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慈尊院と丹生官省符神社|女人高野の祈りと狩場明神伝説──高野山町石道の起点へ

@Ricoです。

前回の奈良・室生参拝シリーズで触れた「女人高野・室生寺」
そして、「女人高野」で思い出したのが高野山参拝の入り口となった「慈尊院」です。

高野山への旅を思い描いたとき、 その第一歩をどこから踏み出すか、ということを皆さん考えるのではないでしょうか。
多くの巡礼者が選ぶのは、紀ノ川のほとり、九度山の地に佇む慈尊院(じそんいん)です。

九度山の柿が有名ですね!

弘法大師空海が高野山を開創した際、この地に高野山の「表玄関」として伽藍を建てたのが、慈尊院のはじまり。
そして、ここには空海の母・玉依御前(たまよりごぜん)が晩年を過ごし、その祈りを今に伝える「女人高野」としての歴史が息づいています。

今回の記事は、実際に慈尊院・丹生官省符神社を参拝した記録をもとに、この地が持つ深い意味と、高野山町石道のスタート地点としての役割を、じっくりと掘り下げていきます。

慈尊院とは|高野山の政所としての創建

慈尊院は、和歌山県伊都郡九度山町に位置する高野山真言宗の寺院です。

山号は万年山(まんねんざん)
ご本尊は弥勒仏(みろくぶつ)
弥勒仏の別名である「慈尊」がそのまま寺名の由来となっています。

創建は弘仁七年(816年)。弘法大師空海が嵯峨天皇から高野山の地を賜り、高野山を開創するにあたって、参詣の要所であるこの九度山の雨引山麓に、高野山への表玄関として伽藍を建立しました。

ここに置かれたのが、高野山一山の庶務を司る「政所(まんどころ)」です。年貢の徴収や外部との折衝など、寺領の運営に関わるあらゆる実務がこの地で行われていました。
現代で言えば、高野山の「行政の中心」のような存在です。高野山への宿所としても機能し、冬期には避寒修行の場ともされていました。

当初は「慈氏寺(じしじ)」と呼ばれ、その南側には高野山の地主神である狩場明神(高野御子大神)と、その母である丹生都比売大神を祀る「丹生高野明神社(別名・神通寺)」が設けられました。

この丹生高野明神社こそが、現在の丹生官省符神社(にうかんしょうぶじんじゃ)です。慈尊院の石段を上った先に鎮座するあの神社の前身にあたります。慈氏寺の壇(弥勒の壇)と神通寺の壇(明神の壇)を合わせて「慈尊院」と呼ばれるようになったのです。

つまり慈尊院は、寺と神社が一体となった聖域として始まりました。現在は明治の神仏分離令を経て慈尊院と丹生官省符神社は別々の施設となっていますが、もともとは「弥勒の壇」と「明神の壇」で構成されたひとつの聖域でした。
この神仏習合の姿がここに色濃く残されていることは、日本の宗教史を考えるうえでも非常に見逃せないポイントです。

空海と母の物語|「九度山」の地名に刻まれた親子の絆

慈尊院を語るうえで欠かすことのできない物語があります。

弘法大師空海の母・玉依御前は、讃岐国(現在の香川県善通寺市)から「わが子の開いた山を一目見たい」との一念で、高齢にもかかわらず遠路はるばるこの地を訪ねてこられました。

しかし、当時の高野山は七里(約28km)四方を女人禁制としていたため、母公は山上に入ることはかないませんでした。そこで空海は、母を高野山麓のこの政所に迎え入れたのです。

以来、空海は高野山上から20数キロもの山道を下って、月に九度は必ず母のもとを訪ねたと伝えられています。
この故事から、この地には「九度山(くどやま)」という地名が付けられました。

高野山から慈尊院までの山道は約22キロ。標高差は約700メートルに及びます。現代の登山者でも6〜7時間を要するこの道のりを、空海は母への想いを胸に何度も歩いたのです。月に九度というのは正確な数字というより「それほど頻繁に」という意味を含むとされますが、いずれにしても、真言密教の大成者であった空海の人間的な温かさが伝わってくる逸話です。

