神武天皇御陵から橿原神宮へ──畝傍山を越えてたどる建国の原点と万葉の記憶
@Ricoです。
2023年のラスト巡礼遠征を振り返ってみます!
場所は、またまたの奈良。 今回のテーマは「原点」。
日本国はじまりの地と謳われる橿原の地で、まだ原点とされる場所に手を合わせていないことに気づき、朝いちばんから向かった先が、あの場所でした。
今回の記事では、神武天皇御陵から畝傍山を経て橿原神宮へと至る巡礼の道筋から、橿原神宮と畝傍山の深い繋がりを紐解いていきます。

1. 神武天皇御陵──朝いちばんに原点へ
畝傍御陵前駅に降り立ったのは、早朝7時30分前。
12月の奈良の空気は、ひときわ凛として身体を包みます。

正式名称は
「神武天皇畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのみささぎ)」。
宮内庁が管理する初代天皇の御陵です。
周囲約100メートル、高さ5.5メートルの八稜円形墳で、幅約16メートルの周濠がめぐらされています。
入口からゆっくりと進んでいくと、玉砂利が敷かれた約300メートルの参道が一直線に伸びていて、目の前に敷かれたルートに自然と足が運ばれていきます。
みずからの足音だけがシャリッ、シャリッと響いてくる。
向かうと決めた後に道ができる──そんな意味合いを実感する道です。

しばらくすると、小さく遠くに大鳥居が見えてきます。
手前の橋のまわりには小川がゆっくりと流れていて、自然の清らかな流れで身体が清められていく感覚。

手水舎で手を清め、いよいよ御前へ。
どんな想いで「この国」がはじまると心に決めたのだろう。
この国に未来を託し、この国に生きる者たちの幸せを願い、祈り、すべてが実り多きものとなるために──。
われわれは、ちゃんと気づいているだろうか。
先人の方々の並々ならぬ足跡と想いが重なり合った上に「この国」が在ることを。
日出づる国、日本を最も感じる場所。
朝日をめいっぱい感じて祈ります。

聞いた話では、皇室の方々は橿原神宮に参拝される前に、かならずこの畝傍御陵からお参りされるのだとか。
まさに原点を踏まえた上で神宮へ向かう。
その順序に、深い意味があるのでしょう。
毎年4月3日には宮中において神武天皇祭が行われ、御陵には勅使が参向し奉幣が行われています。
単なる「陵墓」としてではなく、現在も国家祭祀の中心として生き続けている場所なのです。

2. 畝傍山とは何か──大和三山の霊峰
御陵の帰路、階段を抜けて次の場所へ向かいます。
ここからの道が畝火山口神社、そして畝傍山登拝へと繋がっていく道筋です。


ここで、まず畝傍山そのものについて深掘りしておきましょう。
畝傍山は標高199.2メートル。
大和三山(畝傍山・天香久山・耳成山)の中で最も高い山です。地質学的には瀬戸内火山帯に属する死火山であり、かつては現在の2倍以上の大きさがあったとされますが、長い年月をかけて侵食され、現在のなだらかな山容となりました。
「畝傍」の名は、田の畝のような尾根が多くあることに由来するとされます。眺める場所によって山容が異なって見えるのも、この尾根の形によるものです。
古くは「畝火山」「雲根火山」「御峯山」「瑞山」などとも記されてきました。
大和三山は古来、神々が天下る山として神聖視されてきました。
林野庁の記録によれば、その頂部や麓には『日本書紀』に記される天香山神社や、延喜式の式内社である畝火山口神社、耳成山口神社などが祀られています。
また、694年に持統天皇が造営した藤原宮は大和三山に囲まれた平地に位置していたことが万葉集の「藤原宮の御井の歌」から知られています。宮都を営む上で、三山に護られる地形が重要な選地条件とされていたのです。

つまり畝傍山は、この国の始まりから宮都の守護に至るまで、常に聖なる山として在り続けてきた存在なのです。
大和三山を含む周辺地域は、「日本国創成のとき〜飛鳥を翔(かけ)た女性たち〜」として日本遺産にも認定されています。
今でも畝傍山の緩やかな山容は、登山道が整備されていることもあり、季節を問わず多くの方が散策に訪れる親しみやすい山です。しかしその穏やかな姿の内側に、初代天皇の御陵と即位の地を見守り続ける深い霊性が秘められている。このギャップこそが、畝傍山の本質と言えるかもしれません。

