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大星百貨店跡地❷ 迷子放送【創作大賞2026・ミステリー小説部門】



【第一部 URL】


【第二部】 迷子放送


第四章 誕生日プレゼント


 琴音はメニュー表を見つめながら眉間にしわを寄せている。

「あら、食べたいものが無いの? 他のお店が良かったかなあ?」

 母親の香苗が思わず声をかけた。

「ううん、違うの……メロンクリームソーダにするか、プリンアラモードにするか、決められなくて……」

「なんだ、そんな事か。琴音、もうすぐ誕生日じゃないか。どっちも頼めばいい。」

 ニコニコの笑顔を琴音に向ける父、真一郎。

「本当に!? いいの!!?」

 今にも、その場で立ち上がりそうな勢いで喜ぶ琴音は、3日後の12月8日、11歳の誕生日を迎える。

「今日は琴音の好きなもの、プレゼントに買ってやるからな。これ食べたら見に行こう。」

「ええ、そのために来たんだもんね。」

「やったーーー!!」

 琴音は目を輝かせながら、思わず両手を上げ、その拍子にメロンソーダを倒しかけた。

「わあぁっ!」

 3人は互いに目を合わせた後、ひとしきり大笑いした。

 今日はクリスマスも近付いてきた、12月最初の日曜日。

 歩く場所にも困るくらいの人の多さで、大きなクリスマスツリーや電光の装飾がいたる所に煌めいている。

 天気はあいにくの雨天だが、このデパートはそれを忘れてしまうくらいの熱気に包まれていた。

「ねえ琴音、何が欲しいの? おもちゃ屋さん、行ってみる? シルバニアファミリーとかどう?」 

「お母さん、私もう11歳だよ? さすがにシルバニアファミリーはないって。」

 琴音は、少し気恥ずかしそうに笑った。

「うーん……そうだなあ。可愛いお洋服が欲しい!!」

「あら、いいじゃない。お洋服売り場は6階だったかしら?」

 3時のおやつも食べ終えて、気が付けば夕刻。

 今日のご飯はデパ地下でお惣菜でも買って帰っちゃおうかしら、なんて事を香苗は考えていた。

「ねえ、見て! 着いたよ!」

 無邪気な笑顔を両親それぞれに向けた後、琴音は走り出した。

 昔大好きだったはずの子ども服のお店には目もくれず走って行く娘。

 真一郎と香苗は、寂しいような、嬉しいような不思議な気持ちになった。

 少しして琴音が足を止めたのは、淡い子ども服の並びが途切れた先、背の高いマネキンたちが並ぶ、お姉さん向けの洋服売り場だった。

「いらっしゃいませ。」

 店員の女性は、細い指でワンピースの裾を整えながら柔らかく笑った。

 線の細い、モデルのようなスタイルの店員さんに笑顔を向けられ、琴音は思わず視線を逸らした。

「俺はちょっと本屋に行って医学書でも見てくる。何でも好きなもん、買ってあげて。」

 ピンク色を基調とした、子ども服売り場に居心地が悪くなった真一郎は、そう言うと財布から大星カードを取り出し、香苗に手渡した。

「本日はどのようなお洋服をお探しで?」

「この子、今週の水曜日が誕生日で。プレゼントを探しに来たんです。」

「あら、それはおめでとうございます! 親子でお買い物、素敵ですね。何歳になられるんですか?」

「11歳です!」

 琴音は胸を張った。

「……だから、少しカッコいい、お姉さんみたいな服が着てみたい!」

 と続けた。

「えー。琴音にこんな服着こなせるのー?」

 笑いながらそう言う母親に対し、琴音は少しむくれて見せた。

「よかったら、いくつかご試着されてみますか?」

 店員さんがおすすめのワンピースを並べてくれた。

「わああ、着てみたい!!!」

 琴音が笑顔で香苗の方を見た。

ーーその時、少し離れた物陰から琴音に向けられたカメラに誰も気付いてはいなかった。



第五章 白い部屋


 窓のない部屋に、白い花が並んでいた。

 花瓶の水は濁っているにもかかわらず、誰もそれを取り替えようとはしない。

 白い壁に囲まれた一角、大きな白い半透明の幕。

 幕の方向を向き、正座をする女性の後ろ姿がある。

「彼が亡くなったのは誰のせいでもないのです。静江さん、あなたは本当によくここまで頑張ってこられましたよ。」

「はい……ありがとうございます……」

「貴女が苦難を乗り越え、今日を迎えられたのには意味があるのですよ。貴女は選ばれているのです。」

