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日吉大社③|山王礼拝講と本地垂迹──山王曼荼羅と和光同塵に見る「しなやかに生きる」日本の心

@Ricoです。

日吉大社シリーズの最終回、第三回「山王礼拝講と神仏習合・本地垂迹編」をお届けしたいと思います。

🔹第一回の西本宮編では、日吉大社に重なる「三つの層」──自然神道、国家鎮護、神仏習合──の重層性を読み解きました。

🔹第二回の東本宮編では、『古事記』に記された地主神・大山咋神の「原風景」を、水と山の聖性を通して体感しました。

そして今回は、参拝当日に偶然立ち会うことができた「山王礼拝講」の体験を軸に、日吉大社における神仏習合の本質、そして「神と仏が共に在る」という日本の精神構造について、深く掘り下げていきたいと思います。

太鼓の音に導かれて──山王礼拝講との出会い

東本宮から階段を下り、各社を参拝してから元来た道へ戻っていくと、何やら太鼓の音が聞こえてきます。

先ほどはなかったロープが張られています。

西本宮の入り口に到着すると……そこにはたくさんの僧侶の御姿がありました。

一通り参拝を終えたので、神仏霊場の御朱印を授かるために授与所へ向かい、その合間に「今日は何かの祭事ですか」と確認すると、「山王礼拝講」だと教えていただきました。

山王礼拝講(さんのうらいはいこう)

山王礼拝講の起源は11世紀前半、万寿2年(1025年)頃に遡ります。日吉大社の周辺の樹木が枯れてしまったことを、「比叡山の僧侶ら自身の修行が至らないことを日吉大神が戒めたものである」と考え、西本宮の神前にて法華八講(ほっけはっこう)──『妙法蓮華経』全八巻の経釈と問答を行う法要──を修するようになったことが始まりとされています。

国立劇場の公演資料(令和5年2月声明公演)および日吉大社Wikipedia

以来、約千年にわたって毎年5月26日に行われてきた、比叡山延暦寺の僧侶が日吉大社に赴き、神さまの御前で仏教の法要を営むという、神仏習合時代の様子を今に伝える極めて貴重な祭礼です。

その次第は、参進(さんしん)→修祓の儀(しゅばつのぎ)→献饌の儀(けんせんのぎ)→祝詞奏上(のりとそうじょう)→法華八講→撤饌の儀(てっせんのぎ)→五伽陀礼拝(ごかだらいはい)と続きます。

注目すべきは、神道の「修祓」「祝詞」と、仏教の「法華八講」「五伽陀礼拝」が、一連の儀式の中で途切れることなく繋がっていることです。

神事と仏事が分離されず、一つの流れの中で営まれる──これこそが山王礼拝講の核心であり、千年の時を経てなお守り継がれている理由でしょう。

山王祭(4月)が勇壮な神輿の渡御を中心とする「動」の祭礼であるのに対し、山王礼拝講は法華経の問答と声明を中心とする「静」の祭礼とも言えるでしょう。

しかし、両者には共通する本質があります。
山王祭の例祭においても、天台宗総本山延暦寺より天台座主が参拝され、御神前に五色の奉幣と般若心経の読経を奉納されます。

「古くより縁の深い日吉大社と延暦寺。明治以降廃絶した神仏習合の名残を色濃く残す、文化的にも大変貴重な神事」
──公式サイトにてこのように表現されています。

また、
「比叡山の僧侶が日吉大社に赴き、神様の前で行う山王礼拝講は、日吉大社との関係を深めてきた総本山・延暦寺ならではの法要で、現地でしか見ることができず、また、他の天台宗寺院でも行われておりません。さらに、明治以降の神仏が分離された現代においては、大変珍しい貴重な法要です」
──国立劇場の公演資料にもこのように記されます。

