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高野山巡礼⑤高野七弁天に隠された空海の智慧と水神信仰──なぜ宇賀神なのか?

@Ricoです。

高野山シリーズ第五弾。前回のお助け地蔵尊への御礼参拝を終え、いよいよ次なるミッション「高野七弁天めぐり」に出発します。

なぜ、この弁天さまめぐりを決行しようと思ったのか。

それは、弘法大師空海と「水」の深い繋がりを辿る旅でもあったのです。
そして、調べていくうちに見えてきた驚きの事実──高野七弁天は、私たちが今イメージする「弁財天」の姿ではなかったのです。

今回の記事では、高野七弁天すべてを巡った記録とともに、なぜ高野山で宇賀神が祀られるようになったのか、その歴史的背景を紐解いていきたいと思います。

高野七弁天とは何か──弘法大師が開いた水の聖地

弘法大師さまは『高野山四至敬白文(こうやさんしじけいびゃくもん)』の中で、高野山のことをこう表現されています。

「山の状(かたち)為(た)らく、
 東西は龍の臥(ふ)せるがごとくして東流(とうりゅう)の水有り」

「東流の水有り」とは、山内を流れる御殿川(おどがわ)のこと。西の端にある弁天岳を源流とし、東へと流れています。

高野七弁天は、御殿川の源流である弁天岳の山頂に祀られているのをはじめ、そこから延びる尾根や支流など、山上の重要な水源となる七ヶ所に小祠が祀られています。つまり「水の源」を重視して弁財天さまをお祀りされたのです。

地図で見ると、七つの弁天社が壇上伽藍を囲むように配されています。

今は地下水脈になっていますが、かつてはこの七つの水源からの水の流れが壇上伽藍の辺りで合流し、御殿川となっていました。七弁天を結ぶと龍の姿になるとも言われており、まさに「龍の臥せるがごとく」という表現そのものです。

豊かな生活のためには何よりも水の継続的な確保が必須です。山上に広がる高野山は、古くから苦心しながらも多数の水源を確保してきた歴史があります。弘法大師さまは、その水源を守護する存在として弁天さまをお祀りされたのです。

高野七弁天とは以下の七社です。

🔹嶽(だけの)弁財天社
🔹祓川(はらいかわ)弁財天社
🔹湯屋谷(ゆやだに)弁財天社
🔹首途(かどで・剣先〈けんさき〉)弁財天社
🔹尾先(おさき)弁財天社
🔹綱引(つなひき・船引〈ふなひき〉)弁財天社
🔹丸山(まるやま・圓山)弁財天社

嶽弁財天社以外はすべて街中に祠があるので、短時間での滞在であっても七弁天めぐりはスムーズに楽しめます。ただし、嶽弁財天社だけは弁天岳の山頂にあるため、約20分の登山が必要になります。

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「弁財天」ではなかった?──空海以前の水神信仰

ここで、ひとつの重要な事実を最初にお伝えしておきます。

高野七弁天は、弘仁7年(816年)に始まった空海の高野山開創に伴ってつくられたと伝えられています。しかし、いくつかの弁天社については、それより古い歴史を持っている可能性があるのです。

空海の開創以前から、高野山に近い「天野の里」には丹生都比売神への信仰がありました。

実はこの丹生都比売神も「水銀採掘の守り神」であると同時に「水の神」でもあり、水源がある峰々は山岳信仰の対象となっていました。
よって、いくつかの水源に、社のようなものが建っていた可能性は十分にあります。

高野山の開創では、伽藍を建設するための木材も、水の神が育んだ森から伐採することになります。その木材など様々な物資の運搬には、川も使います。そうしたことをする前に、先住の神々にしっかり根回しをしておかなければ、どんな祟りがあるかわかりません。

さらには、丹生都比売神を信仰する丹生氏などの地元の人々が、満足する形で開発をすすめる必要もあります。空海が高野山を開創する際に丹生都比売神から神領を譲り受けたという伝承も、こうした背景があってこそ生まれたものでしょう。

