石倉三郎、 東映三年の意味。
石倉三郎、
東映三年の意味。
(かつて非正規雇用は守られていた、という話)
「サブちゃん、喧嘩が好きなの」
健さんが、青山通りのスーパーでバイトをしていた石倉三郎を手まねで呼び寄せ聞いた。
(おーい、待てよ、健さんがどうして俺の名前を知っているの)
スーパーは青山のユアーズで、健さんとは高倉健で、スーパーの横の路地にある喫茶店の中でのことだ。
「どうしてって、サブちゃん、いつも赤タン青タンふかしてるじゃないの」
「…いやあ、違うんですよ」
(説明しようがないなあ。まいったなあ)
でも、なんとか説明をした。閉店間際のユアーズにどっと押しかけてくる客を押し戻して店を閉じるのだが、毎夜、もみ合いになる。押し返すと、
「野郎たち、裏の駐車場で待ってるしな」
まわりを逃しておいて一人でやるから、どうしても赤タン青タンになる。
(というわけなんですよ、)
「健さん、その子はねぇ、役者になりたくてバイトをしているのよ」
説明が終わりかけると、ママが遠くから声をかけてくれた。
(余計なことすんなよ)
と思ったが、それだけでもなくうれしさもあった。自分の名前を知っている理由もわかったし、
「サブちゃん、サブちゃん」
とママがいつも大きな声をかけてくれていた。それを聞いていた。
健さんの紹介で、石倉三郎は東映・大泉に入った。当然のことながら、大部屋だった。
来る日も来る日も、通行人でセリフはまったくない。それでも、
「健さんの紹介だから、みっともないことはできねぇよな」
という気持ちでいつも一杯だった。
「おい、お前うるせえな、名前変えろ名前」
ほぼ毎日のように、
「石原さん、お電話でーす」
と所内放送が流される。二度三度の時もある。
(あれー、また俺の名前だよ)
本名、石原三郎の石倉三郎はその都度、
(まさか俺じゃないよな)
と思いながらも総務まで行く。総務の役職の人が石原という名前だった。
「だから面倒なんだよ、わかんねぇのかバカヤロー。変えろっていうんだ。早くしろ」
「芸名ですか」
「いいから、早く決めろ。バカヤロー」
とっさに高倉健の1文字、倉をとって石倉三郎とした。
ほぼなにもなく、まったく台詞もなく東映暮らしは三年経った。
三年経つと、専属になる。専属とは、専属の社員になることだ。社員になれば給料もでる。生活も安定する。
「ふーっ」
石倉三郎、大きく息をした。
「こんなことで納得しちゃあいけないよな」
とも思ったという。石倉三郎は、健さんに挨拶に行った。
「これで新しいことをやってみようと思うのです」
「サブちゃん、お前なあ、暴力はなあ」
揉め事を起こしていることも知っていた。
「そーかー、そこからは辛いぞ」
健さんは答えた。石倉は、東映の社員にならずに退社した。1972(昭和47年)のことだった。
ここで石倉三郎が社員になっていれば、香川県小豆島出身の青年が東京に定着する話しとしてまとまるのだろうが、ぼくはこの「三年」という区切りがとても気になった。
「三年」て何かあるぞ、という疑問。
実際のところ、
「三年で社員とは…東映という会社はとてもいい会社だなあ」
そう思った人は多いだろう。中には、
「あ、そう」
と通り過ぎってしまう人もいるだろう。いや、こっちの方が多いのかな。
この三年が、当時の非正規をめぐる労働事情の核になる言葉だということを、ぼくはなんとか思い出した。だって、迂闊なことだがぼくも三年の当事者でもあったのだ。
当時の非正規は、嘱託とか(新しい呼び方で)契約社員と呼ばれていた。
この雇う方にやけに都合のいい雇用形態は、役所から常に勧告される「よくない」カタチだった。だから勧告されていて、その勧告とは、
「長い期間、同じ業務を続ける人は、一定期間で社員とされなければならない」
というもので、その目安は三年だった。三年という期間は法に明記されるものではなく、いくつかの判例の中から導き出された答えだった。
大手の会社は、この労働協約の標準に沿って「三年で社員」を実行していた。特に東映が良い会社というのではなく労働慣習に沿った会社だったのにすぎない。
しかし、法律の話しが出ると、途端に文章の中に漢字が多くなる。
よくない、情けないなあ。
ぼくの例。
ぼくは学校を出て、コピーライターを目指した。相当に大きな代理店(業界3位)に勤めることになった。
「鉛筆で食っていきたい」という子供の頃からの夢の端っことしてはじめたのだが、コピーライターという専門職で、まだ志望者というにすぎない半人前のライターの身分は、契約社員ということになる。
ぼくの勤めた代理店は朝日新聞の系列だった。
だからだと思う、雇用についてはとてもお行儀の良い会社で「三年で社員」をきっちり実行していた。ぼくは、
「おい、契約をどうする」
と催促にきた製作部長に
「いまのままで、いいです」と伝えた。部長は、あきれていた。
あの時のことを思い出せば、
「こんなことで納得しちゃあいけないよな」
と思った石倉三郎と同じだった気がする。ぼくも、石倉三郎も、(健さんも)
「不器用ですから」
ということだったのだろう。
実のところぼくの思い入れを書いたところでさほどの意味はない。
日本の国はきちんとした国だった、ということが本題になる。非正規を会社の都合で「使い放し」にしておくなんてできない社会だった。会社というのは、人間に対し実に多くの義務を課せられていた。
「小泉・広中政治」が生み出したものは、会社を営利集団にするためだけのもので、いまとなれば浅はかな変更に過ぎなかった。くだらないにもほどがある。
その後、ぼくも、石倉三郎も、冒険に飛び出して行った。
だがね、その冒険も、(自分とは関係なくとも)大きな安定が背後にあることで生まれていくものではないだろうか。
国際競争力ために、というのが(非正規雇用が緩和された)当時、さかんに言われた言葉だが
「大笑いさせるんじゃないよ」
労働力不足で、大きなリクルート・コストをかけ、外国人雇用が叫ばれているいま、国際競争力ためになにが非正規雇用だと言うんだ。
まったく「無い物ねだりの子守唄」、じゃあるまいし。
労働力を大事にする社会にしないと、日本の「繁栄」というより「幸福」はやってこない気がする。「三年で社員」を主張するのは、いまなんだろうと思う。大人は、その動きに後押しをするべきだ。
このままでは青年の目指す冒険はちっぽけになり、ぼくも、石倉三郎も、(いまを生きれば)人生の早いうちに座礁してしまうことになるだろう。
石倉サブちゃんのあの三年は、非正規の三年で、日本人のよき時代を伝える三年で、貴重なものだった。と言うことになる。
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