 皺の深い手を合わせ、背中を丸め俯いていた静江はゆっくりと顔を上げた。

「残された家族は、正しく導かれなければなりません。娘さんを穢れから遠ざけるのです。」

「はい……」

 静江の張り詰めた表情の奥に、静かで、揺るぎない意志が宿っていた。

 その時、部屋の向こう側から、ウィーン……と、自動扉の開閉音が聞こえた。



第六章 試着室


「これも可愛いけど……こっちも可愛いな……」

 鏡の前で琴音は迷っていた。

「よかったら全部ご試着されますか?」

 店員の女性はハンガーを整えながら柔らかく微笑んだ。

「じゃあ……着てみます!」

 琴音は少し照れくさそうに服を受け取った。

 落ち着いたカラーの大人っぽいワンピース。

 10歳までの自分より、少しだけ背伸びしたみたいだった。

「琴音ちょっとさ、お母さんお手洗いに行って来るね。お姉さんに見てもらっててくれる?」

 さっき飲んだコーヒーが効いてきたのか、香苗は化粧室に向かった。

 クリスマス前の日曜日。

 6階にはまた別の喫茶が入っているうえ、子ども連れの母親も多く、化粧室には長い列ができていた。

 その頃、琴音はそーっと試着室のカーテンを開けた。

「あら、とてもよくお似合いですよ!」

 店員の女性は、小さく目を細めながら手を合わせた。

 琴音は照れながら鏡の前でくるっと一回転してみせた。

 スカートの裾がふわりと舞い上がる。

「こっちも着てみたい!あと……これも。」

 琴音は少しファッションショーのモデル気分だった。

「葉月さん、このジャケットって在庫まだありましたっけ?」

 別の店員が声を掛ける。

「あー……ホワイトなら、まだ数点あったはずです。」

「葉月お姉さんっていうんだ。」

 琴音が嬉しそうに言った。

「綺麗な名前。」

 葉月は少し驚いたように笑った。

 「ありがとう、あなたはことねちゃん……っていうの?」

 葉月はその名前を口にした後、一瞬だけ息を止めた。

 けれどすぐに、店員らしい笑顔に戻った。

「可愛いお名前ですね。」

 母親の居ない場所で、大人の店員さんと名前を呼び合う。

 琴音は、なんだか大人のお友達ができたみたいだった。

 何着目かの試着を終えた頃だった。

「ことねちゃん、ごめんね。」

 葉月は申し訳なさそうな顔で笑った。

「お姉さん、もうお仕事の時間終わりなの。続き、別の店員さんでも大丈夫かな?」

「え……そうなの……」

 琴音は残念そうな表情を浮かべた。



第七章 蛍の光


 やっと化粧室から出てきた香苗は、真っ直ぐに元いた店に向かった。

 店に着き、店内をぐるっと歩くも、琴音の姿が見当たらない。

 ラックの前。
 鏡の前。
 試着室の前。

 さっきまで確かに居た場所だが、綺麗に空いていた。

 試着室のカーテンはすべて開いている。

 誰も居ない。

 それに、先ほど接客してくれていた、若い店員の姿もない。

「あの……すいません。ここに娘が居たと思うんですけど……」

 レジで作業をしていた、年配の店員が顔を上げた。

「もしかして、一ノ瀬が接客されていたお嬢様ですか?」

「はい、オレンジのワンピースの……」

「ああ……一ノ瀬でしたら、少し前に上がりました。今日は17時まででしたので。」

「そうですか……」

「お嬢様も、気が付いたら姿が見えなくなっていたので、てっきりお母様の所へ行かれたのかと……」

 香苗は曖昧に頭を下げた。

ーー確かに、かなりの時間待たせてしまったし、退屈して別の店でも見に行ったのかも知れない。

 そう思おうとした。

 だが、胸の奥に小さな棘のような違和感が残る。

 琴音は勝手にどこかに行くタイプではない。

 特に、人の多い場所では。

「分かりました……ちょっと探してみます」

「心配ですね……私もそれらしいお嬢様をお見かけしたら、声を掛けるようにいたしますね。」

 香苗は隣の店、向かいの店、通路の奥まで見て回った。

 だが、どこにも居ない。

 人は大勢居るのに、琴音だけが居ない。

 館内にはクリスマスソングが流れ続けている。

『♪ジングルベール、ジングルベールーー』

 もう閉店も近付いているのに、むしろ賑わいは増していた。

 買い物袋を下げた客たちの笑い声。

 店員の売り込みの声。

 その全てが、香苗には急に遠く感じられた。

ーーお手洗いまで迎えに来た……?

