大星百貨店跡地❸ 六日間【創作大賞2026・ミステリー小説部門】
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【第三部】 六日間
第十章 朝ごはん
目を覚ますと、知らない天井だった。
小さな電気ストーブの音。
味噌汁の匂い。
台所に立つ人影。
昨夜着ていたワンピースが、丁寧に椅子に掛けられている。
「おはよう。よく眠れた?」
「ここ……どこだっけ……」
「覚えてない? ほら、昨日デパートで。」
琴音は眠い目を擦った。
「あ……葉月お姉さん……?」
「ほら、おいで。朝ごはん出来たよ。」
優しく澄んだ声。
テーブルの上には二人分の朝食が湯気をあげている。
「じゃあ、せーの、いただきます。」
「……いただきます。」
「おいしい……?」
眠い顔のまま、ごはんとウインナーで口をいっぱいにさせた琴音が無言で頷いた。
「琴音ちゃんさ、昨日はびっくりさせてしまって本当にごめんね。」
口の中のものをごくん、と飲み込んだ琴音は、不安そうな顔をした。
「ううん、でもさ、お母さんとお父さん心配してるんじゃないかな。」
その言葉に葉月の手が一瞬止まった。
「……ごめんね、急に連れて来たりして。ちゃんと後で、お母さんたちに連絡しておくからね。」
葉月は笑った。
「うん。」
少し、琴音の表情が和らいだ。
「ごはん、おかわりいる? 琴音ちゃんは食べ物何が好き?」
「フルーツと、お菓子。あとお肉も好き。」
「そっか、そっか。」
葉月は、試着の時と同じように目を細めて微笑んでいる。
「琴音ちゃん……昨日私が話したこと、覚えてる?」
「……うん。」
「信じてくれる?」
琴音はじっと葉月の目を見たまま頷いた。
古いアパートの二階。
部屋のベランダ脇に赤いポリタンクが二つ並んでいる。
そこに古いタオルが被せられていた。
「私、今日お仕事なんだ。明るいうちには帰るからここでゲームしながら待っててくれる?」
部屋にはテレビやラジオは無い。
「帰りに、フルーツ買ってくるね。お菓子も、お肉も。」
「う、うん。ありがとう。」
琴音は一人で待つのは心細かったが、葉月が悪い人には思えなかった。
「行ってくるね、一人にしてごめんね。」
そう言うと葉月は琴音の頭をポンポンと撫でた。
玄関扉の外側、一般的な鍵とは別に南京錠が付いている。
葉月はその鍵もかけて、部屋を後にした。
*
香苗は、琴音の部屋にしばらくの間入ることができなかった。
机の上には、開きかけのドリル。
読みかけの本。
脱ぎっぱなしの靴下。
ほんの数日前まで、そこに居た生活の匂い。
香苗はベッドに座り、琴音の枕を抱き締めた。
もう、どこでもいい……
生きていてくれるなら。
それだけでよかった。
第十一章 母の匂い
ーーそれから1日半。
「琴音ちゃん、着替えとタオルここに置いてるからね!」
「うん、ありがとうー!」
浴室から漂う蒸気。
暖かい香りに遠い記憶が呼び起こされる。
11年前、確かに一度だけこの胸に抱いた。
一瞬だって忘れたことのない、我が子。
名前を付けることさえ叶わなかった。
その思いを振り払うかのように浴室の扉が開いた。
ほかほかの琴音が、頭からタオルをかぶって出てきた。
「髪、乾かしてあげる! おいで。」
「え、いいの!」
笑顔で走ってきて、葉月の前に背を向けて座る琴音。
「はーい、じゃあいくよ。熱かったら言ってね。」
女の子の髪を乾かすなんて初めての葉月は、耳の後ろあたりをわしゃわしゃした。
「いやそこくすぐったいー!」
体をすくませる琴音。
「はははは、ごめんごめん。じゃあ……こっちはどうだ!」
葉月は反対の耳の後ろ側をくすぐった。
「わーーーー、きゃーーーーはははは!」
笑いながら床を転がる琴音。