そこで空海は、特に壇上伽藍の周囲に住む「水の神」を弁才天と一体化させて密教の神に昇華し、立派な「弁天社」を建てて敬うことにしたのです。

高野山の開創と並行して進められていた東寺五重塔の建設に伴って、空海が稲荷信仰の普及に協力したのと同じ構図です。

稲荷山の神を仏教の守護神として取り込み、共存の道を選んだのと同様に、高野山でも地元の水神信仰を密教に取り込んでいったのです。

高野七弁天は、高野山にとって新参者だった空海が、地元の人々や神々との摩擦を起こすことなく新しい宗教都市を築くために考えた、努力と工夫の証だったと考えられます。

この事実を知った時、空海さまの智慧の深さに、あらためて感動しました。単に密教を広めるだけでなく、その土地の歴史や信仰を尊重し、共存の道を選ばれた。
それこそが真の「弘法利生」──仏法を弘め、衆生を利するということなのではないでしょうか。

なぜ宇賀神と高野山が結びついたのか

さらに興味深いのは、現在の高野七弁天のご神体のほとんどが「宇賀神」もしくは「宇賀弁才天」であるということです。

宇賀弁才天とは、弁才天の頭上に人頭蛇身の宇賀神をいただく姿の神仏習合像です。
頭上に鳥居を戴き、八臂(八本の腕)で武器や宝珠、鍵などを持つ姿が特徴となっています。

しかし、歴史的なタイムラインを見ていくと、以下のような事実が分かります。

この宇賀弁才天という信仰形態は、空海の時代には存在しませんでした。

弁才天と宇賀神の習合は、鎌倉時代後半に琵琶湖の竹生島で発祥したとされています。比叡山・延暦寺(天台宗)の教学に取り入れられ、そこから各地に広まっていきました。

そして、この習合に関する記述は、インド・中国の経典には一切見られません。日本で撰述された「偽経」にのみ記されている、まさに日本独自の神仏習合の形なのです。

では、なぜ高野山で宇賀神が祀られるようになったのでしょうか。

宇賀神の「宇賀」は、日本神話に登場する宇迦之御魂神(うかのみたま)に由来するとされ、穀霊神・福徳神として民間で信仰されていました。

その姿は人頭蛇身でとぐろを巻く形です。蛇神・龍神の化身ともされます。

そして、高野山と蛇には深い縁があります。

首途弁天社のある場所には、かつて大蛇(または龍)が住んでいて、その蛇が頭を出していたことから「首途」と表記されたとも言われています。
また、壇上伽藍の東には「蛇腹道」という道もあり、奥の院には「弘法大師の蛇退治」の伝説も残っています。

<弘法大師の蛇退治伝説>
・伝承では、かつて高野山に大蛇のような毒蛇がいて、参詣人に害をなしていたとされる。
・それを聞いた弘法大師空海が嘆き、竹箒でその大蛇を封じ込めた。
・その際、大師は「再び竹箒を使う時代になれば封じたものを解く」と約した、とも伝えられる。
・奥の院周辺には「蛇柳(じゃやなぎ)」の名が残り、現地案内板の趣旨として「大師が三密の加持力で蛇を封じ、柳となした」と伝えられる。

日本には縄文時代から蛇を崇める信仰がありました。蛇は湿地に生息することから、水神とされてきたのです。
脱皮を繰り返す姿は死と再生の象徴でもあり、恩恵と脅威の二面性を持つ自然の象徴でもありました。

つまり、空海の時代には地元の「水神」「蛇神」として祀られていたものが、中世になって天台宗の教学を通じて宇賀神・弁才天信仰と習合し、現在私たちが見る「宇賀弁才天」の姿になった──これが高野七弁天の変遷なのです。

水神から弁才天へ、そして宇賀弁才天へ。

この変遷を知ると、高野七弁天をめぐる旅が、単なる「弁天さま参り」ではなく、日本の神仏習合の歴史をたどる旅になります。

一社目:湯屋谷弁財天社

お助け地蔵尊への御礼参拝を終え、宿坊に荷物を預けてから、いよいよ高野七弁天めぐりのスタートです。

まずは壇上伽藍の西側に位置する「湯屋谷弁財天社」へ向かいました。
※扁額は「湯谷」とあります。

信号機のすぐ隣にある鳥居をくぐると、境内はかなり広い空間が広がっていました。想像していたよりもずっと開放的な場所です。
周囲は木々に囲まれ、静謐な空気が漂っています。