3. 山本大師 恵泉寺──空海さんに後押しされて
御陵から畝火山口神社へ向かう途中、八幡宮へ手を合わせます。

さらに、ふと目に入ったのが山本大師 恵泉寺。

最初に目に入ったのは、お寺の入口にあった井戸でした。幟には「弘法大師ゆかりの井戸」とあります。
今回はお寺を挟むつもりではなかったけれど、空海さんゆかりの場所とあれば、やはり後押しをいただいているのかなと──お参りさせていただきます。
本堂の御本尊は石仏のお大師さま。井戸から出た「お大師さまの形見」の石もお祀りされています。

御由緒によれば、近くに水場がなく困っていた村人のために、大師が杖で地面をトントンと叩いて湧いたという井戸が残っています。
畝傍山の周辺には六つの井戸が掘られ、お大師さんの「七ツ井戸」と伝わるが、現在も使用されているのはこの井戸のみとのこと。
お参りしていたらお寺の方にお声がけいただき、井戸の水を汲みやすい場所をご案内いただくという流れに。
空海さんのご縁は、いつもこうして人と人を繋いでくださるのです。

4. 畝火山口神社──登拝前に知っておきたい山の神のこと
恵泉寺を後にし、さらに進むと畝火山口神社に到着。
ここが畝傍山登山口となります。


御祭神と御由緒
御祭神
氣長足姫命(おきながたらしひめのみこと)──神功皇后
豊受比賣命(とようけひめのみこと)
表筒男命(うわつつのおのみこと)
御由緒を拝見すると、創建当初は延喜式祝詞にあるように、皇室の御料林守護のため山麓に山神の霊を祀るとされ、大山祇命を御祭神としていたと記されます。
遷座を繰り返す中で畝傍山山腹や山頂にも御鎮座された時代があり、俗に「お峯山」とも呼ばれてきました。
延喜式の式内社である大和六所山口神社の一つでもあり、806年の「新抄勅格符抄」にその名が記されています。
昭和15年(1940年)、橿原神宮が改装された際に「橿原神宮や神武天皇陵を見下ろすのは良くない」として、山頂付近から現在の畝傍山西麓に遷座されたという経緯も興味深い点です。
境内の見どころ
拝殿に入ると、上中央に神功皇后、側に控えるのが竹内宿禰(らしい)と思われる絵が掲げられています。
拝殿脇には勢いのある神馬の像。そして気になったのが蝶紋。平氏一門に愛用された紋です。

境内には六社が並立しています。
春日神社、埴安彦命神社、大山祇命神社、高良神社、八幡神社、厳島神社。
高良神社は筑後國一ノ宮・高良大社の御祭神である高良玉垂命をお祀りするお社で、その正体が謎に包まれているとされる御祭神です。なかなかお目にかかれない珍しいお社がここにあるのも、畝傍山という聖地ならではでしょう。

祓戸大神の並びには陰陽石(男石と女石)があり、子授け祈願で知られています。神功皇后の御神徳として古くから信仰されてきた場所です。

埴取の祭──住吉大社との深い繋がり
後から調べて特に注目したのが、畝火山口神社の例祭「埴取(はにとり)の祭」です。
大阪の住吉大社では、毎年祈年祭(2月)・新嘗祭(11月)に用いる土器を作るための埴土を畝傍山頂で採取する神事が伝わっています。
住吉大社から「埴使い」が畝火山口神社を訪れ、宮司とともに山上に赴き、土を取る。その土で住吉大社の祭祀に使用する土器を作るのです。
住吉大社神代記では天香久山から採取していたとされますが、現在は畝傍山に変わっています。
この変遷の理由を紐解いていくと、丹生川上神社や三種の神器にまで繋がっていく──神道の根本的な部分が垣間見えると感じるのです。
橿原の畝傍山という「特別な場所」に御鎮座されるからこそ、このような祭りが存在する。畝傍山が単なる山ではなく、国家祭祀と深く結びついた霊山であることを、この神事が証明しています。
5. 畝傍山登拝──万葉の記憶を踏みしめて
畝火山口神社側の登山口から、いよいよ畝傍山登拝へ。テンション上がりまくりで出発します。