しばらく二人でふざけ合い、髪が乾いたら葉月は冷凍庫からラムネ味のアイスキャンディーをふたつ取り出した。
ーーその時。
葉月はアイスキャンディーの一つを床に落としてしまい、鈍い音がした。
「葉月お姉さん、大丈夫?」
「……大丈夫、大丈夫。手が滑っちゃった。落ちた方、私食べるね!」
葉月は笑って見せた。
「今日は一緒に寝ようよ、明日お誕生日でしょ?」
「うん、そう、お誕生日。お母さん達どうしてるかな……」
「あ、そうそう。琴音ちゃんのお母さんとお父さんにお電話したよ。もう少しここで過ごして良いよって言ってたよ。」
「ほんと? お母さん、怒ってなかった……?」
「うん、怒ってなかったよ。」
「やったー! 葉月お姉さんともっとお話ししたかったから、嬉しいな。」
琴音は少し不思議に思った。
けれど、葉月が嘘をついているようには見えなかった。
二人でアイスキャンディーを食べ、歯磨きをしてから床についた。
豆電球の灯の中、二人で並んで静かに天井を眺める。
琴音の10歳最後の夜。
「ねえ……葉月お姉さんはさ、琴音のこと、嫌いになって離れたんじゃないんだよね。」
「……うん、そうだよ。」
「そうだよね、だってこんなに優しくしてくれるんだもんね。」
「……そうだね。」
葉月はそう答えたものの、その先の言葉が続かなかった。
違う。
本当は離れたくなんかなかった。
あなたを捨てたかったわけじゃない。
ごめんねーー
そう言いたいのに、喉の奥が何かに塞がれたように苦しく、声にならない。
胸の奥に鈍い痛みがじわじわと広がっていく。
けれど、その痛みと同じくらい、いや、それ以上に。
今こうして琴音の隣に居られることが、たまらなく嬉しかった。
一緒にアイスを食べ、歯を磨き、同じ布団で眠る。
手を繋ぎながら帰る保育園の帰り道。
熱を出した夜も。
こうして髪を乾かしていたのかもしれない。
ーーただ、それだけの、ありふれた時間。
きっと本来なら、当たり前に過ごせていたはずの時間。
葉月は涙を堪えるように、ぎゅっと唇を噛んだ。
第十二章 約束
夜中、琴音は目が覚めた。
葉月は眠っている。
古いカーテン。
豆電球の灯り。
ストーブの音。
ぼんやりと天井を見つめながら、琴音はいつかの記憶を思い出していた。
なんだか、あったかい匂い。
「ねえねえお母さん、なんで豆電球にしたら、はじめはまっ暗なのに、だんだん見えるようになると?」
「うーん、なんでやろうねえ。」
香苗は柔らかく笑った。
「目が『もう暗いんだ』って慣れていくっちゃない?」
「へえー、ふしぎだねえ。」
「人間の体ってすごいよねえ。」
布団の中で、琴音はもぞもぞ寝返りを打った。
「ねえ。ことねはさ、お母さんのお腹から産まれてこんかったやん?」
「うん。」
「じゃあどこからきたと?」
「そうやねえ……」
香苗は少しだけ考えてから、琴音の前髪を撫でた。
「赤ちゃんってね、『このお家に行こう』って決めて来るんやって。」
「そうなんー!?」
「琴音も、お父さんとお母さんのとこ見つけて来てくれたっちゃない?」
「……そうかも。」
「ほんと?」
「うん、だって優しいもん。」
「あらー、嬉しかあ。」
香苗は笑いながら、琴音のほっぺを両手でむぎゅっとした。
「琴音、寄り道好きやん?」
「好き。」
「じゃあ赤ちゃんの時も、あっちにふらふら、こっちにふらふらしながらきたとかねえ。」
琴音は思わず笑った。
帰り道、猫を見たらしゃがみ込むし、
川を見つけたら、覗き込むし、
タンポポがあったら、つい摘んでしまう。
確かにまっすぐ来れそうにない。
「でも最後は、お母さんたちのところに来てくれた。」
香苗はそう言って、琴音の頭を撫でた。
「ありがとうね。」
その声が、すごく優しかった。
「……うん。」
「これからも、いっぱい寄り道していいけん。でも最後は帰っておいでね。」