承和二年(835年)二月五日、母公は入滅されました。そのとき空海は弥勒菩薩の霊夢を見たといいます。母が弥勒菩薩に化身したと悟った空海は、自ら弥勒仏像を刻み、廟堂を建立して母の霊を祀りました。

弥勒菩薩の別名は「慈尊」。
「慈しみの尊」という意味です。母の化身として弥勒を祀ったことから、この政所は正式に「慈尊院」と呼ばれるようになりました。
母の慈愛と、弥勒の慈悲。この二つの「慈しみ」が、慈尊院という名に重ねられているのです。

弥勒堂(本堂)|国宝・弥勒菩薩坐像を安置する御廟

境内に入ってまず向かうのが、ご本尊の弥勒菩薩をお祀りする弥勒堂です。

弥勒堂は、空海が母公の入滅後に建立した廟堂に由来します。
現在のお堂は鎌倉時代後期に再建されたもので、桁行三間・梁間三間、一重、宝形造、檜皮葺(ひわだぶき)の建築です。平安時代末期の堂宇建築の特徴を残す低い佇まいで、国の重要文化財に指定されています。

そして、このお堂にお祀りされている弥勒菩薩坐像は国宝です。
21年に一度のご開帳でのみ、そのお姿を直接拝むことができます。

弥勒堂は、ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産の一部としても登録されています。世界遺産であり、国宝仏を安置する空間。その重みを静かに感じながら手を合わせる時間は、何ものにも代えがたいものがあります。

そしてこの弥勒堂の周辺には、慈尊院の象徴ともいえる「乳房型絵馬」が数多く奉納されています。母公が弥勒菩薩に化身したという信仰から、子宝、安産、育児、授乳、さらには乳がん平癒を願う女性たちが、全国から訪れてこの絵馬を奉納してきました。日本全国を見渡しても、これほど独特な祈願の形式を持つお寺はそう多くありません。

お堂の紋は「五三の桐」と「三頭右巴」。これは金剛峯寺と同じ紋であり、高野山との深い結びつきを今に伝えています。

拝堂での祈り|弥勒菩薩と向き合う至福の時間

弥勒堂の手前にある拝堂は、参拝者が中に入ってお祈りをすることができる貴重な空間です。

初めて訪れる方は、お堂に入ってよいものかと迷うこともあるかもしれません。しかし、扉が開いている時間帯であれば、自由に入堂してお参りすることができます。

正面にはご本尊の弥勒菩薩に向かって祈りを捧げる場が設けられています。堂内には仏足石や大黒天のお像が安置されているほか、干支の絵馬が吊り下げられていたり、三鈷杵(さんこしょ)や大きな数珠などの法具も置かれています。直接手に触れることができるものもあり、真言密教の世界を五感で体感できる場でもあります。

この拝堂に身を置くと、何とも言えない穏やかな空気に包まれます。
それは「応援しかない」と感じるような、温かく、優しい力。
母の愛なのか、空海の慈悲なのか、弥勒菩薩の誓願なのか。その正体を言葉で定義することは難しいけれど、ここに座してお数珠を手にし、静かに祈る時間は、訪れる人の心に深く残るものとなるでしょう。

縁結び石と言われる「みろく石」

三開仏との出会い|大日如来・弘法大師・不動明王を懐に

参拝の折、慈尊院で心を動かされたもうひとつの出会いがありました。
それが、三開仏(さんかいぶつ)です。

三開仏とは、扉を開くと三体の仏さまが現れる小さなお像のこと。以前から小さな仏像が気になっていたのですが、慈尊院に置かれていたサンプルを拝見した瞬間、「これだ」と感じるものがありました。