木々の間を抜けて進んでいくと、鳥の声とお日さまの暖かさとお山の香りを全身に受けて、生きている実感が湧き上がってきます。

だいたい10分ちょいぐらいで、開けた場所に到着。
畝傍山国有林の標識とともに、ここに記されているのが中大兄皇子(天智天皇)の長歌です。
「香具山は 畝傍を愛(を)しと 耳成と 相争ひき 神代より かくにあるらし」
大和三山の三角関係を詠んだこの歌は、神代から連綿と続く山々への畏敬と愛着を物語っています。
この歌には単なる恋の歌以上の意味があり、土地の神を慰める鎮魂歌としての意味合いもあるとする考察もあるのです。

山頂の禁足地
山頂エリアの三角点のそばに、一目で分かる禁足地がありました。あまりの雰囲気に、近くでの写真は控えさせていただきました。
後から調べてみると、この禁足地の場所こそ住吉大社ゆかりの場所──おそらく、あの「埴取の祭」で埴土を採取する聖域ではないかと推測されます。
畝傍山口神社の例祭と、山頂の禁足地が一本の線で繋がった瞬間です。

山頂からの眺望
霞がかった山頂からの景色は、なんとも印象的でした。
二上山方面の眺め。
さらに山頂をぐるっとまわり込むと、大和葛城山と金剛山が見える。手前の低山が忌部山だそうで──次の参拝先、天太玉命神社(忌部の神)へと繋がっていく流れを感じさせます。


下りでは、別ルートを通り、もう一つの万葉歌が記された場所へ。
「玉襷 畝火の山の 橿原の 日知の御代ゆ 生れましし」
(柿本人麻呂)
神武天皇の御代から次々にお生まれになった天皇が代々お治めになった大和盆地を後にして、天智天皇が都を置かれた近江宮を見て悲しんでいる──
という内容です。
畝傍山の登拝は、体力的には難易度は高くありません。
しかしながら、その実は、万葉の記憶を踏みしめ、摂津國(住吉大社)と繋がり、近江國(大津京)と繋がっていく。
御陵から始まった「原点」の巡礼が、さらに広がっていくことを実感する山なのです。


6. 東大谷日女命神社──畝傍山で浮かび上がる「熊野」の影
畝傍山の下山途中、またまた気になるお社が。
それが東大谷日女命神社(ひがしおおたにひめのみことじんじゃ)です。

御祭神と創始の記録
御祭神
媛蹈鞴五十鈴媛命──神武天皇の皇后
神武天皇の皇后が畝傍山の麓にお祀りされているのは、ある意味当然かもしれません。しかし、ここで注目すべきは、元々の祭祀のあり方です。

明治11年(1878年)頃までは、熊野権現として伊弉册尊(イザナミ)が祀られていたという記録が残っています。
「神武天皇と熊野」──このキーワードが、ここで強烈に浮かび上がってきます。
神武東征の物語において、熊野は極めて重要な地です。紀国(現在の和歌山県)の熊野に上陸した神武天皇は、天照大神の遣わせた八咫烏に導かれ、吉野の険しい山を越えて大和に入りました。
畝傍山の麓で、かつて熊野権現として祀られていた場所が、のちに神武天皇の皇后を祀る社に変わっている。
この変遷の中に、「橿原宮(即位の地)」と「熊野(東征の転機の地)」を結ぶ古い記憶が眠っているのかもしれません。
義民顕彰碑や庚申塔、太神宮の石灯籠など、境内にはさまざまな時代の痕跡が残されており、この地が長きにわたり人々の信仰の場であったことが伝わってきます。


