薬師寺①|東京別院の写経が導いた奈良への旅──白鳳の祈りと東塔に届いた般若心経
@Ricoです。
今回は、奈良・薬師寺の参拝記をお届けしようと思います。
(まだまだ、奈良は記事に出来てない場所があるのです!)
この参拝には、ひとつの「伏線」がありました。 それは、東京・五反田にある薬師寺東京別院での写経体験です。

一文字一文字、般若心経を書き写す。墨をすり、筆を執り、心身を清め、270文字の経文と向き合うあの静かな時間。仏さまの教えのエッセンスが凝縮された般若心経を書き写していると、日常の雑念がすーっと引いていくのを感じます。
書き終えたとき、ふと湧き上がってきたのは「いつか奈良のお堂に、この祈りが届くのだろうか」という思いでした。
お写経の始まる前に教えていただいたのは「ここ東京別院のお写経は、奈良本山の堂塔内陣に供養されます」ということでした。
東京で書いた般若心経が、1300年の古寺のなかで生き続ける。それは「知識」としては知っていましたが、まだ自分の「実感」にはなっていなかったのです。
そして、その「いつかというタイミング」が訪れました。
2023年秋の奈良巡礼。
春日大社、手向山八幡宮と参拝を重ね、当初のスケジュールは完全に押せ押せの状態。しかし、次の行き先として心が向いたのは、法相宗大本山・薬師寺でした。手向山八幡宮からバスに乗り、車窓を眺めながらの移動はつかの間の休息にもなりました。
薬師寺<前編>では、写経が繋いだ東京と奈良の物語から始まり、與楽門を経て東院堂、そして東塔・西塔までの巡礼をお伝えしていきます。
1. 薬師寺東京別院と写経勧進──高田好胤和上が拓いた「心の復興」
五反田の高台に佇む「祈りの拠点」
JR五反田駅から坂を上った先、池田山と呼ばれる閑静な高台の一角に、薬師寺東京別院はあります。
外観は鉄筋コンクリート造りのモダンな建物で、一見するとお寺とは思えません。しかし門をくぐれば、そこには奈良・薬師寺から遷されたご本尊の薬師如来さまが静かに坐し、都会の喧騒を忘れさせてくれる空間が広がります。
昭和50年(1975年)に開山されたこの東京別院は、もともと御家流香道の香人・山本霞月氏の旧宅を譲り受けて改修したもので、関東以北における白鳳伽藍復興事業の拠点として設けられました。

「百万巻写経勧進」という奇跡
東京別院の存在を理解するには、薬師寺がたどってきた歴史を知る必要があります。
薬師寺は、享禄元年(1528年)の兵火によって大半の伽藍を焼失しました。奈良時代の姿を残す東塔だけが、奇跡的に難を逃れて現代まで伝わりましたが、それ以外の堂塔はほぼ失われていたのです。
その再建に立ち上がったのが、昭和42年(1967年)に管主に就任した高田好胤和上でした。
しかし、薬師寺には檀家制度がありません。通常のお寺であれば、檀家からの布施や寄付で建設費を賄いますが、薬師寺にはその方法が使えない。金堂の再建だけでも約10億円が必要とされました。
そこで高田和上が選んだのが、「写経勧進」という道でした。
一人一巻1,000円(当時)の般若心経の写経を全国から募り、百万巻の写経で金堂の復興費用を賄おうと考えたのです。当初は一年に一万巻しか集まりませんでした。好胤和上は全国831の市町村を巡り、8,072回の講演を重ね、その法話は「話の面白いお坊さん」として多くの人々の心を動かしていきました。
薬師寺公式サイトには、好胤和上のこんな言葉が記されています。
「物で栄えて心で滅ぶ高度経済成長の時代だからこそ、
精神性の伴った伽藍の復興を」
単なる建物の再建ではなく、日本人の「美しい心の結晶」として伽藍を蘇らせる。それが好胤和上の信念でした。