山王祭も山王礼拝講も、「神の前で仏の法を修する」という一点において、深く通底しているのです。

あの日の景色──神と仏が結ばれている瞬間

日吉大社という神社の拝殿にて、延暦寺の僧侶の方々が法華経の問答に臨む。

その晴れやかな御姿を見守るご家族の方々、寺院関係者。
そして、傍には神職さまが控えていらっしゃいます。

一つの場所で、神と仏が結ばれている景色を目の当たりにするとき、やはり日本は神仏相互の深い結びつきによって守られている国なのだと、強く実感します。

この景色は、これまでの参拝で出会ってきた幾つもの記憶と重なり合いました。

丹生都比売神社の例祭で、高野山金剛峯寺の僧侶が参列されていた、あの景色。

丹生都比売神社では、弘法大師空海が高野山を開く際に、この地の地主神である丹生都比売大神から土地を譲り受けたという伝承があります。高野山金剛峯寺の僧侶が丹生都比売神社の例祭に参列するのは、空海と地主神との「約束」が今も守られていることの証です。

熊野の那智大社で神道護摩をいただいたときの、あの感動。

那智大社の神道護摩は、那智の大滝という自然の聖地で、神と仏の祈りが炎の中で一つになる瞬間でした。

宇佐神宮参拝の際に、放生会の由縁を知り、その現場で見た、あの気配。

宇佐神宮の放生会は、殺生を戒める仏教の慈悲の精神が、八幡神という神道の神の祭礼として実践されている姿です。

東大寺修二会をニコニコ動画で初めて拝見した時の、あの炎の源。

東大寺修二会(お水取り)の炎は、若狭の遠敷明神から送られた「お水」を汲む神仏一体の行法です。

それぞれの場所、それぞれの瞬間に、神と仏が共に在る日本の原風景がありました。山王礼拝講の舞台は、それらすべてをあらためて深く思い起こさせる瞬間でした。

これらの体験が、山王礼拝講の場で大きな何かに包まれていく感覚がありました。日本各地に点在する神仏習合の記憶が、日吉大社という場を介して、ひとつの大きな物語として浮かび上がってくるのです。

山王曼荼羅に秘められた想い──本地も垂迹もともに祈る

ここからは、山王礼拝講の背景にある「神仏習合」と「本地垂迹」の思想について、日吉大社の信仰を軸に深掘りしていきます。

山王曼荼羅(さんのうまんだら)をご存じでしょうか。

山王曼荼羅とは、比叡山延暦寺を守護する日吉社の神々の姿を描いた礼拝画です。

この曼荼羅は日吉社の景観を主要素とする礼拝画であり、東西両本宮をはじめとする山王二十一社の社殿を詳細に描写し、図の上部には二十一社の祭神・本地仏・種子を並べるという構成になっています。
背面の貼紙の墨書から、かつて比叡山西塔西谷にあったことがわかっており、延暦寺の僧侶たちが日々の修行の中でこの曼荼羅を礼拝していた姿が偲ばれます。

奈良国立博物館所蔵の重要文化財「山王宮曼荼羅」(文安4年・1447年相伝)の解説より

また、大津市歴史博物館の企画展「天台を護る神々」の解説によれば、山王曼荼羅の図像には大きく三つの形式があります。

▶︎本来の姿である仏菩薩(本地仏)で描いた作品
▶︎神の姿(垂迹形)で描いた作品
▶︎そして日吉社の社殿を実景として描き、その上部に本地仏と祭神を並べた「宮曼荼羅」形式の作品

注目すべきは、ある曼荼羅には仏の姿が描かれ、別の曼荼羅には神の姿が描かれ、さらに別の曼荼羅にはその両方が一つの画面に共存しているということです。本地(仏)も垂迹(神)も、ともに描かれ、ともに祈られている。
どちらかが上でどちらかが下、ということではなく、一つの信仰の中で神と仏が共に在る──それが山王曼荼羅の世界です。

そしてこの曼荼羅は、文字を読めない庶民にとっても、「神と仏は同じ存在である」という教えを視覚的に理解するためのものでもありました。経典や教義書にアクセスできない人々に対しても、一枚の絵画を通じて、神仏が一体であるという世界観が浸透していったのです。