 そう思い、化粧室まで戻る。

 だが、やはり居ない。

「えー、どこ行ったのよもう……」

 焦りと疲労で、胸の奥がざわついた。

 香苗は真一郎に状況を伝えるため、7階にある書店へと向かった。

 なんだかんだで、父親と漫画でも見てるんじゃないだろうか。

 期待は呆気なく裏切られた。

 ひとりで医学書でもなく、ゴルフ雑誌を熱心に読んでいる真一郎が目に入った。

「あなた、あなた……! 琴音見てないわよね?」

 息を切らしながら、駆け寄ってきた香苗に、真一郎は読んでいた本から視線を移した。

「どうした?」

「私がお手洗いに行ってる間に、居なくなってしまって……ごめんなさい、私がちゃんと見ていれば……」

「いや、俺だって1人でこんな所で本読んでたんだから……」

 真一郎は手に持っていた本を置いて、続けた。

「そんな顔するな。二手に分かれて探そう。俺は偶数階を、お前は奇数階を見る。」

「う、うん……」

「琴音はもう11歳になるんだ。それに今日は人も多い。大丈夫、そう簡単にどうこうなる事はないさ。」

「うん、そうよね……」

「上の階から順に見て、一階のクリスマスツリーのところで待ち合わせしよう。」

「わかった。」

 香苗がそう答えると2人は足早にエスカレーターへ向かった。

 香苗はまず、屋上遊園地へ向かった。

 屋上へ出た瞬間、冷たい雨混じりの風が顔に吹き付ける。

 辺りはすっかり暗くなっていた。

 昼間は子どもたちの声で賑わっていた遊具も、今は雨に濡れて静まり返っている。

「琴音ー!」

 香苗の声だけが、広い屋上に虚しく響いた。

 人の気配すらなかった。

 同じ頃、真一郎は8階催事場に着いた。

 今日は、北海道物産展の最終日。

 物産展の会場は17時に閉まっており、店員たちが店を畳んでいる最中だった。

「あの、すいません! 10歳くらいの女の子を見かけませんでしたか? オレンジ色のワンピース、着てるんですけど……」

 手前の店に居た店員に声を掛けてみた。

 しかし、結果は空振りだった。

 5階。

 居ない。

 4階。

 居ない。

 3階。

 通り過ぎる子どもの姿に、何度も視線が止まる。

 だが、どれも違う。

 2階。

 気が付けば、自分たちでも驚くほど足が速くなっていた。

 一階は香苗の担当だったが、見回るのをやめ一旦クリスマスツリー下で会う事にした。

 真一郎が既に琴音を見つけているのかも知れない。

 そうであって欲しい。

 だが、エスカレーターを降りるたび、香苗の胸の奥では別の不安がゆっくり膨らみ始めていた。

 もし、このまま見つからなかったら……

「あっ、あなた! こっちよ! どう、見つかった?」

 黙ったまま、首を横に振る真一郎。

 まだ1階、地下1階、地下2階、の確認はできていなかった。

 だが2人は、示し合わせたように、ツリーのすぐ目の前にあった総合案内所へ一直線に向かった。

「あの、すいません。娘が迷子で……」

 少し息の切れた真一郎が案内係の女性に声を掛けた。

「かしこまりました。迷子ですね。」

 慣れているのであろう。

 特に慌てる様子もないその女性は、そう言いながら専用の用紙を取り出した。

「お嬢様のご年齢は?」

「10歳です。もうすぐ11歳。」

「お嬢様のお名前は?」

「高瀬琴音です」

「お洋服の特徴は?」

「オレンジのワンピースに……」

「ストラップのついた濃いブラウンの革靴、白いタイツを履いています。」

 被せるように香苗が答えた。

「ご自宅はどちらになりますか?」

「福岡…早良区です。」

「かしこまりました。それではいただいた情報をもとに、迷子の放送をさせていただきます。」

「……よろしくお願いします。」

 女性は、慣れた手付きでマイクのスイッチを入れた。

『(ピーンポーンパーンポーン)……ご来店中のお客様にお知らせいたします。福岡市、早良区からお越しの、高瀬琴音ちゃん。お父様とお母様がお待ちです。一階クリスマスツリー前、総合案内所までお越しくださいませ。……福岡市、早良区からお越しの、高瀬琴音ちゃん。お父様とお母様がお待ちです。一階クリスマスツリー前、総合案内所までお越しくださいませ。……(ピーンポーンパーンポーン)』

