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唐招提寺|鑑真和上と盧舎那仏、そして「戒律」という礎── 6度の渡航と失明を超えた仏の祈り

@Ricoです。

奈良・西ノ京の巡礼、薬師寺の前編・後編に続き、今回は唐招提寺での参拝からの気づきをお届けしようと思います。

薬師寺で薬師三尊さまの白鳳の光に触れ、休ヶ岡八幡宮の神仏習合の世界を歩いた後、次に心が向かったのは、薬師寺のすぐ北に位置する律宗の総本山・唐招提寺でした。

▶ 薬師寺 前編↓

▶ 薬師寺 後編↓

薬師寺から北へ、歴史の道と呼ばれる静かな小径を進んでいきます。

歩くこと約10分。そこに待っていたのは、1260年以上の歳月を超えて今なお天平の息吹を伝える伽藍でした。

唐招提寺。
その名を聞いただけで、ひとりの僧侶の姿が浮かび上がります。
12年の歳月、6度の渡航挑戦、そして失明──それでもなお日本への渡海を諦めなかった唐の高僧・鑑真和上。

今回の記事では、唐招提寺の参拝の流れに沿いながら、鑑真和上がこの地に込めた祈り、日本仏教に残した遺産、そして日中の架け橋としての意味を深掘りしていきます。

1. 唐招提寺の御由緒──律宗総本山、戒律を学ぶ修行の道場

唐招提寺は、天平宝字3年(759年)、鑑真和上によって開創された律宗の総本山です。

唐招提寺公式サイトによると、鑑真和上は多くの苦難の末に来日を果たした後、東大寺で5年を過ごし、その後、新田部親王(天武天皇の第7皇子)の旧宅地を朝廷から下賜されて、戒律を学ぶ人々のための修行の道場を開かれました。
当初、唐招提寺は「唐律招提」と名付けられた鑑真和上の私寺でした。

「招提」とはサンスクリット語の「チャートゥルディシャ」(四方)に由来し、四方から来る修行僧が学ぶ場所を意味します。

創建当初は、平城宮の東朝集殿を移築した講堂と、新田部親王の旧宅を改造した経蔵・宝蔵があるだけでした。金堂は鑑真和上の没後、弟子の如宝の尽力によって8世紀後半に建立されたとされています。年輪年代測定では781年に伐採されたヒノキが使われていることが判明しており、8世紀末の完成ということが確実視されています。

現在の唐招提寺には、金堂・講堂・鼓楼・経蔵・宝蔵の5棟が国宝建造物に指定されています。平成10年(1998年)には「古都奈良の文化財」のひとつとしてユネスコ世界遺産にも登録されました。

2. 鑑真和上の渡日──12年、6度の挑戦、失明を経てなお揺るがぬ志

唐招提寺を参拝するうえで、鑑真和上の生涯に触れないわけにはいきません。

鑑真和上(688〜763年)は、唐の揚州に生まれ、14歳で出家。
洛陽・長安で修行を積み、故郷に戻ってからは「江南第一の大師」と称されるほどの高僧となりました。

転機は天宝元年(742年)に訪れます。
遣唐使として唐を訪れていた留学僧・栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)から、日本には正式に戒律を授けられる「伝戒の師」がいないため、然るべき高僧を推薦してほしいとの懇願を受けたのです。

当時の日本では、正式な授戒制度が整備されておらず、私度僧(自ら出家を宣言した者)が増加し、社会秩序の乱れにつながっていました。
正式な僧侶となるためには「戒壇」において「三師七証」のもとで「具足戒」を受けなければならないのに、その仕組み自体が日本には存在しなかったのです。

鑑真和上の弟子たちは、命がけの渡航を恐れて誰も日本行きを志願しません。そのとき鑑真和上は「弟子が行かないなら、自ら行く」と宣言されました。

以後12年間に5度の渡航を試みて、すべて失敗。
弟子による当局への密告で渡航計画が発覚(当時の唐では国外への出国は国禁だった)、船の難破、嵐による漂流。5度目の挑戦では海南島まで流され、同行していた栄叡は病死し、高弟の祥彦も亡くなり、鑑真和上自身も失明するという壮絶な苦難を味わいます。

