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女人大峯登拝ねえさんぽ【後編】おかげさまで辿り着いた祈りの頂

@Ricoです。

女人大峯・大日山登拝当日。
母公堂から始まる登拝の道のりで体験した「生かされている」という深い気づき。下山後の龍泉寺御礼参り、そこから山の辺の道へ向かうまで、魂の浄化と感謝の旅路の完結編。

はじめに|朝4時半、いよいよ登拝のはじまり

前編でお伝えした禊の夜が明けて、ドキドキと期待が入り混じる早朝4時半。まだ薄暗い洞川の宿を出発する時がやってきました。

お寺の方にご準備いただいた金剛杖を手に、今日という日を迎えられたことへの感謝が自然と湧き上がってきます。この杖は、これから始まる登拝の相棒。どちらのお方にしようかなと選んだその瞬間から、すでに登拝は始まっていたのかもしれません。

今回の後編では、いよいよ女人大峯への登拝本番。母公堂から稲村ヶ岳〜大日山頂上までの道のり、そして下山後の龍泉寺での御礼参り、さらに翌日の変化までをお伝えしていきますね。

「すべてが恵みである」 「生かされている」 「おかげさま」

この三つの言葉が、今回の登拝を通じて私の中で一つに結ばれていく。そんな体験を共有できれば幸いです。

1章|母公堂から始まる祈りの道

夜明け間際の女人結界

早朝5時。まだ夜明け前の薄暗さの中、登拝のはじまりの場所「母公堂」へ到着しました。

母公堂(ははこどう)は、修験道の開祖・役行者さまの御母堂「白専女(しらとうめ)」を祀るお堂です。

龍泉寺が1960年に女人禁制を廃止し、近くの稲村ヶ岳の女性ガイドを「女先達」として認めたこともあり、20世紀の後半には、稲村ヶ岳は登拝のコースとして「女人大峯」(にょにんおおみね)と呼ばれ、知られるようになるのです。

入り口に立つ石碑には「従是女人結界」の文字。
現在は山上ヶ岳の登山口にある女人結界門まで女性も進むことができますが、かつてはここが女性の入れる最後の場所でした。

母の愛が見守る場所

母公堂の謂れには、深い親子の愛が込められています。

役行者が大峯山で修行をしていた時、母がこの地まで訪ねて来て、下山してきた息子と会ったとされている場所。その優しさを受けて、白専女はこちらの母公堂で今も見守り続けているのです。
※弘法大師空海の母を想う物語の「慈尊院/九度山」と重なりますね。。。

「南無白専女」
「南無白専女」
「南無白専女」

手を合わせお勤めをさせていただきながら、母なる存在に見守られていることの有り難さを感じます。われわれは誰もが、愛に包まれて生きている。
そんな当たり前のことを、この薄暗い朝の空気の中で改めて実感しました。

一歩一歩、ゆっくりと

いよいよ登拝のスタートです。

あまりにドキドキしていて、最初の入り口から20分ほど、写真をまったく撮っていなかったことを後から気づきました。それほどまでに、この瞬間に集中していたのでしょう。

先達さんの方の後について、初めての道のりに、やや緊張しつつ、薄暗い景色のなか山道をゆっくり、ゆっくりと進んでいきます。

実は、この登拝グループには80歳の方も参加されていて、チームは二つに分かれて進みます。年齢を重ねても、こうして登拝に挑戦される姿に、人生の深さを感じずにはいられません。

2章|山が教えてくれる「生かされている」という真実

自然の神秘に包まれて

一歩一歩、歩みながら、山の景色に少し靄(もや)がかかったように、緑の濃いなかにうっすらと全体を神秘的ななにかが包み込むような、このお山のはじまりを印象づける景色が、少し重さを称えながら広がっています。

歩きながら、時折り耳にする鳥の鳴き声。 さらにお山独特の香り。 まったく時間の感覚を忘れるかのように、目の前の道を金剛杖に力をいただきながら、ゆっくりゆっくりと進みます。

法力峠での気づき

しばらくすると、向かう先を示す案内板。 さらに進むと、法力峠に到着です。

たくさんの焼き印が押された金剛杖を標識とともに。

これまでにこの道を歩いた多くの登拝者たちの足跡を感じます。私もまた、この長い歴史の一部となっている。そんな不思議な感覚に包まれます。

向かうは大日山、稲村ヶ岳方面。

途中では、緑のなか、鮮やかなお花が迎えてくださいました。自然は何も求めることなく、ただそこにあって、われわれを迎えてくださる。
これこそが「おかげさま」の原点なのかもしれません。