昭和51年(1976年)に百万巻の写経が達成され、念願の金堂が落慶。
その後も西塔(昭和56年)、中門(昭和59年)、大講堂(平成15年)と次々に再建が進み、令和元年には累計で850万巻を超えています。
写経勧進を支えたのは、好胤和上の人柄もありました。管主に就任する以前から、好胤和上は薬師寺を訪れる修学旅行生への法話に力を注ぎ、その18年にもわたる「青空法話」は、600万人以上の生徒たちの心に響いたとされます。ユーモアを交えた語り口は、人間国宝の落語家・三代目桂米朝も参考にしたほどの巧みさだったと伝えられています。
好胤和上は平成10年(1998年)に74歳で遷化されましたが、その没後も大講堂が落慶するなど、写経勧進による復興事業は弟子たちに受け継がれ、現在も薬師寺の大きな柱であり続けています。
東京別院は、この写経勧進の関東における拠点として、半世紀にわたり人々の祈りを受け止めてきた場所なのです。

写経は奈良に届く──永代供養される祈り
写経の仕組みで特筆すべきは、東京別院で書き写された般若心経が、奈良の薬師寺に送られ、復興された堂塔の内陣で永代に供養されるという点です。
つまり、五反田の静かな道場で一文字一文字に込めた祈りは、時を超えて奈良の伽藍に納められ、千年先の未来へと受け継がれていく。
私が東京別院で奉納した写経もまた、奈良・東塔のなかに納められているはずです。その東塔が特別公開されていると知り、「自分の祈りが届いた場所」を訪ねてみたい。
それが今回の薬師寺参拝の、最も深い動機でした。

薬師三尊さまの美しさにも惹かれていました。。。
2. 法相宗大本山・薬師寺の御由緒──天武天皇の祈りから始まった1300年
皇后の病気平癒を祈って
薬師寺の創建は、天武天皇9年(680年)にさかのぼります。
天武天皇が、皇后であった鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ、後の持統天皇)の病気平癒を祈願して発願されたことが始まりです。
しかし、天武天皇ご自身は薬師寺の完成を待たずに崩御されました。
その志を継いだ皇后は持統天皇として即位し、新たな都である藤原京に薬師寺を造営します。さらに平城遷都に伴い、現在の奈良市西ノ京に移されました。
※なお、この「移転」をめぐっては、平城京で新たに建てられたのか、藤原京から移築されたのかという論争が明治時代から続いています。21世紀の現在では平城京での新築とするのがほぼ通説ですが、完全には決着していないというのが正確な状況です。
そして、薬師寺という名の通り、その創建動機が「病気平癒」の祈りだったという点に目を向けてみましょう。
最愛の皇后の身体の苦しみを取り除きたいという天武天皇の切実な願い。
この祈りの原点は、薬師寺の御本尊が「薬師如来」であることと深く結びついています。
薬師如来は正式には「薬師瑠璃光如来」といい、東方浄瑠璃浄土の教主として、人びとの病気や災難を除き、健康と幸福を与えてくださる仏さまです。
天武天皇の祈りから1300年以上が経った現代でも、多くの方が心身の癒しを求めて薬師寺を訪れています。その連綿とした祈りの流れのなかに、私たちの参拝もまた位置づけられるのだと思います。
南都七大寺のひとつ、世界遺産の古刹
薬師寺は、法相宗の大本山として、南都七大寺のひとつに数えられる名刹です。
天平時代までは「天下の四大寺」のひとつとされ、金堂をはじめ主要な堂塔には裳階(もこし)が付けられた壮麗な姿は「龍宮造り」と呼ばれていました。
伽藍配置にも大きな特徴があります。中央の金堂を挟んで東西に二基の塔を配する様式は「薬師寺式伽藍配置」と呼ばれ、薬師寺が初めてこの配置を採用したことで知られています。
平成10年(1998年)には、「古都奈良の文化財」の構成資産のひとつとして、ユネスコ世界遺産に登録されました。
3. 法相宗と唯識──「ただ識(こころ)のみ」が映し出す世界
日本現存最古の宗派
薬師寺を参拝するうえで、その宗派である法相宗の教えに少し触れておきたいと思います。
法相宗は、奈良時代に中国から伝わった「南都六宗」のひとつであり、日本に現存する最古の宗派です。
宗祖は慈恩大師基(じおんだいしき)、始祖は玄奘三蔵です。
玄奘三蔵は、唐の都・長安を出発して17年にわたるインドへの求法の旅を行い、訪れた国は138か国に及んだとされます。その不屈の精神は「不東」という言葉で表されます。インドに着くまでは一歩も東(唐)に帰るまい、という決意の表明です。
薬師寺の玄奘塔の扁額には、好胤和上の筆でこの「不東」の二文字が掲げられています。
「唯識」とは何か
法相宗の根本教義は「唯識(ゆいしき)」です。
唯識とは、「ただ識(こころ)のみ」が働いて現象世界を見ているという考え方です。
私たちは自分の経験や先入観に従って物事を認識し、選択しながら生きています。自分では「正しく見ている」と思っていても、それはあくまでも「私の心」が映し出した世界に過ぎないのです。
この教えは、現代の心理学やマインドフルネスの考え方にも通じるものがあります。外側の世界を変えようとするのではなく、まず自分の心のあり方を見つめ直す。その内省のプロセスこそが、唯識の本質と重なってきます。