「うん、やくそく。」
「はい、ゆびきり。」
小さな指を絡める。
「もう寝らないかんよー。」
「はあい……お母さん、くっついていい?」
「ほら、おいで。」
香苗の服からは、洗剤と、少し甘い匂いがした。
ーーだから、参観日のとき友達に「ことねちゃんお母さんに全然似てないね。」って言われても、ちっとも気にならなかった。
だけど。
ことねを産んでくれた人は、今どこに居るんだろう。
同じ福岡に居たりするのかな。
もし街ですれ違っても、きっと分からない。
でも、
少しくらいは、似てたりするのかな。
笑った顔とか。
その人は、ことねのことを覚えているのかな。
そこまで考えて、琴音は布団を鼻まで引き上げた。
この話は、なぜかお母さんたちの前では出来なかった。
第十三章 誕生日
ーー1993年12月8日
香苗は去年までの、琴音の誕生日のアルバムをゆっくりめくりながら静かに涙を流している。
真一郎はあぐらをかいたまま、両肘をテーブルにつき、いつからか分からないほど長い間、動いていなかった。
つい3日前、ここで笑っていたのに。
もうずっと昔のことみたいだった。
その時、静寂を破るように電話が鳴った。
「……はい、高瀬です。」
「高瀬さん、福岡県警です。あの……実は、地下三階の施設から……」
「こ、琴音が見つかったのか!!?」
香苗はすぐさま真一郎の方を向いた。
「ああいえ……琴音ちゃんによく似た少女の写真が……」
「……写真……?」
「しかも写真の状態が……と、とりあえず今から確認に来れますか?」
「分かりました、すぐに向かいます。」
*
「11歳ってもう子どもじゃないよね? そうだよね?」
朝から分かりやすく嬉しそうな琴音。
そんな琴音の子どもらしさに思わず笑みが溢れる葉月。
「琴音ちゃん。11歳のお誕生日、おめでとう。今日は特別な日、いっぱいお祝いしよう!」
葉月はすかさず手に隠し持っていたクラッカーを鳴らした。
『パーーーーン』
「わああっ!」
琴音は驚いて、その場にひっくり返った。
「はっははははは」
「あはははははは」
しばらく二人で笑い合った。
葉月は、琴音を見つめながら、
ーー来年の誕生日は、もう一緒に居られない。
そんな事をふと考えた。
*
「これは……」
「なっ……なんなのこれ……」
その場に崩れ落ちる香苗を真一郎が支えた。
そこには、一部が焼け焦げ、更によく見ると踏まれたような跡のある琴音の写真があった。
「な、なんなんですかこれ。しかもこの写真……盗撮じゃないですか……?」
「地下三階の施設を任意で捜査していたら、奥の部屋から物が燃える匂いがして。その部屋から……これが……」
「こ、琴音っ、琴音はどこ、この人たち琴音に何をしたの……」
香苗は呼吸を乱しながら言った。
「地下三階を隈なく捜索しましたが、琴音ちゃんは見つかりませんでした。現在代表を名乗る者に取り調べをしておりますが、意味の分からない発言ばかり繰り返しているようで……」
*
「♪ハッピバースデートゥーユー」
『パーーーーン』
「11歳、おめでとーーーー!!!」
琴音はにっこにこの笑顔でフルーツタルトに刺さったろうそくの火を吹き消した。
「葉月お姉さん、ありがとう!」
二人には少し大きいフルーツタルトを、切らずにそのままフォークで食べた。
「はい、あーん。」
「あーーーん……んま! おいしー! 葉月お姉さんも食べてみて、はい、あーん!」
「え、あ、あーん……うん、美味しい。」
照れながらももぐもぐする葉月。
それを見て、嬉しそうな琴音。
「あっ、そうだ。これ、琴音ちゃんにお誕生日プレゼント!」
葉月は、大星百貨店の大きな紙袋から、ピンクのリボンのついた大きな袋を取り出した。
「わーーーー! このマーク、葉月お姉さんのお洋服屋さん!!!」