膝の痛みが消えた奇跡

実は前日、ちょっとしたハプニングで膝を痛めていたのです。登拝できるか不安でしたが、不思議なことに山道を歩き始めると、痛みがまったく感じられません。

「膝も痛くない!」

めっちゃ、うれしい。
(これも、お山の御力添え?)
自然と深い感謝が溢れます。

普通に歩けることの大切さ、ありがたさをしみじみと感じます。当たり前のことが当たり前でない。健康であること、歩けること、呼吸ができること。すべてが恵みだったのです。

この時点で、登拝開始から、およそ2時間経過。途中、たくさん休憩を入れながら、まだまだ続く道のり。

3章|試練と恵みが織りなす登拝の道

自然が見せる様々な表情

光に透ける葉っぱの陰。 そして花のように照らされる緑鮮やかな陽。

お山のさまざまな表情を拝見しながら、時折り現れる吊り橋や、ユラユラする階段に注意しながら進んでいきます。

こーんなガッツリのよじ登り場所もあったりします。
結構、こういう場所が好きだったりしますが。。。
チャレンジすることで、自分の中に眠っていた力が目覚める感覚があるのです。

先達さんから学ぶ知恵

途中、先達の方にいろいろなお話をうかがいました。

お山について知らなかったこと、この登拝のこと、お寺のこと。
興味深い話が満載です。

大日山の標高は1,689m。山頂に大日如来を祀る祠があり、地元の村が干害に悩まされると、村人は雨乞いを行うために岸壁をよじ登り祈祷を行ったという歴史があるのです。

人々の祈りが積み重なった聖地。その重みを感じながら歩くと、一歩一歩に意味が生まれてくると思うのです。

朝8時、変わりゆく山の表情

8時ごろになると、空も明るくなってきて、お山全体の雰囲気も早朝とは変わって感じます。

振り返ると、これまで歩いてきた道が遥か下に見える。自分がこんなに登ってきたのかと驚きつつ、同時に「よくここまで来れたな」という感慨深い気持ちになります。

でも、まだまだ登拝は続きます。

4章|山上辻、そして大日山へ

稲村岳山上辻での朝食

中盤まで進んできたところで、稲村ヶ岳山上辻にある休憩所に到着。 こちらで朝食タイムです。

気持ちのいい青空が広がっています。少し風が吹いていて、汗ばんだ体に心地よい。

ここで食べる朝食の美味しいこと。普段の食事とは違う、特別な味がします。きっと、体を動かして、自然の中で、仲間と一緒に食べるから。すべてが調味料となって、シンプルなおにぎりさえもご馳走に変わるのでしょう。

いざ、大日山へ

ゆるりと休憩してから、いざ、大日山へ向かいます。

自然の景色にお日さまが降り注ぎ、すべては調和のなかにある。そんな感覚に包まれながら、山並みの向こうに見える大日山を目指していきます。

登る。
さらに、登る。
さらに、さらに登る。

急勾配の上りを、えいっ!と気合いを入れて登り切った先に……

大日如来さまとのご対面

ふと、景色を見れば、山の峰々が眼下に連なります。

うわぁ、、、
と思う間もなく、ラストの難所を潜り抜けた先には、大日如来さまがいらっしゃいます!

奥のお社に大日如来さまの御姿。 (大分、痛んでいて、申し訳ない気持ちになる……)

山頂到着は、概ね10時。 こちらの場所でお勤めです。

5章|頂上で溢れた涙の意味

込み上げてきた想い

ここでのお参りは、なぜか特別な想いが込み上げてきました。

この登拝に至るまでのさまざまな想い。 自分が感じた強さと弱さ。
吉野から信貴山へと繋がる道に躊躇する自分もいたこと。
参拝を重ねることが、やがて本来のすべての祈りに繋がりますよう。

さらには、これまで多く重ねてきた参拝場所には、必ず、大日如来さまがいらしていただけていたこと。
それを振り返り思い出してきたら、うるっと涙が溢れます。

見守ってくださることへの感謝

見える見えないに関わらず、必ず見守ってくださっていただけていることへの感謝が、少しばかりでも、この登拝によって伝えられたら有り難いと思います。

天と地と。 空と風と。

この頂上で感じた想いと景色を胸に、また、日常の大切さを感じつつ。

「雨乞いの山」としての大日山の歴史は、まさにこの地が持つ深い意味を表しています。

人々が何百年もの間、生活と命に関わる「水」を求めて、険しい岩壁をよじ登ってまで祈りを捧げ続けてきた場所。その奉納剣先の一つ一つに込められた切実な願いと信仰の重みを感じます。

何百年もの間、人々がここで祈り続けてきた。その祈りの連鎖の中に、今、私もいる。

頂上の青空に感謝!