山王曼荼羅が教えてくれる最も大切なことは、「本地か垂迹か」という二者択一の問いそのものを超えていることだと感じます。

仏が本体で神が仮の姿、あるいは逆に神が本体で仏が従属する──そうした序列の議論を超えて、ただ「ともに祈る」ことの中に信仰の本質がある。

山王礼拝講の場で、神事と仏事が一つの流れの中で営まれている景色は、まさにその曼荼羅の世界が、千年の時を経て今も生きている姿なのです。

本地垂迹──「権現」と「和光同塵」の思想

山王曼荼羅の背景にある思想を、もう少し掘り下げてみましょう。

本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)とは、
仏や菩薩が衆生を救済するために、日本の神の姿を借りてこの世に現れたとする考え方です。

「本地」とは永遠普遍の真理(仏)を指し、「垂迹」とは歴史的な時間や特定の場所(日本の国土)において現れた姿を指します。

日吉大社で言えば、西本宮編でお伝えした通り、
大宮(西本宮)の本地仏は釈迦如来、二宮(東本宮)の本地仏は薬師如来、聖真子(宇佐宮)の本地仏は阿弥陀如来──と、山王七社それぞれに対応する仏が定められていました。
文化遺産オンラインに掲載される「日吉山王本地仏曼荼羅図」では、山王七社の神々が釈迦如来・薬師如来・阿弥陀如来・千手観音・十一面観音・地蔵菩薩・普賢菩薩として描かれています。

ここから生まれたのが「権現(ごんげん)」という概念です。

「権(ごん)」とは「仮の」「臨時の」を意味し、「権現」とは「仮に現れた姿」ということです。
大宮権現、二宮権現、聖真子権現──日吉大社の神々はすべて「権現」の名で呼ばれるようになりました。

西本宮編で参道に見た「地主大権現」の燈籠銘は、まさにこの思想の痕跡だったのです。

そして、本地垂迹説の根底にある倫理が「和光同塵(わこうどうじん)」です。

和光同塵とは、『老子』に由来する言葉で、
「その光を和らげ、その塵に同ず」──まばゆい光を和らげ、塵にまみれた世俗の中に身を置くことを意味します。

仏教ではこれを、仏がそのまばゆい智慧の光を和らげ、人々の住む俗世に合わせた姿──すなわち日本の神の姿──をとって現れるという解釈へと発展させました。

「自分こそが正しい」と主張して他者を排除するのではなく、相手の立場や文化に合わせて自分を変化させながら調和を図る。
この柔軟な「和」の精神は、分断が進む現代社会において、私たちが再び思い出すべき「共生の作法」に他ならないでしょう。

神身離脱から権現へ──神仏関係の深化

本地垂迹の思想は、一朝一夕に完成したものではありません。
その前段階として、「神身離脱(しんしんりだつ)」という概念がありました。

奈良時代から平安初期にかけて、神仏習合の初期段階では、神は「業(ごう)が深く苦悩する存在」として位置づけられていました。
神もまた輪廻の苦しみの中にあり、仏の力によって救済されなければならない──そうした考え方から、神社の境内に「神宮寺」が建てられ、神のために読経が行われたのです。

しかし平安時代以降、この関係は大きく転換します。
神は救済される側ではなく、仏が衆生を救うために日本の神の姿を「借りて」現れた存在──すなわち「権現」──へと、その位置づけが進化しました。神は苦悩する存在から、仏の慈悲が「かたち」をとった存在へと変容したのです。

この転換は、日本人の宗教的想像力の成熟を示すものだと言えます。
外来の仏教を受容するにあたって、自国の神を否定するのでも従属させるのでもなく、仏と神を一つの体系の中で「共存」させる道を見出した──それが本地垂迹という思想の達成でした。