薬師寺の大講堂では、今もなお最勝会や慈恩会といった論義法会が行われ、僧侶たちが唯識の教えについて学び、議論を重ねています。1300年にわたって「唯識の道場」であり続けていること自体が、この教えの普遍性を物語っているのではないでしょうか。
写経で般若心経を書き写すとき、空(くう)の思想に触れるわけですが、それは唯識の教えと深く連なっています。
自分が見ている世界は、自分の心が作り出したもの。
だからこそ、心を調えることが、世界を調えることに繋がる。
写経とは、まさにその実践なのだと思います。
4. 参拝①:與楽門から東僧坊へ──台座に刻まれたシルクロード
與楽門をくぐる
手向山八幡宮からバスに揺られ、薬師寺に到着しました。
與楽門(よらくもん)から境内に入ると、まず広大な白鳳伽藍のスケールに圧倒されます。遠くに東塔と西塔が二基並び立つ光景は、まさに「龍宮造り」の名にふさわしい壮麗さです。

東僧坊:薬師三尊台座の模型と世界の文様
與楽門を入ってすぐの東僧坊には、金堂御本尊・薬師如来三尊像の台座(模型)が展示されています。
この台座には、シルクロードを通じて伝わった四つの文化圏の文様が刻まれています。

一番上の框(かまち)には、ギリシャに由来する葡萄唐草文様。その下には、ペルシャの蓮華文様が刻まれています。
各面の中央には、インドから伝わった力神(蕃人)の裸像が浮彫りされ、下框には中国の四方四神──東に青龍、南に朱雀、西に白虎、北に玄武──の彫刻が施されています。
ギリシャ、ペルシャ、インド、中国。
シルクロードが運んだ四つの文化が、この一つの台座に結晶しているのがはっきりと分かります。
奈良が「シルクロードの東の終着点」であったことを、これほど雄弁に物語る存在はないでしょう。
台座の模型を前にして思ったのは、薬師寺という場所が単に「日本の古寺」であるだけでなく、古代の国際交流の記憶を今に伝える世界的な文化遺産であるということでした。

5. 参拝②:東院堂──「白鳳の貴公子」聖観音菩薩さまとの対面
吉備内親王が母のために建てた祈りの堂
ルートに沿って最初に参拝したのが、東院堂です。
東院堂は、養老年間(717~724年)に、長屋王の正妃である吉備内親王が、母・元明天皇の冥福を祈って建立されました。現在の建物は鎌倉時代の再建で、国宝に指定されています。