「琴音ちゃんが来られるかも知れませんので、少し様子を見てみましょう。」

 案内係の女性はそう言うと、総合案内所を訪れた他の客の対応を始めた。

「そういえば琴音がもっと小さい頃も、迷子になった事あったよなあ。まさか、また迷子放送される事になるとはなあ……」

 困り顔で静かに呟く真一郎。

 黙ったまま祈るような気持ちの香苗。

 周りは変わらず賑やかだった。

 子どもの笑い声。
 レジを打つ音。
 店員の呼び込む声。

 なのに、二人の居る空間だけ時間がゆっくりと進んでいるように感じられた。

 15分ほど経過しても、琴音は姿を見せないので、案内係の女性は改めて放送を始めた。

 今度は、服装の特徴なども併せて放送された。

『高瀬琴音ちゃん、10歳のお嬢様をお探ししておりますーー』

 前回とは違って、周りの店員やお客たちも辺りを気にしだした。

「ひとりで心細くて動けんのかなあ……誰か親切な人が声をかけてくれてたら良いけど……」

 香苗が総合案内所のカウンターに置いてある時計の時間を見ながら言った。

 気が付けば、閉店時間の19時まで1時間を切っていた。

 それから10分ほどの間隔で、同じ内容の放送が繰り返された。

 その間、数多くの人間が正面玄関から外に出ていった。

 買い物袋を下げた家族連れ。

 肩を寄せ合って歩く恋人たち。

 笑いながら店を出て行く若者たち。

 周囲の客たちは、今日という日曜日の続きを生きている。

 なのに自分たちだけが、そこから取り残されていた。

「迷子の子、まだ見つからんって……」

「もう4、50分は経っとらん……?」

「親御さん心配やろうねえ……」

 通り過ぎる人たちの声が、遠く霞んで聞こえる。

 香苗は何度も時計を見た。

 閉店15分前。

 館内に『蛍の光』が流れ始めた。

『♪ほーたーるのーひーかーりー……』

 その瞬間、香苗は急に、足元が冷えるような感覚を覚えた。

 帰る時間。

 店が終わる時間。

 今日という一日が終わっていく時間。

 なのに、琴音だけが戻って来ない。

 蛍の光に重ねて、放送が始まった。

『各フロア、従業員通路などにて、オレンジ色のワンピース、茶色の革靴、白のタイツの10歳くらいのお嬢様をお見かけの際はーー』

 出口に向かいゆっくり歩いていく客たちと対照的に、慌ただしく付近を走り回る従業員たち。

 香苗と真一郎は、人混みの中にオレンジ色だけを探し続けた。

 通り過ぎるセーター。

 マフラー。

 バッグ。

 視界にオレンジが入るたび、反射的に顔を上げる。  

 だが、そのたびに違う誰かだった。

 従業員たちが走り回る姿だけが、二人をその場に立たせていた。

 19時に近づくにつれ客足は減り、その分音楽だけが際立った。



第八章 A7エレベーター


 その少し前、7階の外商サロンで、柏木浩平は一人のご婦人を接客していた。

『……早良区からお越しの高瀬琴音ちゃんーー』

 館内には、迷子放送が流れていたが、外商サロンの中は静かだった。

 厚い扉に遮られ、外の喧騒は遠い。

 静かなオルゴールのBGM、落ち着いた照明、厚い絨毯、深緑のソファ、大理石のテーブル。

 同じ建物の中なのに、さっきまでとはまるで別世界だ。

 「こちらが先日ご連絡いただいておりました、クリスマス限定のダイヤモンドネックレスです。」

 遠くで響く館内放送を聞きながら、柏木は黒いケースをゆっくり開いた。

 照明を受けた小さな石が静かに光を返す。

 「まあ……綺麗。」

 50代くらいの女性客は、小さく息を漏らした。

 このご婦人と、そのご主人は僕が入社後初めて担当することになったVIPのお客様だ。

 かれこれ付き合いが始まって3年目になるが、お二人とも穏やかで優しく、ありがたいことに若い僕を可愛がってくれていた。

「ご主人様からの贈り物ですか?」

「ええ、今年で結婚25年目なの。」

「それはそれは。おめでとうございます。」