それでも、天平勝宝5年(753年)、6度目の渡航でついに日本の地を踏むことに成功します。このとき鑑真和上は66歳。
視力は失われていましたが、その志はいささかも曇ることはありませんでした。

唐招提寺の石田智圓長老はこう語っています。
「5度も渡航に失敗すれば、我々であればもうやめておこうかとなる。
それでも鑑真和上は、仏道のために身命も惜しまぬ覚悟で初心を貫かれた」と。

来日後、鑑真和上は東大寺大仏殿前で聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇らに菩薩戒を授けました。
以後76歳で遷化されるまでの10年間、東大寺で5年、唐招提寺で5年を過ごされ、日本の戒律制度の礎を築いたのです。

3. 参拝①:金堂──天平が残した9躯の国宝仏

南大門をくぐると、正面に金堂の壮麗な姿が現れます。

到着したのは15時30分。参拝受付の際に、新宝蔵の特別公開が16時までと聞いていたので、少し急ぎ足になりながらも、まずは金堂へ。

唐招提寺の金堂は、奈良時代建立の金堂としては現存する唯一のものです。正面に並ぶ8本の胴張りの列柱は、盛唐期の建築様式を伝えるものとして世界的にも貴重とされています。
井上靖の小説『天平の甍』でも描かれた鴟尾(しび)は、天平の空気をそのまま今に伝えるシンボルです。

堂内には、
本尊の盧舎那仏坐像(国宝)を中央にして
向かって右に薬師如来立像(国宝)
左に千手観音立像(国宝)が安置されています。

さらに四天王立像、梵天・帝釈天立像も含め、堂内の9躯すべてが国宝に指定されています。

少し薄暗い堂内に目を凝らすと、盧舎那仏の光背に描かれた小さな化仏(けぶつ)が浮かび上がります。
「すべての生きとし生けるものを照らす」という盧舎那仏の本願が、この空間全体に満ちているかのようでした。

<盧舎那仏とは>
盧舎那仏は華厳経における法身仏・宇宙の根本仏としての性格を持ち、その本質は「光明遍照」(あまねく一切を照らす)という存在そのものにあります。

つまり、個別の誓願を立てて衆生を救済するというよりも、宇宙そのものとして一切を照らしている、という教学的な位置づけなのです。

「盧舎那仏」は仏教の宇宙的な真理を象徴する本尊であり、
その仏像を安置する建物の屋根を飾る象徴的な装飾が
「鴟尾(しび)」とされます。
屋根で金色に輝く鴟尾は、内部に安置された盧舎那仏が放つ
智慧と慈悲の「光」を
外側から表現・象徴する存在ともいえるでしょう。

4. 参拝②:講堂・経蔵・宝蔵──平城宮の遺構が伝える天平の風

金堂の北側に位置する講堂は、平城宮の東朝集殿を移築改造したもので、平城宮唯一の現存遺構です。

堂内には、
本尊の弥勒如来坐像(重要文化財、鎌倉時代)
脇侍として、持国天立像と増長天立像(重要文化財、奈良時代)
が安置されます。

金堂の荘厳さとは異なる、修学道場としての静謐な空気が流れていました。

金堂東側に並ぶ経蔵と宝蔵は、ともに奈良時代の校倉造りの建物です。
とりわけ経蔵は、唐招提寺創建以前の新田部親王邸の米倉を改造したもので、日本最古の校倉と言われています。
正倉院と同じ構造を持ちながら、ここでは一般の参拝者でも間近にその姿を拝観できるのです。

手前が経蔵、奥側が宝蔵

5. 参拝③:新宝蔵──圧巻の大日如来と旧金堂の鴟尾

16時の拝観締め切り前に滑り込むようにして、新宝蔵へ。

ここには、金堂の旧鴟尾(しび)をはじめ、十一面観世音菩薩像、薬師如来像、そして圧巻の大日如来坐像など、唐招提寺が守り伝えてきた仏教美術の名品が展示されています。

とくに大日如来坐像の前では、思わず足が止まりました。
密教の根本仏である大日如来が、律宗の寺院に安置されているということ。
それは、日本仏教における宗派を超えた信仰のあり方を物語っているようでした。