聖観音菩薩立像(国宝)──「白鳳の貴公子」
堂内の中央には、御本尊の聖観音菩薩立像(国宝)が安置されています。
像高188.9センチメートル。蝋型鋳造による銅像で、その気品あふれるお姿から「白鳳の貴公子」と称されています。
面相部にはアルカイック・スマイルを思わせるかすかな笑みを浮かべ、左肩から右体側にかけて条帛を着する気品ある姿は、白鳳期の仏像彫刻の到達点を示すものです。右腕は体側にまっすぐ垂下し、左腕を曲げて手を肩の辺まで上げ、掌を正面に向ける独特の印相が印象的です。
金堂の日光・月光菩薩と比べると、様式的にはやや古い要素が見られるとされていますが、実際の制作時期の前後については定説がありません。金堂の日光・月光菩薩像が胴部に明瞭な「くびれ」の線を刻むのに対し、この聖観音像にはそれがなく、体部の抑揚は自然なカーブで表現されています。
また、腰から下に上下三段のU字形に掛かる天衣、両脚部の図式的に整えられた衣文など、全体に左右対称性が強調されている点も特徴的です。頭部には白鳳期の菩薩像に多く見られる三面頭飾ではなく、髻の側面から背面にかけて唐草文を表す珍しい形式が用いられています。
こうした美術史的な分析は、拝観しているときにはもちろん意識していたわけではありません。ただ、目の前に立った瞬間に感じた「美しい」「穏やかだ」という直感。それが1300年の時を超えて多くの人の心を動かし続けてきた理由を、後から知るとより深く納得できるのです。
堂内には聖観音菩薩さまのほか、四天王像が配されています。
東院堂での時間
なぜかこの東院堂は、ゆっくりと手を合わせたくなる空間でした。
静かで、落ち着いていて、聖観音菩薩さまの前に座っていると、自然と呼吸が深くなっていく。しばらく堂内で過ごしていると、お寺の方から「お時間があれば、門を出てすぐ近くの八幡さまへお参りください」とお声がけをいただきました。

八幡さまがお近くにある?そこで調べてみると、それは薬師寺の鎮守社である「休ヶ岡八幡宮」でした。このひと言が、後編で綴る神仏習合の深い世界への入口となるのですが、それはまた後ほど。
こうした「人を通じた導き」は、巡礼の旅ではしばしば起こります。
それは偶然ではなく、その場に心を開いている人だからこそ受け取れる「気づき」なのかもしれません。
6. 参拝③:東塔──「凍れる音楽」と写経が届いた場所
奈良時代から残る唯一の建造物
東院堂を出て、次に向かったのは東塔です。
そもそも仏教における「塔」とは何か。
──それは、釈尊の仏舎利(御遺骨)を祈りの対象としてお祀りしている場所です。インドのストゥーパ(卒塔婆)に由来し、仏教寺院において最も神聖な建造物のひとつです。
薬師寺東塔は、奈良時代の創建当初から残る唯一の建造物であり、国宝に指定されています。三重塔ですが、各層の間に裳階(もこし)と呼ばれる小さな飾り屋根が付いているため、六層に見える独特の形状が特徴と言われます。

明治時代にアメリカの美術史家アーネスト・フェノロサがこの東塔を見て「凍れる音楽」と評したという逸話は広く知られています。
大小の屋根が交互に重なり合う姿は、確かに音楽のリズムを視覚化したかのような美しさです。
好胤和上もまた、修学旅行生への法話でこの東塔を「三重塔です。六重ではありません。どうか誤解(五階)のないように」とユーモアたっぷりに案内していたと伝えられています。
令和3年の全面解体修理完了と特別公開
東塔は平成21年(2009年)から約12年をかけた全面解体修理を経て、令和3年(2021年)に修理が完了しました。
今回の参拝時には特別公開が行われていました。

解体修理では、心柱をはじめとする構造部材の調査が行われ、創建当初の技法や材木の状態が詳細に明らかにされました。薬師寺ではこの修理の際に生じた心柱の木片を漉き込んだ特別なお写経用紙も用意され、東塔に納経することで「木片となった心柱をお戻しする」特別なお写経も行われています。
ここで、冒頭に記した「伏線」が回収されます。
薬師寺東京別院で奉納した写経は、奈良の堂塔内陣に永代供養される。
つまり、私が五反田で一文字一文字書き写した般若心経は、この東塔の内部に納められているはずなのです。
東京で蒔いた祈りの種が、奈良の1300年の古塔のなかで生き続けている。その場所に、今、自分が立っている。
この感覚を持ちながら、東塔の美しさに手を合わせ、尊い教えの響きが広く行き渡るように願います。
釈迦八相「因相の四相」──お釈迦さまの前半生
東塔の内部には、釈迦八相像のうち「因相の四相」がお祀りされています。
釈迦八相とは、お釈迦さまのご生涯のなかで特に重要な八つの場面を表したもので、東塔には前半生にあたる四つの場面が安置されます。
入胎(にったい)──母・摩耶夫人の胎内に宿る場面
受生(じゅしょう)──誕生の場面
受楽(じゅらく)──王子として快楽を享受する場面
苦行(くぎょう)──出家し苦行に励む場面
釈迦国の王子として生まれながらも、人生の苦しみに向き合い、出家して悟りへの道を歩み始める。その前半生の物語が、東塔の中に凝縮されているのです。
7. 参拝④:西塔──後半生の「果相」と、東西で完結するいのちの物語
写経勧進で蘇った塔
東塔から視線を移すと、西側に堂々と立つのが西塔です。