実際の展示サンプルは飴色になっていて、キラキラしているように感じました。

中央に大日如来、左に弘法大師、右に不動明王。

真言宗において大日如来は宇宙の根本仏であり、すべての仏の源泉とされます。弘法大師は真言密教を日本に伝え、高野山を開創した祖師。不動明王は大日如来の化身とされ、煩悩を断ち切る力を持つ明王です。
この三尊が一体となった三開仏は、真言密教の信仰を凝縮したものと言えます。

相当迷いましたが、ここでのご縁を信じて授けていただくことを決めました。授けていただいた三開仏は、お力を入れていただいたように感じます。さらに、お寺の方のご厚意で巾着袋もいただき、持ち歩けるようにしました。

迷っても、一期一会の出会いを信じて「決める」こと。慈尊院での三開仏との出会いは、そんな大切なことも教えてくれたように思います。

なお、三開仏を授けていただいたのは2020年の参拝時のことです。現在も同様に扱われているかどうかは確認が取れていないため、ご関心のある方は事前に慈尊院へお問い合わせされることをおすすめします。

境内の諸堂|大師堂、鬼子母神、聖観音、多宝塔

慈尊院の境内には、弥勒堂以外にも参拝すべきお堂や見どころが数多くあります。

まず、大師堂(四国堂)。
こちらには弘法大師像がご本尊として安置され、その脇には四国八十八ヶ所それぞれの札所のご本尊を模した88体の仏像が祀られています。四国遍路の功徳をこの一堂で受けることができるという、大変ありがたいお堂です。

大師堂のお隣には鬼子母神(きしもじん)がお祀りされています。
鬼子母神は、もとは他人の子を奪って食べる鬼神でしたが、釈迦の教えによって改心し、子どもの守護神となった存在です。「女人高野」としての慈尊院の性格を考えると、ここに鬼子母神が祀られていることは、子育てや母性の守護という観点から深い意味を持ちます。

さらに境内には、美しいお姿の聖観音菩薩も安置されています。
観音菩薩は衆生の苦しみの声を聴いて救済する仏であり、慈尊院を訪れる人々の多様な祈りに応える存在として、静かに佇んでいます。

そして多宝塔。
本尊として胎蔵界大日如来と胎蔵界四仏がお祀りされています。
(大日如来が安置されていることから「大日塔」とも呼ばれます)
現在の塔は寛永年間(1624〜1643年)に再建されたもので、和歌山県指定文化財です。弘法大師の創立と伝えられ、真言密教の中心仏である大日如来を祀るこの塔は、慈尊院が密教の道場としても機能していたことを物語っています。

このほかにも、ポックリさん(長生きしても周囲に迷惑をかけず極楽往生できるよう祈願する仏)や、ビンズリ(ル)さん(お釈迦様の実在した弟子で、痛む箇所をさすると良くなるとされる)、弁財天や稲荷明神など、さまざまな仏神がお祀りされています。慈尊院公式サイトでは「女の人が慈尊院にお参りすれば、すべての願いが叶うようにお祀りしています」と記されており、まさに女性の総合祈願寺としての顔を持つお寺なのです。

また、境内の弘法大師像の横には、「高野山案内犬ゴンの碑」が立っています。ゴンは昭和60年代に慈尊院の近くに住みついた紀州犬と柴犬の雑種の白い犬で、慈尊院から聞こえる鐘の音を好んでいたことから「ゴン」と呼ばれるようになりました。
誰に教えられたわけでもなく、参詣者の前を歩いて町石道の約20キロの道のりを大門まで案内し、夜には慈尊院に戻るという日々を送っていたといいます。丹生官省符神社のセクションで触れた、狩場明神が白黒二頭の犬で空海を高野山へ導いた伝説と重なることから、ゴンは「お大師さんの犬の再来」と呼ばれ愛されました。