王法と仏法──鳥の両翼のように

もう一つ見逃せない視点があります。

中世日本(「本地垂迹説が完成し、理論化された黄金期」──12世紀後半(平安時代末期)から16世紀後半(戦国時代末期あたり)まで)では、神道が支える「王法(おうほう)」すなわち天皇を中心とする国家の権威と、仏教が支える「仏法(ぶっぽう)」は、「鳥の両翼」のように一方が欠けても成立しないものと考えられていました。
これを王法・仏法の相依(そうい)関係と呼びます。

日吉大社は、まさにこの相依関係の結節点でした。
比叡山延暦寺は仏法の中枢であり、日吉大社はその守護神として王法の側──平安京の鬼門鎮護──を担っていたのです。
山王祭の際に天台座主が日吉大社に参拝し、御神前で般若心経を読経される神事は、この王法・仏法の相依関係を今も体現するものです。

思想史研究の視点では、「本地」と「垂迹」という対構造は、「普遍性(仏教)」と「特殊性(神道・日本の風土)」を止揚し、日本独自の文化受容のモデルとなったと解釈されています。

インドに生まれた仏教という普遍的教えが、日本という特定の風土と歴史の中でどのように受け止められたのか。その答えの一つが、本地垂迹であり、山王信仰であり、日吉大社という場所そのものなのです。

争いの時代を超えて──神仏分離と、その先へ

しかし、神と仏の関係は常に穏やかだったわけではありません。

西本宮編でお伝えした通り、日吉大社の明治期の神仏分離は、歴史的にとりわけ激烈なものでした。仏教関連の文物が数千点にわたって焼却されたとされています。この背景には、江戸時代後半に社司が延暦寺にほぼすべての権限を奪われていた積年の怒りがありました。

さらに遡れば、江戸時代初期にも、日吉社の神主が神仏習合を拒んで僧形の御神体を焼くなどの事件があり、延暦寺が幕府に訴えて裁判となり、社家が断絶させられるという出来事がありました。
神仏の「結び」の下には、こうした痛みを伴う歴史が幾重にも折り重なっています。

現在の日吉大社は、明治の神仏分離以降に純神道様式として再編されたものであり、前近代の日吉社の姿──神仏が一体であった時代の形態と祭祀──は、厳密には失われています。しかし、山王礼拝講は、その失われた時代の記憶を、年に一度、現在に呼び戻す証として継承され続けているのです。

2026年の視座から──聖なるものの共生を考える

ここからは、山王礼拝講で感じたことを出発点に、神仏習合が私たちの「今」に何を語りかけてくるのかを考えてみたいと思います。

三つの視座を記します。

✔️ 第一の視座:自然と再接続する「対称的な思考」

神道(アニミズム)と仏教(高度な形而上学)の習合は、人間が自然界や宇宙のネットワークと再融合するための「対称的な思考」のプロセスでもあります。

山に神が宿り、その山で仏道修行が営まれる。
水に聖性を感じ、その水で身を清めて祈る。

東本宮編で体感した「水の聖性」や、八王子山の磐座信仰は、「宗教」という近代的な分類(カテゴリー)が作られる以前の、山や川や岩といった場所から立ち上がる「霊性」そのものです。

神仏習合の舞台は、常に山や森といった豊かな自然の中にありました。日吉大社も比叡山の裾野に抱かれた場所です。神が宿る山で仏道修行に励む。そこには、宗教という枠組みを超えた「大いなる自然への畏怖」があります。

現代において私たちが孤独や不安を感じるのは、この「大きなものとの繋がり」を失ってしまったからではないでしょうか。
神仏習合という視座に立つとき、私たちは単なる「個」ではなく、千年の森や、数多の先祖たちと繋がった「大きな命の流れ」の一部であることに気づかされます。

自然という「共通言語」を通じて、目に見えないものへの謙虚さを取り戻すこと。それは、神道と仏教がかつて共有していた地平であり、私たちが今、再び立つべき場所なのかもしれません。