西塔は、まさに高田好胤和上の写経勧進によって蘇った塔です。
昭和56年(1981年)に再建され、200万巻の写経達成とともに落慶しました。再建を手がけたのは、法隆寺の宮大工として名高い西岡常一棟梁です。西岡棟梁は「コンクリートは300年しか持たないが、木は1000年持つ」と主張し、千年先のことまで考えて建てたと伝えられています。
東塔が奈良時代の古色を帯びた渋い佇まいであるのに対し、西塔は創建当初の鮮やかな朱色と緑青の色彩が再現されています。
1300年の風雪を経た東塔と、蘇ったばかりの西塔が並び立つ姿は、時の流れと人の祈りの力を同時に感じさせてくれます。
釈迦八相「果相の四相」──悟りから入滅へ
西塔には、釈迦八相のうち後半生にあたる「果相の四相」がお祀りされています。
成道(じょうどう)──菩提樹の下で悟りを開く場面
転法輪(てんぽうりん)──最初の説法を行う場面
涅槃(ねはん)──入滅の場面
分舎利(ぶんしゃり)──遺骨が分配される場面
東塔の「因相」が種を蒔く段階だとすれば、西塔の「果相」はその種が花を咲かせ、実を結び、そして散っていく段階です。
二基の塔を合わせて初めて、お釈迦さまのご生涯が完結する。
この構成には、仏教の根本思想である「因果」の教えが、伽藍そのものの配置として体現されているのです。
東塔と西塔が教えてくれること
ふと立ち止まって考えると、この「因」と「果」の構造は、写経の旅にも重なります。

東京別院で写経をしたこと(因)。
その祈りが奈良の東塔に届いていること(果)。
そして今、その現場に立って手を合わせていること。
因があるから果がある。種を蒔くから、花が咲く。
唯識の教えが「心のあり方を見つめ直す」ことだとすれば、東塔と西塔はまさに、その実践のプロセスを空間として見せてくれているのだと感じました。
釈迦八相が「入胎」に始まり「分舎利」に終わるように、いのちには始まりがあり、終わりがあります。しかし、東塔と西塔が対として存在し続ける限り、その物語は終わることがありません。
涅槃の後に遺骨が分配され、それが新たな祈りの種となって世界に広がっていく。その循環のなかに、私たちの写経もまた含まれている。
そう感じていくと、五反田で書写した一文字一文字が、途方もなく大きな流れのなかに繋がっていることに気づかされます。
前編を終えて──金堂への序章
與楽門から東僧坊、東院堂、東塔、西塔。
境内を歩くほどに、この薬師寺という場所が持つ時間の厚みと、祈りの深さに圧倒されます。シルクロードの記憶を刻む台座、「白鳳の貴公子」と称される聖観音菩薩さま、因と果で釈迦の生涯を語る東西の塔。
そのすべてが、1300年の時を超えて、今を生きる私たちに語りかけてくる。
法相宗の教え「唯識」は、すべての現象は心が映し出したものだと説きます。であれば、この巡礼のなかで出会った風景も、感動も、気づきも、すべて私自身の心が受け取ったもの。大切なのは、その「受け取る力」を養うこと。写経とは、まさにそのための修行なのかもしれません。

後編では、いよいよ金堂の御本尊・薬師三尊との対面、大講堂の弥勒三尊像へ、そして鎮守・休ヶ岡八幡宮の神仏習合の世界へと歩みを進めます。
東院堂参拝の時に教えていただいた「八幡さまへお参りください」という一言。そこから始まる物語も含めて、不思議なご縁を感じてみてください。
では。
いつも、ありがとう^^
@Rico
幸せは自分のために
世界が平和であるために