すべてが恵みだった

振り返ってみれば、ここまでの道のりすべてが恵みでした。

前日の膝の痛みさえも、「普通に歩けることの有り難さ」を教えてくれた恵み。 80歳の参加者の存在も、「年齢は言い訳にならない」ことを教えてくれた恵み。 急勾配の道も、「自分の中に眠る力」を引き出してくれた恵み。

すべてが、必要なタイミングで、必要な形で与えられていたのです。

心は空海さんとともに。


6章|下山、そして美しい自然との対話

無事の下山を祈って

「ありがとうございます。無事に下山しますね!」

大日如来さまに手を合わせ、いざ下山です。

下りは登りとはまた違った注意が必要。足元に気をつけながら、でも時折立ち止まって、この美しい景色を目に焼き付けます。

最も美しかった瞬間

今回の登拝のなかで一番美しいと感じたのがこの瞬間でした。

頭上から降り注ぐお日さまの光と、それに応えるような緑の鮮やかさ。 そして澄み切った山に響き聴こえる鳥の声。

このひとコマが、山を含めた目の前の世界が自然と調和した美しさを現していると感じます。苔ちゃんもイキイキと輝いて見えます!

自然は何も言葉を発しないけれど、その存在すべてで「生きる」ということを教えてくれている。そして、われわれはこの大いなる自然の一部として生かされている。そんな実感が、下山の道すがら、より強くなっていきます。

母公堂への帰還

あっという間に最初の休憩ポイントだった法力峠に到着です。

そして、無事にスタート地点の母公堂に到着。
このとき、時間は13時34分。

あらためてこちらでお勤めいたします。

貴重な体験と素晴らしい登拝をさせていただきました。 役行者さまのお母さまも見守っていただきありがとうございます。

今回、授かった御朱印。それは単なる証ではなく、この体験を日常に持ち帰るための大切な「印」となりました。

7章|下山後の御礼参り〜龍泉寺での感謝〜

空き時間が生んだ導き

みなさんのおかげさまで無事に下山。

帰路にて発見した看板の言葉を再確認しながら、その後、女性陣よりも1時間以上前に登拝出発した男性陣がまだ帰って来ないので、先に宿に到着してから空き時間が発生。

て、ことは……御礼参りできますね!

宿から歩いて再びの龍泉寺さんへ。

八大龍王への感謝

洞川エリア、再びの龍泉寺さん。 八大龍王、修験門が光って見えます。

真言宗大本山 大峯山龍泉寺。

水行した場所。 役行者さま、ありがとうございます。

さらに、峰入橋を渡ります。 手水舎の水が、登拝後の体に染み渡るように清々しい。

本堂での御祈祷

タイミングよく御朱印を授かります。

登拝前に御祈祷をいただいた本堂。
ご本尊、弥勒菩薩さま。
これまで耳にしたことのない素晴らしい法螺の音が今でも心に残っています。

この右をずっと進んでいくと、倶利伽羅剣。
こちらは、柴灯護摩道場になっています。

八大龍王堂での報告

さらに進んでいくと、龍の口。


龍王橋を渡り、向かった先は八大龍王堂。

手前の柱を支える龍さま。 そして、遠くから見守っているお不動さま。

お堂の中に失礼いたします。

このなかで、今回の登拝の御礼と、巡礼させていただいたことのご報告と感謝をお伝えいたします。

天井の龍画が本当に素晴らしく、圧巻!
お堂のなかは、ほかも素晴らしいので、ぜひぜひ、お参りくださいね。 (特に、中央の剣が好き)