手を合わせて、しばらく目を閉じます。

仏さまの前で祈るとき、私たちは何に対して祈っているのでしょうか。
それは、自分の内側にある「本来の自分」に気づくためなのかもしれません。

6. 参拝④:開山御廟──苔の緑に抱かれた鑑真和上の眠る場所

講堂から松尾芭蕉の句碑を経て、さらに奥へ。

こちらが、開山堂。
何気ない雰囲気ですが、惹かれるものがあります。
途中には、御影堂に繋がる入り口が見えます。
御影堂には、国宝の鑑真和上坐像などが奉安されます。

開山堂に手を合わせた後、緑深い小径を進んでいくと、唐招提寺の最奥に開山御廟があります。

一歩足を踏み入れた瞬間、その取り巻く空気が変わるのを感じます。

苔の緑、木々の緑、そして静寂。
鮮やかな緑に包まれた世界の最奥に、鑑真和上の御廟がひっそりと佇んでいます。手前には奉献された石灯籠があり、いつまでも鑑真和上の教えが善き形で伝わるようにとの祈りが灯っているかのようでした。

この場所に立つと、歴史書の文字としてしか知らなかった鑑真和上が、突然「ここに生きた人」として迫ってくるかのような感覚を抱きます。
66歳で日本に辿り着き、76歳でこの地に眠るまでの10年間。
失った視力の代わりに、鑑真和上の心の眼には何が映っていたのでしょうか。

石燈籠の中に、静かに灯る火が印象的でした。

7. 参拝⑤:戒壇・醍醐井戸・弁天社──戒律の原点と守護の祈り

御廟から戻り、金堂の西側に位置する戒壇へ。
ここは僧となるための授戒が行われた場所であり、唐招提寺創建時に築かれたとされています。

戒壇は塀に囲まれた静かな空間でした。ここで古の僧侶たちが戒律を受け、正式な僧としての道を歩み始めた場所です。
その原点がこの場所にあるのだと思うと、自然と背筋が伸びます。

近くには醍醐井戸もあります。

鑑真和上が開創の際に掘ったとされるこの井戸。

「醍醐」とは、仏教における「五味」(乳味・酪味・生酥味・熟酥味・醍醐味)の最上位に位置するもので、如来の最上の教法をも意味します。

この井戸が「醍醐」と名付けられていること自体に、鑑真和上がこの地に込めた深い祈りが表れているように感じられます。

さらに少し離れた場所にある弁天社にも手を合わせました。

唐招提寺の境内および周辺には、弁天社をはじめとする複数の守護神社が祀られています。
国土交通省の多言語解説データベースによれば、東の龍神、南の弁財天、北の鬼子母神などが境内の要所に配されています。
仏教寺院の中に神々が共存するこの姿は、日本における神仏習合の伝統を今に伝えていることを端的に示しています。

8. 深掘り①:「戒律」とは何か──鑑真和上が日本仏教にもたらしたもの

ここで少し、鑑真和上が命をかけて日本に伝えた「戒律」について掘り下げてみます。

仏教における「戒律」とは、教団の構成員が日常生活で守るべき規範のことです。
「戒」は自発的に守る道徳規範、「律」は教団の秩序を維持するための規則を指します。

鑑真和上が伝えたのは「四分律」に基づく南山律宗の教えでした。
正式な僧侶になるためには「具足戒」を受ける必要がありますが、そのためには「戒壇」という場で、授戒の師3人と証明師7人という「三師七証」の制度が不可欠です。

鑑真和上が来日する前の日本には、この制度が存在しませんでした。
鑑真和上は、単に仏教の教えを伝えただけではなく、日本の仏教教団が健全に機能するための「制度的基盤」そのものを築いたのです。

加えて、鑑真和上は仏教以外の分野でも日本に多大な貢献をしました。
医薬の知識に優れ、漢方薬の調合に通じていたとされるほか、悲田院を設けて貧民救済にも取り組みました。
文化、制度、福祉──その影響は仏教の枠を超えて、日本社会全体に及んでいるのです。

開山堂

薬師寺の法相宗が説く唯識は、心のあり方を見つめ直す『内面の修行』でした。一方、鑑真和上が伝えた戒律は、日常の行動を律する『外面の規範』にあたります。
仏教の修行において、内面の智慧と外面の規律は車の両輪のような関係にあり、唯識がいかに深遠な教えであっても、それを学ぶ僧侶の生活基盤が整わなければ、教えは社会に根付かない。