「大正解!」
「嬉しい!! 欲しかったのーー!! 開けてもいい?」
「いいよ。気に入ってくれるかなあ。」
琴音が袋を開けると、中にはあの日試着した黒と白のギンガムチェックのワンピースと、リボンがついた白いカーディガン。
「……」
琴音は下を向いたまま反応が無い。
葉月の胸がひやりとした。
琴音の顔を覗き込むと、琴音の頬を大粒の涙がぼろぼろと伝っている。
「へ……琴音ちゃん……?」
葉月は慌てて琴音の両肩に手を置いた。
「私ね……小さい頃から産んでくれたお母さんが別に居るって聞いてたの……」
涙混じりに、一言一言、言葉を絞り出す琴音。
「だから、時々ね……考えてたの。」
「……」
「なんで会えないんだろう、って……」
葉月には返す言葉が見つからない。
「お父さんも、お母さんも、すごく優しいから……そんなこと聞いちゃだめな気がしてた。」
「……」
「だからね……」
琴音は涙を拭きながら言った。
「ずっと考えてたの。」
「……」
「もし会えたらどんな人なんやろって。」
葉月は動けなかった。
「でも……」
琴音はぐしゃぐしゃの顔で笑った。
「優しい人でよかった……」
「……」
「……お母さんで、よかった。産んでくれて、ありがとう。」
葉月は、あの日以来、初めて声をあげて泣いた。
その場に崩れ落ち、
「ごめん……ごめんね……」
と、琴音の小さな背中を抱きしめながら、何度もそう繰り返した。
涙と一緒に漏れる声は、もう言葉になっていなかった。
第十四章 午前
「琴音ちゃん、おはよう。私お仕事行ってくるね、いい子で待っててね。ごはん、机の上にあるからね。」
葉月は、まだ寝ぼけ眼の琴音の髪を撫でた。
またすぐに寝てしまった琴音を愛おしそうに見つめた後、家を出た。
肩には大きめの鞄。
玄関外側の南京錠はかかっていなかった。
家のそばに公園がある。
そこにあるベンチに座り、空を見上げる。
空気の澄んだ冬の晴れた朝。
葉月は大きく息を吸い込み、ゆっくり吐いた。
今日は1993年12月11日。
もうすぐ10時。
葉月は、しばらく空を見上げていた。
空の蒼さ、肌に刺さるような冷たい風、鳥の声、枯れ葉の音。
家で眠る我が子。
今までにないくらい、世界が美しく感じた。
そしてそれが束の間の幸せであることも、知っていた。
少し日が高くなってきて、公園の周りを歩く人も増えた。
「もう少し居たかったな……」
小さな声でそう言い立ち上がる葉月。
ふらつく足取りで、近くの公衆電話へ向かった。
電話ボックスが見えてきたが、男性の先客がいた。
外にまで聞こえる大きな笑い声。
何となく邪魔しちゃ悪い気がして、葉月は少し離れた物陰から様子を伺った。
話が盛り上がっているのか、なかなか終わらない。
それを見ながら、心のどこかでは、まだまだ話を続けて欲しいと願っている葉月が居た。
鞄の紐を握る手が、僅かに震えていた。
*
「高瀬琴音、11歳になったばかりです。何か心当たりがある方、情報提供をお願いします。」
『女の子を探しています』
大きく見出しの書かれたビラを百貨店の出入り口で配っているのは、香苗と真一郎、それと外商員の柏木だ。
琴音が買い物中に姿を消してから6日。
初めは事故の線も考えていた警察も、今は事件に巻き込まれたとみて捜査を継続している。
「香苗、柏木さん、一旦休憩しましょう。」
「……はい。あ、じゃあ5階の喫茶でも行きますか。」
「そうですね、なるべくここに居た方が何か情報が入るかも知れませんしね。」
香苗はここ2日ほど殆ど口を開かない。
「あの、柏木さん。僕達のために、休日まで使っていただいて本当にありがとうございます。」
「いえ……僕があの時声を掛けていたら……琴音ちゃんが見つかるまで、何もせず家に居る気にはなれないんです。」