法具許可という贈り物

スピードダッシュで宿まで戻り、みなさんと一緒に食事の時間となります。
本当に、ありがたやのお参りになりました。

さらに食事のときに、こちらもビックリ! 法具許可をいただきました。

これは単なる許可証ではなく、「あなたも祈りを捧げる者として認められた」という証(なのだと思っています・・・)。
責任と同時に、大きな喜びを感じた瞬間でした。

8章|すべてが繋がっていく「おかげさま」の真実

導きの糸を辿って

振り返ってみれば、この女人大峯登拝への道は、信貴山朝護孫子寺への参拝から始まっていました。

前月の参拝で受け取った気づきとキッカケが種となり、それが芽を出し、わずか1ヶ月後には女人大峯への登拝という蕾へと繋がっていきます。

風の神様(龍田大社)が教えてくれた「気」の流れ。
神武天皇(橿原神宮)が示してくれた困難を乗り越える勇気。
蔵王大権現(金峯山寺)が見せてくれた慈悲の姿。
弁財天様(天河大弁財天社)が奏でてくれた調和の音。
龍泉寺での禊が清めてくれた心と体。

すべてが必要な準備だったのです。


生かされているという実感

大日山の頂上で感じた「生かされている」という実感。

それは単に「生きている」のではなく、無数の存在に支えられ、守られ、導かれて「生かされている」ということ。

母公堂の白専女さまの愛。
80歳の登拝者から学んだ人生の深さ。
先達さんから受け継いだ知恵。
自然が見せてくれた美しさ。
仲間と共に歩んだ喜び。

すべてが「おかげさま」だったのです。

日常に持ち帰る宝物

登拝を終えて日常に戻っても、この体験は私の中で生き続けています。

朝、目が覚めて呼吸ができること。 足が動いて歩けること。 美味しくご飯が食べられること。

すべてが当たり前ではない、有り難い恵みだということを、体験を通じて知ることができました。
当たり前ではないと頭では理解していても、実際に感謝というとそれは「意識外」となる場面が多くありましたが、視点が一つ変化しました。

9章|あなたへのメッセージ〜次なる一歩のために〜

特別な場所でなくても

この登拝の体験を通じて、最も大切だと感じたこと。
それは、特別な場所に行かなくても、日常の中に「聖なるもの」は存在しているということです。

朝日を浴びる瞬間。
風を感じる時。
誰かの笑顔に出会った時。
美味しいものを「美味しい」と感じられる時。

すべてが小さな奇跡であり、恵みなのです。

「おかげさま」で生きるということ

「おかげさま」という言葉。

それは単なる挨拶ではなく、私たちの存在の本質を表す言葉だったのです。

太陽のおかげさま。 大地のおかげさま。 水のおかげさま。 空気のおかげさま。 そして、すべての命のおかげさま・・・

私たちは無数の「おかげさま」に支えられて、今ここに存在している。

あなたの登拝は始まっている

もしあなたが今、人生の岐路に立っているなら。
また、何か新しい挑戦を前に躊躇しているなら。
または、日々の生活に疲れを感じているなら。

思い出してください。 あなたもまた、大いなる存在に生かされ、守られ、愛されているということを。

登拝は山に登ることだけではありません。 日々の生活の中で、一歩一歩、自分の道を歩むこと。 それこそが、また立派な登拝なのです。

感謝の循環を生きる

受け取った恵みは、次の誰かへと渡していく。 そうして感謝の循環が生まれていく。

私がこの体験を文章にしたのも、その循環の一部。
あなたがこれを読んで何かを感じてくださったなら、それもまた循環の一部。

そして、あなたが誰かに優しくすることも、笑顔を向けることも、すべてが感謝の循環となっていくのです。


女人大峯登拝ねえさんぽ。
それは、大いなる挑戦でもありましたが、それを超えた体験となりました。

「すべてが恵みである」
「生かされている」
「おかげさま」

日常に戻った今も、あの大日山の頂上で感じた風、光、そして涙の温かさを忘れることはありません。

困難も喜びも、すべてが恵み。
強さも弱さも、すべてが宝物。
出会いも別れも、すべてが導き。

そう思えるようになったのは、この登拝のおかげさまです。

あなたの人生にも、きっと同じような恵みが用意されています。
それに気づくか気づかないか。
受け取るか受け取らないか。
その選択は、いつでも委ねられているということ。

そして、忘れないでください。 あなたは決して一人ではない。
大いなる存在に見守られ、生かされているということを。

次回は、登拝翌日に訪れた「山の辺の道での新たな発見」についてお伝えしたいと思います。

人生という登拝の道は、まだまだ続いていきますね。

では。

いつも、ありがとう^^

@Rico


幸せは自分のために
世界が平和であるために

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