鑑真和上が命をかけて戒律を伝えた意味は、まさにその『もう一方の輪』を日本にもたらすことにあったのかもしれません。

9. 深掘り②:東山魁夷が鑑真に捧げた障壁画──日中を結ぶ祈りの芸術

唐招提寺の御影堂には、国宝の鑑真和上坐像が奉安されています。
(通常は拝観不可)

この坐像は、鑑真和上の弟子・忍基が制作を指導したとされる脱活乾漆造りの像で、像高80.1センチメートル。日本最古の肖像彫刻であり、天平時代を代表する傑作です。

御影堂は通常非公開ですが、毎年6月5日から7日の開山忌にあわせて特別開扉されます。
※開扉スケジュールは直近の公式情報を確認ください

この御影堂の障壁画を手がけたのが、日本画の巨匠・東山魁夷画伯です。

唐招提寺公式サイトの解説によれば、
日本の風景は色鮮やかに、鑑真和上の故郷中国の風景は墨一色で描かれています。

この対比には深い意味が込められているのではないでしょうか。
視力を失った鑑真和上にとって、日本の風景は「音」や「香り」や「空気の肌触り」として感じるものだったかもしれない。
一方、故郷の中国は「記憶のなかの風景」として、色彩ではなく墨の濃淡で表現されているのです。

東山画伯は、絵画という手段を通して、鑑真和上の内なる世界を可視化しようとしたのかもしれません。
それは、日本と中国という二つの国を結ぶ「祈りの芸術」と呼ぶにふさわしいものと言えるでしょう。

10. 深掘り③:芭蕉の眼差し──「若葉して御目の雫拭はばや」

境内、開山堂へ向かう途中に、松尾芭蕉の句碑があります。

貞享5年(1688年)、芭蕉は唐招提寺を訪れ、鑑真和上坐像を拝して次の句を詠みました。

「若葉して御目の雫拭はばや」

若葉の季節、生命力に満ちた緑が境内を覆う頃、失明した鑑真和上の御目にそっと触れて、涙を拭って差し上げたい──。

この句には、芭蕉の深い慈しみと、鑑真和上への敬慕が溢れています。
そして、先ほど訪れた開山御廟の鮮やかな苔の緑を思い出すとき、この句がさらに胸に迫ります。あの緑は、まさに「若葉」のように鑑真和上を包んでいたのでしょう。

芭蕉もまた、旅を通じて人間の本質を見つめ続けた「巡礼者」でした。時代を超えて、歩く人の心は通じるものがあるのかもしれません。

まとめ──決意の先に見えるもの

鑑真和上が日本に渡ろうと決意してから、実際にその地を踏むまで12年。
5度の失敗、弟子の死、自らの失明。それでもなお、初心を貫き通した66歳の僧侶の姿は、1260年を経た今もこの唐招提寺という場所に息づいています。

鑑真和上が伝えた「戒律」とは、突き詰めれば「自分自身をどう律するか」という問いなのでしょう。

私たちは日常のなかで、さまざまな困難や誘惑に出会います。目標を見失いそうになることも、もう引き返したいと思うこともあります。
しかし、鑑真和上の生涯は教えてくれます。
決意を固めた先にこそ、見えてくる景色がある、と。

唐招提寺の御廟で手を合わせたとき、こんな問いが浮かびました。

「あなたは今、何のために進んでいますか」

その答えは、きっと一人ひとり違うでしょう。
しかし、答えを見つけようとする姿勢そのものが、すでに「戒」を生きることなのだと、鑑真和上の苔に包まれた御廟は静かに語りかけてくれているように感じました。

さて、この時点で時計は16時15分。
実は、薬師寺で拝観し忘れた場所があることに気づいていました。

そう、玄奘三蔵院伽藍です。

薬師寺の拝観は17時まで。
さて、今から走れば──間に合います。

世界遺産に別れを告げ、再び世界遺産へ。
次回、再びの薬師寺で、もうひとつの「不退転の決意」に出会います。


では。

いつも、ありがとう^^


@Rico

幸せは自分のために
世界が平和であるために

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