2002年に息を引き取った後、その年のうちに碑が建てられ、今も全国からゴンに会いに訪れる方が絶えません。

丹生官省符神社への石段|二頭の犬のお導きと高野山創建の伝説

慈尊院の参拝を終えたら、そのまま境内南側の石段へ向かいます。
先に触れた「丹生高野明神社」、すなわち現在の丹生官省符神社への参道です。

「弘法大師創建の社 高野山町石道登山口」と記された案内を目にすると、ここからいよいよ高野山への道が始まるのだという実感が湧いてきます。

119段の石段を一気に上っていくと、まず目に飛び込んでくるのが大きな鳥居。どこかで見たことのある形だと思ったら、厳島神社の大鳥居と同じ「両部鳥居(りょうぶとりい)」です。

両部鳥居とは、主柱の前後に控柱を持つ形式で、神仏習合の象徴とも言われます。また、密教における金剛界と胎蔵界の「両部」に由来するという説もあり、ここに両部鳥居が立っていること自体が、慈尊院と丹生官省符神社が一体となった神仏習合の聖域であることを物語っています。

石段の途中には高野山町石道の第百八十町石が立っています。ここが約22キロにわたる町石道の事実上のスタート地点です。

石段を上りきった先に広がるのが、丹生官省符神社の境内。
高燥で清々しい空気に包まれ、紀ノ川と和泉山脈を一望できる絶景のポイントでもあります。天気に恵まれれば、霊峰高野山を背景に森の緑と極彩色の社殿が映えるコントラストを楽しむことができます。

丹生官省符神社は古くから「忌明清祓社(いみあけきよはらいしゃ)」としても崇敬されてきました。帰幽(きゆう)後の五十一日や百一日に参拝して御祈祷を受ける清祓の儀式が行われてきた場所です。この名称からも、神道と仏教が融合した時代の信仰のあり方が伝わってきます。

そしてこの神社で最も心を引かれるのが、境内に祀られている「白・黒二頭のお犬さま」の存在です。

狩場明神との運命的な出会いがなければ、高野山の開創はなかった。
空海がその感謝と敬意を形にしたのが、この丹生官省符神社なのです。

空海が真言密教の道場を求めて大和国宇智郡を行脚していたとき、一人の気高い猟師に出会いました。猟師は高野という山上の霊地の存在を教え、従えていた白・黒二頭の犬を放って空海を高野山へと導きました。「此の処は実に天下無双の霊地である」と感得した空海は、この猟師が神の化現(けげん)であると悟ります。

この猟師こそが「狩場明神(かりばみょうじん)」であり、その正体は高野山の地主神・高野御子大神(たかのみこのおおかみ)です。
そして高野御子大神の母こそが、丹生都比売神社の主祭神でもある丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ)。この母子神を、空海は慈尊院の鎮守としてこの地にお祀りしたのが丹生官省符神社のはじまりです。

なお、白黒二頭の犬には「白は四郎、黒は九郎」という名の伝承もあるとのこと。神の使いとして空海を聖地に導いたこの犬たちは、安産や縁結び、導きの神として今も尊崇されています。

<御祭神>
第一殿に丹生都比売大神・高野御子大神・天照大御神
第二殿に大食都比売大神・誉田別大神・天児屋根大神
第三殿に市杵島比売大神
七社明神とも称されました。

本殿三棟は永正十四年(1517年)および天文十年(1541年)の再建で、国の重要文化財です。一間社春日造、檜皮葺の壮麗なたたずまいは一見の価値があります。

この神社もまた、ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産として登録されています。慈尊院の弥勒堂とともに、寺と神社がひとつの聖域を形成している姿は、かつての神仏習合の世界をそのまま体感できる場と言えるでしょう。

高野山町石道の起点|180基の祈りの道標

慈尊院と丹生官省符神社の一帯は、高野山町石道の起点でもあります。

町石道とは、慈尊院から高野山上の壇上伽藍・根本大塔に至る約22キロメートルの参詣道です。
弘法大師が高野山を開山した際、木製の卒塔婆を建てて道しるべとした道であり、高野山への「表参道」として千年以上にわたって歩み継がれてきました。