ご神体は八臂で頭上に鳥居と宇賀神をいただく宇賀弁才天さまと言われています。入り口には三町の碑があり、目印になります。

ここでご挨拶としてお唱えをさせていただきました。
静かな境内で誰もいない空間で、弁天さまと向き合う時間。
高野七弁天めぐりの最初の一歩を踏み出せたことに、感謝の気持ちが湧いてきました。

「湯屋谷」という名前は、かつてこの辺りに僧侶のための湯屋(お風呂)があったことに由来するそうです。水が豊富だからこそ、湯屋を設けることができたのでしょう。

二社目:祓川弁財天社

続いて、大門方面へ2〜3分ほど歩くと「祓川弁財天社」に到着しました。

西院地区の児童公園を望む山の中腹に鎮座しています。
弁天池があり、弁天橋の先の鳥居をくぐって山の上へと登らせていただきます。水源の近くにお祀りされているという、高野七弁天の本来の意味を感じさせる場所です。

ご神体は頭上に宇賀神をいただく八臂の宇賀弁才天さまです。

お社の左には正一位鏡稲荷大明神と正一位稲荷大明神が合祀された社、さらに正一位玉房稲荷大明神を祀る社もありました。

稲荷さまと弁天さまが隣り合う姿に、宇賀神と稲荷神の深い繋がりを感じます。(宇賀神の「宇賀」が宇迦之御魂神に由来するという説)
稲荷信仰と弁天信仰が、「宇賀」という言葉を通じて結びついている。日本の神仏習合の奥深さを、あらためて感じる瞬間でした。

「祓川」という名前には、「祓い」の意味が込められています。水で穢れを祓う──日本人にとって、水は清めの象徴でもあります。

三社目:嶽弁財天社への道──弁天岳登拝

そして、いよいよ大門脇の「嶽弁財天社」へ向かいます。

大門の脇に立つ鳥居には「登山道」の文字。結構険しいのかな?と思いながらも、鳥居の前で深く一礼して出発しました。

鳥居をくぐり、また鳥居、また鳥居──。
連なる朱色の鳥居をくぐっていくと、神さまとの距離がちょっぴり近くなったような気がします。朱色の鳥居が山道に続いていく光景は、まさに聖域への入口という雰囲気でした。

途中には「高野七口女人道 大門口」の標識がありました。

かつて女人禁制だった時代、女性たちは各入口に建てられた女人堂に籠り、女人堂から女人堂へと八葉蓮華の峰々を辿りました。今まさにその女人道の一部を歩いているのです。
当時から続く女性たちの祈りの道を、私もまた歩いている──そう思うと、足取りが自然と丁寧になりました。

しばらく歩くと、壇上伽藍の根本大塔が小さく見えてきました。お日さまと高野の山々、雲の隙間から照らされる光が神々しい。
高野山の全景を見渡せる場所に出た時の感動は、言葉では言い表せないものがありました。

大門脇から歩くこと約20分、ついに弁天岳山頂(標高984m)に到着しました。

木立に囲まれた小さな弁天社が嶽弁財天社です。

『紀伊続風土記』によると、弘法大師が天河大辨財天社(奈良県天川村)から勧請し、天河弁財天社での千日参籠で使った宝珠をこの山に埋めたと伝えられています。天河大辨財天社といえば、日本三大弁財天のひとつに数えられる由緒ある神社です。

なんとも言えない空気感がこのまわりを包んでいます。木立に囲まれた静寂の中、風の音だけが聞こえてきます。

持参したお酒をお供えし、今回高野七弁天まいりをさせていただいていること、いろいろの約束のこと、一年ぶりに高野山に足を運べてありがたいと感じていることをお伝えしました。

お唱えをしていると、強く強く、いま歩んできた道のりを踏みしめるような声になります。
お唱えの最中と最後にご真言をお伝えした後、左斜め上からふわぁっと光のようなものがきて──「失礼にならずにご挨拶できたかな」と感じました。

こちら嶽弁財天社が、天河大辨財天社さんから勧請された弁天さまだったと知った時、いつか天河さんにもうかがう準備ができたような、そんな想いになりました。

この翌年に天河大弁財天社さんへ伺ってますね!