 僕は柔らかく微笑みながら答えた。

ーーそういえばここにご婦人をご案内している際、視界の端を、オレンジ色のワンピースが横切った。

 人通りの少ない外商サロン前の通りなので、やけに気になり思わず目を向けた。

 10歳くらいの少女が、1人で従業員通路の方へ向かっていく。

ーー迷子の子か……?

 一瞬そう思った。

 「柏木さん、私、今日とても楽しみにして来たのよ。お天気はあいにくでしたけれどもね。」

 「ええ、僕もとても楽しみにしていました。さあ、どうぞこちらです。」

 僕は少女から目線を外した。



「本日はありがとうございました。またいつでもご連絡ください。お帰りは、タクシーを手配いたしましょうか?」

「ええ、一台お願い。柏木さん、また近いうちに来るわ。」

 ご婦人をタクシー乗り場で見送った後、僕は腕時計を見た。

 19時8分。

ーーこんな時間か……。

 そういえば、あの女の子……あれからしばらく放送が続いていたけど、見つかったのだろうか。

 そう思いながら館内に戻ると、異様な光景が広がっていた。

 いつもなら各店舗が店仕舞いをしている時間だが、たくさんの従業員が残っている。

「琴音ちゃんーー!」

 皆、口々に叫びながら、辺りを探している。

 僕はふと、接客中に見たオレンジ色のワンピースの少女のことを思い出し、彼女が入って行ったように見えた従業員通路まで一直線に走った。

 薄暗い職員通路は、錆びれた匂いがする。

 人っ気が全く無い。

 空調の低い唸り声だけが響き渡っている。

 その近くにエレベーターがある。

 このA7エレベーターは職員専用だ。

 だが、駐車場にも、食堂やロッカールームにも遠く、従業員ですら殆ど使わない。

「琴音ちゃんー!」

…………

ーー流石にもう居ないか、でも何でこんな所に……

 その時だった。

『迷子の女の子を捜索中の職員の皆様にお知らせいたします。捜索へのご協力、誠にありがとうございました。ただいまの時間を持ちまして捜索活動は中止とさせていただきます。皆様、お気を付けてお帰りください。』

ーー中止……見つかったのか……?

 僕は急いで1階に走った。

 総合案内所前、両親のためにパイプ椅子が用意されており、母親が座って俯いている。

 その前では、父親が立ったまま副店長と防災室長と何かを話している。

「あっ、あの。すいません……」

 反応が無い。

「……あの!! すいません!!」

 3人がこちらに目を向けた。

「ぼ、僕……琴音ちゃんを見かけたかも知れないです。」

「……琴音を?」

 母親が顔を上げると同時に立ち上がった。

「いつ、どこで?」

 父親が被せるように聞いてきた。

「17時半になる少し前……7階の外商サロン前の通路を一人で、職員通路の方向へ歩く少女を見かけました。丁度接客中で声をかけてあげられず……その後、放送を聞いて服装がその時の子に似ていると思って……」

 柏木は、早口のまま続けた。

「先程その場所を確認してみましたが、誰も居なかったです……僕があの時声を掛けていればこんな事には……本当に申し訳ありません。」

 柏木は、目の前の両親に対し、深々と頭を下げた。

「おい、そこってA7エレベーターの所の……」

 自分の言葉を掻き消すように、副店長は慌てて続けた。

「ま、まあ……お父様とお話しして、警察へ通報する事になった。柏木、お前も事情聴取される事になると思う。捜査に協力してくれ。」

「もちろんです。」

「あ、あの……琴音は何でそんな場所に居たんでしょうか?」

 母親は不思議そうに聞いてきた。

「警察が来るまで、その場所を僕達で探せないでしょうか?」

 父親が言った。

「確かにあの場所は、職員すら殆ど通らない通路です。本当に琴音さんがそちらに居たとなると理由は分かりません……それにあそこは隠れられる場所もほぼ無いので、柏木が探して見つからなかったのなら中々難しいかも知れません。お父さん、後は警察にお願いしませんか。」