3人は何か食べる気になれず、飲み物だけを飲みながら険しい顔をしていた。
「あの……やっぱり地下三階の人たちが関係はしてますよね……」
真一郎は、琴音について出てきた情報を手帳に書き留めている。
その手帳を手に取り、ゆっくり開きながら話を始めた。
「さすがに、写真があるのはおかしいですもんね……」
「でも、地下三階を警察が探した時は見つからなかったんですよね……誰かの家に連れていかれてるとかですかね……」
柏木は、アイスコーヒーをストローでゆっくりかき混ぜながら答えた。
「柏木さんが見かけた時、ひとりでエレベーターの方に歩いてたんですよね?どういう事なんでしょう。」
「僕もそれが気になっていました。その時点で誰かにそそのかされていたり、したんでしょうか……」
「うーん……琴音に限って急に話しかけてきた知らない人について行くような子ではないと思うんですが……」
「そこの席で……メロンソーダ……倒しかけて……3人で大笑いして……」
香苗は思い出したように、小さな声でそう言った後、テーブルに両肘を置いて顔を覆いこんだ。
前髪を鷲掴みにしながら、小刻みに震えている。
香苗にかける言葉が、二人には見つからなかった。
アイスコーヒーの氷がからりと溶ける音、誰かのため息。
周りは騒がしいはずなのに、その場だけが別世界かのように静かだった。
第十五章 冬の夜
昨晩。
琴音が寝息を立て始めたあとも、葉月はしばらく布団のそばに座っていた。
小さな肩。
寝返りを打つたび揺れる髪。
無防備な寝顔。
その全部を、葉月は目に焼き付けるみたいに見つめていた。
やがて葉月は静かに立ち上がる。
六畳一間、古い鏡台の前。
葉月はゆっくりと髪に手をかけ、カツラを外す。
現れた頭は、まばらだった。
照明に照らされた頭皮。
こけた頬。
落ち窪んだ目。
少し前まで、子ども服売り場で笑っていた自分とは、別人みたいだった。
鏡の中の女を見つめながら、葉月は小さく笑った。
「……ひどい顔。」
喉が焼けるように痛い。
腹の奥も重い。
最近は階段を上がるだけで息が切れる。
……もう長くない。
葉月は、がんセンターでもらった冊子を思い出していた。
『腹膜播種』
『五年生存率』
『根治困難』
難しい言葉ばかり並んでいたが、自分が助からない事だけは分かった。
机の上には、何度も書き直した跡のある白い紙と、途中で止まったままの手紙。
葉月はペンを握ってみたものの、結局ひと文字も書けなかった。
窓の外では、遠くを走る救急車の音が聞こえている。
街が寝静まった、12月の夜だった。
葉月は台所で薬を飲み込んだ。
水で流し込もうとしても、うまく飲み込めない。
吐き気が込み上げる。
流し台に手をついたまま、しばらく動けなかった。
視界の端が暗く滲む。
その時。
「……葉月お姉さん?」
振り返ると、眠そうな琴音が立っていた。
「どうしたの!?」
葉月は慌てて笑顔を作る。
「ご、ごめん、起こしちゃった?」
「ううん……」
琴音はゆっくり葉月のそばまで歩いてきた。
「苦しいの?」
「え?」
「だって、泣きそうな顔してる。」
葉月は息を止めた。
琴音は、小さな身体で葉月に抱きついた。
「大丈夫だよ。」
その声は、子どもの声だった。
だけど葉月には、救われるみたいに優しかった。
葉月は琴音の背中に手を回す。
あたたかかった。
こんな幸せを知ってしまった。
もう、失いたくないと思ってしまった。
だけど。
葉月は静かに目を閉じる。
——明日で終わらせよう。
あの場所も。
自分の人生も。
全部。
でも……
琴音だけは……琴音だけは、ちゃんと返そう。
自分と違って、あの子には未来がある。
幸せになってほしい。
本気で、そう思った。
葉月は琴音の髪を撫でながら、小さく微笑んだ。
「……もう寝よっか。」
その声が、やけに優しかった。