九座の霊石

✔️ 第二の視座:「祈りの重層性」──生を祝い、死を包む

日本人の祈りは、一つの教義に縛られません。

子が生まれれば神社へ赴き、生命の誕生を自然の八百万(やおよろず)の神々に報告します。一方で、愛する者を失えば寺院で静かに手を合わせ、仏の慈悲にすがり、死後の安寧を願います。

神道が司る「清らかな生のエネルギー」と、仏教が司る「静かな死の受容」。
この二つがグラデーションのように重なり合うことで、私たちの人生のあらゆる局面が、取りこぼされることなく守られてきたのです。

近代が切り捨てた「死者」や「目に見えないもの」との交流を、神道・仏教──あるいはより広い意味での霊性の知恵を総動員して回復していくこと。それは過去への回帰ではなく、未来に向けた精神の再構築とも言えるでしょう。

✔️ 第三の視座:「割り切れなさを愛する心」

かつての日本人は、論理では割り切れない世界の複雑さを、そのまま受け入れる「知恵の器」を持っていました。それが神仏習合という、世界でも類を見ない精神のあり方です。

和光同塵の思想は、「自分こそが正しい」と主張して異なるものを排除するのではなく、相手の立場に合わせて自分を変化させながら調和を図る、共生の作法でした。
本地垂迹という一見複雑な体系の根底にあるのは、「どちらか一方だけが正しいのではない」という柔軟さそのものです。

今、私たちが日吉大社の境内に立ち、
鳥居の向こうに仏の慈悲を感じるとき──
山王鳥居の三角形の破風に神と仏の合一を見るとき──
護法石に天台密教の守護を読み取るとき──
そこにあるのは、論理や思考を超えた「安心感」です。

この「割り切れなさを愛する心」こそが、最も人間らしく、しなやかに生きるための道標ではないでしょうか。

結び──未来へ繋ぐ「心の余白」

「歴史は過去のものではなく、未来の指針である」
つまりは、かつての神仏習合と今の神仏習合とは異なる姿を見い出すことができるのかもしれません。

白黒はっきりさせないことで「安心感」を生み出し、異なる価値観を否定せずに抱きしめる、日本人が長い歳月をかけて磨き上げた「心の文化」
──そこに、現在の私たちが課題とする視座を加えて歩むこと。

宗教という枠組みを超えて、私たちは歴史を未来への糧として前に進むことができます。

日吉大社を三回にわたって語る中で、私が最も深く感じたのは、この地に積み重ねられた「祈りの層」の厚みでした。

▶︎第一の層──八王子山の磐座と霊泉に宿る、自然神道の層。
▶︎第二の層──天智天皇の遷都に伴う、国家鎮護の層。
▶︎第三の層──最澄以来の天台宗によって体系化された、神仏習合の層。

この三つの層は、明治の神仏分離という激烈な出来事を経てなお、完全には剥がれることなく、参道の燈籠に、山王鳥居の破風に、護法石の名に、そして年に一度の山王礼拝講という生きた祭礼の中に、その痕跡を留めています。

参拝とは、こうした歴史の層に一枚一枚触れていく行為です。
目の前の社殿に手を合わせながら、その奥にある千年の祈りの積層に思いを馳せること。 それが、神社仏閣への参拝を通して内なる気づきを得るということの、一つのかたちではないでしょうか。

聖なるものの共生──神仏習合が紡ぐ「日本人のしなやかな精神構造」をこれからどのように育んでいくか。

2026年の今、私たちは改めてこの問いの前に立っています。
近代が引いた「神と仏の境界線」を、もう一度跨いでみること。それは過去へ戻ることではなく、千年の知恵を携えて未来へ踏み出すことです。

目の前の全てにあるのは、論理を超えた「安心感」──自分が大きな流れの中にいるという、静かな確信です。

その答えは、一つの教義の中にあるのではなく、神事と仏事が途切れることなく一つの流れの中で営まれる、あの静かな時間の中に──。
そして、大いなる自然の恵みの中にこそ、宿っているのだと感じています。


では。

いつも、ありがとう^^


@Rico

幸せは自分のために
世界が平和であるために

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