7. 橿原神宮──「日本のはじまり」に手を合わせる
東大谷日女命神社を後にし、しばらく進むと──橿原神宮の参道に出ました。


畝傍山を越えて御陵側から橿原神宮へ至るルートがあることを、この時初めて知りました。
※実は、橿原神宮自体は既に3回目の参拝となっています
→1回目は、2022年女人大峯登拝の始まりで。
→2回目は、無事に登拝を終えた報告で。
神武東征──橿原に至るまでの道のり
橿原神宮の意味を深く理解するには、神武天皇がこの地に至るまでの東征の物語を知る必要があります。
橿原神宮公式サイトの記述を以下参照します。
天照大御神の五代目にあたる神武天皇は、互いに争うことのない、永遠に困窮しない国を実現するため、九州の日向国・高千穂から東へ向かいます。
御年45歳で日向を出発し、瀬戸内海を経て大阪・難波に上陸。しかし河内の豪族・長髄彦の激しい抵抗にあい、兄の五瀬命はこの時の傷が悪化して紀国の男之水門で絶命します。
太陽に向かって(東に向かって)戦うのは天神の子としてふさわしくないと考えた神武天皇は、南から回り込んで紀国・熊野へ。そこで天照大神の遣わせた八咫烏に導かれ、吉野の険しい山を越えて大和に入りました。
宇陀、忍阪と進みながら幾多の抵抗勢力を平定し、ついに長髄彦との再戦に勝利。
6年という歳月を経て、畝傍山の東南・橿原の地に都を定められたのです。
この東征の物語で特筆すべきは、神武天皇が「天業恢弘(てんぎょうかいこう)」──天子の事業を推し広めること──を使命としていた点です。
橿原神宮公式サイトでは、神武天皇が大和・橿原こそ日本を統一し国家体制を築き上げる場所であると確信されたと記しています。
つまり橿原は「たまたま行き着いた場所」ではなく、天照大神の御言葉に従い、強い意志をもって選び取られた「この国の中心」なのです。

橿原神宮の御由緒
日本最古の正史とされる『日本書紀』において、日本建国の地と記された橿原。
天照大御神の五代目にあたる神武天皇は、互いに争うことのない、永遠に困窮しない国を実現するため、九州の日向国・高千穂から東へ向かいます。
6年の歳月を経て大和に入り、畝傍山の東南、橿原の地に都を定められました。
そして紀元前660年1月1日(新暦2月11日)、橿原宮にて第一代天皇として即位されました。

御祭神
神武天皇(神日本磐余彦火火出見天皇)
媛蹈韛五十鈴媛命(皇后)
媛蹈韛五十鈴媛皇后は、『日本書紀』では事代主神と玉櫛媛との間にお生まれになった方とされ、『古事記』では大物主神の御子とされています。
いずれにしても三輪山に坐す神の御子であり、橿原と三輪山の繋がりがここにも見えてきます。
創建──民の請願が動かした歴史
橿原神宮の創建は明治23年(1890年)4月2日。
近代の創建ではありますが、その経緯は極めて特別です。
明治22年(1889年)、橿原宮があったとされる地に神宮を創建したいという請願が民間有志から起こります。これに先立ち、奈良県高市郡高取村の西内成郷が明治9年(1876年)から橿原宮の特定調査を開始し、畝傍山東南山麓の「御宮趾ト言ヒ伝」えのある場所を特定。
宮内省の実地検分を経て「神武天皇橿原宮旧跡」として保存されることが決まりました。
明治天皇は深く感銘を受けられ、京都御所内の天照大神が祀られていた内侍所(賢所)を御本殿として、新嘗祭が執り行われていた神嘉殿を拝殿として下賜されました。
つまり、御本殿は「天照大神を祀る場」であり、拝殿は「新嘗祭の場」であったもの。天照大御神の直系たる神武天皇をお祀りするにふさわしい建物が、京都御所から移されたのです。
本殿は安政2年(1855年)に建てられたもので、国の重要文化財に指定されています。

有り難く、手を合わせます。
畝傍山との不可分の関係
この巡礼で最も実感したのは、橿原神宮と畝傍山は切り離すことができないということです。
日本書紀の神武即位紀には、「畝傍山の東南、橿原の地」に宮を造ったと明記されています。
畝傍山は宮の「背後の山」であり、この地理的関係こそが「橿原の地」を「橿原の地」たらしめている根拠です。
神武天皇御陵は畝傍山の東北に位置し、橿原神宮は東南に位置する。
畝傍山を中心として、御陵と神宮が山を挟んで配置されている。
そして、持統天皇の藤原宮が大和三山に護られるように造営されたことからもわかるように、古代の人々は山の配置に極めて重要な意味を見出していました。
御陵から畝傍山を登拝し、山頂の禁足地に手を合わせ、下山して橿原神宮に至る──この道筋は、建国の物語をなぞる巡礼路であると同時に、畝傍山という霊山が「即位の場」と「永眠の場」の双方を見守っている構図を体感する道なのです。
参拝──新嘗祭前日の静謐
今回の参拝は、翌日の新嘗祭(11月23日)を控えた日。
参道を進み、大きく羽を伸ばしたように伸び上がる木に目を奪われながら、境内へ。
菊花展が開催されており、さまざまな菊が展示されていました。