かつて「岳の一本杉」という大木がそびえ、そこには妙音坊という天狗が棲み、社を守ったという伝承も残っています。弁才天は音楽の神でもあり、「妙音」という名の天狗が守護していたというのは、なんとも趣深いエピソードです。

女人道を歩いて女人堂へ

嶽弁財天社から、元来た道を戻るか、さらに先に進むか。

もちろん、先に進みます。

女人道を歩きながら女人堂方面へ。
美しい雲海の光の世界を発見しながら、弁天岳の頂上から歩くこと約15分、道路が見えてきました。

女人堂に到着。ここは高野七口のうち唯一残る女人堂です。

かつて女人禁制だった時代、女性たちが御廟を拝みたいと峰々を辿った道の途中に、この女人堂はあります。女性たちの祈りの歴史が、この建物には刻まれているのです。

堂内に掲げられた三つのご真言を見ると、大日如来さま、弁財天さま、役行者さまがお祀りされていることが分かります。
神変大菩薩(役行者)さまのご真言を、女人堂の方と一緒にお唱えさせていただくことができました。これは予想していなかった、嬉しい出来事でした。

すぐ近くには「お竹地蔵尊さま」。江戸時代、「横山たけ」さんが亡き夫の供養のために高野山に登山し、女人堂へ参籠している時に夢に地蔵菩薩さまが現れたことで、この仏像の建立に繋がったのだそうです。

四社目:綱引弁財天社

金剛峯寺さんで拝観を終え、翌日のスケジュールを考えて、夕方にも弁天さま巡りを続けました。

金剛峯寺さんのお隣、南都銀行高野山支店の左脇に鎮座しているのが「綱引(船引)弁財天社」。
すぐ隣すぎて、通り過ぎるところでした。立て札がなければ見逃していたかもしれません。

由来には
「弘法大師が高野山御開創の時、その繁栄を祈って山内七ヶ所に祀られた弁才天の一つ。各々水源の位置に当たるといわれ、水に由来した綱引(または船引)と名づけられた。これを祈れば、福徳と智慧を得る」
と記されています。

ご神体は蛇体に女人の顔の宇賀神さま。まさに、先ほど解説した宇賀神そのものの姿です。

昔、高野山が食料に窮乏していた時、弁財天が宝船を引いて降臨し、人々に食料を与えたとされ、そのため「高福」になったとして、かつてこの地にあった高福院の名前の由来にもなったといわれています。
「高福」という言葉に、弁財天さまの福徳のお力を感じます。

五社目:剣先弁財天社

翌日、蓮花院さんの奥に位置する「剣先弁財天社」へ向かいました。

弁天岳から続く尾根の先端に位置し、お大師さまが著した『高野山四至敬白文』に「東に龍の伏せるがごとくして東流の水有り」と表現されている、まさにその龍が臥している形に例えられる尾根にあります。

ご神体は二臂の女尊で、右手に如意宝珠、左手に太鼓を持ち、剣を背負うという珍しい御姿。他の弁天社のご神体とはまた違った姿です。
八臂の宇賀弁才天ではなく、二臂の女尊というのは、この弁天社の独自性を感じさせます。

扉が閉まっていましたが、開けてお参りさせていただくことができました。風がしっとりとして、優しい雰囲気のするお社でした。

龍の臥せる尾根の先端──そう思うと、この場所が持つ意味の深さを感じます。

そして、この剣先弁天社を遠くから拝めるように設けられた遥拝所が
「尾先弁天社」(一乗院山門脇)です。
こちらにも参拝させていただきました。

六社目:圓山弁財天社

奥の院での参拝を終え、高野七弁天めぐりのラストスパート。

六社目は「圓山(丸山)弁財天社」。
今回、こちらの場所が一番発見しにくかったです。

金剛三昧院の門柱近くの民家の脇に参道がある──という情報を頼りにキョロキョロと360度見渡すと、本当に民家の間に入り口がありました。これは知らないと絶対に見つけられない場所です。