 副店長は、まるでそれ以上近づかせまいとするように、ゆっくりと言葉を選んだ。

「わ、わかりました……そうします。」

 真一郎の声には、もう力が残っていなかった。

 副店長は小さく息を吐き、防災センター長と目を合わせた。

 その視線には、怯えにも似た色が浮かんでいた。



第九章 余命


「それじゃあ、点滴開始しますね。」

 薄い透明の手袋をはめた看護師が、点滴の接続部分を確認している。

「予防の吐き気止めは投与しますが、気分が悪くなった時は、いつでもおっしゃってくださいね。」

「はい……よろしくお願いします。」

 青白く筋張った細い腕に点滴が繋がれている。

 これで3回目の抗がん剤治療。

 少し蒸し暑くなってきた、今年の6月頃。

「あれー。ズボンきつくなった? ちょっと太ったかなあ。」

 仕事着のパンツのボタンが、以前よりも閉めづらい。

 下腹部もずっと鈍く重たい。

 生理前みたいな痛みが、何日も続いていた。

 でも、仕事は普通にできる。

 ご飯も食べられる。

 だからその時は、大したことないと思っていた。

 市販の痛み止めを飲みながら、いつも通り出勤して、いつも通り働いた。

 けれど、痛みは少しずつ強くなっていった。

 流石におかしいと思い、近所の婦人科を受診した。

「エコーで卵巣に影が見えるの。詳しい検査をした方が良いと思う。」

 医師はそう言いながら、紹介状を書き始めた。

 紹介状の宛名を見た瞬間、心臓が一回だけ強く鳴った。

『福岡県立がんセンター』

 地面がぐわんと大きく揺れた気がした。

「え……? 私、がんなんですか?」

 思わず大きな声が出た。

「まだ決まった訳じゃないから。」

 医師はすぐにそう続けた。

「良性のこともあるし。今の段階では、詳しく調べましょう、という意味ね。」

 優しく言われても、脳裏に『がんセンター』の文字だけが焼き付いて離れない。

「できればご家族と一緒に受診してね。」

「あ……はい……。」

 それでも、その時はまだどこか現実感がなかった。

 きっと大袈裟に言っているだけ。

 検査したら「大丈夫でした」で終わる。

 本気でそう思っていた。

 次の平日休みのタイミングでがんセンターを受診した。

 お腹の鈍い痛み以外は特に何の違和感もない。

 検査が終わったら帰りにカフェでも寄ろうかな、なんて考えながら待合室で待っていた。

 ふと辺りを見回すと、静かな割に、整然と並んだ薄緑のベンチは大勢の人で埋め尽くされている。

 痩せこけた人。
 ニット帽を深くかぶっている人。
 ウィッグらしき女性。

 この人たちは皆癌なんだろうかと思うと急に恐ろしくなってきた。

 朝8時には病院に着いていたが、超音波、採血、CTなどと毎回長いこと待たされた。

 気が付いたら12時を回っている。

「一ノ瀬さんー。お待たせしました、どうぞ。」

「失礼します、よろしくお願いします。」

 

 診察室に入ると、年配の男の医師が無精髭の生えた顎を手で触りながら、パソコンの画面を睨んでいる。

 カチ、カチ、とマウスの音だけが静かな診察室に響いている。

「……うーん。」

 低い声。

 医師は椅子にもたれ直し、ゆっくりと椅子を回しながら言った。

「はい、こんにちは。今日はあなたお一人で来られた?」

「……はい。」

 結局、唯一の家族である母親には言わずに来た。

「そうか……じゃあ、余計ちゃんと説明しないとな。」

 その言葉に、葉月は少しだけ背筋を伸ばしながらも、良い話ではないことだけでは分かった。

「正直に言うね。」

 葉月は唾を飲んだ。

「卵巣にかなり大きい腫瘍がある。」

 医師はモニターを指差した。

 「これ。」

 