美しい外拝殿から手を合わせます。
畝傍山を背に佇む社殿の姿は、まさに「日本建国の地」にふさわしい荘厳さを感じます。
約53万平方メートルの広大な神域に、素木造りの社殿が静かに建ち並ぶ姿。
八咫烏のモチーフでお迎えいただきます。神武東征の際、天照大神の遣わせた八咫烏に導かれて大和に入ったという故事を象徴するものです。


長山稲荷社──橿原神宮以前からの地主神
さらに、長山稲荷社へ。
御祭神
宇迦能御魂神、豊受気神、大宮能売神。
橿原神宮の御造営・御鎮座以前から、この長山の地にお祀りされていた地主神です。
今回、初めて午前中に参拝できたからか、以前とは違う印象を受けました。地主神とは、その土地に最初から在す神。
橿原神宮が創建されるよりも遥か以前から、この土地を守ってきた存在なのです。


神饌田──新嘗祭へ繋がる稲穂の物語
新嘗祭前日ということで、神饌田にも手を合わせます。
6月の「御田植奉告祭」では、祭典後に忌苗(いみなえ=罪穢れのない清浄な苗)を植え、秋の「抜穂祭」を経て刈り入れた後、豊穣の感謝を込めて新嘗祭(11月23日)で御神前にお供えいたします。
この一連の稲作祭祀こそ、神武天皇が目指した「豊葦原の瑞穂の国」の理想の具現です。
橿原神宮の年間祭事には2月11日の紀元祭(例祭)、4月3日の神武天皇祭をはじめ、この国の原点に立ち返る祭典が数多く行われています。

8. 視点の深掘り──「御陵→畝傍山→橿原神宮」が描く円環
今回の巡礼で体感した「御陵→畝傍山→橿原神宮」というルートは、実は円環構造を持っています。
神武天皇は御年45歳で日向を発ち、6年をかけて大和に入り、畝傍山の東南に即位。その後、76年の治世を経て127歳で崩御され、畝傍山の東北に葬られた。
つまり、即位の地(橿原神宮)→崩御の地(畝傍山東北陵)→そしてまた参拝者が御陵から歩き始め、橿原神宮へ向かう──この道は、終わりのない「祈りの循環」なのです。
皇室の方々が橿原神宮の前に御陵から参拝されるのも、この循環を体現する行為と言えるでしょう。
さらに言えば、畝傍山そのものが、この循環の「軸」として機能しています。山頂の禁足地は住吉大社の祭祀と繋がり、山口神社は延喜式の古社として山を守り、東大谷日女命神社は皇后(そして熊野の記憶)を留めている。畝傍山は単なる地理的なランドマークではなく、この国の祭祀と歴史の「結節点」といえるでしょう。
そして、この巡礼はここで終わりではありません。
橿原から天太玉命神社(忌部の地)を経て、桜井の等彌神社──鳥見山霊畤へと続いていきます。
神武天皇が即位後初めて皇祖天神を祀った場所。大嘗祭はじまりの地。
即位だけでは建国は完成しません。
天神への祭祀を行い、その承認を得て初めて、天皇の位が定まる。
その物語の後半は、次回の記事でお伝えします。
まとめ──原点とは何か
日本国はじまりの地、橿原。
朝いちばんに御陵で感じた凛とした空気。
畝傍山を登り、万葉の歌碑に触れ、禁足地の前で畏敬を覚えた瞬間。
下山して畝傍山の東南に佇む橿原神宮に手を合わせた時、ようやく「原点に立った」という実感が身体の奥から湧き上がってきました。
毎日、お日さまが昇ること。
それを感じて生きることは、当たり前ではない。
遥かむかしに「この国」をはじまると決めた、その想いに応えるために。
この身体を使い、十二分に「生きる喜び」を感じるために。
だれもが生きたいと願った今日という一日に、しっかりと地に足をつけて生きているだろうか。お日さまや自然に感謝して、生きているだろうか。
日本に生まれて、この上なく幸せだと。
だからこの場所に、朝いちばんで感謝を伝えたかったのです。
では。
いつも、ありがとう^^
@Rico
幸せは自分のために
世界が平和であるために