鳥居をくぐり、緩やかな参道をのぼっていきます。高野山の中央あたりに位置する圓山という小山の上にあり、浄土院谷、湯屋谷、御殿川に隣接する場所にお祀りされています。

御神体は弁才天女さまと十五童子さま。
お大師さまが勧請したと伝わっています。

十五童子とは、弁才天に従う眷属(けんぞく)のこと。
「一日より十五日に至り、日々宇賀神に給使して衆生に福智を与える」と説かれ、平安風童子の角髪(みずら)に結った姿をとります。
※十六童子とされる場合もあります。

お唱えし始めるといきなりサワサワーと風が吹きはじめ、そのあとにお日さまの光がふわぁと差し込んできました。ご挨拶しているのが伝わっているのだなぁ、と──ありがたい気持ちになりました。

七社目:首途弁財天社

そして最後の一社、「首途(かどで)弁財天社」へ。

福知院さんの駐車場の西奥、杉木立に囲まれた場所に鎮座しています。こちらは案内板があり、わかりやすかったです。

「首途」と書いて「かどで」と読みます。独特の読み方なので「門出弁天」とも表記されます。
旅の安全祈願をかなえてくれる弁天様だそうです。近世以降は高野山の北の玄関は女人堂でしたが、空海の時代はこの辺りだったのかもしれません。

その昔、高野山には大蛇(または龍)が住んでいたそうですが、その蛇が頭を出していたことから「首途」と表記されたとも言われます。空海がその蛇(龍)を調伏して鎮めたという言い伝えも記録されています。

この辺りは今でも水が湧いているので、空海の時代も重要な水源のひとつだったのでしょう。天候によっては川が暴れることもあったかもしれません。蛇の伝説は、そうした自然の脅威を象徴しているのかもしれません。

最後のお唱えをして──高野七弁天、すべてお参りさせていただけました。

番外:大師教会の融通辯財天さま

実は、七弁天さま巡礼のはじめに向かった場所がありました。
二日目の朝、宿坊を出発してまず向かったのは大師教会さん。

今回のねえさんぽは弁天さま繋がりミッションがあるので、大師教会さんの弁天さまにもご挨拶することにしました。

蓮池の中に浮かぶ「辯財天融通橋」を渡り、融通辯財天さまにご挨拶。
「本日も高野山、お参りさせていただきます」と手を合わせました。

これで、高野七弁天に加えて、大師教会の融通辯財天さまにもご挨拶することにもつながりました。

むすび──水の守護と空海の智慧

高野七弁天めぐり、無事に完遂することができました。

今回の巡礼で最も心に残ったのは、高野七弁天が単なる「水源の守護神」ではなかったということ。

空海が高野山を開創した弘仁7年(816年)の時点で、この地には既に丹生都比売神を中心とした水神信仰がありました。空海は、その先住の神々を否定するのではなく、密教の弁才天として再編成し、共存の道を選んだのです。

そして中世になると、天台宗の教学を通じて宇賀神信仰と習合し、現在私たちが見る「宇賀弁才天」の姿へと変化していきました。

水神から弁才天へ、そして宇賀弁才天へ──。

この変遷は、空海の智慧と、日本という国の神仏習合の歴史そのものを物語っています。

弁財天さまには「除災」のお力、災難除けのお力があることでも知られています。また、有形としての利益は吉祥天さま、無形としての利益(才能、知力、アイデア)が弁才天さまの領域。ダイレクトに財をくださるのではなく、才能や知恵という種をくださり、それが財を生む知恵に結びついていくのです。

前回のお助け地蔵尊への御礼参拝から始まった今回の巡礼。

「取得より施善こそ人の道である」

この言葉と、高野七弁天が教えてくれた「共存の智慧」。

約束を果たす。
ご縁に感謝する。
先人の智慧に学ぶ。

それが巡礼の本質なのかもしれません。


では。

いつも、ありがとう^^


@Rico

幸せは自分のために
世界が平和であるために

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