1町(約109メートル)ごとに建てられた町石は、高さ約3メートルの五輪卒塔婆形の石柱です。壇上伽藍の根本大塔を起点(第一町石)として、慈尊院側に向かって番号が増えていき、慈尊院の手前にある第百八十町石が最後の道標となります。さらに根本大塔から奥の院の弘法大師御廟までにも36基が建てられ、合計216基の町石が聖域への道を示しています。

ここで注目したいのは、町石の配列に込められた密教の教義です。

壇上伽藍を中心に、慈尊院側の180基は胎蔵界の百八十尊に、奥の院側の36基(実際は37町分)は金剛界の諸尊の数に充てられています。

つまり、町石のひとつひとつが仏の化身であり、参詣者は一基ごとに手を合わせながら山上を目指したのです。単なる道標ではなく、祈りそのものが刻まれた石柱。これが町石道の本質です。

2004年に「紀伊山地の霊場と参詣道」としてユネスコ世界遺産に登録されたこの道を、空海が母のもとへ通った道として歩く。その一歩一歩に、千年を超える祈りの積層を感じることができるのです。

女人高野としての慈尊院|日本遺産に認定された祈りのストーリー

高野山は開創当初から「女人結界」が定められていました。

開創から千有余年の間、女性たちはどこで祈りを捧げていたのか。その場所が「女人高野」と呼ばれた寺院群です。
女人高野は四つの寺院・堂宇で構成されています。

そしてここ、万年山慈尊院は、空海の母・玉依御前が滞在し、没後に弥勒菩薩に化身したという信仰から「女人高野」と呼ばれるようになりました。
四つの女人高野のなかでも、空海の母との直接的な縁を持つ慈尊院は、最も原初的な「女人の祈りの場」であると言えるかもしれません。

令和二年(2020年)、この「女人高野」のストーリーが文化庁により日本遺産に認定されました。正式名称は「女性とともに今に息づく女人高野〜時を超え、時に合わせて見守り続ける癒しの聖地〜」。
慈尊院は九度山町の構成文化財として、その中核を担っています。

同年には、修験道始まりの地とされる和泉山脈一帯を舞台とする「葛城修験」も日本遺産に認定されました。紀伊半島に息づく修験と女人の祈り。
その二つの流れが交差する場所に、慈尊院はあるのです。

弥勒信仰の深層|「慈尊」という名が伝える救いの思想

最後に、慈尊院の名に込められた弥勒信仰について、もう少し深掘りしてみましょう。

弥勒菩薩(マイトレーヤ)は、釈迦の次に仏陀となることを約束された菩薩です。釈迦入滅後、五十六億七千万年の後にこの世に出現し、衆生を救済するとされています。
その名「マイトレーヤ」はサンスクリット語で「慈しみ」を意味する「マイトリー」に由来します。だからこそ、弥勒菩薩は「慈氏(じし)」あるいは「慈尊(じそん)」と訳されるのです。

弥勒信仰には大きく二つの流れがあります。
ひとつは「上生信仰」。弥勒菩薩が現在おられるとされる兜率天(とそつてん)に往生したいと願う信仰です。
もうひとつは「下生信仰」。弥勒仏がこの世に降りてきて人々を救うことを待望する信仰です。

空海の母・玉依御前は、この弥勒菩薩を篤く信仰していました。母が亡くなった際に空海が弥勒の霊夢を見たということは、母の魂が弥勒の兜率天に上生したことを意味していたのでしょう。
空海が母を弥勒菩薩の化身として祀ったのは、母への追慕だけではなく、弥勒信仰の教義に基づいた深い意味を持つ行為だったとも考えられます。

さらに、空海自身も弥勒信仰と深い関わりを持っています。
空海は承和二年三月二十一日に高野山奥の院にて入定(にゅうじょう)しました。今も御廟で禅定を続けているとされ、弥勒菩薩がこの世に出現するとき、空海も共にやってくるという「弘法大師伝説」は、弥勒下生信仰と不可分のものです。