 白黒だが、素人目にも分かるほど、大きな影がお腹の辺りに広がっていた。

「で、形があまり良くない……悪性、の可能性は高いと思う。」

ーーーー。

「もちろん組織を取って調べてみないと確定はできない。けどまあ……悪い状況を前提に考えて動いた方がいい。」

 内容が全く頭に入ってこず、医師の口だけが動いて見えた。

「大丈夫、とは簡単に言えない。でもまだちゃんとやれることはあるから。」

 医師は再び顎を擦った。

「これからだけど、まずは手術だね。」
 
 そこまで話すと、一度言葉を切り、画面を見ながら続けた。



「ただね、実際にお腹を開けてみないと詳しい広がり方が分からない。場合によっては、子宮や卵巣も一緒に取らないといけない。」



「…………え?」



「まだお若いからね、本当はできる限り残したい。でも、命を優先しないといけない場合もある。」


ーー子宮

ーー卵巣

 
 その言葉だけが、診察室の中で異様に大きく聞こえた。

 

 その時初めて、自分の身体がもう元には戻らないかもしれない、と思った。

 もう、普通には結婚できないのかもしれない。

 子どもは産めないのかもしれない。

 急に、自分の人生がどこか遠くへ押し流されて行くような気がした。

 葉月はその日、朝が来るまで布団の中で涙を流した。



*


ーー1993年8月27日

 たくさんの管に繋がれてベッドごと手術室へと向かった。

 傍では母親が何度も名前を呼んでいる。

 手術室の前でベッドが止まる。

 白い帽子を被った看護師たちが慌ただしく行き交っていた。

「一ノ瀬さん、今からお部屋入りますね。」

 私は小さく頷いた。

 ここまで来てもまだ、どこか他人事みたいだった。

 数時間後には、自分の身体の一部が無くなっているかもしれない。

 それでも、何一つ実感が湧かなかった。

 ただ、手術室の天井のライトだけがやけに眩しかった。

「…………葉月…………葉月……葉月! 葉月!!」

 母親の呼ぶ声……

 眠い……ここどこだっけ……

 葉月はまたしばらく眠りについた。

「一ノ瀬さん、気が付きましたか。先生、呼んで来ますね!」

……身体中に管が繋がっている。

そうだ、手術が終わったんだ。

今何時……っいててててて……

 体を動かそうとして、下腹部の刺すような痛みに襲われた。

「一ノ瀬さん、手術は無事に終わりました。もう少し落ち着いたら詳しく説明をしますから、今は十分休んで下さい。痛みが強い場合は、これを押して看護師を呼んで下さい。では…」

「先生……子宮は……どうなりましたか?」

 まだ意識がはっきりしない中、葉月は尋ねた。

 医師は少し沈黙した。

「命を優先する判断をしました。子宮と両側卵巣は摘出しています。」

 葉月は小さく息を漏らした。


 喉の奥がひりつき、視界だけがぼやけていく。

ーーこの時からだった。

 自分の身体の中が、空っぽになってしまった気がした。


 その後は、光の速さで物事が進んでいくのを、ぼんやり他人事のように眺めていた。

 手術でお腹を開いた結果、癌が思ったより広く散らばっていた。

 手術では取りきれなかったらしい。

 病理検査の結果、卵巣癌だと言われた。

 今後は抗がん剤治療が必要、とも。

 先生や母は「まだ治療はできる」と言っていたが、表情から見る限り、治る病気ではないことだけは分かった。

 でも、もうどうでもよかった。

 希望なんて持てない人生。

 それからは妙に落ち着いた気持ちでいる。

 抗がん剤の副作用も酷いもので、髪の毛だって抜け落ちた。

 それもどうでもよかった。


「私の余命ってあとどのくらいなんですか? 先生、答えてくれないんです。」

 抗がん剤の点滴を付け替えをしてくれている看護師に、そう尋ねた。

 看護師は、手元のカルテを見た。

『進行卵巣癌』

『播種性病変を広範囲に認め、根治切除困難』

『母親の希望あり、余命本人に告知なし』

 「……ごめんなさい、病状のことは医師じゃないと分からなくて。」

 「そうですよね。変なことを聞いてすみません。」


 点滴の雫が、一定の速さで落ち続けている。

 窓の外では、乾いた風に銀杏の木が揺れていた。


ーー葉月はまだ、この冬が人生最後の冬になるとは思っていなかった。



【第三部 URL】


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