者にとっては、西洋美術の中では、よく見かける絵描きさん。
そのジョルジョ・ブラックが亡くなった翌年の1964年5月に、パリのマーグ画廊が発行する美術雑誌「デリエール・ル・ミロワール」は、ジョルジョ・ブラックを追悼する特集号を組んだそう。下のリトグラフ(版画の一種)は、ピカソが同誌に掲載するために描いた一作。

ジョルジュ・ブラックへのオマージュ 『デリエール・ル・ミロワール』 第144-145-146号より
1964年(1964年5月刊)
リトグラフ
国立西洋美術館研究資料センター
西美の解説では、「目を閉じ、微笑みを浮かべて横たわる裸婦を描いていますが、ベッドの上で黒猫を伴うその姿は、ピカソが敬愛したエドゥアール・マネの代表作(オランピア)(1863年、オルセー美術館)を彷彿とさせます」と、記しています。
たしかにピカソはマネ先輩を敬愛していたかもしれませんが、なぜジョルジョ・ブラックを追悼するための作品が、マネ先輩のオマージュだったんですかね?

東京富士美術館
それはともかく、リトグラフの上部には、ピカソがジョルジョ・ブラックへ語りかけるような、次の一文が記されているそうです(西美の解説より)。単に女性の好みについて記しているのか、それとも芸術について、なにかを隠喩しているんでしょうか。
「ブラック、随分昔のことだが、いわゆる古典的な美しさを持った、僕自身はとても美人だと思っていた女の子と散歩している時に、君とばったり出くわした。その時君はこう言ったね、『恋愛においては、君はまだ巨匠たちの影響から十分に抜け出せていないね」と。とにかく、今も相変わらず君にこう言えるよ。君を愛している、そして分かるだろう、僕はいまだに抜け出せないでいるよ」
いよいよ最後から2作目になります。下の作品はピカソが86歳のときに描いた……エッチング・ドライポイントってなんでしょうね……版画みたいなもののようです。

1968年5月16日 VI
1968年
エッチング・ドライポイント
国立西洋美術館
山本英子氏より寄贈


そして今回の特集に展示されている作品の中で、最も新しい作品が、1969年……ピカソが87-88歳の時に描いた《男と女》でした。亡くなる5-6年前の作品ですね。

男と女
1969年
油彩/カンヴァス
国立西洋美術館
梅原龍三郎氏より寄贈

以上で、国立西洋美術館で開催されている『ピカソの人物画』特集に関する、わたしのnoteは終わりです。同特集の展示作品数は、33-34点だった記憶があります。前後編に分けましたが、そのほとんどをnoteしました。展示品のすべてを写真に撮って、こうしてブログにアップする行為って、あまり好きではないのですが……今回は、貴重な機会だし、こうして蔵出しみたいにピカソの人物画のみを一気に展示する機会は、まぁ今後もあるでしょうけど、それほど頻繁ではないかなぁと。
また、若い頃からの作品を時系列に追っていくと、わたしが苦手としているピカソの何かが分かる気もしました。結局、無類の女好きだったことくらいしか掴めませんでしたが……妻や愛人とした個々の女性たちが持つ個性やキャラクターを利用して、絵の新たな領域を開拓していったことだけは感じ取れた気がします。
この特集は10月5日まで開催されます。たった500円……学生なら250円……で見られるので、上野に散歩しにいく機会があれば、立ち寄ってみるのも良いかと思います。おすすめは、今日のこれから……17時以降ですけどね。
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