つまり、慈尊院という場所は、母の魂が弥勒として昇華した場であると同時に、やがて来る弥勒の世を待ち望む信仰の結節点でもあるのです。ここで手を合わせることは、母の慈愛に触れることであり、弥勒の誓願に繋がることであり、そして空海の祈りと共に歩むことでもあります。

お助け地蔵尊と女人道|高野山を囲む女性の祈りのネットワーク

女人高野のストーリーを辿るなかで、もうひとつ心に留めておきたい存在があります。高野山の大門近く、女人道の途中に佇む「お助け地蔵尊(助の地蔵尊)」です。

お助け地蔵尊は、まさにこの女人道のポイントに位置しています。
その由来碑には「取得より施善こそ人の道である」と刻まれています。
この言葉は、女人禁制の時代に祈りを捧げ続けた女性たちの無私の姿勢にも通じるものがあります。

女人高野の構成を改めて見渡したとき、このお助け地蔵尊が女人道の中に含まれていることに気づいて、感慨深い気持ちになりました。慈尊院から始まる女性の祈りは、町石道を経て高野山の女人堂へと繋がり、さらに女人道を通じて大きな祈りの環を形成していたのです。

慈尊院を起点に女人堂を目指し、さらに室生寺や金剛寺へと広がる女人高野の巡礼。それは千年以上にわたって女性たちが紡いできた祈りの道そのものであり、日本遺産の認定はこの見えない道の存在を現代に可視化したものと言えるでしょう。

慈尊院が問いかけるもの──「母」と「慈しみ」の普遍性

慈尊院の参拝を通じて、ひとつの問いが浮かびます。なぜ、この場所はこれほど多くの人の心を動かすのか。

それは、慈尊院が「母の愛」と「仏の慈悲」を同じ地平に置いているからではないでしょうか。

玉依御前は、高齢にもかかわらず讃岐から紀伊までの長い旅路を越えてきました。我が子の開いた山を見たいという一念で。しかし、女人結界によってその願いは叶いません。それでも母はこの地に留まり、弥勒菩薩に祈りを捧げ続けました。

空海もまた、密教の大成という大業を担いながら、月に九度は母のもとへ山を下りました。法を説く者であっても、母への情愛は変わらない。その姿は、真言密教が人間の感情を否定するものではなく、むしろ人としての温かさを大切にする教えであることを示しています。

そして母が弥勒菩薩に化身したという伝承。これは一人の母の慈愛が仏の慈悲と同質のものであると、空海が認めたことを意味します。仏法の智慧と母の愛は別々のものではない。どちらも「慈しみ」という一つの泉から湧き出ている。慈尊院という名は、そのことを端的に表しているのです。

だからこそ、この場所は性別や年齢、信仰の有無を問わず、訪れる人の心に静かに響くのだと感じます。

参拝を終えて|慈尊院から始まる高野山への一歩

慈尊院を後にするとき、この地が持つ多層的な意味の深さに気づきます。

高野山の政所としての行政的な役割。
空海と母の絆を伝える物語の舞台。
女人高野としての千年の祈り。
国宝・弥勒菩薩坐像を安置する信仰の中心。
町石道の起点としての巡礼の出発点。
丹生官省符神社と一体となった神仏習合の聖域。そして弥勒信仰の結節点。

これだけの意味が重なり合う場所は、日本全国を見渡しても稀有です。

空海が母のもとへ通い、歴代の天皇や法皇、関白や将軍、そして名もなき無数の庶民が、千年以上にわたって踏み固めてきた信仰の道。

その第一歩を、この慈尊院から踏み出す。それは、高野山への旅であると同時に、自分自身の内なる「慈しみ」に向き合う旅の始まりでもあるのだと、私は感じています。

いつも、ありがとう。

@Rico

幸せは自分のために
世界が平和であるために

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